第13回 異国情緒が、いいそうです(後半)
更衣室の蛍光灯の下で、紅葉は深い赤のアオザイの裾を確認していた。
生地は薄くてしなやかで、動くたびに刺繍が光を拾う。立襟が喉に軽く触れ、袖の金糸が腕の動きに合わせて揺れた。隣では詩音が、淡い紫の同じ系統の衣装を静かに着ている。裾のスリットを整え、靴の位置を確認している。真顔だった。
『……敬意、ですか』
『はい。相手の文化に対する敬意を、服装で示すのが大切だと思いまして』
『経費で示すものじゃないと思います』
『雰囲気と敬意は、両立できます』
紅葉はもう何も言わなかった。鏡を見ると、自分が完全に場違いな場所に立っているように見えた。詩音は自分の袖を軽く払い、紅葉の方を見る。
『行きましょう』
ベトナム人居住区は、駅からバスで二十分ほどの場所にあった。
古いアパートが並び、一階部分に小さな商店が点在している。言葉の響きが異なり、看板の文字も日本語だけではない。空気自体は穏やかだったが、資料にあった通り、特定の区画の前で人だかりができていた。声が荒くはない。だが、明らかに話し合いは平行線のままだった。
シオンは人だかりの端で立ち止まり、静かに周囲を見渡した。アオザイの裾が、風でわずかに揺れる。
『ルージュ』
『……なんですか』
『争点は金銭ではなく、面子です。双方とも、引くと自分が折れたことになると思っている。直接の仲裁は逆効果です』
『じゃあ、どうしますか』
『敬意を示した上で、場を別の場所に移す。ここではない場所で、改めて話を聞く形にします』
シオンの声に、迷いがなかった。この格好でも、状況を切り取る目だけは正確だった。紅葉は自分の袖の刺繍を、指で軽く触る。目立つ。場違いだ。だが、指示の内容は理解できた。
二人は分かれて動いた。
シオンは双方の代表に、短いベトナム語の挨拶を交えて声をかけた。上手くはない。だが、服装と態度が、相手の警戒をわずかに解いた。ルージュはその間に、近くのコミュニティスペースの空きを確認し、移動を提案する形で場を作った。強引ではなかった。だが、流れを変えるには十分だった。
人だかりは、徐々に散らばっていく。双方とも、すぐに納得したわけではなかった。だが、少なくとも「この場で声を荒げる」状態からは脱していた。依頼主の支援団体の人間が、小さく頭を下げた。
事が終わったあと、紅葉はアパートの壁に背中を預けて息を吐いた。詩音も近づいてくる。紫のアオザイが、夕暮れの光で淡く見えた。
『ルージュ。お疲れさまです』
『……はい。お疲れさまです』
『敬意の雰囲気が、功を奏しました』
『功を奏したのは、服装じゃないと思います』
詩音は首を傾げたまま、何も返さなかった。紅葉はその横顔を見ながら、すでに次の朝を想像していた。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、七瀬がすでにそこにいた。手に持っている請求書の紙質が、いつもと違った。数字の桁も、明らかに違った。
「紅葉さん」
『……はい』
七瀬の声が、今までで一番低かった。眼鏡の奥の目は、怒っているというより、何かが完全に切れたあとの静けさを帯びている。
「アオザイ、二着。特注。刺繍入り。ベトナムから取り寄せ」
『え……』
「合計、六十八万円です」
紅葉の思考が、止まった。七瀬は請求書を机に置き、指で数字を一度叩く。
「巫女装束を超えてきました。普通の服、って聞いたんですけど」
『……普通、だそうです』
「普通じゃないです。これはもう、経理を馬鹿にしています」
七瀬は深呼吸を一つすると、声のトーンをさらに落として言った。
「次にこの手のものを申請したら、私は本当に辞めます。あなたも、詩音さんも、一緒に連れていきますから」
それだけ言い残し、七瀬は去っていった。紅葉はその背中を見送ったまま、動けずにいる。隣の席では、詩音が朝のコーヒーを飲みながら、普通に資料を開いていた。
紅葉はゆっくりと机に突っ伏す。
『普通とはなんぞや……』
声にならない声が、デスクの上に落ちた。




