表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/56

第13回 異国情緒が、いいそうです(後半)

更衣室の蛍光灯の下で、紅葉は深い赤のアオザイの裾を確認していた。

生地は薄くてしなやかで、動くたびに刺繍が光を拾う。立襟が喉に軽く触れ、袖の金糸が腕の動きに合わせて揺れた。隣では詩音が、淡い紫の同じ系統の衣装を静かに着ている。裾のスリットを整え、靴の位置を確認している。真顔だった。

『……敬意、ですか』

『はい。相手の文化に対する敬意を、服装で示すのが大切だと思いまして』

『経費で示すものじゃないと思います』

『雰囲気と敬意は、両立できます』

紅葉はもう何も言わなかった。鏡を見ると、自分が完全に場違いな場所に立っているように見えた。詩音は自分の袖を軽く払い、紅葉の方を見る。

『行きましょう』

ベトナム人居住区は、駅からバスで二十分ほどの場所にあった。

古いアパートが並び、一階部分に小さな商店が点在している。言葉の響きが異なり、看板の文字も日本語だけではない。空気自体は穏やかだったが、資料にあった通り、特定の区画の前で人だかりができていた。声が荒くはない。だが、明らかに話し合いは平行線のままだった。

シオンは人だかりの端で立ち止まり、静かに周囲を見渡した。アオザイの裾が、風でわずかに揺れる。

『ルージュ』

『……なんですか』

『争点は金銭ではなく、面子です。双方とも、引くと自分が折れたことになると思っている。直接の仲裁は逆効果です』

『じゃあ、どうしますか』

『敬意を示した上で、場を別の場所に移す。ここではない場所で、改めて話を聞く形にします』

シオンの声に、迷いがなかった。この格好でも、状況を切り取る目だけは正確だった。紅葉は自分の袖の刺繍を、指で軽く触る。目立つ。場違いだ。だが、指示の内容は理解できた。

二人は分かれて動いた。

シオンは双方の代表に、短いベトナム語の挨拶を交えて声をかけた。上手くはない。だが、服装と態度が、相手の警戒をわずかに解いた。ルージュはその間に、近くのコミュニティスペースの空きを確認し、移動を提案する形で場を作った。強引ではなかった。だが、流れを変えるには十分だった。

人だかりは、徐々に散らばっていく。双方とも、すぐに納得したわけではなかった。だが、少なくとも「この場で声を荒げる」状態からは脱していた。依頼主の支援団体の人間が、小さく頭を下げた。

事が終わったあと、紅葉はアパートの壁に背中を預けて息を吐いた。詩音も近づいてくる。紫のアオザイが、夕暮れの光で淡く見えた。

『ルージュ。お疲れさまです』

『……はい。お疲れさまです』

『敬意の雰囲気が、功を奏しました』

『功を奏したのは、服装じゃないと思います』

詩音は首を傾げたまま、何も返さなかった。紅葉はその横顔を見ながら、すでに次の朝を想像していた。

翌朝。

紅葉が自席に着くと、七瀬がすでにそこにいた。手に持っている請求書の紙質が、いつもと違った。数字の桁も、明らかに違った。

「紅葉さん」

『……はい』

七瀬の声が、今までで一番低かった。眼鏡の奥の目は、怒っているというより、何かが完全に切れたあとの静けさを帯びている。

「アオザイ、二着。特注。刺繍入り。ベトナムから取り寄せ」

『え……』

「合計、六十八万円です」

紅葉の思考が、止まった。七瀬は請求書を机に置き、指で数字を一度叩く。

「巫女装束を超えてきました。普通の服、って聞いたんですけど」

『……普通、だそうです』

「普通じゃないです。これはもう、経理を馬鹿にしています」

七瀬は深呼吸を一つすると、声のトーンをさらに落として言った。

「次にこの手のものを申請したら、私は本当に辞めます。あなたも、詩音さんも、一緒に連れていきますから」

それだけ言い残し、七瀬は去っていった。紅葉はその背中を見送ったまま、動けずにいる。隣の席では、詩音が朝のコーヒーを飲みながら、普通に資料を開いていた。

紅葉はゆっくりと机に突っ伏す。

『普通とはなんぞや……』

声にならない声が、デスクの上に落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ