第12回 壊れん程度、だそうです(後半)
午後、紅葉は鷲尾に短く呼ばれた。
デスクの前で、鷲尾は書類から顔を上げず、紅葉だけを手で示す。
「座れ」
紅葉は椅子を引き、向かい合った。鷲尾はペンを置き、額を一度押さえてから口を開いた。
「詩音の件だ。お前、まだ続ける気か」
『……はい』
「無理すんなよ。やつは変わろうとはしてるが、根本は簡単に変わらん。お前が折れたら、次に横につく人間もすぐ折れる」
紅葉は膝の上で手を組んだ。
『壊れん程度に、付き合います』
鷲尾は目を細めた。その言葉の出所を、ある程度察している目だった。
「五郎のところに行ってるな」
『……はい』
「あいつも、お前さんには期待してるらしい。詩音を一人にするな、とまでは言わんが、突き放すなとは言ってるだろ」
紅葉は何も答えなかった。鷲尾は短く息を吐き、書類を戻す。
「わかった。続けるなら、続けろ。ただし、限界が来たら先に言え。お前まで失うと、こっちが困る」
『……ありがとうございます』
鷲尾は手を振って、紅葉を下がらせた。廊下に出た紅葉は、壁に背中を預けて一度だけ目を閉じた。期待されていないことが、むしろ救いだった。
夕方近く、七瀬が経理から出てきたところに、紅葉はばったりと会った。
七瀬は紅葉の顔を見て、眼鏡の位置を直す。
「最近、詩音さんが相談するようになったらしいですね」
『……一応は』
「一応、ですか。結論は変わらないんでしょうけど」
紅葉は否定しなかった。七瀬は短く鼻を鳴らし、書類の束を抱えたまま歩き出す。
「まあ、相談するだけマシです。以前は事後報告すらまともに来なかったので。あなたが矢面に立つ回数も、少しは減るといいですね」
嫌味のようで、完全な嫌味でもなかった。紅葉はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
席に戻ると、詩音が待っていた。
手元に袋はない。ただ、紅葉の顔を見て、真顔で言った。
『紅葉さん。次の任務では、本当に普通の服にします』
紅葉は自分の椅子に座りながら、詩音を見た。
『普通、ですか』
『はい。紅葉さんの意見を参考にします。動きやすくて、目立たないもの』
『……期待は、しません』
『はい。それでも、普通にします』
詩音はそう言って、小さく頷いた。紅葉はその横顔を見ながら、心の中で静かに注釈をつけた。この人の「普通」が、世間の普通と一致する日は、たぶん来ない。それでも、宣言するだけ前よりは前進だった。
その夜、紅葉は自宅で天井を見ながら、五郎の言葉を再度思い出した。
壊れん程度に、付き合う。
期待せず、突き放さず、折れる前に距離を取る。そのバランスを、これからも維持していくしかない。
隣の席で詩音が「普通の服」を選ぶ姿が、すでに目に浮かんでいた。たぶん、またどこかズレている。それでも、紅葉は明日も席に着くつもりだった。




