第10回 ずっと、組みたいそうです(後半)
五郎は茶を淹れ直しながら、しばらく黙っていた。
紅葉も急かさなかった。定食の魚を崩す音と、厨房の低い煮え音だけが、店内に落ちている。外では午後の陽が、暖簾の隙間から細い線を作っていた。
「ただな」
五郎が、ようやく口を開いた。
「今回は、様子が違う」
紅葉は顔を上げた。
『……違う、ですか』
「詩音ちゃんの横についた人間は、今まで何人も辞めていった。そのたびに、やつは『次の人も、きっと雰囲気がわかる人です』とか、真顔で言ってた。残念がる様子はあったが、本気で引き止めたことは一度もない」
五郎は紅葉の茶を見ながら、続けた。
「だが、お前さんの話を聞いたとき、初めて違った。『紅葉さんとなら、ずっとこの先も組みたい』と、心から言っていた。言い訳でも、雰囲気でもなく、ただそう言っていた」
紅葉の指が、箸の上で止まった。
『……先輩が、ですか』
「ああ。ここに来て、珍しく長い時間、同じ話を繰り返していた。『紅葉さんは、私の雰囲気を拒む。だが、現場ではちゃんと動いてくれる。拒みながらも、最終的には着てくれる。ああいう人は、今までいなかった』とな」
五郎は短く息を吐いた。
「理解はしてないだろうよ。自分がどれだけ人を消耗させているかも、たぶん半分もわかっていない。だが、『この人と組み続けたい』と、初めて自分の言葉で言った。それは確かだ」
紅葉は茶を飲み干した。熱は、もうほとんど残っていなかった。昨日の控え室で自分が言った言葉が、頭の中でゆっくりと再生される。やっていけない。持たない。退社も視野に入れる。あれは嘘ではなかった。今も、楽になるとは思っていない。
だが。
『……拒みながらも、着てくれる、ですか』
「やつは、そう言っていた。お前さんが首を振って従っているとは、一言も言っていない。むしろ、拒むことを含めて『紅葉さん』だと、言っていた」
五郎は厨房に戻りながら、背中越しに付け足した。
「辞めたいなら、辞めろ。壊れる必要はない。だが、やつが初めて『ずっと』と口にした相手が、お前さんだという事だけは、事実だ」
紅葉はカウンターの木目を見た。四十三万円の巫女装束も、着ぐるみの熱も、バニーの視線も、すべてが胸の奥で一度沈んでから、別の形で浮いてくる。詩音は、理解していない。自分の「雰囲気」がどれだけ周囲を削るかを、本当にはわかっていない。それでも、紅葉という人間を「手放したくない」と、初めて言った。
『……馬鹿みたいです』
「何がだ」
『私が、もう一度やろうと思ってるところが』
五郎は振り向かなかった。だが、声のトーンがわずかに緩んだ。
「馬鹿でいい。バランスを取れ。壊れん程度に、付き合え」
紅葉は箸を置き、静かに頭を下げた。礼ではなかった。決断の確認に近かった。五郎は「ああ」と短く応じただけだった。
会社に戻ったのは、午後の遅い時間だった。
詩音は席にいた。資料を開き、キーボードを打っている。紅葉の足音に気づいて、顔を上げる。昨日の控え室以来、初めてまともに目が合った。詩音の表情は、いつもの穏やかさの中に、わずかな戸惑いを残していた。
『紅葉さん』
『……先輩』
紅葉は自分の席に座り、画面を開きながら、短く言った。
『次の任務も、よろしくお願いします。ただし、衣装は……相談してください』
詩音は少しだけ目を見開いたあと、静かに頷いた。
『はい。雰囲気は大事ですが、紅葉さんの意見も、聞いてみます』
完全な理解ではなかった。だが、これまでにはなかった言葉だった。紅葉は画面に向かいながら、小さく息を吐いた。壊れん程度に、付き合う。五郎の言葉を、もう一度だけ噛み締める。
隣では詩音が、いつものように資料をめくっていた。次の雰囲気が、すでに頭の中で準備されている気がした。それでも、紅葉は席を立たなかった。




