第10回 ずっと、組みたいそうです(前半)
バニーの衣装を返してから、一日が経っていた。
紅葉は朝から、ほとんど言葉を発していなかった。詩音への挨拶はした。礼は崩していない。だが、それ以上の会話は避けた。詩音の方から何か言ってくることもなかった。昨日の控え室での言葉を、彼女なりに受け止めているのか、あるいは理解できずにいるのか。紅葉には、どちらでもよかった。
午前中、鷲尾に短く呼ばれた。
「紅葉。少し、顔が死んでるぞ」
『……はい』
「無理すんな。お前まで壊れたら、詩音を止められる人間がいなくなる」
紅葉は何も答えなかった。鷲尾もそれ以上は聞かず、書類を渡して席に戻る。教育係としての責任を、改めて突きつけられている気がした。だが、その責任を背負う気力が、今は残っていなかった。
昼休み、紅葉は一人で五郎食堂へ向かった。
暖簾をくぐると、いつもの出汁の匂いがした。客は少ない。五郎は紅葉の顔を見ただけで、何も聞かずに茶を出し、定食の準備を始めた。紅葉はカウンターの端に座り、昨日のホテルの照明を、まだまぶしく思い出していた。
定食が置かれる。紅葉は箸を取り、最初の一口を口に運ぶ前に、短く息を吐いた。
『……先輩とは、やっていけないと思います』
五郎は厨房の手を止めなかった。背中越しに、聞いているだけだった。
『止められないんです。止める気もない人なので。教育係だと言われても、私が消耗するだけです。退社も、視野に入れています』
五郎は魚を返しながら、低い声で言った。
「またか」
『……また、ですか』
「詩音ちゃんの横についた人間が、辞めていくのを何人も見てきた。お前さんが初めてじゃない」
紅葉は箸を止めた。五郎はようやくこちらを向き、カウンターに両肘をつく。目尻の皺が、いつもの冗談めいたものではなかった。
「やつは、小さい頃から周りに避けられてきた。悪意があるわけじゃない。ただ、理由にならない理由で動く。『雰囲気』とか『空気』とか、本人にしかわからない基準で服を選んで、席を変えて、時には人の話を真に受けすぎて、周囲を困らせる。結果だけはなぜか残すから、余計にたちが悪い」
紅葉は茶を飲みながら、黙って聞いた。
「学校でもそうだった。職場でもそうだ。最初は『変わった子』で済む。だが、付き合いが長くなると、周りが先に折れる。詩音ちゃんは悪くない。だが、悪くない人間が、一番人を疲れさせることもある」
五郎は短く息を吐き、紅葉の茶を注ぎ足した。
「だから、辞めてもいい。お前さんが壊れる必要はない。それは前にも言った」
紅葉は魚の骨を取りながら、五郎の言葉をそのまま受け止めていた。責められていない。止められてもいない。ただ、過去に同じ道を通った人間が、何人もいたことを知らされただけだった。その事実が、胸の奥で静かに沈んでいく。
店の暖簾が、まだ揺れていなかった。詩音は来ない。紅葉はそれを、少しだけ都合よく思った。




