第9回 華やかな方が、いいそうです(後半)
更衣室の蛍光灯が、今夜は特に白く見えた。
紅葉は赤いバニーの衣装の紐を結びながら、鏡を見ていなかった。生地は薄く、光をよく反射する。網タイツを通した時点で、体温が上がるのがわかった。耳のカチューシャは軽く、だが存在感だけは異常に重かった。隣では詩音が、薄い紫の同じ衣装を静かに着ている。蝶ネクタイを整え、ヒールの位置を確認している。真顔だった。
『……鏡、見なくていいです』
『見た方が、服装の乱れに気づけます』
『乱れより、先に心が乱れています』
紅葉はそれ以上何も言わなかった。袖を通すときの沈黙が、これまでで一番長かった。詩音は紅葉のカチューシャが曲がっていないかを、短く確認する。紅葉はそれを払わず、ただ受け入れた。拒く気力が、もう残っていなかった。
ホテルの宴会場は、すでに明かりが落ち始めていた。
シャンデリアの光が、床に淡い円を作っている。取引先の人々がグラスを手に立ち話をし、笑い声が層になって響いていた。華やかな場だった。紅葉はその中を、赤いバニーのまま歩いていた。視線が集まる。一瞬で理解される。何の役割でここにいるのかを、説明する前に悟られる気がした。
シオンは隣を歩いている。紫の衣装が、照明の下で静かに光っていた。耳が、時々揺れる。
『ルージュ』
『……なんですか』
『あそこの人、グラスを持ったまま、同じ方ばかりを見ています。警護対象の周辺です』
紅葉は視線を移す。確かに、一人の男がいた。笑顔は作っているが、目が笑っていない。距離は詰めていない。だが、対象の移動に合わせて、わずかに位置を変えている。
『どうしますか』
『華やかな場ですので、強引にはいきません。自然に、間に入ります』
シオンの声は低かったが、迷いがなかった。この格好でも、現場モードだけは正確に切り替わる。紅葉は自分の耳を、視界の端で確認した。恥ずかしい。寒い。だが、指示の内容は理解できた。
二人は分かれて動いた。
シオンは対象の斜め後ろを歩き、視線で男の動きを抑え続ける。ルージュはその外側を回り、男が近づこうとしたタイミングで、自然に会話の輪に入る形で進路を塞いだ。ぶつからない。だが、進行方向を変えるには十分な位置だった。男が立ち止まった隙に、シオンが短い言葉を投げる。内容は会場の案内だった。次のスピーチの時間を教えるような、穏やかな声。
男は数秒間こちらを見ていたが、やがてグラスを置き、別の方向へ歩いていった。追いかけてはこなかった。
事が終わったあと、紅葉は控え室の前で壁に手をついた。耳を外し、網タイツの上から膝を押さえる。シオンも少し遅れてやってくる。紫の耳を外し、紅葉の方を見た。
『ルージュ。お疲れさまです』
『……はい』
『任務が終わったら、話をするとおっしゃっていましたね』
紅葉は壁から顔を上げた。約束した言葉だった。逃げなかった。詩音は真顔のまま、紅葉を待っている。悪いことをした認識は、やはりない。
『先輩』
『はい』
『私、先輩とは、やっていけないと思います』
詩音の眉が、わずかに動いた。
『……雰囲気が、足りませんでしたか』
『雰囲気の問題じゃないです。先輩は、自分の「雰囲気」のために、周りを消耗させる。私は、もう持たないです』
紅葉はカチューシャを握りしめたまま、続けた。
『教育係だと言われても、止められない。止める気もない人に、付き合えるほど強くないです。退社も、視野に入れます』
詩音は沈黙した。否定も、肯定もしない。ただ、紅葉の顔を見ている。理解できない、という色が、初めて明確に混じっていた。
『……そう、ですか』
『はい』
紅葉はそれだけ言って、控え室のドアを開けた。詩音は後ろに残る。追ってこなかった。紅葉はその背中を見ず、廊下を歩いた。ヒールの音だけが、長く残った。




