第9回 華やかな方が、いいそうです(前半)
体操服のゼッケンを外してから、二日が経っていた。
紅葉は、詩音との会話を最小限に抑えるようにしていた。敵対しているわけではない。ただ、昼休みに「気をつけます」と真顔で言った人の言葉を、もう素直に受け取れなくなっていた。価格を抑えただけで、方向性は何も変わっていない。その事実が、胸の奥に小さな棘のように残っていた。
朝の自販機で、詩音がまた立ち止まった。
『紅葉さん。今日は温かい方でいいですか』
『……好きにしてください』
『はい』
詩音は普通に温かい缶コーヒーを買い、紅葉にも一つ差し出した。紅葉はそれを受け取りながら、礼を言った。礼儀までは、まだ崩していなかった。
そして今日。
午前中、鷲尾から指示が来る。
「詩音、紅葉。今夜、企業の打ち上げパーティー警備。会場はホテル。詳細は資料を見ろ」
内容は、比較的華やかだった。取引先を招いた打ち上げで、会場内の警備と、万が一のトラブル対応。暴力的な要素は薄く、どちらかといえば「場を荒らさないように」というニュアンスの依頼だった。
紅葉は資料を閉じ、自分のデスクで服を確認した。今夜はドレスコードがあるかもしれない。だが、普通のスーツか、せめて控えめなドレスくらいで済むはずだ——そう思いたかった。
夕方近く、紅葉は詩音の姿を探さないようにしながら、先に更衣室へ向かった。角を曲がる前に、足音を確認する。前回の廃校のときのように、先に動いて捕捉されるパターンは避けたかった。
更衣室のドアを開けた瞬間、紅葉は足を止めた。
詩音が、すでに中にいた。手には、黒い袋。中から見えている生地の光沢が、ただの布ではなかった。赤と黒。耳の形をしたカチューシャ。蝶ネクタイ。
紅葉の顔から、表情が消えた。
『……それ、何ですか』
『今夜の雰囲気です。華やかな方がいいと思いまして』
詩音は袋から、赤いバニーガールの衣装を取り出した。光沢のある生地に、黒い縁取り。網タイツと、高いヒール。もう一着、薄い紫のものが続く。
紅葉は数秒間、完全に動かなかった。
『バニー、ですか』
『はい。パーティー会場ですので、華やかさとプロ感を両立できると考えました』
『プロ感、ですか』
『はい』
紅葉は袋の中身を見たまま、ゆっくりと頭を振った。これまでで一番、声が出なかった。ボディスーツのときも、巫女装束のときも、着ぐるみのときも、拒んではきた。だが、今夜のものは質が違った。華やかさ、という理由でこれを着ろと言われている。
『着ません』
明確な拒否だった。詩音は首を傾げる。
『雰囲気が出ません』
『出ていいです。出なくていいです。私は着ません』
『紅葉さん』
詩音の声が、少しだけ低くなった。怒っているわけではない。ただ、理解できない、という色が混じっている。
『華やかな場では、華やかな服装で臨むのが礼儀だと思います』
『これは礼儀じゃないです。コスプレです』
『経費で購入しました。価格も抑えてあります』
『価格の問題じゃないです』
紅葉は更衣室の壁に手をついた。これまでの諦めが、今夜は機能しなかった。着てしまったら、もう戻ってこられない気がした。詩音は袋を持ったまま、紅葉を見ている。不思議そうな顔だった。悪いことをしている認識が、やはりない。
長い沈黙のあと、紅葉は目を閉じ、力なく息を吐いた。
『……着ます。着ますから。あとで、ちゃんと話をさせてください』
声に、力がなかった。詩音は小さく頷いた。
『はい。任務が終わったら』
紅葉はその言葉を、そのまま受け取った。任務が終わったら、話す。その約束だけを、ぎりぎりで握った。




