第8回 若く見られたい、だそうです(後半)
更衣室の蛍光灯の下で、紅葉は白い体操服の裾を確認していた。
生地は薄く、既製品特有の少し硬い感触がある。胸のゼッケンは、詩音が徹夜で縫い付けたものだ。糸の間隔がわずかに不揃いで、「3-1 ルージュ」の文字が、真下から見ると少し歪んでいた。隣では詩音が、自分のゼッケンを鏡に映して確認している。「1-2 シオン」。本人は満足そうだった。
『……本気で、若く見られたいんですか』
『はい。この方が、学生に紛れる自然さが出ます』
『自然さより、学年がおかしいです。私の方が上に見えます』
『若く見られたいので』
紅葉はブルマのウエストを調整しながら、もう何も言わなかった。昼休みに「気をつけます」と真顔で言っていた人の言葉が、ゼッケンの縫い目と一緒に頭の中でほどけていく。詩音は体操服のまま、軽くその場で屈伸をした。動きを確認しているらしい。
『サイズは合っています。今夜は動きやすさが重要です』
『動きやすさだけは、認めます』
廃校の校門は、夜間だというのに半ば開いていた。
鎖はかかっているが、緩い。詩音が先に身を低くして潜り、紅葉も続く。校庭は雑草が伸び、体育倉庫は建物の奥に黒く沈んでいた。街灯はない。月明かりと、遠方の住宅街の光だけが、薄い影を作っている。
シオンは倉庫の壁に背を預け、周囲を見渡した。体操服の白が、闇の中でわずかに浮く。
『ルージュ』
『……なんですか』
『入りやすいのは、裏側のシャッター付近です。足跡が残っています。一人分。比較的新しい』
紅葉もしゃがんで、地面を確認する。確かに、土が薄く踏み固められた跡があった。シオンの声は低かったが、迷いがない。社内でゼッケンを縫っていた人と、同じとは思えない。
『どうしますか』
『待ちます。無理に中に入ると、逃げられます。出てきてから、動きを封じます』
二人は分かれて位置についた。
紅葉は倉庫の側面、シオンは正面から少し外れた木陰に身を隠す。夜風が冷たい。体操服の袖から、直接肌に風が通る。しばらくして、薄い金属音がした。シャッターが、内側からわずかに動く。
人影が出てきた。
手に、小さな袋のようなものを持っている。盗品というより、置き忘れた備品を漁っていた可能性の方が高い。大掛かりな泥棒ではなかった。だが、放置できない。
シオンは動かない。相手が倉庫から完全に離れた瞬間を見計らい、短く合図を送る。
『ルージュ、今です』
紅葉は側面から回り込み、逃げ道を塞ぐ形で出た。相手が驚いて振り返ったところに、シオンが正面から距離を詰める。相手は若く、抵抗する意思も薄かった。袋を落とし、その場に座り込む。
事が終わったあと、紅葉は倉庫の壁に背中を預けて息を吐いた。体操服のゼッケンが、夜風に小さくめくれる。
『……なんとか、なりましたね』
『動きやすさが、功を奏しました』
『功を奏したのは、ゼッケンじゃないと思います』
シオンは自分の胸の「1-2 シオン」を、軽く押さえた。
『若く見えたでしょうか』
『見えません。ただの、徹夜でゼッケンを縫った人に見えます』
シオンは少しだけ残念そうな顔をした。紅葉はその顔を見ながら、昼休みの会話を再度思い出し、静かに目を閉じた。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、鷲尾が通りかかった。彼女は紅葉の顔を一瞥し、短く息を吐く。
「体操服、だったな」
『……はい』
「価格は抑えたらしいな。七瀬が、少しだけ顔の色を戻していた」
紅葉は何も言えなかった。鷲尾はそれ以上聞かず、自分の席へ歩いていく。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いていた。ゼッケンを縫った徹夜の疲れは、彼女には見えない。
紅葉は机に肘をつき、小さく呟いた。
『価格を抑えただけで、何も変わってない……』
誰にも届かない声だった。




