第三話 暮れの境界
1.
薄明かりが滲む駅前を、男がふらつくように歩いていた。
肩を揺らしながら重い足を引きずる。よれたシャツにボロボロのズボン、そして裸足。カランと空き缶を蹴り、男は足を止めた。
「神は……神は再来する!」
掠れた声が駅前の広場に響く。
「この世界に、神は帰ってくる……! そして、選ばれるのは……このワタシだァァァ!」
突然、通行人の肩を突き飛ばし、近くの男性に殴りかかる。
それまで視線だけ送っていた警備員が一斉に駆け寄った。
「や、やめなさい、君!」
怒号と無線の音。もみ合いの末、男は地面に押さえつけられた。
「神が……私の声、聞こえた……はず……」
焦点の定まらない瞳が、どこにも属さない空を見上げていた。
***
《本日午前五時ごろ、新宿駅前の広場で、三十代とみられる男性が「神がくる」などと叫び、錯乱状態だったとのことです。警視庁によりますと——》
ラジオニュースがパトカーの中に流れた。
それまで饒舌だったバットエンジェルの口が一瞬止まる。
しかし、ほんの一瞬だけだった。
「そう、灯台を駆け上がって、そっからジャンプしたんですよー! それで言ってやったんです、『その目玉、もらうぜ』って! くーっ、あれはマジでカッコよかった!」
信号待ち。助手席で身振り手振りを交え、車体まで揺らす勢い。
運転席に座る原間スミレは相変わらず無表情であった。
先ほどから、ブレーキを若干強めに踏み込んでいるが、奴は一向に頭をフロントガラスに当ててくれない。
なぜこの男が同行しているのか。向かう先の関係者ならまだしも、彼はただの情報提供者。それに——。
「そうなんですか。いやぁ凄いですねえ、流石だ。原間君にも見習って欲しいですねぇ」
何故、遠藤警部がいるんですか。
後部座席の中央、どっしりと座った遠藤警部がバットエンジェルと共に笑う。
スミレは苦笑いで合流しつつ、話を遮った。
「あはは凄いですね~……ところで警部、本日は大事な会議があったのでは? 本庁勤務になってすぐドタキャンは印象悪いですよ?」
「んん? ああ、その会議は別日にして貰ったから気にしなくていいよ」
「こちらこそただの聞き込み調査なので、私一人で十分ですよ。お戻りになっては?」
「はっはっは、原間く~ん。私も本当なら会議はキャンセルしたくなかったよ~。でもね、この案件は原間君だけじゃ心配でさあ、任せられないかなって」
「何々スミレちゃん? やっぱ俺と二人っきりが良かったってこと? 言ってよー俺もその気だったし、超ウェルカム!」
車内がまた揺れる。
パワハラとセクハラ、原間スミレの一日は、まだ始まったばかりだった。
——茨城県つくば市。
三人は生態系研究施設、通称『エーテル農園』に到着した。
ここは国家公認の植物研究機関。三十年ほど前から発見されるようになった外界由来の植物を研究する施設として知られている。
広大な敷地の中央には、三角屋根のガラス温室が並び、遠目には未来的な植物園そのものだ。一帯は立入制限区域として高いフェンスに囲まれ、ドローンが定期的に上空を巡回している。
「こんにちは。警視庁渋谷警察署の原間です。本日は事前にご連絡させていただいた件で、植物研究部の責任者の方にお話を伺いに参りました」
スミレが警察手帳を見せると、受付の女性は柔らかく会釈した。
「はい、お待ちしておりました。担当者をお呼びしますので少々お待ちください」
スミレは肩の力を抜き、ロビーを見回す。
エーテル農園は一般見学もできる。客層は様々、受付横のチケット売り場では学生団体や高齢者の姿があり、楽しそうな話し声が飛び交っていた。
ガラス張りの天井から差し込む光が、ゆらゆら木漏れ日を作り、とてものどかで活気溢れる空間だ。
ああいっそ、このまま眠りたい。
薄れる感覚に身を投じていると、隣からやかましい声が聞こえた。
「スミレちゃんって凄いね、本当に警察官だったんだね」
「……ええ、今さら何を言ってるんですか?」
「いやだって、なんかこう普段は可愛いって感じだけど、さっき手帳出してる時マジで警察って感じだった。俺、クールな子も好きなんだよねー」
自画自賛のように頷くバットエンジェルを無視して、スミレは遠藤警部に視線を向けた。
「遠藤警部、本日は例の原因と思われる違法薬物『ネイレイド』についての聞き込みになります」
「うん、あれだよね? 幻覚作用が強いって言う」
「はい、非公式に呼ばれている俗称ではありますが……かつてない成分構成で、最近増えている錯乱者からもよく検出されています。これで確定かと」
「まあ、そこは専門家に聞くとしよう」
そのとき、白衣を纏った女性が出迎えに現れた。
「ようこそエーテル農園へ。第二展示区担当の春日です、本日はよろしくお願いします」
透き通った声と穏やかな笑顔。後ろで束ねた長い茶髪が、白衣の肩に滑るようにかかっている。
「初めまして、渋谷警察署の原間です。こちらは本庁の遠藤と……あれ?」
やかましい男が見当たらない。
振り返ると、遠くで学生集団の輪に勝手に加わっていた。
「あ、すみません。あそこの彼も一応関係者で……」
スミレの説明にも、春日の微笑は微動だにしなかった。
「かしこまりました。ご案内は第三展示区からとなります。どうぞこちらへ」
——第三展示区棟。
朝靄の薄膜の向こう、温室が静かに浮かんでいた。
全面ガラスの壁は、外気ごと切り取って密封した結界のよう。ゆるく傾いだ屋根に白い陽が滲み、曇りガラスの中で緑色が呼吸している。
近づくほどに、蔓が天井梁へと這い上がり、葉のシルエットが内側から揺れてみせた。ガラスに沿って走る細い水滴が、一筋ずつ、内側へ落ちて消える。
自動扉が開いた瞬間、ぬめりのある湿気が肌を包んだ。
土でも花でもない、甘さと渋みがせめぎ合う匂いが鼻腔の奥に絡みつく。不快ではない。だが、嗅いだことのない空気の配合だ。
熱帯温室のそれとも違う。湿気、樹液、発酵臭、花の香り。どれも知っているはずなのに、比率が少しずつズレている。その微小なズレが積み重なって、ここ全体を別世界と規定していた。
「すげえ、マジで凄いって……こんな植物見たことねえ」
後ろでバットエンジェルが声を弾ませる。ガラスの天井で反響し、薄い金属音のように返ってきた。
「これでもまだ安全な部類らしいですからねえ。お、これは何ですか?」
遠藤警部が、緑のカーテンから垂れる大きな実を指さす。
春日が微笑んだ。
「それはスレイナの実ですね。特定の周波数音に呼応し爆発、種をまき散らす植物です。こちらに実際の映像がございます」
解説プレートの隣のディスプレイが再生される。
映像の中、熟れた実が鼓動するように脈打ち、次の瞬間、鈍い破裂音とともに霧状の種子が噴き上がる。
床に散る殻片が、雨粒のようにポタポタと音を立てていた。
「結構やばいっすねぇ……ここに置いて大丈夫なんですか? 一般の方も来られるんですよね?」
「はい、ですが一般公開の前には摘出しますし、スレイナの実は“大音量”と“高音域”が合わさらないと爆発しませんので」
「あはは、そうなんですね。安心しました」
「一説では、それは“女性の悲痛な叫び”に似ている、とか」
後方から不吉な話が聞こえて来るが、スミレは足を止めずに展示ラベルを追いながらネイレイドに繋がりそうな品種を探していた。
この草は人声に反応して葉を震わせる、この花は咲く時に笑い声に似た音を鳴らす。いずれも奇妙ではあるが、ネイレイドに繋がる決定打ではない。
そう視線を泳がせていた時、襟元に冷たいものがするりと落ちた。
「ひゃっ!?」
背中を細い何かが滑っていく。
反射的に襟元に手を入れて払い落とすと、青い蔓が肩口にぶら下がり、ゆるく揺れていた。
「ああ、それはセラニア蔓といって面白い植物です。無害ですので、少し握ってみてください」
春日の声は清澄で、スミレはためらいながらも指先で触れてみる。
ひんやりと湿った皮膚。思い切って掌で握った。
息が、深くなる。
触れている手から、手首、肘、肩へと、重さがゆっくり沈んでいく。
眼窩の奥の筋肉がほどけ、舌の付け根の緊張がほどけ、胸骨の裏側が温かく開く。
意識は覚めているのに、神経だけが柔らかな水底に降りていく。残業続きで凝り固まっていた身体が、ほどけるたび音のない溜息を漏らす。
「何ですかこれぇ、すっごく気持ちが良い、です……あの、貰ってもいいですか?」
「いや、流石にお渡しすることは」
「そ、そうですよね。すみません……」
「セラニア蔓は、相手の警戒心を徹底的にほどいてから、捕食します」
スミレは握った手をすぐさま離す。戻って来た疲労が、なぜか温もりにすら感じられた。
ここは、恐ろしい。
2.
——第二展示区棟。
第三展示区を抜けると、目的の建物が現れた。
一般公開を想定していない真っ白な空間。壁も床も無機質で、人工的な匂いが漂っている。春日は無言のままICカードをかざし、重い扉を開けた。
中には武装した警備員が二名。その中央に、異様な存在感を放つ巨大な扉があった。
「ここから先は、一般の方は入れません。外に漏れ出ると生態系を崩しかねない植物も多く存在しますので、入退場時にこちらで全身を綺麗にしていただきます」
扉には《表層除染ブース》の文字。黄色い背景に黒い点と楕円の線が二つずつ交差した警告マークが貼られている。放射線マークにも似たそれは、ここから先が別の世界であることを予感させた。
「なにこれ、バイオハザードってこと?」
バットエンジェルはこれの意味が分かっていないようだ。
表層除染ブースでエアーシャワーとミストを浴び、いよいよ第二展示区へ。
自動ゲートが開かれると異様な甘い香りが鼻についた。見た目には第三展示区と大差がない。むしろ植物の種類も数も減り、どこか空虚な印象すらあった。きっと、一般公開向けの見栄えは必要ないのだろう。
事前の照会では、ネイレイドの原料となり得る植物が、この区画で管理されているとのことだった。
「これ絶対、植物が暴れて外に漏れて、謎の植物に侵された世界で物語が始まるパターンだよね」
「静かにしてください。ここからは、聞き込みです」
スミレはメモ帳を開き、春日に向き直った。
「春日さん、まず一点お伺いしたいのですが、ここ最近ネイレイドという違法薬物が出回っている件、ご存じでしょうか?」
「ネイレイド、ですか……申し訳ございません、そのような言葉はちょっと聞き慣れないですね。危険ドラッグということでしたら候補はいくつか……このフロアには神経系に作用する植物も多いので」
「そうですか、具体的にいくつか教えていただけますか」
「少々お待ちください」
春日は本棚から本を探すように、いくつかの植物の鉢を取り、机の上に並べた。
「神経系に関わるものとしては、まず代表的なのがこの『リダーム苔』。知覚の伸縮に関わる反応がありまして、体感速度との関連性について研究されています。次に『フェリス花』。こちらは感情への作用が強く、花の香りと結びついた記憶が半永久的に残り続ける性質があります。そして——『ネイル草』。鎮静効果の研究中ですが、最近では幻覚作用の報告もあるようです」
スミレは直感的にこれだと分かった。
ピンクがかった花のような葉。
あの入口で感じた甘い香りの正体も、間違いなくこれだった。
「ありがとうございます。このネイル草について、栽培状況と研究の目的を教えていただけますか」
春日はにこりと微笑んだ。
「はい。ネイル草は輸入植物として当施設の第二展示区で管理しております。主な目的は、香気成分の応用研究と、医療用途に向けた鎮静作用の分析です」
「なるほど……その香気成分というのは、具体的にどのような作用が?」
「ええ、安静効果や情緒安定の傾向が見られます。人によっては幻覚作用が報告されておりますが、個人差が大きく、現在も研究段階です」
「そうですか……それでは外部への提供や、分析データの……えっと……」
スミレの言葉が詰まり始める。考えていた次の質問を探しメモ帳を捲るが、ふとその違和感に気が付いた。
この人、解説しているようで何も言ってない。話を広げようとしない。
すると遠藤警部が喉を鳴らし、一歩前に出た。
「つまり、精神安定作用と幻覚作用が報告されている植物が、このネイル草ということですね」
「ええ、あくまで観測されている範囲ではございますが」
遠藤警部は視線を植物から外さずに言葉を重ねた。
「これがもし加工された場合、どのような作用を持つか……施設としての見解はいかがですか?」
「私どもは、植物そのものの管理と研究を行っております。加工や流通については……当園の管轄外でございますので」
「ええ、もちろん。あくまで仮の話です。ただ、名前が似ているだけで関連性を疑われるというのも、なかなか面倒な時代ですからねえ。『ネイレイド』という名前、こちらでも話題に上ることはあるのでは?」
一拍の間。春日はほんのわずかに笑みを止め、静かに答えた。
「いえ、初めて聞いた名です」
「……そうですか」
その時、第二展示区館内のスピーカーにノイズが入った。
「……ザー……Bエリアのヒュドラ蔦、成長速度が管理基準を超過、直ちに制圧を行ってください」
入口方面から武装した警備員三名が駆けて行く。春日はその姿を見送り言葉を添えた。
「ご安心ください、このようなことは日常茶飯事ですので」
しかし、春日の目は泳いでいた。今すぐにでも現場を見に行きたい、そんな面持ちだ。
遠藤警部はネイル草から指を離すと、何気なくスミレの袖で手を拭った。
「ちょ、なにしてるんですか……!」
「いやぁ、原間くーん。質問は事前にまとめておかないとダメだよ? だから任せられないって言われちゃうんだよ」
遠藤警部は春日に向き直ると、後頭部を掻きながら笑った。
「いやーすみませんねえ、長々とお邪魔しちゃって。このネイル草の線は見えましたし、今日はこの辺で失礼します。ご協力ありがとうございました」
春日は一瞬だけ礼を言いかけたが、言葉を飲み込み、またBエリアの方角を見つめた。
***
——農園を出た頃には、陽が傾き始めていた。
舗装路の向こうでガラス温室が赤くきらめき、さっきまでいた世界が、夕景に溶けて遠のいていく。
「スミレちゃん惜しかったね。途中まで格好良かったのに、最後ちょっとグダっちゃって」
「うるさいです。このまま署に連行しますよ?」
「あーごめんごめん。でも、今日は楽しかったね」
「楽しくなんか——」
言いかけて、スミレは先にパトカーへ向かう遠藤警部の背へ視線をやった。
歩幅はいつも通りなのに、肩だけがわずかに固い。
スミレは駆け寄って声を掛ける。
「遠藤警部、本当に良かったんですか?」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。難しいねぇ女心は。来ないでくださいって言ったり、もう帰るんですか? って」
冗談を受け付けない冷たい目。
警部は喉を鳴らして肩をすくめた。
「……まあ、“今日のところは”ってやつかな」
「また来る、ということですか? であれば今から……私も聞きたい点がいくつか」
スミレは胸ポケットからメモ帳を抜き、ぱらりと捲る。
「いや、そういう話じゃない。まず間違いなくネイレイドの原料はネイル草だろう。けど——今日はもう、深入りは良くない」
「……どういうことですか?」
遠藤は顎を撫で、言葉を選ぶように一拍置く。
「この件、本庁の預かりになるかもねえ」
スミレはメモを取る手を止め、視線を上げた。
「それって——」
遠くで、自動警備ドローンの光が一瞬赤く瞬いた気がした。
夕陽が温室のガラスで砕け、中の影がざわつく。屋内に風なんてある訳がない、なのにまるで、こちらを手招くようにゆらゆらと揺れていた。
「やっぱり、神なんて幻のようだねえ」
遠藤警部は腕を回し、妙に上機嫌に見える笑みを浮かべた。
「君は、どう思う?」
「え、ええ、私も人が作り出した幻想だと。いや、それより……!」
スミレの言葉を遮るように、遠藤はパトカーのドアを開け、指を差した。
「その制服、あとで科捜研に回しておいて、薬物班の方ね。『幻覚成分の可能性あり』って記載して」
3.
赤い禁書は、誰にも気づかれず講義室の机に置かれていた。
午後の陽光が斜めに差し込み、塵を金色に染める。
学生たちのざわめきが遠のいたあと、その存在だけが取り残されている。
白髪混じりの男が、それを拾い上げた。
「……おや、これは」
一鷺大学の九折教授はその表紙に眉をひそめた。
妙に手に馴染む生き物の肌のような表紙。そして薄く消えかかった、時計盤にも見える模様。開くと、埃っぽい匂いが立ち、謎の文字列が現れた。
「日本語では、なさそうだ……まったく、変わった趣味の学生もいるものだな」
ぼやきながらも彼はそれを忘れ物として抱え、研究室へ戻ることにした。
廊下を抜けると、昼の光が溢れていた。芝生の上ではサークルの学生たちがミニテントを組み立て、笑い声が風に流れていく。蝉の声が早くも混じりはじめ、キャンパス内は夏の境目の匂いに満ちていた。
研究室に戻ると、ソファに腰を下ろし、老眼鏡を掛け直す。
「どれどれ——」
頁を開くと、紙ではない質感の面が光を跳ね返した。
「……この言語、見たことがないな。それに、同じ文字体系なのに書き癖がいくつも混じっている。ひとりが書いた本じゃないな」
教授はページを遡り、眉を寄せた。
時間を忘れ、文字の奥を覗き込む。まるで論理の隙間から、別の世界を覗いているようだった。
その時、遠慮がちなノックが鳴った。
「失礼しまーす。えっと……赤い本、こちらに届いてるって聞いたんですけど……」
ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、柊アイカだった。
薄藍の髪をハーフアップに結び、白のフードカットソーに黒のロングスカート。肩口のスリットから肌が覗き、黒いサンダルが軽やかな足音を弾ませる。
研究室の静けさに、現代が戻ってきた瞬間だった。
九折教授は目を細め、手元の本と少女の顔を交互に見た。
「おやおや、持ち主は君だったか。こんな難解な本を、よく」
九折教授は丁寧に閉じ、彼女に差し出す。
アイカは思わず手を伸ばしかけ、ふと引っ込めた。
「……読まれました?」
「うん。正確には読もうとした、が正しいかな。私には少し難しかったようだ。君は読めるのかい?」
「うーん、私も読めないです……でも、なんか気になるんです」
九折は笑った。皺の奥で目がきらめく。
「うん、その“なんか”が学問の芽だよ。年を取ると、そういう曖昧さを忘れてしまう。——持っていきたまえ。君の感性が引き寄せたのなら、きっと大事なものになる」
手渡された本は、ずしりと重かった。けれど、その重さは奇妙に心地よい。
「ありがとうございます。なんか、嬉しいです」
「はは、あまり危ないことには使わんように」
「もちろんですよー……たぶん!」
アイカは赤い本を胸に抱え、研究室を後にした。
キャンパスを抜ける風が、初夏の匂いを運んでくる。テラス席では学生たちが笑い、銀杏の並木が青く揺れていた。
「ごめん遅くなったー! あっつい!」
木陰で待っていたメグミの肩を叩く。
「暑いねー、歩くたび脳がとろけそう」
白いスカートの裾がふわりと舞う。
「本は回収したし——早速行こっか、例の場所」
「うん、たまには行ってもいいよね、あの場所」
二人は顔を見合わせ、ニヒヒと悪だくみの笑みを交わした。
***
「——この期間限定ラゴ牛のバーガーと、ポテトと……あとこのスマイルを一つ、アツアツのをくださーい♡」
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「あれー? このスマイルの提供がまだですよ~?」
カウンターの内側で、喜納ヒロトは貼りつけた笑顔を崩さず、マニュアル口調で繰り返した。
「ご注文は、以上でよろしかったでしょうか」
アイカはわざとらしくメグミの方を向く。
「この店員さんサービス悪いねー」
「ねー」
「……ぶっ飛ばすぞ」
「あ、ほら出た、店員としては最悪の対応ですねー」
「スマイルは出せなくてもツンは出せる男、それがヒロトくん」
東京湾に面した商業施設のフードコート。
潮風が微かに香り、ガラス越しの光がテーブルを照らしている。
アイカとメグミは、ヒロトのバイト先を冷やかしに来ていた。
少し離れた席に陣取った二人は、彼の働く姿を眺めながら食事にありつく。
光沢のある謎パティがはみ出たバーガー、ポテト、ドリンク——山のような資料と本の束。
「これ、持ってきたの?」
ポテトを一本つまんだメグミが、予想外の光景に微笑んだ。
「うん、今日ヒロトのバイト終わるまで暇だったし。あとさ、見てよこれ」
アイカはタブレットを差し出し、あるニュース記事のスクリーンショットを開いた。
《錯乱者、再び。今週だけで四件。薬物反応検出も——警察は関連を調査中》
「あー、最近よく聞くよね。しかも近いでしょ、これ?」
「うん。どうも最近違法薬物が広まってるらしいの。あと、これも見て」
スワイプした先に、別の見出しが現れる。
《都内で暴行事件多発、神の仕業か?》
「神……?」
「そう。錯乱者はみんな“神”について口にしたって。ちょっと気にならない?」
メグミは少しだけ考え、視線を戻した。
「つまり、神のウワサって薬物使用者の妄言だったってこと?」
「普通に考えたらね。でも、私は違うと踏んでいる」
アイカは紙資料を手早く広げた。
「これ、私がここ数週間でまとめたデータ。まず、各地の異常現象。落雷、突風、地震——発生地点が、五十年前の神出現前とほぼ重なってる。それから動物。最近ミーム動画が妙に増えてるけど、五十年前にも、神の目撃談が広がる前に、動物の奇妙な行動を伝える新聞記事やテレビ映像が急増してる」
「……あ、確かに。最近妙にミーム動画増えてるよね」
「うん。これは私の推測だけど、神出現の前は何かしら世界に異変が起きると思ってる。で、動物は感覚が鋭いから、その異変をより早く察知して行動に移す。つまり相関係数、爆上がりってわけ」
メグミは唸った。
「……すご、統計学みたいだね」
「この前履修したし」
アイカは得意げに胸を張る。
そして、傍に置いていた禁書の上で、指を弾ませた。
「そんで、これが今言った仮説の裏付けになる」
メグミは神妙な面持ちで首を傾げた。
先日、本の中身を見せてもらったが、全く読めるような本じゃなかった。
「え、アイカそれ、読めたの……?」
「読めてないよ。でも、そんな気がするの」
メグミは緊張が解けたように吹き出した。
「なにそれー、でも……アイカの直感って馬鹿にならないしな。アイカは神を追って何かしたいの? まさか願いでも叶えてもらうつもり?」
「うん、私願い叶えてもらおうかなって」
言葉の軽さとは裏腹に、アイカの瞳はまっすぐだった。
冗談のつもりで投げたメグミの声が、そこで止まる。
「え、でも願いって……」
「叶えてもらうって、お前は国民代表にでもなるつもりか」
低い声が割って入った。
ヒロトだった。緑のTシャツに短パン姿、黒のリュックを片方だけ背負っている。
アイカは睨むように振り返った。
「うっさいなヒロト、私にもちゃんと考えがあんだから。……ってバイト終わったの? 早くない?」
「今日暇だし先上がっていいって、店長が」
「ふーん……そっか」
ヒロトは椅子を引き、テーブル一面の資料を眺める。
「ただの冗談にしちゃ、ずいぶん本格的だな……ガチ?」
「うん、ガチ」
アイカは赤い本に手を乗せたまま、まっすぐに言い切った。
「じゃあ、本気で願い事叶えるつもりってわけね。……で?」
「で?」
「そのために、これから何すんだよ。まさか寝て待つわけじゃないだろ?」
その一言で、アイカの表情がぱっと明るくなる。
タブレットを閉じ、禁書と紙束をリュックに放り込みながら口元だけで言った。
「この禁書、絶対トラブルの元だからさ。先にボディーガードを探しに行こうかなって」
「ボディーガード? また急だな……当てはあるのかよ」
「ないよ、だから足で探す。結局数撃ちゃ当たんの」
ヒロトは眉を上げ、メグミと視線を交わす。
二人の間にいつもの空気が漂った。
「了解、朝まで付き合うよ」
「うちのアイカはぶっ飛んでるからねー、さすが国民代表」
アイカは立ち上がり、リュックを軽く叩いて確かめた。
「二人ともありがと。それじゃあ、行こっか」
その足取りは、まるで夏休み前の子供のようだった。
海沿いのガラス壁を抜ける光が三人の背を照らす。陽は西に傾き始め、湾岸の風が熱を孕んでいた。
『ハレ×ナイ』をお読みいただき、ありがとうございます。
毎週日曜20:10更新です。
次回、第四話「裏ルートサキュバス」。
8月30日(日)20:10更新です。
◇
【☆TIPS:ネイレイド】
日本発祥の違法薬物。
外界由来の植物『ネイル草』から成分を抽出・精製して作られる。
強い高揚感と深いリラックス感をもたらす一方、強い幻覚や錯乱を引き起こす。
なお、柊アイカが吸った煙はネイレイドではない。
祝福教団アナヒタが儀式に用いる香煙『御息』であり、学術上は『沈静霧素』と呼ばれる。
純粋な鎮静・リラックス作用を持ち、ネイレイドのような強い幻覚や錯乱は引き起こさない。
ときおり見える幻は、現実と夢のはざまに生じるもの。
要するに、眠たいだけである。




