第四話 裏ルートサキュバス
1.
「ボディーガード、ですか……? なんでまた急に」
「ちょっと危ない人たちに狙われていて。何もしてないんですよ? 本当に何もしていないのに急に襲われちゃって。もう私、怖くて怖くて夜も眠れなくて……どうか、お願いします」
そう言って、床に額を押しつける柊アイカ。
護身術道場の師範代はぽかんと口を開けたまま固まっていた。
ここ『護道館クロスガード』は、異種族や怪人による通り魔・拉致事件などが増える現代において、実戦型護身術を教える人気の道場だ。近年の治安悪化もあって会員数は右肩上がり。そんな中で「ボディーガードになってください」と頭を下げる人は前代未聞だった。
「う、うちは護身術を教えているだけで、人を守るというのはちょっと……」
師範代は両手を前に突き出し、明らかに拒絶している。
ヒロトも納得だった。
だって護身術だもの。その技術は自身に向けたもので他人を守るためのものじゃない。
「恐れ入りますが、ご希望に沿うことは出来かねますので……」
「でも、そこをなんとか」
両者譲らぬまま、時間だけが過ぎていく。
離れた場所から響く稽古の掛け声が、徐々に前景へ浮かんだ。
その時、奥から一人の老人が姿を現した。
紫の袴に純白の道着。髭を整えたその佇まいは、まるで仙人のようだ。
「し、師範……!?」
「話を聞いてあげなさい。お嬢さんも困っておられる。こんなご時世だ。差し伸べる手は幾つあっても足りやしないよ」
師範は空気を一変させ、ゆっくりとアイカの前に立った。
「ところでお嬢さん。守ってもらうという判断も十分に正しい。だが、自身でなんとかするという選択肢も、捨てたものではない」
「自身でなんとかする……それって……」
「護身術。体験してみるか?」
前から気になっていた護身術。アイカはすぐに頷いた。
——畳の匂いが鼻をくすぐる。
道場の空気は凛として冷たく、外の湿気が嘘のようだった。
アイカは髪を結い、靴下を脱ぎ、柔らかな足音で畳の上に立つ。
正面に立つ師範の気配は、ひと目で尋常ではないと分かった。
「では、私を敵と思い、全力でかかって来なさい」
「ふふ、怪我しても知りませんよ?」
軽口を叩きながらも、アイカの目はまっすぐだった。
間合いを詰める。
師範もまた一歩、ただ一歩だけ前に出る。
アイカの背筋に電流のようなものが走った。
体が勝手に、後ろへ引いた。
次の瞬間、視界が回る。
「え……?」
腕を取られた感覚も引かれた覚えもない。
ただ、地面がふっと消え、気づけば仰向けに転がっていた。
「力は使っていない。ただ、君の重心を動かしただけだ」
師範は立ったまま、静かに告げる。
ヒロトとメグミは思わず息を呑んだ。
「どうだ護身術は。力を押し付けず、技で受け止める。優しい武術だ。この技を教えることもできるが……そんな時間はなさそうだ。私でよければ、この力を貸そう」
アイカは嬉しさのあまり、立ち上がって勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 私を、私たちを守ってもらえたら嬉しいです!」
「うん、承った」
師範は穏やかに笑い、アイカの肩を軽く叩いて通り過ぎる。
ヒロトとメグミも顔を見合わせ、親指を立てて見せた。
「そういえば、名前を聞いていなかったね」
師範はふと、足を止めて振り返る。
「あ、ごめんなさい。柊アイカって言います。大学生で……最近変なトラブルに巻き込まれちゃって……“神のウワサ”って、知ってますか?」
「ほう、神のウワサ、とな」
「はい、五十年前に出現した神が再来するって話で。先日それを調べてたら“祝福教団アナヒタ”って宗教団体に目ぇ付けられちゃって」
「祝福教団、アナヒタ……?」
師範の表情が一瞬で変わった。
「今アナヒタと言ったか……?」
「は、はい。そこからちょっと狙われてて」
アイカは気まずそうに両手の指先を合わせる。
しかし、師範の様子は、気まずいなどという程度ではなかった。
ふと視線を上げると、師範の額には玉のような汗。あの達観した雰囲気はどこへ。半開きだった目をかっ開く。
「あ、あああ……ア、アナヒタ!? ムリムリムリムリムリ、断固ムリ!」
声が裏返り、動揺のあまり口調まで変わっていた。
「そ、そんな! 私はただ、ちょっと恨みを買っただけで……そこの“禁書”をうっかり持ち帰っちゃっただけというか!」
「ええええええええええ!?」
目が飛び出す勢いで叫んだ。
そして、師範は道場の奥へ全力で走り去ってしまった。
「お、おじさん!?」
アイカが追いかけようとするも、すでに障子の向こう。怯えた子供のように、柱の影からこちらを覗いていた。
「お、おぬし……そんな爆弾みたいな発言を、サラッと……!?」
「え、ば、爆弾……? いやでも、全然爆発なんて……ねえ、二人とも」
助けを乞うが、ヒロトもメグミも視線を合わせてくれなかった。
「してないのがおかしいんじゃよ! というか早く帰ってくれ! うちも巻き込まれる!」
「わ、分かりました! ボディーガードは結構です! ……でも、さっきの護身術凄かったなぁ。あれ習えば自分でも対策できる、かも? ……ここ通っちゃおうかな」
「うわああああああああ!」
言い終わる前に、師範の悲鳴が奥から響き、道場は一瞬で静まり返った。
アイカはぽかんと立ち尽くし、不満げに口元を歪める。
様子を見ていたヒロトとメグミはポツリと呟いた。
「なあ、もしかして俺たち、凄くまずい状況なんじゃないか」
「うん、そうかも……」
三人の途方もないボディーガード探しが、始まった。
***
——総合格闘ジム。
「えぇ、アナヒタ!? おいおい姉ちゃん、物騒な名前出さないでくれよー。うちは健全な格闘ジムなんだぜ? そんなの口にするだけで客が飛ぶって!」
***
——ヒーロー育成専門学校。
「申し訳ありません。当校はヒーローを育成する機関でして、そのようなご依頼は……。それと、祝福教団アナヒタとおっしゃいましたか? ふぅ——金輪際、当校の敷居を跨がぬようお願いいたします」
***
——探偵事務所。
「あー……うーん、裏社会にも強いとは謳ってるんですけどねぇ……っー、いやぁ、アナヒタ案件はちょっと……ごめんなさい。この話、無かったことにしてもらえます? 本日の相談料は結構ですので」
***
——都内某公園。
「どこ行ってもダメだねー。警備会社もだめ、警察は……事情聴取で窃盗容疑かけられそうだし行かなくていいや。一応バットエンジェルにDMしてみたけど、既読も付かないや」
「俺はもう、生きた心地がしないよ」
「そう? 本を燃やしたりしない限り、命までは狙われないと思うけど?」
「その発想はおかしいだろ」
夜の街灯は弱々しく揺れ、三人の影を細く伸ばしていた。
アイカはジャングルジムの頂上で腕を組み、メグミはブランコをゆるく漕ぎ、ヒロトはベンチで冷めたコーヒー缶を握っている。
「護身術を極めるか。それとも、やっぱり最初から大本命に行くべきだったのかな」
アイカはそう呟き、ジャングルジムのてっぺんで夜風を受けた。
「アイカー、大本命ってなにー?」
ブランコを揺らすメグミが声を上げる。
「そりゃあもう、あそこしかないでしょ。圧倒的パワー、人外対応専門の治安維持組織、QPD!」
アイカはそう笑いながら星空を指でなぞった。
「やっぱり織田さん、あの人に守ってもらいたいな、私」
ヒロトは呆れ半分に見上げた。
「それこそ門前払いだろ。QPDなんて、警察より堅い組織だぞ」
「そんなの、やってみないと分かんないじゃん」
「散々断られて来ただろ……」
アイカはジャングルジムの上から指を振った。
「違うねーヒロト君。今までは全部保身が理由だったの。しかしQPDにそれはない。アナヒタみたいな社会的脅威を放置する方がありえないと私は思うの。ただ守ってもらうんじゃなくて“重要参考人として保護してもらう”作戦、ね」
「んな上手くいくか」
ヒロトの小言なんてお構いなしに、アイカはぴょんと飛び降りて伸びをした。
「まあ、当たって砕けろ。ダメだったらその時考えよ。行こメグミ」
「アイカー、もし玉砕したらさ、フリマサイトに出品するのはどう? きっと高く売れると思うんだよねー」
「あ、それ天才! いいねー、一億円で売ろう!」
「へへっ、売れるー? それ」
笑いながら並んで歩き出す二人を見て、ヒロトはため息をついた。
「……また、このパターンかよ」
ポケットに両手を突っ込み、一歩を踏み出す。
「ま、今さら降りるつもりもないけどさ」
2.
——QPD本部。
強化ガラスの外壁に包まれた二棟のビルが、夜空に向かって螺旋を描きながら交差する。
街の灯が滲む中、QPD本部だけは別世界のように冷たく光り、どの建物とも調和していない異物のようだった。
「うっわ……写真で見るより全然ヤバい」
メグミが足を止めて見上げる。
「なんか……ラスボスの城って感じだな」
ヒロトが喉を鳴らす。
「ううん、次世代ゲーム機。私はそう呼んでる」
アイカはきらきらした目で要塞を見つめていた。
第一防壁の内側に設けられた一般開放区域は、意外なほど明るかった。一面の芝生には小さな遊具が置かれ、奥にはカフェや店舗が並んでいる。警備ドローンも、上空をのんびり巡回していた。
「ここ、災害時は避難場所にもなってるんだって」
メグミがスマートフォンをタップしながら言う。
「へー、じゃあ、あっちも?」
アイカが何となしに指したのは、一般開放区域の奥を仕切る第二防壁だった。目を凝らすと、遠くの暗がりに関係者用ゲートがあり、その前には人外の影が数体、待ち伏せるようにたむろしていた。
ヒロトは数秒の沈黙の末、反対方向を指さした。
「あっちに、相談窓口あるらしいぞ」
「じゃあ、そっち行ってみよっか」
QPD市民相談センター。と言えば聞こえは良いが、実際の外見は交番のような小さな建物だった。第二防壁沿いに、砦の見張り塔を縮めたような細長い建物が、ちょこんと建っている。
正面では屈強な職員たちが談笑中。一応、警備拠点も兼ねているのだろう。名前の柔らかさとは裏腹に、誰一人として近寄ろうとしない堅苦しさがあった。
「よし、行ってくるね」
「行ってくるね、じゃないんだよ。一人で大丈夫か?」
「平気平気」
二人の心配を背に、アイカは軽快に踏み出す。
半開きの引き戸を開けると、二人の警備員がこちらを睨む。
「用件は」
「え、えっと。祝福教団アナヒタって団体に命を狙われてまして、たぶん……重要参考人として保護をお願いしたくて」
「お待ちください」
一人がデスクに座ってキーボードを叩く。もう一人は腕を組み、警戒を解かずに彼女を見ていた。
外から見ているだけで息が詰まりそうな空気だ。
「あいつ、ほんと大丈夫か……」
「アイカ、何も起こさないといいんだけどねー」
画面から視線を逸らし、警備員が尋ねた。
「アナヒタと、関わりがあるということで……?」
「い、いえ関係者ではないんですが、少し恨まれるようなことしちゃって……」
「なるほど——失礼ですが、お名前とご職業は? 身分証などあれば」
アイカはおずおずと学生証を差し出す。
「柊アイカです。大学生です」
警備員はそれを一瞥し、首を傾げた。
「ふむ。お住まいは?」
「み、港区の方です……」
「年齢は?」
「十九歳です……」
「ありがとうございます。確認できました」
力強いセリフ。アイカの胸がふっと明るくなった。
「すみません、個人の保護依頼は受けてなくて」
「今のやり取り必要でした?」
しばらくして、アイカが戻ってきた。
「ダメだった」
「そりゃそうだろ」
「個人からの保護依頼は受けてないって。人間同士の揉め事は警察に行けって」
「まあ、そうなるよな……で、これからどうする? 大人しく警察行くか?」
アイカはスマホを取り出して、すぐにポケットへ戻した。
「いや、行かない」
「じゃあどうすんだよ」
「真正面から入るのは、愚か者のすることさ」
二人を尻目に、アイカは自信満々の笑みを浮かべて歩き出した。
ヒロトとメグミは顔を見合わせ、あとに続いた。
辿り着いたのは、先ほど見かけた第二防壁の関係者用ゲートだった。鋼鉄の扉の前には、人外たちが数体、ゾンビのように柵へ縋りついている。
「ちょっ……おま、バカ! どこ行こうとしてんだ!?」
ヒロトは声を殺しながら怒鳴った。
「まあいいから、見てて」
そう言うと、アイカは一歩前に出た。
躊躇いもなく、危険地帯のど真ん中で。
「きゃー! 誰か助けてー!」
「「「……!?」」」
意味がわからない。
自分から近づいて、自分から悲鳴を上げる。
一体誰がそんな行動を予想できただろう。
呆然とするヒロトとメグミの前で、人外が一斉にアイカへ飛びかかった。
その瞬間。
——ガコンッ!
第二防壁のゲートが内側から勢いよく開き、突進してきた人外たちが鋼板に激突。骨の砕けるような音とともに霧散した。
「だ、大丈夫……!?」
「はぁ、はぁ……すみません助けてください! 変な宗教団体にも追われてて! 匿ってほしいんです! ……あ、あと人外が」
アイカは飛び出してきた女性に泣きついた。
女性は一瞬たじろいだが、事情を聞くと、すぐに表情を緩めた。
アイカの頭をぽんと撫でる。
「なるほどね、あの頭おかしい奴らに絡まれてるってことね。一旦、中入る?」
「うっ、うっ……はい、お願いします」
アイカは後ろを振り返り、ヒロトとメグミに視線を送る。
意図は不明だ。だが二人も続いた。
「す、すみません。こいつが突然……」
「あ、この子の友達だよね。事情は聞いてるから、君たちも中入って」
「え、いいんですか……?」
女性はにっこりと笑い、首を傾げた。
「いいよ! アタシ捕虜だし!」
キラリと闇に浮かんだ、牙にも似た八重歯。
ヒロトの不安は、別の色に移った。
***
扉の向こうには、本部ビルを囲む広い敷地が続いていた。庭のように整えられた構内を、細い舗装路が建物の裏口まで延びている。
女性は慣れた足取りで道を進み、三人を本部の裏口から中へ通した。
そこには、白く塗られた壁と天井、グレーのカーペットが敷かれた通路が続いていた。案外、大学と変わらない。そう思うほど質素な空間だった。
捕虜とは一体どういうことか。
その疑問を、アイカはさっそく本人へぶつけていた。
「ええー!? ネペタさん、昔はワルだったって本当ですかー! 見えないですー」
「まあね。仲間に裏切られて今じゃここの捕虜やってるけど。アタシを裏切った奴らに情なんて湧かないわ。だから知ってることは全部QPDに吐いてやってる。なんだかんだ楽しいわ、ここも!」
ギャハハと笑うその女の名はエミミ・ネペタ。
ショートパンツに、背中を紐で編み上げたレザートップス。淡い紫のくせ毛が背をかすめ、動くたびにひらりと揺れる。
額の上には小さな角がのぞき、丸い目と八重歯を見せて笑うその顔は、どこか猫のようだった。
案内されたのはビルの隅にある面談室だった。
本来は無機質な白い部屋なのだろう。だが、そこには妙な生活感が漂っていた。
壁際にはキャミソールがちょこんと掛けられ、テーブルの隅にはティーバッグの山とカラフルなマグカップが雑に並んでいる。
「ちょっと狭いけど……まあ、好きに座って!」
ネペタはテーブルの脇の電気ケトルのスイッチを入れ、引き出しからティーバッグを詰めた小瓶を取り出した。ひとつひとつ香りを嗅いで選びながら、楽しそうに鼻歌を口ずさむ。
「……ここ、本当に面談室か?」
ヒロトが何気なく呟くと、ネペタは振り返って口角を上げた。
「うん、そうだよ。いつも空いてるから住んでるの。冷房効くし!」
「へ、へえ……自由ですね」
「まあね。でもほら、アタシ逃げる気なんてないし、てか帰る場所もないし……監視してもしょうがないんじゃない?」
ヘラヘラと笑いながら、ネペタはカップの縁をそっと拭った。
「どうぞ。美味しい美味しいお茶でーす」
丁度いい温度のルイボスティーの入った不揃いのカップが並べられた。
アイカは受け取るとすぐに口をつけ、嬉しそうに目を輝かせた。
「美味しい……! ネペタさんこれ美味しいです!」
「そうでしょー。アタシお金は無いけど、茶葉にはこだわってるの。たまに来る客は存分にもてなすってのが信条さ」
警戒していたヒロトとメグミも、一口飲んで頬を緩ませる。
三人の満足げな表情を見て、ネペタは肘をつき、前のめりになって聞いた。
「で、これからどうすんの? ここに居てもいいけど、学校あるでしょ? ……なんでアナヒタに狙われてんの?」
三人は目を合わせ、アイカが小さく息を吸った。
「実は——」
これまでの経緯を説明すると、ネペタは「なるほどね」と頷く。
「それで襲われちゃったかー君たち。で、ボディーガードを探していると。……その本、よっぽど何かあるのかな?」
「そうなんですよ、この本触っただけで凄く怒られちゃって」
「よく盗ってきたね。そんなもの」
アイカは禁書を差し出す。ネペタは「どれどれ」と表紙をめくった。
「あー……なるほど。アタシも読めないけど、たぶん“あっち”の古い言葉だね、これ」
「あっちって、外界ですか?」
「たぶんね。全く読めないわけじゃないけど。……リ……タ……ニア? うわ、口に出すと寒気する。やめよ」
ぱたん、と本を閉じネペタは肩をすくめた。
「アタシ霊感はないけど、こういうのだけは嫌な感じすんのよね」
アイカは少しだけ前のめりになって聞く。
「リタニア……? って、この本の名前ですか?」
「さあ。読めるの、そこくらいだし」
お茶を一口啜ると、ネペタは立ち上がった。
「ちょっと待ってて、ボディーガード探してみる。誰かご指名とかある?」
「あ、えっとそれなら、織田さん!」
「オーケー、了解。あ、この本も見せた方がいいかもね。ボディーガードの話と一緒に聞いてみよっか」
そう言って、ネペタはドアから顔だけを出し、廊下の左右を見渡した。敷地内を多少うろつけても、捕虜の彼女が本部内を好きに歩き回れるわけではない。通りかかる職員を捕まえるつもりらしい。
丁度、廊下の奥から大きな段ボールを抱えた男がやって来た。
ベージュブロンドの天然パーマに赤いネクタイ——小林メロスだった。
「あ、ちょうどいいところに……メロスー、ちょっといい?」
通路の先からネペタが手を振る。
メロスは怪訝そうな目を向けながら、段ボールを抱えたまま近づいた。
「なんですか、ネペタさん。今ちょっと急いでて」
「ごめん聞きたいことがあって。今カトレアさんっている? 確か君の上司だったよね?」
捕虜がカトレアさんに何の用だろう。
そう思いながらも、メロスは素直に答えた。
「ええ、今は不在だと思いますけど」
「そっかー……ありがとう!」
ネペタの明るい声が通路に響き、その余韻が部屋の中へ吸い込まれていく。
「あの人、ここでいつも何してんだ……」
一体、何の用だったのか。
気になったメロスは、ドアのガラス越しに中を覗いた。
そこには、エミミ・ネペタと三人の若者。
そして、このところ街中で二度ほど妙な鉢合わせをしていた、薄藍色の髪の少女がいた。
メロスは思わず扉を押し開け、声を上げた。
「あ! この前の」
指を差されたアイカは、びくりと肩を震わせる。
顔を見るなり口を開きかけ、「げっ」の一言を飲み込んだ。
メロスは段ボールを抱えたまま部屋へ入ってくる。
「いやー、心配してたんだよ。会うたびにすぐどっか行っちゃうから。まさかここで会うなんて」
「あ、はい。先日はありがとうございました。……あ、もうこんな時間。そろそろ帰らないと」
アイカは椅子をわずかに引き、さりげなく距離を取った。
視線も自然に逸らし、会話を終わらせるように身体を引く。
突然の乱入に、ネペタが驚いたように目を丸くした。
「え、なになに? 知り合い? ならちょうど良かった! やるじゃんアタシ~!」
ネペタはガッツポーズを決める。
しかし、アイカの表情を見てすぐに手を下ろした。
「あ、うん……ちょっと違ったかも」
普段なら傍観するメグミも、珍しくアイカのそばへ寄った。
「この人、前に言ってた苦手な人?」
「そう。この人」
「あー……うん。アイカ、苦手そう」
アイカにとってメロスは、行く先々で顔を出す“厄介な巡り合わせ”だった。
駅のホームで逃げ出した愛猫を追っていた時、人外と対峙していたのもこの男。アナヒタの信者に追われた時、道を塞いだのもこの男。
——そして、アイカはこの男が苦手だった。
神出鬼没で、何を考えているのか虫のように読めない。悪気なく距離を詰めてくるところも、妙に不快だった。
「今日はどうしてここに? 何か困りごと? 俺、カトレアさんの部下だから、何かあったら伝えるよ?」
「いえ、大丈夫です……あ、そうだ、ネペタさん。織田さんがいないなら、今度紹介してもらうことってできますか……?」
できるかどうかは分からない。
だが、ネペタも空気を読んだ。
「え? う、うん、分かった! そう伝えておくね……! じゃあ、もう時間も遅いし、帰ろっか!」
アイカを先頭に、メロス以外の四人が部屋を後にする。
ネペタは扉を出る直前、メロスへ小声で言った。
「もー、あんた何したの」
「い、いや、自分は何も」
「そ。あんま若い子、怖がらせんじゃないよ」
そうして、部屋にはメロスだけが取り残された。
分かりやすい拒絶。
だがメロスは、それが自分へ向けられたものだとは思わなかった。
この男、柊アイカに最愛の妹の面影を見ていた。
「……そういう、年頃か」
そして、感性が人と致命的にずれていた。
***
ビルの階段を降り、夜気に触れる。
思っていた以上に空気は冷たく、肌を刺すその感触が、さっきまでの緊張を少しだけ和らげてくれた。
「あの小林って人、そんな悪い人に見えなかったけど……前に何かされたのか?」
「いや、結果的には助けられてる、けど……なんか苦手。思考が読めなくて」
「アイカ、さっき猫みたいに毛立ってたよー」
メグミの笑い声につられ、アイカの口元もほころんだ。
ヒロトもつい笑い、肩の力が抜ける。
「取りあえず、言っていた大本命QPDとの接触は果たせたな。ボディーガード確保は無理だったけど、コネができたのはでかい」
「そうだね。ネペタさん、思ったより優しかったし」
「お茶もおいしかった」
三人は顔を見合わせ、また笑った。
背中にはまだ、追われる気配が残っている。
でも三人の足取りは、前に進むリズムのように軽かった。
『ハレ×ナイ』をお読みいただき、ありがとうございます。
毎週日曜20:10更新です。
次回、第五話「ピンクの厄災」。
9月6日(日)20:10更新です。
◇
【☆TIPS:QPD本部周辺】
QPD本部は、二棟の本部棟と、それを囲む二重の防壁から構成されている。
第一防壁の内側は一般開放区域。公園やカフェ、市民相談センターが設けられ、災害時には避難場所としても利用される。
第二防壁より先は関係者区域となり、一般人が立ち入ることはできない。
関係者用ゲート前で襲われ、駆けつけた捕虜に裏口から招き入れてもらうことは正式な入館手続きではない。
そもそも、捕虜は基本的に本部棟から出ることを許されていない。
しかし、とある捕虜は第二防壁内をよく散歩しているらしい。




