第二話 神のウワサ
1.
スミレは「やっぱり」と顔を手で覆った。
案の定、午前中に職質した全身白タイツの不審者が、渋谷駅の線路上に座っていた。
ただの不審者ではない、頭には白い魚の……シラス? の被り物。人か人外か、見た目だけでは判断できなかった。
駅ホームにはスマホが林立し、シャッター音と笑声が混じっていた。
誰もが珍景を切り取ろうとしているのに、真面目に声を張る自分だけが浮いている。
「そこ危ないですから! ホームに戻ってくださーい!」
反応はない。何度か繰り返してもピクリとも動かず、やっと動いたと思えば、プラスチックのリクライニングチェアを持ち込み、悠々と寝そべった。
ちっ……なんなの、アイツ。
行き場のない怒りがこみ上げる。職質でも会話不能、逃亡。つまり悪意ある人外の可能性が高い。QPDへ連絡を——。
スミレが無線に手をかけた瞬間、それまで反応がなかった不審者が口を開いた。
「あ、お嬢さん! 今、応援を呼ぼうとした?」
まずい、刺激した。
背中を汗が伝い、シャツに貼りつく。
「ワタシはシラス男、俗に言う宇宙人さ。だがそこら辺の野良とは格が違う。高貴な信念の下で活動するスペース貴族」
周囲から「スペース貴族?」と失笑が漏れる。
シラス男は続けた。
「ワタシの信念は“注目されること”。注目され、懸賞金が上がれば尚良し。警察でもQPDでも、強い奴が来れば返り討ちだ。包囲され、危険視され、追い詰められる。その過程で得られる快感は他では味わえん。……フフッ、股間がアツいゾ!」
想像以上に気持ち悪い人外のようだ。
スミレは思い出したように、無線を握りしめた。
「こちら渋谷警察署分室、原間。渋谷駅構内へ到着、午前中取り逃がした全身白タイツの不審者、自称シラス男が線路内に侵入。宇宙人を名乗り好戦的。QPDの応援を要請します」
無線を切ると、シラス男がこちらを指さしていた。
「呼んだね? 呼んでくれたね、お嬢さん。あとはQPDの連中と遊ぶから帰って貰って結構だ。ありがとう」
スミレだって帰りたい。だが職務上、離れるわけにはいかなかった。
そこへ駅員が駆け寄ってくる。
「状況いかがでしょうか? 暫く運行はできそうにないですかね?」
「難しい、です。相手は好戦的ですので……QPD到着まで待機をお願いします」
「そうですか……承知しました」
駅員は視線を落とし、去っていった。
静寂が戻り、周囲の苦言が浮かび始める。遠くで「試験に遅れる」「会議が」と苛立つ声。
何とかしたい。でも現実は無情だ。
スミレは汗を拭いながら、ただ時を待つしかなかった。
——数分後。
QPDの戦闘員が二人、駅構内へと駆け込んできた。
男女二人組、白い防護スーツに刃と盾。スミレには、それがまるでヒーローの帰還のように思えた。
女の隊員が軽くスミレに声を掛けた。
「要請ありがとう。例の宇宙人って、あの白い変態?」
「は、はい、あいつです……とても好戦的なので、お気をつけて」
「オーケー、すぐに収める」
二人は滑るように展開した。
シラス男の周囲を周回し、距離と死角を交互に奪い合う。片方は必ず背後へ。
呼吸は乱れず、足取りは正確。何度も並んで死地を越えてきた者のリズムだ。
「そこのあなた、今すぐ退きなさい。さもなくば、武力を行使する」
警告は繰り返される。
だが、シラス男は腕枕の姿勢のまま、欠伸ひとつしない。
男隊員は両手で盾を構え、女隊員はダガーを静かに引き抜く。アイコンタクト。数拍——。
先に動いたのは女隊員だった。
床を擦るほど低い姿勢で滑空し、背面から肩口へ一直線に刃を振り上げる。
「これで! 終わり……!」
スミレも、終わったと思った。
次の瞬間、刃は空を切った。
「……!?」
女隊員は手元を確認する。
ダガーが消えた。奪われた。
視線を上げると、自身の目元へその刃先が向けられていた。
反射的に男隊員が突撃する。
しかし、盾はアルミ缶のようにぺしゃりと凹み、大きな身体は吹き飛ばされた。
「…………」
あっという間の出来事だった。
シラス男はまるで汚いものを払うように手を叩く。
「これが初陣か。ワタシも舐められたものだ、まったく」
スミレを指さす。
「お嬢さん、次はとびきり強い隊員を送ってくれ、と。伝えてくれ」
観衆だった人混みが徐々に流れていくのを感じた。
スミレだけは動けずただ立ち尽くす。
応援要請は勿論する。だが到着まで私に何ができる? 一度動き出したシラス男はただの人外と変わらず、隊員達に追い打ちを掛け続ける。
「どうした? さっきまでの威勢は? ワタシに楯突いたのだから、せめて勇敢に立ち上がったらどうだ?」
鈍い音を上げ、男隊員の腹に蹴りが入った。
彼が遠くに転がった様子を見て「つまらぬ」と一言。
「そうだ、人間のメスよ。お前は見込みがある。ワタシの妃候補に加えてやろう——」
シラス男が女隊員のもとへ近づいた。その時だった。
乾いた破裂音が、ホームの天井を叩く。白い被り物の側面が弾け、薄い煙が立ち上った。
シラス男は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「……次の相手が貴方とは。お嬢さん」
先ほどまでとは違う、明確な敵意。
その視線の先で、原間スミレの喉がごくりと動いた。
口元から離れたのは、派手な色のエナジードリンク缶。
スミレが指を開く。空き缶が甲高い音を立てて床を跳ね、足元を転がった。
もう一方の手で、拳銃をひと振り。微かな硝煙の匂いが、ホームの空気にほどけた。
その目は、もう据わっていた。
限界社会人特有の、覚悟が宿っていた。
「あんた、いい加減になさい」
「……ほう」
空気が変わった。
ヒリつくような空気。さっきまでの人間とは違う。
何をした、何を飲んだ——この女。
シラス男は肌で感じ取っていた。
その女の、測り知れない何かを。
2.
左のジャブに合わせた右のストレート。視界から消えたと思えば、下段からの蹴り。
原間スミレの連打は、止まらない。
呼吸の拍に合わせて刻むように、絶え間なくシラス男へ打ち込まれる。
シラス男は最小限の身じろぎでいなす。肩で受け、手首で流し、爪先でずらす。
「おお、素晴らしい攻撃だ……! 非力ではあるが、そのスピード、動体視力、戦闘センスはワタシに匹敵する!」
勢いはさらに増す。前蹴り、逆突き、肘を潜らせるフェイント。
上下左右、角度と間合いをずらし、隙を一点へ絞り込む連携。刃先のない刃が、白い異形の懐をいやらしく抉る。
熱が上がるのを、互いに感じた瞬間だ。
乾いた破裂音が、耳横で跳ねた。
それまで含み笑いだったシラス男の声が、ふっと冷える。
「拳銃を、そう扱うとは……」
スミレの左手には、手錠で繋いだ拳銃。
誤発砲ではない。手首を軸に、銃が手錠ごと衛星のように旋回し、連打の死角から狙い澄ましたように火を噴いた。
「あと、四発——」
跳ね上がった髪の隙間で、キャンディレッドが閃く。
連撃に紛れ、予測不能の弾道が一発、二発、三発。白い被り物の表面に火花が散る。致命には至らない。だが圧は、確かに刻まれていく。
スミレの勢いはさらに増した。
だが、シラス男も只者ではない。
その目は、拳の連打と、手錠の先で旋回する銃の軌道をすでに捉え始めていた。
あと二周半。
次に銃口が来るのは、左斜め上。
残る一発は、指で止めてやろう。
二周。半周。
左斜め上——。
そこにあるはずの銃が、消えていた。
「……!?」
代わりに、銃を繋いでいた手錠の輪が、口を開けて眼前へ迫る。
スミレの瞳孔が開いた。
「取った!」
振り上げた右手が急降下し、シラス男の両腕に手錠を掛けて一気に絞る。
「っ、貴様……!」
その瞳から理知の光が消えた。
代わって湧き上がったのは、獣めいた闘争本能。
骨がきしむ音。肉が裂ける音。白い躯体が歪み、第三、第四の腕が噴き出した。
「ちょっ、それズル……!」
その衝撃を正面から受け、スミレは遠くへ飛ばされた。
「腕で受けたか、流石だな……」
線路上を転がる影を、シラス男はゆっくり追いかけた。
「お嬢さん、ワタシの第二形態を引き出したのは、三人目だ。最初は遊びのつもりだったが、仕方がない……貴方はいずれワタシの脅威になる」
一歩、また一歩。
近づく影が陽炎のように歪む。
軌条に滴る汗と涙が、熱で蒸発していく。
スミレは強烈な一撃を受け立ち上がれない。呼吸すらできない。
でも、立たなきゃ。誰かがやらなきゃ。そんな使命感が身体を突き動かす。
「はあ、はあ……いずれ? 今、ここで捕らえるっての……!」
「素晴らしい。その矜持、決して忘れないだろう——?」
シラス男は足を止めた。
そして突然、頭を抱え始めた。
「いかん長居しすぎた! もう奴が来るなんて、聞いてない!」
そのまま手錠を引きちぎり、反対方向へ駆け出す。
「……な、なんで?」
スミレは力の抜けた声を漏らす。
その影が線路の向こうへ消えた頃、QPDの増援が駆けつけた。
またもや男女二人組。見覚えのある女と、金髪が似合っていない男だった。
「はあ、はあ……カトレアさん、ちょっと待ってくださいよ」
「メロス遅すぎ。ってあれ、宇宙人は……?」
カトレアは状況を一瞥し、スミレのもとへふわりと降り立ち、その傍らにしゃがみ込む。
「大丈夫? 敵は逃げた?」
「あ、はい……あっちの方に……」
カトレアは立ち上がり、スミレの指差す方へ視線を向けた。
瞳が一瞬、虹色に煌めく。
「あぁ……またあいつか」
その方角目掛け、軽く弦を引く。
***
「何故あの虐殺非道天使が来るんだ! あいつに来られたら、ワタシが注目される前に—— くそぉ、毎度まいどぉーっ! ——あばぁっ!!」
シラス男は爆発に巻き込まれた。
***
「か、カトレアさん! どこ撃ってるんですか!?」
メロスは周囲を見回し、市民を案じた。
「大丈夫。あいつにしか当ててないから」
「え……? 倒せたんですか?」
「しーらない。倒さなくていいよ、あんな奴」
カトレアは淡々と矢筒を叩き、すぐに表情を引き締めた。
「それよりメロス。今回は相手が逃げたから良いけど、到着の遅れは被害の拡大に繋がる。そこ、肝に銘じて」
「そんなこと言われても……自分、なぜか羽が生えないんですよ」
「じゃあ脚を鍛えたまえ。私なら、羽が無くとも脚で飛ぶ」
「それは、カトレアさんだからできるんですよ……」
そんな会話が、絶望で満ちていた構内に少しずつ光を戻していく。
固まっていた人々が歩き出し、隣の友達や恋人に安堵の声を漏らしていた。
対象の逃走と、現場の安全確保を無線へ報告すると、スミレは負傷した右腕を庇いながらホームへ身をよじらせて登った。
「あーまずい、完全にやった。右腕、逝ったかも……」
スミレは片膝をつき、痛む腕を押さえながら、どうにか立ち上がった。だが、足が思うように前へ出ない。
その時、戦いの余韻を破るように、場違いなほど軽い声が飛んできた。
「ちょっとお姉さん、さっきの戦い見たよ。すごかったね」
スミレは顔を上げた。
そこに立っていたのは、どこか見覚えのある男だった。
白いTシャツに、袖のない赤いパーカー。トゲのように跳ねた黒髪がフードから覗き、サングラスで目元を隠している。壁にもたれたその姿は、いかにも「俺主人公です」と言いたげな自信を纏っていた。
男は脚を組み直し、にやりと笑う。
「俺はバットエンジェル、有名人さ。君、すごく可愛いね。それに戦いのセンスがヤバすぎる。絶対素人じゃないだろ。どうだい、俺と組まないか? 俺のパワーと君のスピードがあれば、世界をひっくり返せると思うんだ」
腕を大げさに広げ、舞台俳優のように語る。
だが満身創痍のスミレの目には、心底どうでもよく映っていた。
「仕事中なので、また今度にしてください……」
そっぽを向き、無理に一歩を踏み出す。
バットエンジェルは壁を離れ、その前へ回り込む。
「なぁ、少しは聞いてくれたっていいだろ? 君はこんな退屈な職場に収まる器じゃない。もっと広い世界で多くの人を救うべきだ」
「あの、どいてください……」
スミレは視線で拒絶を訴える。
疲労で潤んだ目さえ、彼には都合よく見えたらしい。
「っ——! 正直に言う。俺は君が欲しい。共に世界を救える愛しのマイハニーは君だと、俺の第六感が叫んでるんだ。……なぁ、いいだろ?」
どこまでいっても、スミレの意識は全身の疲弊に向いていた。
今この瞬間、最も欲しいのは休息と鎮痛剤であって、口説きではない。
「もう一度言いますが、仕事中です。これ以上邪魔したら、公務執行妨害で逮捕しますよ?」
「そうなったら逃げちゃおうかな。まあ俺は誰にも捕まらないけど」
スミレの苦虫を噛み潰したような表情。
さすがのバットエンジェルも肩をすくめた。
「わかった、わかった」
道を空け、代わりに名刺を差し出した。
「それじゃあね。また会える日を心待ちにしているよ」
そう言って彼は背を向け、手を振りながら去っていく。
登録者数三千万を超えるトップインフルエンサーヒーロー——バットエンジェル。
流行りに疎いスミレも、その名は知っていた。
先日、灯台にしがみつく『キュクロープス』を、拳一発で沈めた動画が世界中で拡散されたらしい。
名刺の裏には、手書きで《愛しの君へ♡》と。
気持ち悪さが想像以上だが、その実力は本物なのだろう。
「あ、そうだ。これも伝えておこうかな」
バットエンジェルはふと振り返り、両手をポケットに入れたまま告げた。
「君が追ってる案件、たしか『神のウワサ』だっけ? 俺、その出処分かっちゃったかも」
「え、今なんて……?」
その言葉を聞き、スミレの瞳にようやく光が戻った。
3.
夜十時、六本木の雑居ビル前。
吹き抜ける夜風に、ネオンの色が混じっていた。
「マジで行くの? 絶対に怪しいクラブじゃん、あそこ……」
喜納ヒロトはネクタイを緩め、ため息を一つついた。
濃紺のスーツは少し大きく、肩が浮いている。真面目に着込んでいるのに、茶髪の短髪がくだけた印象でアンバランスだ。
「あれ? ヒロト、それお父さんの?」
柊アイカがいたずらっぽく笑った。
群青のロングドレス、薄藍の髪。夜風が頬を撫で、首元のチョーカーが光った。片手で揺らすグレーのクラッチも、やけに大人びて見える。
「てかメグミ張り切り過ぎじゃない? 香水なんか付けちゃって」
「うん、いいでしょー」
相坂メグミは柔らかく笑った。
黒のワンピースにショールを掛け、天然パーマの髪を揺らすたび、ほんのり甘い香りが漂った。
「二人とも、いい感じ」
アイカはやたら楽しそうに笑った。
三人は地下へ降りて行く。徐々に光は届かなくなり、扉の向こうから漏れる音楽は次第に足音を呑み込む。薄暗い中ネオンが浮かび上がり、看板には『Club DIVINA』の文字が輝かしく光っていた。
ヒロトは唾を飲む。
大学のレポート課題《現代における宗教と文化》の取材先として、アイカが見つけてきたのが、宗教勧誘を受けたという書き込みが相次ぐこのクラブだった。
「やっぱり、やめないか……」
「もうヒロト、せっかくお洒落してきたんだからテンション上げよ? 絶対楽しいよねーメグミ」
「だねー」
二人の背中が楽しげに揺れる。
ヒロトは肩をすくめ、観念したように歩調を合わせた。
扉をくぐると、空気が一変。ディープハウスの重低音が身体の芯を叩く。
エントランスの白装束の女は無言で手を差し出し、「身分証」とだけ。
各自学生証を提示し、料金の支払いを済ませ、いよいよ会場へ。
会場の扉が開いた瞬間、世界が反転した。
「なんだ、これ……」
普段は絶対に聴かない大音量、レーザー、ストロボ、床にはゆらゆらと煙が充満していた。体の芯まで響く振動と、目の奥を刺激する光に、目眩に似た感覚を覚える。
遠くに見えるDJとその前で踊り狂う人々、パリピなんて当たり前、中には裏社会を彷彿とさせる人や異種族もチラホラ見えた。
ヒロトの顔から、笑顔が音もなく落ちた。
「なあメグミ、もう帰らないか? アイカには悪いけど……って、メグミ?」
二人はフロア前方へ。肩を寄せ、軽く身体を揺らし始めていた。
既に人の壁ができ、割り込む隙もない。
「……はあ。ほんと危機感ないよなあいつら……スマホも圏外だし……」
置いて帰るわけにもいかないヒロトは、バーカウンターに逃げた。
改めて見渡すと、異種族が多いことに気が付く。
アンダーグラウンドには移住者が増えていると聞くが、それを実感するには十分な数であった。
角が生えた人や尻尾が生えた人、アイカが意欲的だった理由に、遅れて合点がいった。
「お客様、ご注文はいかがいたしましょうか」
艶のある声。
振り返ったヒロトはその目を見て固まった。
露出の多い黒革の衣装、艶めく唇、琥珀の瞳。サキュバスのバーテンダーが、微笑んでいた。「食われる」男の本能は正直であり、愚直に危機感へと繋がった。
だが彼女にそんな気は毛頭ない。優しく、メニュー表を差し出した。
「ふふ、当店は初めてですか? 本日のおすすめはこちらの『メシア・ノワール』。ブラックラムにエスプレッソ、アニス系リキュールを加えた苦味の中にほのかな甘味を感じられる“大人”なカクテルです」
妖しい指先がメニューをなぞる。
「カクテル……ですか。すみません、俺まだお酒は飲めないんですよ」
「それは失礼いたしました。ですがせっかくなので一杯いかがですか? 大人な世界に勇気を持って来られたのですから。この一杯はきっと特別なものになると思いますよ」
「いや、ごめんなさい。俺の親、警察で……今日も“飲みません”って誓約書まで書かされたし、帰ったら絶対チェック入るんで……えっと、リンゴジュースください」
お姉さんは「かしこまりました」と微笑み、グラスを取り出しジュースを注いだ。
「なんか、すみません……」
「いえいえ。ところで本日はお一人で?」
「いえ、今日は友達二人と……あれ、どこ行ったあいつら? あはは、まあそんな感じです……」
「ふふっ仲がよろしいのですね。お連れの方は、恐らくあちらのお二人でしょうか?」
手のひらで右を示される。
視線の先、テーブル席でアイカとメグミが複数の男に囲まれて笑っていた。
「あはは、皆さん面白いですねー」
「姉ちゃんも面白いよー。ところでなんで今日うち来たの? 男いんの?」
「いやいや男なんてー、まあぱっとしない、やさぐれ目の男友達ならいますけどー?」
ちらっとヒロトとアイカの視線が交わる。アイカは気にも留めずまた談笑に戻った。
あいつ、後でしばいてやろうか。
メグミも控えめだが楽しげに笑っていた。
バーカウンターで一人、リンゴジュースを飲む自分が情けなく、女友達が他の男に囲まれている姿を横目にヒロトは俯いた。
そのとき、視界の下から一枚の紙が差し込まれる。お姉さんが差し出したチラシだ。
「えっと……これは?」
「落ち込む必要はありませんよ。当店は別の活動もしておりまして。迷える方に寄り添い、孤立した人が役割を見つけられる。言わば支援のようなものです」
紙面の上部に、金色の文字が。
《祝福教団アナヒタ》
空気がひやりと、変わった気がした。
***
「姉ちゃん面白いなー。どうだ? このあと、あっちのVIPルームで飲み直さないか?」
「えー、ビップゥ? おじさん危なそー。あと私、お酒飲めないですよー」
「はっはっは、言うねぇ。何もしねえって。姉ちゃん面白いからさ、面白ぇもん見せてえのさ! 例えば……“神のウワサ”って知ってるか?」
その一言で、アイカの瞳がわずかに揺れた。
宗教勧誘は笑って流す彼女でも、その言葉は個人的ホットワードだった。
アイカは知らぬふりして聞き返す。
「えー知らないですー。神のウワサ、ですか?」
「ああ。ここ数年でな、五十年前に現れた神が——」
男の言葉がぴたりと止まる。
伸びた影。空気が凍りついた。
視線の先には、白い装束をまとった高身長の男。貼りついたような笑顔。後ろで束ねた白髪。手を腹の前で静かに組んで立つその姿は、明らかに“上の者”だった。
「アマネ様……!」
「ハザク、今どんなお話を?」
「も、申し訳ありません! 勧誘のため、つい例のウワサを少し……」
「いけません。ここは公の場です。誰が耳を澄ませているか分からない。そのような話は、正式な場で」
穏やかな声だが、逆らいがたい硬さがあった。
たちまち笑いは引き、メグミはグラスを置いて膝に手を揃える。アイカも口を噤む。
白装束の男は周囲へ会釈し、改めてアイカへ向き直った。
「お嬢さん、失礼しました。私、九条アマネと申します。例のウワサなら、向こうで続きをお話することができます。——いかがでしょう」
彼が指し示したのは、フロアの梁にせり出した二階区画。光を遮るガラスと厚い扉。音のうねりからさらに切り離された別室、いわゆるVIPルームという奴だ。
ディープな世界のさらに隔離された特別な空間。一般人からすれば警戒対象でしかないが、好奇心旺盛なアイカにとって、そこはキラキラした空間に思えた。
「はい! 行きたいです!」
即答。九条アマネは笑みを崩さず、軽く頷いた。
「それでは——」
「おい、待てバカ!」
ヒロトが割って入った。
「何されるか分かんねえんだろ! ただでさえ胡散臭い宗教だ。奥なんか入ったら、逃げられるものも——!」
「うるさいヒロト、大丈夫だから。アマネ様と少し話すだけ」
「アマネ様って、お前……」
九条アマネは微笑みのまま、そのやり取りを静観している。
周囲の視線は、場を乱したヒロトへ冷ややかに集まった。
アイカは気まずい沈黙を断ち切るよう立ち上がると、ヒロトだけに目配せをした。
「大丈夫だから。あんたは……お姉さんと談笑でもしてなさい」
そう言い残し、アイカは九条アマネの背を追って扉の向こうへ消えた。
テーブルに残ったのは、少年少女の口喧嘩の余韻と、その気まずさだけ。
「なぁ兄ちゃん、アイカちゃんの友達か? 心配すんなって。アマネ様は偉大なお方だ、妙なことはしねえよ。ほら、一杯」
肩を組まれ、ヒロトは渋々腰を下ろす。
それでも視線は、しばらくの間VIPルームの入口に縫い付けられたままだった。
4.
柊アイカはVIPルームへ通された。
九条アマネからは「先に入って自由にしてくれ」と言われた訳だが——。
案の定、その部屋は犯罪的な空気で満たされていた。
赤みがかった照明。真ん中には大きなベッド。香炉からは謎の煙が立ちのぼり、周囲の棚には背表紙にタイトルのない分厚い本が並ぶ。極めつけは、内側にも鍵穴があり、鍵がないと出られないということだ。
「やばー、やっぱまともな宗教じゃなさそう」
半笑いのアイカ。
その程度の現実じゃ、彼女の好奇心は止められない。
こんな怪しくてディープな場所、そう簡単に入れるものじゃない。見られる物は、とことん見ておこう。
早速彼女は物色を開始した。
本棚には教団の教えや歴史に関する文献の数々。
「なになに……《主は御姿を持たぬ。御声を聞き、姿を得た者のみが“祝福者”である》、ふむ。《神の器は肉体の奥に宿る。自らの奥をもって主を迎えよ》……なるほどね」
宗教談義に興味はない。狙いは別にあった。
「どこかなー、あれ」
アイカはある物を探していた。
このような部屋には大体隠し要素がある。それが定番だ。
例えば隠し部屋のスイッチ。隠された抜け穴。あるいは、誰も知らない秘密。
もちろんそれは、見つけてトラブルに巻き込まれるという落ちもセットで付いてくる訳だが——自分なら話は別だ。だって私は頭が良いから。私に失敗の二文字は存在しないのだ。
ひとしきり本棚を漁ると、不自然に壁が薄い箇所を見つけた。手の感触と反響音からして奥が空洞。
アイカは手を伸ばし、本棚の壁をまさぐった。
「たぶん、ここらへんに……」
下の隙間に引っかかりを見つけた。指を掛け、上に持ち上げる。
薄い壁が開き、奥に狭い空間が広がった。暗がりの奥に見えた影を、アイカは手探りで引き寄せる。
少し遠い。背伸びをしてやっと手前に引けた。
「なにこれ、赤い、本……?」
表紙にも、背表紙にもタイトルはない。重厚な手触りに、羅針盤にも見える掠れかけた模様。その醸し出すオーラは、彼女の琴線に触れるものだった。
でも、どうしてだろう。
持っているだけで、全身に悪寒が走る。
気のせいか、本に触れている間、誰かに見られている気がした。
——気のせいではなかった。
九条アマネが、後ろから覗き込むように、見下ろしていた。
「っ……!?」
息を飲む間もなく、アイカは肩を掴まれ、ベッドに押し倒される。
「お嬢さん、いけませんよ。私は“自由にして良い”と言いましたが、物色して良いなどとは言っていません」
「あ、いや、これは……」
男の全体重が腕に乗り、身動き一つ取れない。
「ちょ、離して……!」
「離しません。神を冒涜した貴方には、罰が必要です」
九条アマネは何かを手に持ち、くるりと回した。
小さな物体が目の前で揺れ、視界に靄が掛かる。
何だか、苦しい。呼吸が浅くなる。
部屋に充満していた香りが脳に直接刺さり、意識が朦朧とし始めた。
視界が反転するように揺れ、言葉にならない音が、頭の内側で響いた。
「……なに? だれ……?」
思わぬ言葉が漏れてしまった。
「おお……! 見えましたか、主の姿が……!」
九条アマネは大袈裟に喜びを表す。
立ち上がり、香炉を置き、少し離れたところで両手を掲げ、ひざまずいた。
「ああ、主に選ばれたのですね……! 感謝いたします。主の御姿を見た者には、“神の奥”へ触れる素質がある。我々はその者を祝福者とし、特別な儀式を授けるのです。神を迎える前に、まずその器を、人の手で開かなければならない。……柊アイカさん。貴方は主に許され、そして選ばれた。つまり、特別な儀式を行う特権を得たのです」
アマネは両手を下ろすと、今度は上着を肩からゆっくり脱ぎ始めた。
「まじ、やばいかも……」
幻想と現実の狭間の中で、なんとか自分の体を持ち上げようとする。
だが、力が入らない。指先は思考よりも遅く、足は鉛のように沈み込む。胸の奥で声を張り上げても、喉は思うように震えず、吐息だけが空しく出て行った。
焦点の合わない瞳に、ゆっくりと男の影が映り、迫っていた。
「怖がることは無い。何故ならこの行為は、とても神聖で尊いものなのだから。さあ、始めましょう。特別な儀式を——」
コン、コン。
静寂の中に反響した。
九条アマネは苛立ったように顔を上げる。
「なんだね……? 今、儀式の最中だ。後にしてくれ」
返事はない。
またノック音が鳴り、次第に止まなくなった。
一体何だ、とアマネは肩を揺らし、ドアノブに手を掛ける。
「……いや、違う」
入口ではない。
これは、窓ガラスを叩く音だ。
窓へ視線を向けた瞬間、ガラスの向こうで、手榴弾めいた小さな物体が白く瞬いた。けたたましい音と光が、部屋を満たす。
「なんだ!? 目が……!」
次の瞬間、ガラスが割れた。
窓を蹴破り、突撃してきたのは相坂メグミと喜納ヒロトであった。
「あーあ、このワンピース、お気に入りだったのになー」
「帰るぞアイカ! ここは……って、お前何してんだよ」
「ちょっとね……ねえ、煙吸って力入らないから、肩貸して」
「お、おう……これか? うえ、何だこの匂い……」
ステンドグラス風の香炉から、甘いケミカルな香りがした。
中では謎の溶液が空気と混ざり合い、微かな泡立ちの音を立てている。
ヒロトは、力の入らないアイカと香炉を見比べた。
「二人とも、息止められるか?」
二人とアイコンタクトを交わし、香炉を強く握りしめる。
「じゃあ行くか。あばよ、クソ宗教!」
九条アマネめがけ、思い切り香炉を投げつける。
砕けた中から、淡いピンク色の煙が爆ぜて広がった。
視界は濁り、光が乱反射する。人影は、幻に溶けていった。
——三人は会場を抜け、大きく息を吸った。
「はあ、はあ……死ぬかと思った」
「だ、だねー。アイカ、大丈夫?」
ヒロトの背に抱きついたまま、アイカは小さく頷いた。
「うん……大丈夫……」
大丈夫ではなさそうだ。
ヒロトとメグミは苦笑を浮かべ、足早にその場を離れた。
「ところでヒロト、なんで君、あんな物持っていたのさ」
「あれ、おもちゃ。スタングレネード型の、光って音が鳴るだけのやつ」
「おもちゃ……?」
「親父がさ、『酒はダメだが、これは持っていけ。本物かどうかなんて、食らった奴には分からん』って」
「お父さん、相変わらずだね」
メグミは笑い、ヒロトは気まずそうに視線を逸らした。
一方で、アイカはうなだれたまま、力なく声を漏らす。
「二人とも……ありがとぉー……」
「ほんとだよ。あんな危ない場所にノコノコ入って行って」
「危なくないよー。禁書に触れなきゃ襲われなかったし、たぶん……それに二人が来てくれるって、私分かっていたしぃー」
「何だよそれ。……き、禁書?」
「うん、本棚の奥にあった赤い本。あれ、凄くオーラあったし、絶対禁書だと思うんだよねー。あの偉そうな人も触っただけで怒り狂ったんだよ? 少しでいいから読みたかったなー」
「へ、へえー……読まなくて良かったんじゃないか?」
ただの被害者ではないアイカの危うさに、ヒロトの苦笑が消えた。
そんな面に気づくこともなく、アイカは得意げに話を続けた。
「あ、でも! 今日収穫もあったんだよ!」
アイカはヒロトの背から少し身体を離した。
その背中と自分の胸の間に挟んでいた物を、得意げに引き抜く。
「じゃーん! 取って来ちゃった、その禁書!」
「は……? はあ……!?」
ヒロトは思わず二度見した。
聞いた話と同じ、分厚く大きな赤い本が掲げられている。
開いた口が塞がらなかった。
「お、おま……! なんて物取って来てんだ! 今すぐ返してこい!」
「えーやだよー、せっかく貰って来たのにぃ」
「貰ってねえだろ! 返してこい!」
「まあまあヒロト、貰って来ちゃったものはしょうがないよ」
「メグミ! お前は止める側だろ……!」
夜の六本木は、三人の足を何食わぬ顔で日常へ押し戻していく。
さっきの出来事が、まるで夢だったかのように。
けれど、身体に染みついた甘い香りと、アイカの手にある赤い禁書だけが、この先のトラブルを、嫌でも予感させた。
『ハレ×ナイ』をお読みいただき、ありがとうございます。
毎週日曜20:10更新です。
次回、第三話「暮れの境界」。
8月23日(日)20:10更新です。
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【☆TIPS:祝福教団アナヒタ】
五十年前に現れた神を「主」と呼び、その再来を待つ宗教団体。
毎週の祈りや講話会、慈善活動のほか、Club DIVINAをはじめとする勧誘・資金調達拠点も運営している。
儀式には『御息』と呼ばれる香煙が用いられ、これを多く取り込む者ほど、主に近い存在として扱われる。
強引な勧誘や儀式の噂が絶えず、警察とQPDもその動向を注視している。
世間では危険な宗教として忌避され、その名を口にすることさえ憚られている。




