第一話 死んでいただけますか
1.
鉄の粉と油の匂いが、朝から鼻にこびりついていた。
小林メロスは作業台のボルトを締め直しながら呟く。
「……これ、昨日も狂ってたな」
背後で後輩が笑う。
「先輩、それも殴って直すやつですよね?」
「当たり前だ。機械だって気合だ」
金属音。火花。いつも通りの午前。
外界から怪物が来ようが、この工場だけは律儀に朝から働いている。
人の営みなんて、案外そんなものだ。
「小林くん、社長室に来てくれるかな?」
スピーカーの声が、やけに真面目だった。メロスは工具を置き、肩をすくめる。
「……バレたか? 昨日の爆発」
後輩が吹き出す。
「またっすか先輩!」
「私のせいじゃない。向こうが、勝手に爆発したんだ」
油で黒くなった手袋を外しながらメロスはゆっくりと立ち上がる。
目の前には、どこまでも続く鉄骨の森。無数の機械が唸りを上げ、その向こうではQPDの輸送車が部品を積んでいた。
武器が出ていくたび、この国は少しずつ平和を失っていく気がする。
そんな考えを、ひとつ息で追い払い、冗談の続きを浮かべる。
「クビになったら、ヒーローでも目指すか」
思ってもない軽口。メロスは大股で歩き出した。
「——わ、私がクビですか……?」
メロスは社長室で思わず声を上げた。
工場の喧騒から一転して、ここはやけに静かだった。
「いやクビではない。転籍だ」
社長は申し訳なさそうに続けた。
「最近、人外の出現頻度が上がっていてね。親会社——QPDの本部が人手不足なんだ。少しの間、そっちで前衛支援を頼みたい。ほら、君ガタイは良いだろ?」
「前衛……? 私が、現場に?」
「ああ。急遽決まったことで時間がないんだ。すまないが明日には本部に行けるよう準備をしてくれ」
メロスは一瞬、呼吸を忘れた。
この会社で理想の製品を作ること、それが彼の人生の目標だった。
「あの、今私が担当している開発案件は……」
「引き継ぎは済ませてある。安心して行ってくれ」
「いや、あれはまだ完成してません。最高で、最強で、誰も犠牲にならなくていい装備にする予定で——」
「最強ねぇ。でも設計段階にも入っていないだろう?」
社長は苦笑いを浮かべ、書類に視線を戻した。
「悪いが、今回は急を要する。本部でも活躍できるはずだ。期待しているよ、小林くん」
「……開発が終わってからでは、駄目ですか?」
「すまない。君にはもっと重要な任務がある」
「ですが——」
「いいから行きなさい! これは命令だ」
社長の声がわずかに低くなった。
メロスは唇を噛む。
「……分かりました」
転籍という名の厄介払い。メロスには、そうとしか思えなかった。
メロスは軽く頭を下げ、静かにドアを閉める。
背後で聞こえたのは、書類をめくる音だけだった。
メロスは三階の屋外デッキスペースのベンチに座り、スマートフォンを眺めていた。
「私にそちらが務まるだろうか……」
画面の中では、インフルエンサーヒーローが敵を華麗に倒していた。
バットエンジェル——拳ひとつで敵を沈める、今いちばん人気のヒーロー。メロスにとっても憧れの存在だった。
いつか彼に、自身が設計した装備を着てもらうことこそ夢だったのだ。
「おいメロス、なーに落ち込んでんだ」
同期の瀬利が隣に腰を下ろす。
茶髪で軽そうな見た目だが、大学時代から先進開発を引っ張ってきた実力者だ。
事情を話すと、瀬利は素っ頓狂な声を上げた。
「——えぇ!? お前転籍すんの? マジかよ張り合いねーな。……お前体力あるし、腕っぷし良いし。まあ、あっちでも通用すんだろ」
「俺の力なんて……武器は使えないし、腕っぷしだけで前線に立つなんて、それこそヒーロー級だ」
「だから成れんじゃねえの、ヒーロー」
一拍、間があった。
「ヒーロー……ってなんだ?」
「いやいや、お前が言ったんだろ」
瀬利は吹き出し、ベンチから立ち上がった。
遠くのビル群が、昼の光を白く返している。
「前衛と言っても、後ろから支える物資班あたりだろう。自分が前に出ることなんてない」
「そっか。それはそれで安心した」
瀬利は柵に体重を預けた。
「戻って来いよ、必ず」
メロスは小さく笑った。
「ああ」
潮風が鉄の匂いを運び、ふたりの間を抜けていった。
***
——千代田区 霞が関。
翌日、メロスはQPD本部を前に足を止めた。
大きなビルとは聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。
二棟の高層棟が絡み合うように空へ伸び、その頂には土星を思わせる球体が浮かんでいる。周囲のビル群から一本だけ突き抜けた姿は、建物というより巨大な装置に見えた。
もし次世代ゲーム機が作られるなら、必ずこの形は候補に挙がるだろう。メロスはそう思った。
ポケットのスマートフォンが震える。画面には《QPD人事部》の文字。
「はい、小林メロスです」
「小林さん? 今どこに居ます?」
「今は、本部の入口の前にいますが」
「あ、ほんと? 良かったー。遅いからてっきり道に迷ったのかとー」
「ええ、まあ、道には迷ってないのですが」
言いかけて視線を上げる。本部を囲む壁の門の前に——人外がたむろしていた。
「言ってませんでしたっけ? 郵送したICカードをタッチすれば入れますよ!」
「いえ、そういう問題ではなく。入口に、かなりいますが……」
「ああ、今日は多いですね。正面から入れないなら、建物の裏手に職員用通用口がありますので、そちらへ回ってください。……あ、でも今ちょうど片付いたみたいですね。正面からどうぞ」
さっきまで通路を塞いでいた人外たちは、壁際へ追いやられるか、数人まとめて車両へ乗せられていた。
その間を、ひとりの女性職員が何事もなかったように歩いていく。
警備員へカードを見せ、そのまま門の中へ消えた。
メロスはしばらく、その背中を見送った。
「……これ、よくあるんですか?」
「最近は、まあ」
電話越しの明るい声が、現実味を削っていく。
リュックの肩紐を握る手に、じっとりと汗が滲んだ。
受付で名前を伝えると、スーツ姿の男が現れた。
小柄で眼鏡をかけた、いかにも事務方という風貌。名刺には《人事部 部長 森カツシゲ》と書かれている。
「ようこそ小林メロスさん、お待ちしておりました。ささ、こちらへ」
大きな高速エレベーターに乗り、透明な壁越しに、地上がみるみる遠ざかっていく。さっきの門前の騒動も、もう何事もなかったように片付いていた。
森は振り返り、柔らかく微笑む。
「小林さん、改めまして人事部部長の森と申します。この度は急なお話になってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。業務内容については実際に見ていただくとして、先に少し説明を」
森は咳払いをひとつ。
「ご存じの通り、我々は人外災害への対処を専門とする、国内最大の組織です。ここ数十年で日本は急速に“人間以外”の影響を受けるようになりました。もちろん、共存関係にある異種族もいますが……そうでない者も多い。その抑止力として、我々の存在が必要なのです」
エレベーターが二十五階で止まる。扉が開くと、眩しい陽光が流れ込んだ。
ガラス張りのロビー、大理石を基調とした広々とした空間。物資を台車で押す人、走って書類を届ける人、都内を見渡しながら地図を広げる人々。ロビーとは思えない活気で満ちていた。
交差する人の流れの中、森の背を追いながら、メロスは口を閉じたまま周囲を見渡す。
「警察や防衛庁とも連携していますが、最近はQPDでなければ対処できない事案が増えましてね。そこで小林さんに声を掛けさせていただきました。急なお願いで恐縮ですが、業務内容としても馴染みのあるものと思われますので、何卒。……個人用デスク等はございません。書類作成や手続きは他の者が行いますので、小林さんはその力を存分に発揮してください」
森は淡々と説明をする。
だが、何か腑に落ちなかった。
「あ、あの森さん、確認ですけど私の業務って、後方支援ですよね?」
「ええ、最初はそのようになりますが、徐々に前衛にてご活躍いただければと……あ、装備品についてはもう手配済みです。攻撃か防御、どちらがお好みです?」
「え、えっと……支援班ですよね?」
「もちろん。念のためです。何があるか分かりませんから」
メロスは何か言い掛けた口を閉じた。
「まあ、小林さんともなれば武器なんて、不要かもしれませんが——」
と、呟くように森は笑った。
乗り換えた高層用エレベーターがさらに上昇を始める。外の景色はどんどん小さくなり、空へと近づくほどに、足元の現実が遠ざかっていく気がした。
辿り着いた先は、最上階のエントランスだった。
大理石の匂いに混じり、空気がひんやりと澄んでいる。左右に続く柱、一定間隔の装飾窓。深紅の絨毯が長く伸び、足音を吸い込む。まるで由緒あるお城の中に立っているようだった。
「こちらです」
森の声が響く。二人の靴音が、長い廊下に静かに反射する。
最奥のドア。
金のドアノブが回される。
扉が開いた瞬間、広い空間が視界に入った。
天井まで届くガラス窓からは昼の光が差し込み、室内は過不足なく整えられている。
余計な装飾のない執務室の奥、わずかに床の高い位置に据えられた椅子に、一人の女性が腰かけていた。
影を弾かない白の髪、落ち着いた眼差し、どこか懐かしさすら感じさせる微笑み。
森が恭しく一礼する。
「本部長。こちらが本日付で入社する小林メロスさんです。前職でも実績のある方でして、我が社でも活躍が期待されます」
その女性、本部長は静かに頷いた。
「急なお願いにもかかわらず、ご協力ありがとうございます。お名前は以前より伺ってます」
その声は、まるで空気ごと包み込むように柔らかかった。
メロスは思わず背筋を正し、頭を掻く。
こんなに丁寧に迎えられるとは思っていなかったが、どこか悪い気はしなかった。
本部長は柔らかな表情のまま続ける。
「入社手続きについては、この後、森よりご案内します。今は一つだけ、あなたに質問をさせてください」
穏やかな口調。メロスは構えることもなく、素直に頷いた。
だが、隣に立つ森の笑みが少しだけ気まずいものへと変わった。
本部長はまっすぐ視線を重ね、静かに告げた。
「今、死んでいただけますか?」
白い光が、ひときわ強く瞬いた。
呼吸の仕方を忘れる。現実の輪郭だけが遠のく。
「……え?」
半開きの口からこぼれたのは、その一音だけだった。
長い沈黙が落ちる。
冗談だと笑い飛ばすには、本部長の顔はあまりにも真面目だった。
やがて、静寂を壊すように、本部長は「ごめんなさい」と付け足した。
「死んでいただく、というのは少し語弊がありました。正確には私の“使者”になっていただきたいのです」
「使者……ですか」
「はい。私に仕える人材を探していました」
死ぬ、というのは何かの例えのようだ。
メロスはもう一度考えて、聞き直す。
「……それはつまり、本部長直属の職員ということでしょうか」
「いえ、そういうことではありません」
「では……秘書のような?」
「それも違います」
隣で森が目を伏せる。
本部長は、わずかに目を瞬かせた。
「ああ、そうですね……申し訳ありません。どうやら説明の順番を間違えてしまいました。こういうことは久しぶりで」
本部長は少し考えるように、視線を宙へ泳がせた。
「人を殺めるのも、いつぶりでしょうか」
「……今、なんて言いました」
聞き間違いであってほしかった。
だが、本部長は気にした様子もなく続ける。
「ただ本部長に仕える方は要りません。求めているのは、私——つまり“天”に仕える人なんです」
意味が追いつかない。
だが冗談にも聞こえない。
“死”だの“殺める”だの。何か途方もなく大きなものに巻き込まれている。そんな予感だけが、確かな重みを持って胸に居座った。
「ど、どういうことですか? 天って……あなたは——」
本部長の口元に、少しだけ楽しそうな笑みが浮かんだ。
さらに一拍置き、メロスの瞳をまっすぐに見据える。
「私はこの組織の代表を務めています。そして、この地では——女神エロースなんて、呼ばれています」
「…………はい?」
また、間の抜けた声が出てしまった。
2.
「とべー! 飛べー!」
甲高い声が、空から落ちる。
轟音とともに風を切り、陽光を弾く金髪がひと筋の彗星のように地上へと突き抜けた。
背中に生えた小さな羽をパタつかせ、落下とともに空を踊る。
下はコンクリートジャングルだ。着地すれば死は免れないだろう。そんな予感が彼女を涙目にさせた。
「とべーっ!! 飛んでええー!!」
地面に直撃する寸前、彼女は先輩に拾われた。
「バカ、ちゃんと飛べ!」
「す、すみません……!」
「数が多いな……治せるか!」
「はい、ただいま!」
少女はボロボロになった羽を千切り捨て、「うーん」と声を上げ、新しい羽を生やした。
「生えた!」
先輩は敵の攻撃をかわして様子を窺う。
さっきから防戦一方、あまりにも敵が多すぎる。
——人里に接近し過ぎたか。
先輩は旋回して大きく上昇した。追いかける肉片の亡者の群れもそれに続いた。
霧を抜け、雲を抜け、そして山を越えた。差し込む朝日に目を細める。奥には、大影が雲海から浮かび上がった。
旭日昇天。親玉の出現に声を上げて笑う。
「アッハッハ! お前だったか、大太法師!!」
ギョロリと大きな目玉が動く。巨人の域を超えたその巨体は一歩で山を越え、足元に湖を作る。そして死屍累々の皮膚はおぞましく鳴いていた。
「こんな奴、都内に入れたら惨事じゃすまないな……おい、戦えるか!」
「はい!」
二人は分かれ飛び立った。
巨人が腕を掻きむしると、零れ落ちた肉片が次々に二人に向かい飛び立つ。
先輩はその俊敏さで追従を許さず、後輩ちゃんはお得意のハンマーで敵を薙ぎ払う。
人間離れした戦闘技術に、皆、冗談交じりに“QPDの連中は人間じゃない”と言う。
だが、それは比喩ではなかった。
数千年前、人々は空を駆ける彼女らを見て“天の使い”と呼び、その名を神話に刻んだという。
***
——QPD本部、とある会議室。
メロスは机に突っ伏し、意気消沈していた。
「小林さん、そんなに泣かないでください。まだ引き返せますよ?」
「い、いえ……お構いなく。入ります。入社しますが、少しだけ泣かせてください」
「は、はあ……では、準備してますね」
森はやれやれと頬を掻き、苦笑した。
メロスはさっきの出来事を思い返していた。
「——すみません。流石にそこまで……女神様の使いなんて、私には分不相応な立場というか……ほら、門前の人外にも怖気づいていた訳ですし……!」
「問題ありません。その点は“死”と引き換えに解決します」
「で、でも。私にはまだ夢があって……今、死ぬのはちょっと避けたいなーと」
「死ぬことと、いなくなることは別です。あなたは日本に残りますし、夢だって追えます」
「い、いえ、それでも……なんというか……」
エロースは明らかに痺れを切らし、分かりやすく溜息をついた。
「はあ……まったく、しょうがありませんね。では契約不成立です。弔慰金も没収ということで」
「……な、何ですかそれ? 私は何も受け取ってませんよ」
「違います。あなたのご家族にです。死んでいただけると踏んで、先にお渡ししておきました」
「そ、そうですか……ではそれで、お願いします」
エロースは頬を膨らませ、森へ視線を送った。
森はさっと端末を取り出し、メロスの前に差し出した。
「小林さん、とても言いにくいのですが……その件、莫大な借金を抱えることになりますが、よろしいでしょうか?」
差し出された端末には、びっしりと並ぶ口座の明細。
メロスは呆然と画面を見つめ、森は淡々と説明を続ける。
「ご家族様へお伝えしたところ、最初は涙を流しておられました。ですが、多額の弔慰金を見た途端、『人を救い死ねたなら息子も本望でしょう』と。妹さんに至っては、その日のうちに何かの製造ラインを押さえたとか。すでに大半が事業資金として動いています。こちら、没収となりますと——」
画面をタップする音。映し出される桁。
——五億円。
メロスの視界はくらりと揺れた。
家族が、自分の死をすんなり受け入れた。
自分は、もうこの世にいない者として扱われている。
死ななければ、家族は多額の借金を抱える——。
情報の奔流に、メロスはその場で目を回し、倒れてしまった。
そして今に至る。まんまと入社手続きを終え、晴れて女神エロースの使いになってしまった。
メロスは頭上に浮かぶ金の輪を気にしながら、森の入社説明を受けていた。
「ですから、我々は法的には“死者”という扱いになります。次の二点は厳重処罰の対象となりますのでご注意を。一つ、家族・恋人・友人など知人に会わないこと。二つ、メディア露出しないこと。そして服装規定ですが——」
森の声は次第に遠ざかっていく。
メロスは上の空で頷きながら、ふと天井を仰いだ。
五億円……。
一体どう稼ぐのだろうか……。
ペン先で机を叩く音が、ぼんやりとした意識を現実に引き戻す。
「小林さーん。今、大事なところですよー」
「す、すみません。あ、森さん。この会社給料って……?」
森はため息をつき、手にしていた紙束を机に置いた。
「やはり借金が気がかりですか。ズバリ言いましょう。五億なんて一瞬です」
「い、一瞬……ほんとですか?」
「ええ、冗談なんて言いません。まあ、信じがたいでしょうから、実践と行きましょう。そのほうが早いかと」
***
扉が開くと、そこはまるで遊園地のような訓練室だった。
弾む床、積み木のように積まれた巨大ブロック、隅にはボールプールまである。先ほどまでいた小さな会議室からは想像もつかない広さだ。
「広いでしょう? ここは自由に使える訓練場です。一見遊び場のようですが、すべて現場仕様ですので、存分に暴れて構いませんよ」
森は手を後ろで組んだまま、楽しげに奥へ進んだ。灰色のブロックの前で立ち止まり、振り返る。
「では、特典一つ目。こちらのブロックを叩いてみてください」
森は腰のあたりでひらひらと手を動かす。
メロスは言われたまま拳を当てた。
室内に鈍い音が反響する。
「……森さん、これでいいのでしょうか?」
森はやれやれとため息をつく。
「よくないです。ちょっと貸してください」
森はメロスの腕を掴んで強制的に叩きつけた。
「痛ったっ……! く、ない……?」
「そうでしょう? それが特典の一つ、“丈夫になる”です」
森は満足そうに頷くと、もう一度ブロックを指した。
「では二つ目。さっきより強く、思い切り叩いてみてください」
メロスは構え直し、渾身の拳を放つ。
痛みはない。もう一発、さらに一発。
打撃音が訓練場に響き渡り、ついにはコンクリート並みの硬度のブロックを粉砕した。
「おおー良いですねー。それが特典二、“リミッターの欠如”です。人間の体は、無意識にブレーキをかけて自分を守る仕組みがある。その制限を外し、力を最大限に引き出すことが可能になったのです」
メロスは拳を見つめた。本当に痛くない。赤みも腫れもない。粉が付着しているだけだ。
森はさらに笑みを深める。
「さて、最後の特典ですが……あれ? まだ生えていませんね」
そう言うと、森は背から白い羽をぱっと広げ見せた。
「これがあると飛べるんですが……まあ、個人差です。いずれ生えますよ。
さて、まとめると。丈夫になる・リミッターの欠如・飛行。この三つが、その輪っかの対価です。虎に翼。きっと、小林さんの力を伸ばし、そして守ってくれるでしょう」
「なるほど……自分の体が自分じゃないみたいですね」
「うんうん、いずれ慣れますよ」
森は人差し指を立て、話題を切り替えた。
「それでは、話を戻しましょう。この力を持っていかに稼ぐか。単純明快、“戦う”ことに限ります。相手は主に人外で、時にそれは大災害にすらなり得る。通常なら何十、何百の人間で当たるべき相手に、あなた方は少人数で挑まなければならない。そんな大仕事に、安い報酬を出すと思いますか?」
眼鏡のレンズが、陽光を反射して閃いた。
メロスはごくりと唾を飲む。
「相場はその時々で変わりますが……命懸けですからねぇ。たとえば——」
その時だった。床が、世界が、震えた。
最初は揺り椅子のように小さく、次第に地鳴りのような断続的な衝撃へと変わる。
森はすかさず震源の方向へ目を向けた。ガラスの奥、さらにその奥。数十キロ先の山並みに、巨大な影が盛り上がっていく。
「大太法師……それも、かなり大きい」
「だ、大太法師って……あの!?」
二十八階から見上げるほどの巨体。山脈を飲み込み、その一歩で地形を変える。
かつて幾つもの街を壊滅させ、数万人の犠牲を出したと言われる災害の再来。
しかし、森はまるで天気話でもするように微笑んだ。
「小林さん、もしあの怪獣を一人で倒せたら、いくらになると思いますか?」
「え……いや、そんなことより」
森はゆっくりと手のひらを広げた。
「五億。取り分で、です」
メロスの息が止まった。
「まあ、あんなの一人で倒せたら……この会社のトップ狙えますがね」
「狙える、ですか……!? あんなの個人で倒せたら、文句なしのトップヒーローじゃないですか!」
「いやいや、うちを甘く見ないでください。日本最後の砦、人外戦の最終防衛ラインは、それじゃ務まりませんよ」
メロスは信じ難いという表情で、再び外を見上げた。影はなおも拡大を続けている。
森は、反応を楽しむ子供のように口角を上げた。
「今のトップ、小林さんの上司になる方ですよ」
3.
——QPD本部 屋上。
非常扉が開いた瞬間、屋上に金属質の突風が走った。
風に煽られた白い衣が舞い、彼女の輪郭だけがくっきりと空に浮かび上がる。
白基調のチュニックとドレスを掛け合わせたような戦闘服。陽光を溶かしたような金髪を短いポニーテールに束ね、戦士でありながら、どこか無邪気さを残す顔立ち。
頭上には、横倒しの8を思わせる捻じれたリングが浮かんでいた。
織田・ア・カトレアは掌で矢をくるくると回し、屋上の縁で足を止めた。
視線の先、超高層の彼方に大怪獣がそびえ立つ。回していた矢を止め、ひと払い。
街中に鳴り響くサイレンが、奴が災害級であることを告げていた。
「西に超大型怪獣を確認。レベル超過。速やかに排除してください」
カトレアは耳もとを軽く叩き、回線をつないだ。
「ハナ。お前がいて、何だその体たらくは」
「織田……!? う、うるさい! 私のやり方じゃ……こいつはデカ過ぎるんだよお!」
通信の向こうは、敵のすぐ傍で戦う第二番隊隊長、剛力ハナ。
剣を使った空中近接戦を得意とし、近接なら剛力と呼ばれるほどの実力者だ。
だが、今回の相手はあまりに巨大だった。唯一の急所である目玉に刃を叩き込んでも、傷ひとつ付けられない。その硬度は、岩山をも凌ぐ。
そんな彼女に冷たく言い放つ。
「攻撃の邪魔だ。早く退いてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 後輩がまだ、奴に掴まっていて……!」
巨体の鎖骨あたり。亡者の腕に絡め取られた後輩ちゃんが、今にも取り込まれそうになっていた。
「……分かった。準備ができたら教えてくれ。できれば“煩い”感じで」
「ああ、もう! 分かったよ!」
通話が切れ、再びサイレン音が前に出た。
カトレアは静かに弓を持ち上げると、その先に亡霊を据えた。
ハナは亡者の群れを軽くいなしていた。
近接にかかれば数は意味をなさない。刻まれた肉片はそのまま地に降り、代わりの肉塊がまた生えて襲い掛かってくる。
だがハナは周囲一帯の肉を瞬時に削ぎ落とし、後輩ちゃんを難なく救出した。
「起きろ、退却するぞ」
後輩ちゃんは気を取り戻し、慌てた素振りで状況を問う。
「で、でも先輩! 敵は都心のすぐそこまで迫ってますよ! まだやれます、せめて先輩だけでも!」
「もう大丈夫だ。……おっとっと、そうだった。耳塞げ」
「へ……?」
ハナは大きく空気を吸い込む。
次の瞬間、とんでもない咆哮を放った。
その音圧はどこまでも轟き、周囲の生物を萎縮させ、気絶させるほどの衝撃だった。
あれだけ湧いていた亡者の群れも本体に戻って行ってしまった。
至近距離で受けた後輩ちゃんは、また気絶した。
カトレアは笑う。
的が一つにまとまる光景は、彼女が思い描いたものと同じだった。
風が止む。
「悔い改めろ」
放たれた矢は、周囲の音も衝撃も置き去りにした。
空に引かれた金の一閃は、視認と同時に届いている。
遅れて、雷鳴のような轟音。爆風が街をかすめ、ビルの窓が一斉にたわんだ。
衝撃の向こうで、山のような巨体は、半身を音もなく失っていた。
「……おし、完了」
織田・ア・カトレアが立てば、負けはない。その信頼は絶対だった。
撃破数、救出数、貢献度。いずれも歴代首位。
数千年前、神とともに地上へ降りた唯一無二の熾天。
彼女を勝敗の秤に載せることすら、おこがましい。
4.
大太法師襲撃の翌日、原間スミレは事件の後処理に追われていた。
まだ春だというのに、空気は真夏のように重い。
スクランブル交差点の真ん中で、スミレは手のひらで陽射しを遮った。
黒髪のボブが光を弾き、耳に掛けた隙間からキャンディレッドのインナーカラーがちらりと覗く。
ビルの壁面には昨日の衝撃的な撃破映像が延々と流れていた。
「何度見ても、びっくり映像ね……」
山と肩を並べる異形が一瞬にして崩壊する、まるで映画のワンシーン。現実味がなく、だからこそ怖かった。
視線を下げると、そこにも現実離れした現実があった。
大きな肉塊が交差点の中央で、アスファルトにめり込むように沈んでいる。
スミレは警察の黄色いテープをくぐり、その前でしゃがみ込んだ。
「報告通り亡骸。これ触っても大丈夫? てか、ここまで飛んで来るなんてやばすぎ」
昨日の震源は渋谷から数十キロ離れた郊外。それなのに断片がここまで——。
幸い二次被害は出ていないらしいが、こんな重さの肉塊が空から降ってくるなんて、世も末だ。
神様、本当に居るならなんとかしてくれ。
そんな願いもこだまして消えていく。結局、現場の人間が何とかして社会は回っているのだ。
「さて、事件性はなしっと……まず撤去と報告書ね。あとは撤去業者の手配」
手を払い、制服を正す。少しだけ、いやけっこう張り切っていた。
だって、今日は嫌味たらたらの上司が休みなのだ。いつも仕事が遅くなるのは、あの説教が長いせい。
定時前に片付けて、それを証明してやる。
——六時間後。
スクランブル交差点から少し離れた、別の肉片が落ちた公園脇。
炎天下の渋谷は白く眩み、パトカーの車内もサウナのようだった。
スミレが書類に目を通していると、窓がコンコンと叩かれた。
「あの、これは……」
「困ったなー原間ちゃん。君、今日一日何していたの? まだ書類作成も手続きも済んでいないようだね。スクランブル交差点を封鎖し続ける影響がどれほど大きいか、ちゃんと理解している?」
遠藤警部。嫌味の権化が何故か出勤している。
スミレは瞼をぴくりと痙攣させつつ、作り笑顔を浮かべた。
「すみません、もうすぐ終わります。ちょっと差し込みが入っただけで」
「え? 話聞いてなかったの? スクランブル交差点を封鎖し続ける影響がどれほど大きいか。ああ、徹夜続きでとうとう記憶力も落ちちゃったか。もう帰りなさい。続きは私がやっておくからさ」
「いえ、私の担当はこの先の公園ですから。……それより警部、今日体調不良でお休みだったのでは? 引き続き私がやっておきますので、そちらこそごゆっくり寝ていてください(永遠に)」
遠藤はバツが悪そうに上着を持ち替え、飲みかけのコーヒー缶を揺らした。
「公園だって、子供にとってはかけがえのない場所だよ」
その一言だけ言い残して去っていく。
スミレは筆を止め、しばらく背中を目で追った。
いつもなら「警官の自覚が~」とか「連携が~」とか続くはずなのに……どうやら本当に体調不良のようだ。
少しだけ複雑な心情を抱きながらも、窓を閉め報告書作成に戻った。
「えーと、本日午前十一時ごろ、全身白タイツの不審者出現。職務質問の末逃亡、追跡と応援要請で……。うーん、信じてもらえるかなこれ……」
その時、左手前の無線機にノイズが走った。
「こちら渋谷通信指令室、103号、応答願います」
スミレは書類を置き、すかさず応答した。
「こちら103、どうぞ」
「110番通報あり。渋谷駅、線路内に不審者の可能性あり。至急現場確認願います。状況、随時報告してください」
「了解。渋谷駅構内へ向かいます。到着次第、報告します」
無線が切れる。
スミレはマイクを叩くように戻し、ゆっくり息を吐いた。
「気のせい……ならいいけど」
胸の奥のざらつきは、アクセルを踏んでも消えてくれなかった。
『ハレ×ナイ』をお読みいただき、ありがとうございます。
第2話以降は、毎週日曜20:10更新です。
★Kindle版(上巻)も発売中です。
公開予定の上巻全話をすぐに読めるほか、書籍限定の特別編を収録しています。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0HCWBQSG8
★続きが気になりましたら、ブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。
次回、第二話「神のウワサ」。
8月16日(日)20:10更新です。
◇
【☆TIPS:QPDの設立】
QPDは人外発生から五年後、今からおよそ三十年前に設立された特別法人である。
外界と繋がった日本の治安維持の要として、警察・防衛庁と連携し対応を行う。
人外発生からQPD設立までの五年間はまさに混沌の時代。
後に『第一次裂界戦争』と呼ばれる。




