プロローグ
東京の景色は、まだ見えていなかった。
地下鉄の窓にはガラスが嵌まっている。でも、そのすぐ外側は、細い継ぎ目の入った金属板に覆われていた。窓の形をしているのに、映すのは車内ばかりだった。
柊アイカは、そこに浮かぶ自分の顔を見た。
朝整えた前髪は、乗り換えを三回するうちに少し崩れている。白いシャツの襟が、グレーのパーカーから左右ちがう長さで出て、下は黒に近い紺のロングスカート。足元はスニーカー。
祖父の家を出る前、これなら東京でも変ではないだろうと選んだ服だった。
パーカーは楽で、ポケットが深い。襟があれば、なんとなくちゃんとして見える。それ以上は、よく分からない。
アイカは片方の襟を指で引き出し、窓の中の自分へ小さく頷いた。
キャリーケースが揺れに合わせて逃げようとしたので、膝で挟んで止めた。
頭上のモニターでは、相変わらず音のない映像が流れていた。
《神への“願い”から五十年——「人と人が争わない世界」の現在》
《都内各地で相次ぐ不可解な錯乱》
《文京区で人外発生。QPD出動》
何かの死体があったであろう場所にブルーシートが張られている。その横を、次駅の案内が何事もなく流れる。
「神が来たら、何願う?」
少し前に立つ学生が言った。
返事は聞こえなかった。笑い声だけが、車輪の音に混じった。
アイカはモニターを見上げたまま、さっきの言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。
神が来たら。
画面はもう、洗剤の広告に変わっていた。
その時だった。
お尻に何かが触れて、咄嗟に振り返る。
人の腰と鞄とコートの隙間へ、細い尾のようなものが引っ込んでいく。持ち主らしい男は、深く被ったフードの下で吊り広告を見ていた。
周りの人も、見ていない。
隣にいた女性が鞄を持ち替えた。別の誰かが半歩ずれ、できた隙間はすぐ人で埋まった。
そこでようやく、鼓動が大きくなった。胸の奥にあるはずの心臓が、皮膚のすぐ裏まで出てきたみたいだった。
アイカは息を浅くしたまま、コートの裾を見つめた。
嫌だった。
でも、少しだけ、面白い気持ちもあった。
「次は、渋谷。お出口は右側です」
低めの声とともに電車が減速する。
フードの男は、人の流れに混じった。もう尾は見えない。
ドアが開く。
アイカはキャリーケースを引き、ホームへ出てからもう一度だけ振り返る。
閉まりかけた扉の向こうには、同じようなコートがいくつも並んでいた。
階段を上がると、湿った鉄の匂いが薄れ、代わりに焼いたパンと排気ガス、それから甘い香水の匂いが下りてくる。上へ行くほど音が増えた。足音。改札機の電子音。笑い声。誰かを呼ぶ声。巨大な画面から落ちてくる、知らない歌。
地上だ。
光が強く、アイカは目を細めた。
空は思ったより狭かった。ビルとビルの間に、薄い青が縦長に残っている。人の流れは絶えず、誰かが立ち止まるたび、その周りだけ水のように流れが割れた。
アイカも人の流れを割りかけ、キャリーケースごと歩道の端へ寄った。
スマホを開く。
《神 願い方》
検索結果には、同じ写真と同じ文章が、少しずつ形を変えて並んでいた。
親指で画面を何度か送る。
「……やっぱり、出ないか」
小さく呟く。
その時、地図アプリの通知が画面の上から降りてきた。
《目的地は反対方向です》
アイカは顔を上げた。
信号は、ちょうど青に変わったところだった。
「ほんの少し、だけ」
キャリーケースの向きを変え、横断歩道へ駆け込む。ロングスカートの裾がふわりと遅れて、白いスニーカーを追いかけた。
その小さな寄り道が、あとから見れば始まりだった。
『ハレ×ナイ』をお読みいただき、ありがとうございます。
第2話以降は、毎週日曜20:10更新です。
次回、第一話「死んでいただけますか」。
8月8日(土)20:10更新です。




