外伝 記憶の森と鉄樹の花 14
※
朝が失われた。
その日のシュネスでは、そんな奇妙な言葉が囁かれていた。
空は漆黒の雲で埋め尽くされ、風はほとんどなく、気温もあまり上がらない。それは停滞とか喪失という言葉を思わせる。
むろん、双黒現象は広く知られているし、暗い以外に実害のある現象ではない。しかし、道が危ういために役人が急遽、街へ出て街灯に妖精の灯をともす。いくらかの人間は仕事にならず、家を出ずに窓から外を眺める。
いったいいつ明けるのか。
砂漠の都の片隅で、誰かがふと思う。
もし、明けなかったら。
永遠に夜が続いたなら。
太古の昔、まだ朝日の到来が法則として知られていなかった頃の、あの原始の感覚が――。
※
(これは……)
観客はざわめいている。不測の事態を見張る役目の兵士たちですら、中央の6名に意識が引きつけられている。
全員が比較的ゆっくりと話し、丁寧に単語を積み重ねていく。およそ一分に10数個というところか。
その作業、すでに30分は続いている。
「おい、単語はどのぐらい溜まった」
「現在、417でございます」
「400以上だと……!」
アテムも戦慄を覚える。場の中央の6人は言葉を重ね続ける。
「真珠柵、です」
「少し待ってくれ」
ユーヤは目を閉じて小さく構える。時間としては5秒ほど。
「水鄭丁だ」
「では水あめで」
「傘立て、かしら」
「ヒーチ樽、でごさいます」
「洋架鏡かなあ」
「クッキーで」
「シャッチフェム」
「積乱雲、としましょう」
「ユーヤというお方……歌手の名前が多いですわね、作戦でしょうか」
「まあ有名な人ばかりだが……」
そのような声を聞きつつ、アテムは思考する。
(ユーヤはかつて、パルパシアの双王とのイントロクイズに勝ったと聞いている……歌手の名前はその時に知ったのか)
(時おり動きが止まるのは、歌手の名前を思い出しているからか。無理もあるまい、膨大な量を記憶しつつ、さらに言うべき言葉を思い出すというのは途轍もない負荷となるはず)
(だが、なぜ歌手なのだ? 高齢のアデルシャハトには覚えにくいと読んだのだろうか。まさか、そんな単純な作戦のはずは……)
観客も固唾を飲んで見守ると同時に、外野では勝負の現状を話し合う者もいる。
「い、いくらなんでも無理だろ、もう440を超えたぞ」
「こんなもの覚えられるわけがない、何かの駆け引きなのか?」
「待て、二人とも覚えられてないなら、先にチャレンジを宣言するべきじゃないか? そうすれば勝ちだ」
(その通りだ)
アテムもその点は読めている。双方の持ち点は2ポイント。先にチャレンジ宣言をして、相手が回答できなかった場合、次の相手番ではもちろん報復のチャレンジが来るだろう。それに答えられないとしても、次にまたチャレンジを宣言すればいい。
2連続の失敗で決着、あまりにも無体というべきか、尻すぼみな話ではある。
(だが、この2人の勝負にそれはあり得ない)
それは確信。
異世界のクイズ王と、大陸全土に名の知れた名士。「奇跡」の体現者。ここまでのお膳立てをして、一度もチャレンジに成功しないなどあるはずがない。
(そう……ユーヤがチャレンジに成功する、そんなことは当然であるし、言ってみれば、その方法などどうでもいい)
(それに第一、この勝負の目的は勝つことではない)
(アデルシャハトの「奇跡」の正体を、やつの秘密を暴かねばならぬ)
そうだ、と思い至る、この勝負は。
(この勝負は、必ずアデルシャハトの失敗で終わるのだ!)
「ナバト、とします」
「ナバト……分かった、ではツーディード」
(ナバト……田舎の漬け物だな。ユーヤは知っているのだろうか)
(そして、また歌手だな……ユーヤの手番は6回に一度だが、現在450とすればユーヤの手番は75回、その中で20人近く入れている。先ほどまではそんな事はしなかったのに)
この勝負、シンプルなようで想像以上に奥が深いと感じる。お題となる言葉、チャレンジを要求するタイミング、参加者に選択できることが多いのだ。
(この勝負、他にどのような駆け引きがある)
(そう……自分は記憶しているのに、相手にチャレンジを要求し、相手が二度成功する。これはまさに悪夢のような負け方)
(覚えている自信があるなら、相手からのチャレンジ要求をひたすら待てばいい。膠着状態になったのはそのためだ。しかし、いったいいつまで……)
「セレノウのユーヤさま」
アデルシャハトが言う。2人の間には無数の鎖のような緊張が満ちている。
「まだ言葉を重ねるつもりですか。不躾ながら、とても覚えていられる数とは思えません」
「覚えているよ……大河ゴーフシーニー、だ」
「パルパシアを流れる河ですな……いくら積み上げようと無駄です。千でも万でも、私は絶対に間違えない。てずり紐、です」
「記憶とは」
ぼんやりと、ユーヤが言う。その顔は奇妙な穏やかさを備えていた。どこも見ておらず、誰に向けた言葉でもないような発声。その間に協力者である四人も言葉を重ねていくが、周囲の観客の意識からも、ユーヤとアデルシャハト以外の人間が世界から消えていくような感覚がある。
「記憶とは、人間に備わった最初の知的活動。言語よりも、思考よりも先に記憶があった。シェッツエルズ、だ」
「今度は画家ですか……では柱時計です。それが、何か?」
「僕たち人間は、何かを手に入れるたびに記憶する力を失ってきた。獲得と喪失のトレードオフ、それが人間の進化の歴史だ。積み木」
「お話の意図されることが、よくわかりませんな。口紅」
「記憶術とは、始原へとさかのぼる旅に似ている。脳の本質へと帰る旅。より純粋で、より切実な時代。情報を覚えられなければ、経験を共有できなければ、命にかかわる狩人の時代への回帰、それが僕の考える記憶術だった。シュネスハプトだ」
「ふむ、熱心に語られていますが、やはり話の目指されるところが」
「わからないのか」
ふと、宙をさまよっていた眼光がアデルシャハトに向く。大上段から振り下ろすような眼光。
「あなたのそれは違う」
「……何を」
「記憶に優れている人には三種類いる。一つは特化だ。あなたの場合なら、人間の顔を覚えることに高度に特化している可能性。だがそれは否定された。この勝負は顔の記憶と関係ない」
三本の指を体の前に示し、その一つを折る。
「二つ目は技術としての記憶。僕は部屋の模様替えをしない。飲食店は行きつけの店だけに通う。少なくとも、前にいた土地ではそうだった。それは記憶の宮殿という手法。よく知っている空間を脳内に部屋として持ち、家具や窓の位置に単語を当てはめて記憶する。位置記憶は原始的で強固な記憶だからだ。僕はそれを仕事に役立てていた」
「……何の話をされているのか」
「あなたは部屋の模様替えをする、行きつけの店を持たない、使っている気配がないんだ……僕の知る記憶法の、どれ一つとして」
二本目の指が折られて、残った指をユーヤはもう片方の手で握る。
「最後の一つは天才性。あなたが位置記憶法などに頼らない、天性の記憶力を持つ人間ならそれでよかった。だがそれは違う、少なくともあなたの友人はそれを見抜いていた。悔しくて、情けなくて消えたくなる。あなたを知ろうとするごとに、僕の直感から遠ざかっていくんだ」
そして、と、声帯のさらに奥まった場所から絞り出すような声が。
「四つ目だ。考えうる限り最悪の可能性。僕が直視したくなかった、記憶の底に、鉄樹の森に封印していた可能性しか、ありえないんだ」
「……」
「おかしいとは思わないのか。あなたのその力、そんなものが真っ当な力であると」
「セレノウのユーヤさま」
その眼光を正面から受け止め、静かに言う。周りの観客はユーヤの妙な発言よりも、アデルシャハトの声に戸惑いを浮かべる。今のような声がアデルシャハトから出るとは誰も想像していなかった。槍で突くような声。苛立ちと恫喝の混ざった声。
「チャレンジです。すべての単語を順番に、一つたりとも間違えることのないよう」
「わかった」
ユーヤは語り始める。
単語を一つずつ、一定の速度で、言葉を書き留めている何人かが検証していく。
(……僕たちは、真なる記憶力を失ってしまった)
つぶやくように答える。言葉を並べる。
それとは別の脳領域、無意識の部分が独白を行う。
(言葉があるから、文字があるから、検索が、AIがあるから、人はものを覚えなくなった)
周囲がざわめく、そのざわめきの波は届かない。
(だから僕は編み出した、それは記憶の属人化)
(この場の参加者を置き換える。僕が絶対に忘れられない過去を、忘れてはいけない概念を用いて記憶する)
記憶とは取捨選択であるとも言われる。
脳は獲得した情報を無意識的に選択し、より重要なものを残す。文字として書き残したり、いつでも引き出せる状態にあると、記憶の優先度は下がっていく。
心象に描くのは、王たちの残影。
赤い薔薇に彩られた幻影。早押しの王。
水色の制服と挑戦的な眼ざし。技術の王。
緑のゆるやかな服と万物を知る知性。知識の王。
黒いセーラー服、異端であり退廃的な気配。五感の王。
――そして、白い光の中に、もう一人。
そのすべてがユーヤに語りかける。言葉の一つ一つを説明し、解釈し、隣り合う言葉を関連付け、ひとつながりの記憶となって折りたたみ、そして解きほぐされて。
「――以上だ」
総数にして、493。
観客が息をするのも忘れ、肺が感情で膨らむような一瞬。検証していた数人が手を挙げる。
「合っています! 正解です!!」
音が、歓声が爆発的な勢いを帯びる。
この宴会場を囲む無数の窓、巨大な水晶の窓のすべてが歌う。歓喜天を突くような叫び。
「み、見事です……」
アデルシャハトもさすがに驚嘆の色が濃い。たじろぐ様子や、賞賛の色すら見える。それほどに常識を超えた一幕。
「では――勝負を続けよう」
誰も気づいてはいないが、ユーヤは実のところ、強烈な頭痛に襲われている。
右耳のあたりから後頭部に抜けるような頭痛、脳を酷使したためだ。目が内側から押されるような感覚。脳の酷使が、体のあらゆる機能を乱している。
そしてさすがの異世界人であっても、今のを二度はやれないという確信がある。記憶とは再生するごとに変質し変容する。今のユーヤの記憶は、千時間も回し続けたレコードのようにすり切れている。
それら一切をポーカーフェイスで包み、厳然と告げる。
「協力者の方、言葉を重ねてくれ。そして次の手番で僕がやることは決まっている。アデルシャハトさん、チャレンジを要求する」
「む……」
「おい、即座にチャレンジ要求だぞ」
「いや……ここは少し待ったほうが良くないか。総支配人が残り1ポイントだろ。ユーヤって人は2ポイント残してて有利なのに」
(その通りだ)
アテムはユーヤの完答にうち震えつつも、冷静に思考する。
(この勝負、先にチャレンジを要求する方が有利なのはこの点もある。相手の回答を聞いて復習できる)
(今のアデルシャハトは、ユーヤの時よりかなり有利な状況と言える……)
「木彫り人形、シェルガバナント、遊覧船……」
語る様子はゆったりとしている。ひとつひとつを思い出しながら、それはあるいは、ホテルの宿泊客の顔を思い出すような様子、とも取られただろうか。
「貢紗楽団、カラメル、ツイード……」
語り尽くすだけでも数分はかかる。言葉が淡々と流れて、誰もが固唾を呑んで見守る。
だがその中で、数人が奇妙な印象を持つ。
「なあ……総支配人、どこか苦しそうじゃないか」
「そうだな……思い出すってのも大変なんじゃ……」
(ユーヤの挙げた言葉だ)
その事を、正確に察知できたのはおそらくアテムのみ。
(なぜだ、ユーヤの挙げた言葉だけ妙にたどたどしい。そして段々と苦痛が濃くなっている)
(歌手の名前を思い出すのが辛い……? まさか、いくら高齢とはいえ……)
「わかるだろう」
ユーヤがつぶやく。
チャレンジ中の発言は妨害行為と見なされても仕方がないが、それでも、どうしても声をかけずにいられないという様子で言う。
「あなたにも分かるはずだ、自分に何が起きているか、なぜ僕の挙げた言葉が辛いのか、僕が言葉に仕込んだ毒が、あなたを蝕んでいる」
「う、ぐ」
変化は急激に起きている。
アデルシャハトははっきりと青ざめている。
例えるなら、破滅とか絶望という言葉に肉薄している人間。 腹に刀傷を受けて臓物が飛び出している人間が、そのことに気付くと死んでしまう、と、腹の傷を見るまいとするような。
「ち……違う、私の力は、記憶は」
「記憶じゃない。そんなものが記憶じゃないことは、わかるはずだ」
ユーヤは。
奥歯を砕けるほどに噛みしめ、総支配人に指を向ける。
「いないんだ」
「あなたの心に、神はいない」
「そん……な」
涙が。
この岩のような老支配人、世に名高い篤志の人が、滂沱の涙を流す。
「お、お……」
その身が半分に縮んで、顔は紙風船のようにくしゃくしゃに歪む。袖に涙が染み込み、肘からしたたり落ちて床へと流れる。
「お、おお、おおおおおおおお!!!」
涙だけではない。顔全体の紅潮、全身の関節に同時に力を込めるようなこわばり、声帯の震え、究極の感情が嵐となって吹き荒れるかのような混乱。
「アデルシャハトさん、すまない。あなたのそれを暴きたくなかった。でも仕方がなかった」
「違います……違う。私の、私の記憶力は」
「あなたの人生は、錯覚に支配されている」
ユーヤもまた頬を赤くしている。強烈な義務感と責任感を背負って言葉を紡ぐ。
「この世で最も残酷なことが起きている。それはすなわち、人生の否定」
「自分の人生が、自分のものではなかったと知ることは、何よりも辛い」
かつて、大学時代にも起きたこと。
クイズの実力が、催眠術などという下卑な仕込みであったと知った人物は、どんな顔をしただろうか。
「あなたに起こっていることの大きさは、意味は、僕にも計り知れない」
「だけど現実に起きたことなんだ」
「教えてくれ、本物のアデル――」
瞬間。
宴会場を囲む巨大な水晶ガラスの一枚が、白く曇る。
それはガラスの中を走る崩壊の連鎖。全体が粉々に砕け、パズルのように見える一瞬、重力に引かれて落下し、ミリ秒の世界で数人がそちらに意識を引かれる。
「何――」
アテムは聞いた、弓を引きしぼる音を。
それはコゥナの背負っていた長弓。一動作で背中から抜き放たれ、体全体を使うような弓の引き分け、まばたきほどの時間もかけず水平に射たれる。誰も反応できない早業。
矢は人の隙間を縫って、アデルシャハトに。
その肩口に――。
「ぐっ!」
刺さらない。それは先端に木製の球体をつけた矢。運動エネルギーがこの総支配人の体幹を崩し、身体がねじれるような一瞬ののち、後方に倒れて。
その鼻先を、光の筋が。
矢が、こちらは鉄の鏃をつけている。宴会場の床に突き刺さる。
「現れたな!!」
コゥナは飛ぶように駆けて、割れた窓から外へ出る。
観客たちが恐慌に陥る中、兵士たちはようやくアテムを守ろうとする。
「待ってくれ! コゥナ!」
ユーヤは後を追おうとするが、一歩踏み出したところで止まり、右方向に指を向ける。
「そこのボーイさん」
指されるのは、手帳を持って単語を記録していた人物。ホテルの制服を着ている。
「それと窓際にいるウェイターの彼だ、その二人を拘束してくれ」
そしてユーヤは走り出し、割れた窓から出ていく。
周囲の人間はぽかんとしている。急に矢が射ち込まれたことと相まって、何が起きているのかまるで分からない様子だ。
アテムも一瞬の動揺を見せたが、はっと気づいた目になって言う。
「拘束しろ。それと近在に待機させていた査察団を入れるのだ」
「し……しかし国王陛下、かなりの数の市民が見ております。何かしらの罪状がなければ」
「――余はシュネス赤蛇国の王! アテム=バッハパテラである! 余の命に背くことは許さぬ!」
胴間声がとどろき、周囲の人間が背骨に鉄を通されたように剛直し。
そして兵士たちが動き出す。王の手足となって、王の意思を実現するために――。




