外伝 記憶の森と鉄樹の花 13
※
過日。
こぼれ落ちた日々のかけら。削れて零れた人生の破片。
七沼は半年ほど草森葵から離れることとなる。
元々、諍いを起こすほど親しくはなく、疎遠になるほど親密ではない、そんな関係性だと思っていた。
七沼はその時期、記憶術というものにのめり込んでいた。記憶に関する本を読みあさり、記憶に特化したアマチュアの競技者を訪ね歩いた。
後から思えば、それは七沼なりの歩み寄りだったのかもしれない。この世のすべてを記憶しようとする、傲慢で神聖なる知識の王、草森葵に近づこうとする時期だったのか。
草森葵とは、講義がいくらか重複していたこともあり自然と顔を合わせていた。そうするうちに、いつの間にかまた一緒に過ごすようになっていた。
それはやはり、七沼が草森葵の輝きに惹かれていたからだろうか。身を焦がしても火に飛び込むことをやめられなかったのか。
あるいは自分と草森葵に、劇的なことなど起きないのか、七沼は自虐的にそう思ったこともある。
「どうも駄目なんだ。どれほど記憶を学んでも、葵さんのようにはなれない」
その言葉は弱音でもあり、草森葵への賛辞でもある。
「ランダムな情報を覚える技術は学べたけど、博覧強記というのかな、葵さんの強さとはぜんぜん違うんだ」
「そうなのね……私は特別、何かを覚えようとしているわけではないけど……」
「目的意識の違いかな。市販の記憶術の本は、受験勉強だとか、競技だとか、老化防止のための記憶だからね」
草森葵の目に、自分はどう見えているのか。
迫れば迫るほど、大いなる隔絶が見えてくる。クイズ戦士と、真なる知識人との違いが、身を焼くほどに苦しい瞬間もある。
それでも、そばにいる。
近づこうとするのをやめられない。
他人ほどは近くなく、恋人ほど遠くはない。
「記憶というのはきっと、生き方なんだ」
覚えている。王たちのことを。
鉄樹の森の最奥にあっても、失われはしない――。
※
勝負は続く。
2人が敗退し、残りは4人。しかし誰もチャレンジを宣言しない。単語だけが積み上がっていく。
「お、おい、覚えられてるか?」
「いや……とても無理だ、10が限界……覚えてる部分だって、ちゃんと答えられるかどうか」
観客は潮騒のように言葉を交わす。その中で、やや目端の利くものが疑問を述べる。
「だけどこの勝負、アデルシャハト支配人に有利すぎないか?」
「どういうことだ?」
「だって、誰も支配人にチャレンジなんか宣言しないだろう。あの「奇跡」を見せた人だぜ」
あ、と周囲で声が上がる。
「それにあのセレノウのユーヤってのは何者なんだい? かなり自信があるみたいだが」
「記憶力の達人……そんなのがいるのか知らんが、得意ではあるのかな」
しばらくして、また一人が指名される。その人物もやはり、答えることなく席を立った。
「申し訳ない……とても無理です。実はずっと前から覚えられておりませんでした」
「おい、この次で指名されるぞ」
「誰がだ?」
「たぶん、セレノウのユーヤって人だ。どうもユーヤとアデルシャハトの一騎打ちになるみたいだからな。放っときゃ自分が指名されて負けるだけだし」
「なるほど、駄目で元々ってことか」
「チャレンジです」
その予想通り、残っていた一般参加者がユーヤを指さす。
「お願いします」
「分かりました」
ユーヤは膝の間で手を組み、目を閉じたまま言う。
「耳、手鏡、水庭、牛、公園、屋根、ハイアード獅子王国、鎖、スカート、ライラピ、餅髪、肘関節、掛け算、花崗岩、カントリーフォックス、木炭式アイロン、魚卵、テーペ、アンベル枕、銀写精、砂糖、灯台、口はみ金具、石鹸水、蒸留器、地凧、スープ皿、生反流チーズ、蜜蝋、シャツ、ブラッドガバメンツ、香水瓶、約束手形、貝ボタン、以上です」
おお、とどよめきに似た歓声。周囲で答えを検証している数人が手を挙げる。
「あ、合ってます」
「うう……残念です、では僕が敗退ということですね」
「うむ……ここまでは当然の流れではある」
アテムがつぶやく。上がっていた言葉は34。記憶力の勝負というからには、そのぐらいは当然覚えられるのだろう。アテムは才気あふれる文官も何人も見てきている。彼らなら不可能なレベルの記憶ではない。
「駆け引きも、勝負も、ここからということか」
その視線の先にはセレノウのユーヤ。彼はやや前傾に構え、藪睨みの視線を送る。
「やはり僕とあなたが残ったか。ではこれからは互いに単語を言っていこう」
「ええ、そうですな、純粋に私たちだけの……」
アデルシャハトは、やはり口をあまり動かさないで話している。会話の合間に口をゆるめている場面があまりなく、歯もほとんど見えない。
「……」
変化が起こる。
ほんの数秒、アデルシャハトの目が宙を泳いだのが分かった。どこを見るでもなく、首を左右に振る。
「ふむ……」
そして、じっとユーヤを。いや、正面は見ているものの、ユーヤに焦点が合っていない。ユーヤの観察眼がそれに気づく。
「それは適切ではありませんな」
刀のように細めた目、そこに剣呑な意思が宿る。
「これより1週間以内に誕生日が訪れる方、おられますか」
唐突な発言。人々は顔を見合わせ、ややあって数人が手を挙げる。
「うむ……四名おられますな。この方々に参加していただきましょう。我々も含めて6人で単語を言っていけばよろしいかと」
「……それは」
「この方々は、私の記憶する限りは初めて当ホテルをご利用になられた方ばかりのようです。仕込みなどできようはずもありません」
「…………」
ほんの数秒、あるいは十数秒。
異様な緊張の高まりがある。ユーヤが動かず、さりとて答えないという気配もない、何かを高速で考えているように見える。水の流れをせき止めるように、ユーヤの次の動作に皆の意識が集まる感覚。
(なんだ……ユーヤ、何かを考えている?)
(今のやりとり、アデルシャハトがユーヤのたくらみを阻止したのか? だから焦っている……?)
「……いいとも」
その言葉に、周囲の何人かが息を吐く。ユーヤの放つ気配に呼吸を止められていたかのようだ。
「では僕もルールを追加しよう。一対一の勝負ならチャレンジ1回で決まるのはもったいない。チャレンジは2回まで可能としよう。答えられないか、相手がチャレンジに成功すると1点を失う。2点失えば勝負ありだ」
「そうですな……それで結構です」
「だが一つ聞きたい、なぜなんだ」
その声は、ユーヤが意図していたより大きかった。
ユーヤという人物はなるべく感情を制御しようとしているが、それは、制御不能な瞬間があることの裏返しでもある。
「なぜ、と言われますと……」
「人間の一生には!」
その声は叫びの属性を帯びていた。周りの婦人がびくりと身をすくめる。ユーヤはいちど呼吸を整える。
「人間の一生には、劇的な機会というものが存在する。己の力で運命を逆転させる機会、千載一遇の幸運に恵まれる機会、そして人々の記憶に自分の名を刻み込む機会。特に一国の王すら驚嘆せしめる神業……長く人の口にのぼるほどの場面を生み出すなんて、何十回と生まれ変わりを繰り返しても訪れるものじゃない」
(ユーヤ……どうしたのだ)
アテムが唇を噛んで彼を注視する。今、ユーヤを感情の奔流が襲っている。彼に何が起きているのか、アデルシャハトがルールの変更を要求したことに起因しているのか。
「あなたは当時の国王の前で力を示した。イカサマじゃないかと疑う人もいたが、ほとんどはあなたの神業を認めていた。それで十分じゃないか。なぜ二度も力を示そうとする。なぜ二度も杖で岩を打つ。世界最大のホテル? それがそんなに欲しいのか。今は経営だって順調なはずだ。なぜ勝負を受けたんだ」
それは、さすがに今さらな言葉ではあった。宿泊客らも何を言い出すのだと気勢を削がれた顔をしているが、背後にいるアテムだけはより集中を深める。起きている事態を知ろうとする。
(アデルシャハトは、自分とユーヤが一対一でやりあうことを拒否した、それはなぜか)
(……! そうか、分かったぞ、ユーヤがあらかじめ単語を暗記している可能性を考えたのだ)
互いに数字を言い合い、それを記憶していくゲームを仮定する。
AとBという2人で行う場合、もしAが円周率を基準として数字を言っていけばどうなるか。対戦相手のBがそのことに気づかなかった場合、Aは自分の言った数字を記憶しておく手間がない。Bの言った数字だけを覚えて、円周率で補完すればいいだけだ。
(最初に一般人を4人も入れたのは、2人で言い合う形にするための伏線か。自然な形でそこに持っていこうとしたのか)
(文字列を覚えておく、覚えて脳の中にしまっておく、ユーヤならばありえる話だ。あるいは深夜から朝にかけて、ずっと何かを考えていたのはそれなのか?)
(そして今、それを封じられた……?)
アデルシャハトが、やはり口をあまり開かないままに言う。
「セレノウのユーヤさま、私はかつて弱腰経営との陰口を受けておりました」
岩のようなひび割れた印象の皮膚、褐色に焼けた肌、背丈こそ低いながらも岩のような印象の人物は、美丈夫であるシュネス国王を一瞥して言葉を続ける。
「私は自分に自信がなかった。多少、目端が利くだけの役立たず。皆の足を引っ張る甲斐性なしであると思っていた。ですが、あるとき私は選ばれた人間だと気づいた。私の記憶力は人間の領分を超えたのです。であれば私は、己の能力に見合った生き方をしなければならない。カルデルドニスをもっと大きくしなければ。あらゆる事業に手を伸ばすことが私の宿命なのです」
「やめるんだ」
ユーヤは、外見にもはっきりと焦っていることが見て取れた。坂をすべり落ちる巨大な屋敷があり、その屋敷の中にいる人のようだった。目には恐怖の色すら見えた。
「人間を超えることの意味が分かっているのか。そんな境地に到れる人はそう多くはない。僕はそういう人たちを何人か知っているが、みな幸せな人生は送れなかった。自分の力に振り回されていた。あなた、は……」
ぎり、と歯を噛みしめる音。
「アテム」
突然、ユーヤが振り返り、椅子の輪を抜けて白スーツの太子に歩み寄る。
「――ど、どうした、セレノウのユーヤよ」
「……シャザナード氏の拘束は万全だろうか」
小声で尋ねる。
アテムはなぜそんなことを聞かれたのか分からなかった。だがその突飛な質問は、動揺よりもむしろ冷静さを与えた。ユーヤは明らかに狼狽していた。何か、彼の想定する最悪の事態が進行している。ならば自分まで焦るわけには行かない。
「……万全だ。何度も報告を受けている。シャザナードに行った尋問についても、ホテル側に漏れているとは思えぬ」
「常に兵士がついているのかな。シャザナード氏に不審な動きはないだろうか」
「不審な動き……そのような報告は受けてないな。シャザナードが謎の襲撃者と連絡を取る可能性は余も警戒している。だから4人がかりで常に目視で見張らせている」
「そうか……」
ユーヤはまた椅子の輪に戻り、どかりと座る。
「わかった、勝負を続けよう」
「おお、勝手な申し出をいたしました。なにぶん、賭けるものがあまりに巨大なれば、あさましくも必死になることをお許しください」
そのような交渉のさなかにも、宴会場には人が増え続けている。もはや宿泊客が全員いるのではないかと思える数。そしてひそかに兵士も増えている。
アテムはそのような雑踏を遠く聞き、己の思考に没頭する。
(そう……ことのきっかけである「奇跡」だ。祝宴の余興として行われた、この人は誰クイズ)
(トラブルにより、アデルシャハトとまったく面識のないはずの人物が現れ、アデルシャハトはその人物の名を答えてみせた)
(まず第一に疑われたことは、何らかの協力者が、アデルシャハトに人物の名前を伝えたこと)
(ユーヤはシャザナードがその伝達者であると考えたわけか)
(あるいは、いくつか考えていた可能性の一つだろうか。しかしシャザナードにそのような動きはない)
(では、いま起こっていることは、より最悪な……)
「――これからは、一対一の勝負だ」
ユーヤが言う。果たして何か策があるのか。それとも何も見通せないまま、己の記憶術だけで勝とうとしているのか。アテムはごくりと喉を鳴らす。
勝負の熱はさらに激しく。
そして砂漠は、まだ闇のふところの中に。




