外伝 記憶の森と鉄樹の花 10
「М大クイズ研に手紙を出したの」
木炭や和紙のような匂い、古びたレコードプレイヤー、タバコの箱で作られた和傘、そんなものが意識される古びた喫茶店。一番奥の席で草森葵が告げる。
「私はAさんの秘密のすべてを知っている。暴露されたくなかったら、彼女にクイズをさせるな、と」
「秘密、というのは?」
「あの例会には台本があったの」
葵の言葉が、七沼自身に突き刺さるような気がする。あるいはすでに刺さっていた剣が深く押し込まれるような痛み。七沼はそれを半ば予感していた
「問題はすべてAさんに合わせて用意されていた。ピンポイントにAさんが知っている知識だけを並べて問題が作られていたの」
「……やっぱり、そうなんだね」
七沼遊也は、一度も手を付けていないコーヒーをかき混ぜる。すでに冷めきっており、ひとすじの湯気も上がらない。
「僕の方でも調べたよ……。Aさんはクイズ研の代表と付き合っていたらしい。だからAさんが答えられる問題を用意することができた」
草森葵もまた飲み物には手を付けない。彼女の印象は日に翅を透かす羽虫のよう。彼女を見ていると、ものを食べたり飲んだりしないのではないか、と思えるほど現実感に欠ける瞬間がある。
「ただ、早押しのタイミングについては私には分からないの。七沼くんから見てどうだったかしら」
「ああ……出だし問題でいうと、要は自分がそれを知ってるかどうか判断する時間を競うわけだからね。何かの文学作品の出だしだと分かれば、その瞬間に押せばいい、問題はすべてAさんのために用意されたものだから、押しさえすれば答えられる」
早押しクイズの世界では、必ずしも理論値通りの早押しが行われるわけではない。勘押しとかチャージなどと呼ばれる理不尽な早押しは往々にして起こる。だから押すタイミングが早すぎることは不正の証拠とは言えない。すべては七沼の胸先三寸の話とも言える。
その上で、七沼は不正だと確信していた。七沼は自己のそのような感覚を放置できない。
「でも……分からない。少なくとも僕の目から見て、彼女が後ろめたさを感じているようには見えなかった。本当に嬉しそうにしてたんだ。積み上げてきた知識が輝く場を与えられた、あの初めてのクイズ体験の顔をしていた。僕はその顔はたくさん見てきたんだ。あれが演技だなんて」
「七沼くん……」
手が重なる。あるかなしかの体温。絹の手布をかけられたような感覚。
「……ここから先の話は、あまり体裁のいい話ではないかも知れない。本当は明かされるべきじゃないのかも。七沼くんは、どうしても知りたいの?」
「――知りたい」
逡巡は短かかった。七沼が判断したというより、七沼が己に課している役割に従い、ロールプレイを行なったような選択だった。
草森葵は、唇を震わせて言う。
「Aさんは、催眠術をかけられていた」
「え……」
「短期健忘。ほんの数時間、自分が経験したことを忘れる催眠術。彼女は本番と同じセットを使い、本番と同じ問題を使ってクイズを行なった。そしてクイズ研の部長がその記憶を消した。彼女はかなり暗示にかかりやすい体質なの。クイズ研の部長と付き合っていることも重要だった。恋人のような信頼している相手だと催眠にかかりやすい」
「まさか! そんなことが!」
声を大にする。その声は小物がひしめく喫茶店に吸い込まれる。
催眠術、そんなものが現実的な意味を持って自分の生活に絡んでくるとは思っていなかった。ましてや、己の領分だと感じているクイズの世界に。
「なぜそんなことをする必要が……!」
「Aさんに自信をつけたかったから、だと思う。彼女は芸能人としての活動に行き詰まっていた。クイズで実力を示せば話題にもなるし、読書家だったことを強く打ち出せる。何よりクイズで勝つことは自信につながると考えた」
「そんなことが……」
仮に可能だとして、Aは本当にずっと気づかないものだろうか。あの時の勝利は不自然なものだったと、自分が何かをされたと感じないのだろうか。そんなことで本当に自信につながるのか。七沼の中でくろぐろとした思考が渦巻く。
「……Aさんは、読書家なの?」
「いいえ」
草森葵は、長い息を吐いて言う。
「読書量は人並み、それも高校生になってからはあまり読んでいない。読書傾向は芸能雑誌、ファッション誌、たまに新聞を読むぐらい」
「クイズの実力はないの?」
「……七沼くん。人間が持っている知識の量。それを客観的に推し量ることは可能かもしれない。でも、それは追求すべきではないの。人の内面を数値化するような行為はとても失礼だし、私の推測だけの話ならそれが真実かどうか、客観的な指標がない」
「彼女が、Aさんが本当に実力者だという可能性はないの」
「……七沼くん、やめましょう。これは議論ですらない。七沼くんと私の結論はもうすり合わせが済んでいるでしょう? 七沼くんが思っていたことに、私が同意しただけ……」
そして、話を終着させるかのように、握った手から意思を伝えるかのように、静かに言う。
「彼女は、クイズ王ではないの」
「う……」
七沼は混乱していた。Aについての話の突拍子のなさ、由緒あるクイズ研がしでかした信じがたい不正。それを見抜いた草森葵の異様さに混乱していた。
だから会話が、泥のような深みに踏み込んでいることに気づかなかった。普段の七沼ならば、けして発言されることのなかった言葉が。
「僕も、そうなの?」
「……」
「葵さんには世界がどう見えているの。どんなことでも知っている。どんな情報にだって手を伸ばす、それなら、人間の内面や、性能だって知っているというの」
がたん、と、彼女らしからぬ勢いで立ち上がる。
「なぜ、近づこうとするの」
「この世には、解いてはいけない謎もあるのに」
草森葵が喫茶店を出て。
しばらくして冷めきったコーヒーが二つとも片付けられ、か細く流れるジャズが何度か違う曲に変わって。
そして七沼はずっと、その場を動けなかった。
※
床に、水が落ちる。
それは涙だろうか、それとも単なる水だろうか。
自分が濡れていることを意識する。目から涙が流れて、顔にはひきつるような感覚。鼻の奥に熱を感じる。
「ユーヤ」
革製のビキニのような衣装。コゥナが空のグラスを持って立っている。周囲にいるメイド達もみな、何らかの容器を持っている。気づけば自分はずぶ濡れだ。数名のメイドが群がってきて手に薬を塗る。
「副長、深刻なやけどはありません。指先に水泡ができておりますので処置します」
「ユーヤ様、袖を切りますので動かずに」
「髪には焦げはありませんね。水をかけましたがお寒くありませんか」
あっという間に手に包帯が巻かれる。そうしてる間もユーヤはずっと涙を流している。激情とか号哭というのとも違う、感情の高ぶりを処理しきれない涙である。泣く以外に、どのように振る舞えばいいのかユーヤにも分からない。あまりにも表情が動かないため、ユーヤの落涙に気づかなかった者もいた。
肺が突発的に動き、ようやく呼吸をする。手は燃えていない。たとえ燃えていても、自己催眠に近い集中は解けなかっただろう。
「ユーヤよ、大丈夫か、手に痛みはないのか」
「大丈夫」
そして、混乱の先に連想がある。
メイドたちには見えないのだろう。指先に巻き付く有刺鉄線の束が。皮膚を裂き、意志を挫かんとして痛みを与える鉄樹のツタが。
(……忘れていたな。思い出したくなかったのか)
クイズ戦士は、何をもっとも恐れるのか。
それは、クイズ戦士でなくなること。
(そう……僕は恐れていた。彼女は本当の王だったから。あらゆる事象に腕を伸ばす知識の王だったから)
(彼女に、知識人ではないと思われることが怖かった。彼女との思い出すら、記憶の底に封じてしまうほどに、恐ろしかった)
むろん、自分なりに知識を蓄えてきた自負はある。読書量も人並みよりずっと多いだろう。新聞にも、テレビにも真摯に向き合ってきた。町で見かけるあらゆる事に興味を示し、服飾も、郷土史も、化粧品も、歳時記も、この世のすべてを知りたいと願ったクイズ戦士だった。
だが、真なる王冠の輝き。
それが、あまりにも眩しいから。
彼女の隣になど立てないから、足が震えるから。
彼女のような本物ではないのだと、自覚してしまうことが辛いから。
「ユーヤ、しっかりしろ」
肩を掴むのはアテムである。この時点になって、ユーヤはようやく焦げた匂いを意識する。薄皮一枚が焼けただけで済んだものの、タキシードの袖はかなりの範囲が焦げているのだ。
「アテム、これから試合の作戦を練る。朝までかかるかもしれない。だけど必ず勝つ」
「……聞いてもよいか。お前はアデルシャハトについて何か気づいたのか。やつに勝てる作戦を編み出せるはずだと」
「一言だけ言うなら」
むろん、アデルシャハトの「奇跡」と催眠術は関係ない。
連想したのはもっと異なること。それは人生の深淵。踏み込めば身を斬り裂かれる有刺鉄線の森。
ユーヤは、口の中が渇くのを感じていた。己の言葉が凄まじい重さを帯びていると分かる。鉄球を吐き出すかのように、言葉が。
「あの人物は、アデルシャハトではない」
時間が止まるような感覚。周囲のメイドたちが、シュネス側の使用人たちも目を見開く。
そしてアテムは。
がし、と己の顔面を掴んでつぶやく。
「やはり」
アテムの動揺は短かった。奥歯を食いしばる感覚。目にも力を入れ、周囲の兵士に呼びかける。
「経済諮問委員を呼び出せ、民間企業査察局の局長も、財務大臣もだ。ここに連れてこい」
「陛下、今からですといったんゴルミーズに戻られた方が」
「余は火の番をせねばならぬ。いいから呼び出せ。そしてホテルの従業員たちを宴会場に入れるな。西棟の全体を接収する。近衛兵を武装を解いた状態で近在に待機させよ。すべての行動をひそやかに行え。眠った赤子が目覚めるほどの騒ぎも起こすな」
命令を受けた男たちは、黒いフードをかぶって宴会場を出ていく。あくまでも粛々と、気配を殺しながら事態が動き出す。
水色リボンのメイド、リトフェットが歩み出る。
「ユーヤ様、試合までお休みになってはいかがですか」
「いや、作戦を考えないといけない。おおよそ見えてるけどこれから練り込む。大丈夫、少し集中して眠れば5分でも疲れは取れるから」
「ユーヤ様、お止めできる状況ではないことは理解いたしますが、どうか無理をなさらぬように」
「わかってる」
リトフェットは歯がゆく思う。この人物が無理をしなかったり、体調を第一に考えた瞬間というのは果たして存在するのだろうか。
上級メイドの仕事は時に主人の意志に優先する。本来ならユーヤが何を言おうと数時間は寝かせるべきなのだ。
だが動けない。リトフェットが主人の意思を尊重していると言うより、この主人の静かな狂気、鬼気迫るような魂の猛り、ゆっくりと転がる大岩のような意固地さに逆らえないのだ。
(……それに)
これから作戦を練るという。
それは必要なことなのかも知れないが、試合まで6時間近くある。
(それほどに長時間、考え続けるものなのでしょうか……?)
ともかく自分の仕事をするべきだろう。リトフェットは周囲にいる一般メイドたちを集める。
「勝負の時に備えて準備いたしましょう。ユーヤ様のタキシードが損傷してしまいましたね、予備はありますか?」
「パルパシアで着ておられたものでしたら、保管しております」
「……それは砂漠の仕立てではありませんね。では私たちで一から用意しましょう。あなたはミアス通りの問屋に走り、最上級の生地を調達してください。あなたは大使館から仕立て用の道具を持ってきてください。ユーヤ様の採寸はハイアードで行っていますから問題ありませんが、胴回りだけもう一度頂戴しましょう」
「はい」
「最後の仕上げはここで行いましょう。あとは……」
「……お見守りすること、それしかありませんね」




