外伝 記憶の森と鉄樹の花 9
アデルシャハトは、この石仏のような印象の人物は、宙に浮かんだ言葉をしげしげと見るような様子で言う。
「無限記憶クイズ……それは、どのようなクイズなのですか?」
「記憶力に関する勝負というのは大きく分けて三種類ある。抜き打ち的に何らかの事象を覚えているか問うもの、大量のお題をあらかじめ覚えておくもの、勝負のその場で次々と出されるものを覚えていくものだ。この勝負は三番目にあたる」
「なるほど……」
「ある方法によって、その場で課題となる言葉を次々と生成していく。その言葉をすべて覚えていく。そして覚えた言葉を基準とするクイズに答える、それだけだ。事前の準備ができないように具体的な方法は言わないが、互いに有利不利がないようにすると約束する」
「今すぐ始めるわけではないのですか?」
「始めない。この勝負のためには十分なギャラリーが必要だし、睡魔は記憶力に大いに影響する」
ユーヤは懐中時計を確認する。現在時刻は深夜1時。
「勝負の開始は6時間後、朝の7時としたい」
「分かりました、それで結構です」
アデルシャハトは、ユーヤからは完全無欠のように見えるホテル支配人は、遠巻きにしている宿泊客を含めて全員に言う。
「整理いたしましょう。私とセレノウのユーヤ様の勝負。賭け草はアッバーザ遺跡に建設されるホテル。私が勝てばカルデルドニスを誘致し、ゴルミーズがその建設費をご負担いただく。セレノウのユーヤ様が勝てば、国営のホテルを建設なされるというわけですね」
「それに加えて」
アテムが後方から声を投げる。
「お前が勝てば、かつての「奇跡」については今後一切持ち出さぬとを約束しよう。あれはお前の実力であり、この世にはそのような神秘的なまでの記憶力がある、それを心から信じると約束する」
その発言については、アデルシャハトもさすがに困り顔を眉に浮かべる。
「なぜその件にそこまでこだわられるのか、私などにはまるで分からないのですが、ともあれ先王……いえ、お父上ともども長きにわたり悩ませてしまったこと、本意ならざることとはいえ、深く陳謝いたします」
「東の空より太陽鳥の羽ばたく頃、必ずその憂いは晴れる。セレノウのユーヤが必ず晴らす」
「では……私は体調を整えることに専念すべきでしょうな。国王陛下による夜通しの宴会となれば夜を徹する覚悟でございましたが、ここは場を辞して休ませていただきます」
「うむ」
アデルシャハトは一礼してその場を去る。遠巻きに見ていた宴会の客は、今のは何なのだろうと噂を交わしている。
世界最大のホテルが国営になるか民間になるか、ある種の投機筋の人間にとってはそれが賭けの対象になるだけで一大事だろう。適当な紙に文字を殴り書いている男もいれば、数人の集団で出ていく女性陣もいる。どこか別の場所で飲み続け、噂話に興じるつもりなのか。
「ユーヤよ……」
アテムが、背後からやや慎重に声を投げる。前に出てユーヤの顔を見ようとはしない。ユーヤがどんな感情にあるのか知るべきなのだが、足が前に出ない。
セレノウのユーヤ。シュネスの王は一度、この人物が勝負を切り出す場面を見ている。あの時は、ルールを提案した時点で勝負の結末まで読んでいた。少なくとも自陣に有利になる要素を数限りなく並べていた。
だが、今のはどこか違う。策を弄しているような気配が、まったく――。
「……無限に覚えられる、と感じたことはある?」
振り向かぬままの声。アテムに向けての言葉だと分かった。
「何の話だ?」
「興味引かれるまま、関心を寄せるまま、膨大な量を覚えた人はたくさんいる。魚介類マニアが高じて大学の客員教授にまでなった人物は4000種を覚えていたという。他にも趣味の世界なら150近い競走馬とか、300以上の艦船を苦もなく覚えている人もいた。そういう境地に人工的に迫ろうとした人もいたんだ」
アテムは冷や汗を浮かべる。それは、つまり。
「まだ、解けていない、のか。アデルシャハトの「奇跡」が。お前は、お前自身の記憶力だけで奴に挑むつもりなのか」
「解けてるよ」
ユーヤは言う。
己の手を見つめる。やはり有刺鉄線など刺さっていないし、鉄で編まれたツタなど存在しない。
だが、震えている。
底知れぬ恐怖を、指先だけが感じている。
脇を見る。円形のテーブルは料理と花で飾られ、30リズルミーキほどの蝋燭が数本、淡い光を放っている。会場は妖精の光により十分に明るいため、蝋燭はおもに料理を照らすためのものか。
「解けている……気づいているはずなんだ。僕は確かにアデルシャハト氏が不正をしてると確信してる。過去の何らかの経験からそれに気づいている。だけど……」
気づきたくない。
思い出したくない。
「僕は何かを忘れてる。こんな状況を許すわけにはいかないんだ。だから今から思い出す。リトフェット」
メイドを呼ぶ。
「はい、ここにおります」
「――はあるかな、なるべく揮発性の高いものを、あと水をボウルに入れて持ってきてくれ」
「……承知しました」
リトフェットが目で合図を送ると、あたりにいた一般メイドたちがサッと散る。それはメイド使いとも自称する彼女の能力。彼女の意思に従い、大勢のメイドが手足となって動く。
それはすぐに調達された。液体の入った二つのボウル。
「みんな、少し離れて」
ユーヤはまず水に右手をひたし、次に――の入ったボウルに手を。
その手を、テーブルキャンドルにかざす。
「あ――」
メイドが声を上げる前で、炎に包まれる右手。
ユーヤの顔があかあかと照らされ、周りに居残っていた客が何事かと集まってくる。
リトフェットはその眼鏡に火の色を映し、ごくりと息を呑む。
(あれは一種の奇術。揮発性の高い油は燃えても手に熱を伝えにくい)
(し……しかし、何秒もできる技では)
ユーヤは炎を見つめる。揺らぎの中に全神経を落とし込むような集中。
それはユーヤが独自に編み出した超集中。催眠術の世界で言うなら凝視法などと呼ばれる手法。炎は人間に本能的な緊張感を与え、自己暗示を与えたり、逆に無意識的な心の働きを抑制したりもする。
五秒、十秒。
十五秒。
二十と、七秒――。
周りの人間が総毛立つ。手品の技とは分かっているが、この人物は、何秒それを。
そして右手を包む炎が、手首へ、肘へと燃え広がって――。
※
過日。
その年はうんざりするほど暑かった。
コンクリートが真っ白に染まるような、土が灰に変わるような感覚。太陽に追い立てられて、人の居場所が削られていくような。
「その選手はすごいんだよ」
鉄の階段はひやりとしている。七沼と草森葵は、地下書庫の階段に並んで座っていた。
どれほど地上が暑くとも、大学図書館の地下書庫にまで熱は届かない。階段を下りるうちに別の世界に迷い込むかのようだ。
草森葵はいつものように本の虫となり、あらゆる書物を読みあさる。七沼はそんな彼女に会いに行き、己の見たクイズの世界を語る。必ずしも最適な話題とは言えなかったが、互いに自然体ではあった。
「前に言ってたМ大の人だよ。アイドルらしいけど、途轍もない知識量なんだ。きっと、幼い頃からずっと読書を続けていたんだ」
「知識がすごいの?」
「うん、そう。ああもちろん、葵さんと比べるような意味では言ってないよ。ほら、その大会での問題集、ビデオに録画してたから全部書き起こしてきたんだ」
その大会とは、М大クイズ研の主催したオープン大会。文学クイズ王と銘打って、問題は古今東西のあらゆる文学作品から出題された。
冒頭の文章から作品名を答えるいわゆる「出だし問題」はもちろん、作家そのものについて、文学賞について、古代の叙事詩や民間説話に至るまで幅広く出題された。
そこで優勝した人物を、仮にAとする。
Aはアイドルでありながら大会に一般参加していた。まず80問のペーパーテストで好成績を出し、決勝で断トツの強さを見せて優勝したのだ。
草森葵は、紙束をそっと返しつつ言う。
「この人は……実力で勝ったの?」
「え……」
草森葵の発言には、特に意味深な響きは何も無かった。淡白で素朴なつぶやき、それゆえに一種の容赦のなさもあった。
「それはもちろん、実力だよ」
「この人は知ってる……М大生で、渋谷のライブハウスのほうで活動してるアイドルグループのリーダー。ファンクラブの会報に文章も書いていた」
この時代、テレビの音楽番組が減少し、ライブハウスを中心に活動するアイドルが増えていた。当時はインディーズアイドルとかライブアイドルと言われ、地下アイドルという呼称が広まるのはずっと後の時代である。
「葵さん、アイドルの会報まで読んでるの?」
「うん……だからAさんの読書傾向はだいたいわかる。思考が柔軟でセンスはあるけど読書家じゃない気がするの」
「……」
七沼はほんの少し渋い顔になる。仮にAが読書家ではないとしても、彼女がクイズ研の猛者たちを倒して優勝したのは事実なのだ。少なくとも七沼は肉眼で見たのだから。
「……ええと、文学クイズといってもいわゆるベタ問は多いし、特に出だし問題なんかはクイズの定番なんだ。だからクイズ戦士はみんな大量に覚えてるよ。「では」なら銀河鉄道の夜、「おい」なら蟹工船という風に」
「Aさんは、そういう練習をしてる人?」
「……そう、なのかな、たぶん」
彼女は天然自然のクイズ王であり、ただ単純に優れた人物。七沼の理想を言うなら、そういう人物こそ王の座にいるべきだと思っている。
しかし、Aがクイズのセオリーを学んでいるなら、それはそれで、歓迎すべきこととも思う。どうあってほしいのか、七沼は無意識的に思考を避けている。
「出だし問題だけじゃなくて、文学に深く親しんでいないと答えられない問題もたくさんあったよ」
「そうね……問題を読んだから、だいたい分かるわ」
草森葵は、おそらく一読しただけの問題集をすべて暗記しただろう。草森葵ならばそのぐらいはやってのける。七沼は疑う気もない。
「七沼くんは、その……この人のことが気になってる?」
鉄の階段で、草森葵がそっと体重を傾けてくる。
七沼は問い詰められていると認識した。Aという人物の話題を持ち込んだ、その真意を問われているのだと。
「……実は、そうなんだ。何となく、彼女がクイズ戦士には、見えなくて」
それは七沼という人間にとって意識したくない部分、本音と建前の垣根である。
どんな人物でもクイズ戦士になりうる、だから容姿や人格など千差万別であり、見た目で判断などできないと主張する七沼。その七沼に冷ややかな視線を浴びせるもう一人の七沼もいる。世間一般のイメージからかけ離れた王など、滅多にいるものではないと。
Aを賞賛したいのに、Aを疑う気持ちを否定できない。醜悪で救いようのない二律背反。七沼という人物が引きずる病であろうか。
「またМ大で例会が開かれるらしくて、東北とか近畿から文学に強い人が来るんだよ。Aさんはそれを防衛戦にして引退すると言ってる。クイズは自分のいる場所じゃないからって」
「……メリバの水」
その言葉は、クイズ的な知識の引き出しにあった。七沼は数秒かけて関連する言葉を引き上げ、脳の中で整理する。
「それは、ええと確か、聖書の出エジプト記だよね。モーセが岩を打つと水が湧き出した。でも二度、岩を打ったことで神を疑っているとされて、モーセはエルサレムを見ることができなかった……」
「七沼くんは、普通の人が一生に何度ぐらい早押しボタンを持つと思うの」
「え? そうだね、月に5回ぐらいとして80年生きるとして」
ふと気づく、草森葵が金魚のような顔をしていた。見たことのない反応である。
「五生に一度」
膝に顔をうずめて言う。
「クイズ番組の数と、アマチュア大会の数、地元のお祭りや学園祭のイベント、全部ひっくるめてもその程度だよ。ちょっとしたフェルミ推定だね」
「そんなに少ない……のかな?」
「一世一代の舞台、それに登る機会なんかそうそうない。知識で人生を変えられるような機会は……そんなには、無いの」
「葵さん……?」
「わかったわ。少し、このAさんのことを調べてみる。その、次の例会っていつなのかしら」
「М大の例会は……実はそんなに日数がなくて、今週の金曜日だから四日後なんだ」
「そう……じゃあ私がリーチできる情報は私で集める。七沼くんは、そのМ大のクイズ研究会について詳しく調べて」
「リーチできる情報ってなに? そっちの方も手伝うよ」
「……例えば、学生時代に図書館で借りた本」
「え……」
「ご実家はどんな新聞を取っていたか、どんなテレビを見ていたか、習い事とか資格とか、アイドルになってどんな人と付き合ってきたか」
「そんな、調べられるはずないよ。図書館の記録なんて、あるとしても紙でしか保存してないはず」
「何十年か後には、そういう記録もすべてデジタライズされるかもね……」
憂いのある目で七沼を見る。
「大丈夫。私はこういうことの調べ方をたくさん知ってるから。じゃあ、今日は読んでおきたい本があるから」
「ああ、うん、騒がしくしてごめん」
狭い階段で立ち上がり、慎重に、後ろに歩くような塩梅でその場を離れる。
(……知識を操る人は、知識へのリーチの手段も多い、ということかな。葵さんならきっと、常識では手に入らない知識まで知り尽くすだろうな……)
ふと、痛みを感じる。
見れば指先に傷があった。小さいが深い、どくどくと血があふれてきて肝が冷える心地がする。どこかで有刺鉄線にでも触れたような。
そして時計の針は進み、金曜日の例会。
結論から述べれば、Aは会場に現れなかった。
二度とクイズの舞台に立つことはなく、その強さが人々の前で披露されることもなかった。しばらくすると、人の口にも昇らなくなった。
アイドルとしてはその後どうなったのか、七沼は一度も聞いたことはない。
Aの力について、草森葵から聞くことになったのは土曜日のことだった――。




