外伝 記憶の森と鉄樹の花 6
※
過日。
記憶に定まった形はなく、記憶が真実だと証し立てるものはない。
たとえ磁気テープに、印画紙に焼き付けたとしても、そこに記されたものが当人にとってのあるべき姿とは限らない。それは記憶の宮殿に描く砂絵。二度とは現れぬ花園の模様。
大学時代の一時期、七沼遊也という人物は記憶術にのめり込んでいた。
記憶についての本を読みあさり、記憶術を身につけた人物に会いに行ったりもする。それは大学の授業とも、クイズ研究会の活動とも異なる、七沼の興味によるものだ。
「ああそうだよ、僕はねえ、けして家具の配置を変えないんだ」
ある人物は位置記憶というものを重視していた。
「人間にとってね、方向感覚とか位置感覚というものは極めて重要なのだよ。古代から受け継ぐ本能だ、間違えた方向に進んでしまえば命にかかわるからね、だからけして忘れない」
「なるほど、部屋の家具を位置記憶のツールとして使うんですね?」
「そうだよ。僕はそれに加えて札も使うんだ。ほら、部屋いっぱいに札が貼ってあるだろう? 一つ一つに「住所」が振ってあり、僕は毎日これを見て位置感覚を鍛えてるんだよ」
メモリースポーツというものが日本で広く認知を得るのはまだずっと先のこと、2010年代半ばのことである。
それ以前は遠い異国での大会を噂に聞いたり、国内では同好の士を集めて、あるいは趣味としての競技会がほそぼそと行われていた。記憶力に競技性を見出し、それを極めんとしたマニアたちには、やはりクイズ戦士としても通じるものがあったのか。
「それで七沼くんも……位置記憶の練習してるの?」
「そうだよ。他にも000から999までの千通りの数字にイメージをあてはめるとか、毎日何時間も駅前に立って通行人を覚えてる人とかいてね。いつか記憶力が世界的な競技になったら、そういう人たちが活躍するんだろうね」
「うん……そうかもね」
「競技があるから達人が生まれるんじゃないんだ。まず達人ありき。ある分野に興味を持って、それを極めようとした人たちが競技を生む。ゲームなんかもそうだよね。最初は子供のおもちゃだったけど、最近はプロを名乗る人も……」
はたと口を押さえる。どうも草森葵のそばにいると一人で話し続けるきらいがある。草森葵が物静かな人物だからだろうか。それとも四方八方に興味の枝を伸ばしていた時期だからか。
「ええと、葵さんの記憶力もそういうものかな? 位置記憶とか、ストーリー記憶とかパターン記憶と言われるもの」
「たぶん、違うような気がする。私はあまり情報を加工してないもの。学んだことはそのままの形で覚えてるの」
「そうなんだ」
そうだ、まるで違う、と七沼は思う。
草森葵が記憶している情報は膨大なものだが、それは記憶術だとかメモリースポーツとはまったく違うものだと感じる。
メモリースポーツは無作為な情報を覚える。純粋な記憶力を比較する競技である。
(では……系統立った知識の記憶とは何なのだろう)
(それはやはり、情報の系統樹があるのだろうか。石を積むように、順序立てて記憶することで多くのことを覚えられるのだろうか。つまり、地道な勉強こそが近道……何だか当たり前すぎる気がするけど)
「それで、クイズ研の方でも何かやってると
か……」
草森葵が話しかける。どうも会話に空白が生まれていたようだ。七沼は何かをごまかすように語る。
「ああ、うん、М大クイズ研にすごい選手が現れてね。R大の方では大阪万博のクイズだけで例会やるとかで、そういうテーマを搾った例会がこれからの流行になる可能性も」
「そうじゃなくて……先日言っていたことはどうなったの? 例会で出されていた問題が、新規か、そうではないのか」
「ああ、ええと、それは……」
七沼は、罪を告白する人のようにうなだれて言葉をこぼす。
「噂の通りだったというか……やっぱり盗作をしてた子がいてね。僕も参加させてもらって、過去の例会での出題とか検討したんだけど、間違いないだろうって」
「……その盗作してた人は、どうなるの」
「別に除名とかはないよ。ネットのフォーラムでは、少し悪く言われてたけど」
「そう……」
木枯らしが吹いている。今は冬だろうか。
春風にも思える。梅雨のちょっとした晴れ間のようにも。
思い出は曖昧で、連続性がなく、細部がぼやけている。大学自体の、この頃は特にそうだ。
なぜだろう、と、そう考えるのは過去の七沼遊也か。それとも、人生のどこかの時点で、大学時代を思い出そうとしている七沼か。
なぜ思い出せないのか、記憶がぼやけているのか、草森葵と過ごしたすべての時間は、宝石のように大切なはずなのに。この時期だけが。
過去の七沼はゆっくりと顔を上げ、言葉を一つ一つ確かめるように言う。
「……仕方ないんだ。クイズは答えるだけじゃなくて、作問も大事な文化だから。純粋さを、誠実さを守る人間がいないと」
「七沼くんが、守る人なの?」
「そう……なるのかな、あまり、やりたがる人は、いない仕事だから」
「鉄樹の花」
その言葉は、草森葵から出たのだろうか。おそらくそうなのだろう。七沼は首をかたむけて応答する。
「? それは故事成語だね。鉄樹開花、常識ではあり得ないこととか、めったに起こらないこと、だったかな」
「七沼くん……気をつけてね」
「? 気を、つける?」
「七沼くんがクイズを守るなら、見たくないことも、たくさん見るかもしれないけれど」
「気をつけてね……人の世に起こること、その深みには、際限が無いのだから……」
※
「侵入者……この部屋に?」
ユーヤはまだ信じられないでいる。なぜそんなことをするのか。いったい誰が。
コゥナは割れた窓から外を見ている。窓としては大きなもので、粉々に砕けている。ボーイの言っていた水晶だろうか。
「ユーヤよ、コゥナ様は侵入者を追う。お前はメイドたちから離れるな」
「――待ってくれ、僕も行く」
コゥナがぴくと眉を動かす。ユーヤは一瞬の思考の後にこう言う。
「――まさか命まで狙ってこないだろう。危険ならすぐ引き返す」
「分かった、コゥナ様のそばにいろ」
窓を抜けて外へ。ホテルの庭を抜けて裏手の方向へ。
右手側には祝賀の会場が見えており、こうこうたる光が漏れ出ている。そして夜陰にたなびく黄弊の煙と、それに群がる雑多な妖精。それは天の川にも似た美しさ。
コゥナは数歩進んではさっと地面にかがみ込み、しゅっと息を吸う音を立ててまた進む。
「匂いを追跡してるの?」
「うむ、人間の匂いはウサギより分かりやすい。コゥナ様の矢が当たっていれば血痕を追えたのだがな」
「……」
ユーヤが同行を申し出たのは、万が一にも殺し合いに発展することを危惧したためである。
ユーヤのいた世界よりも明白に平和であり、刃傷沙汰に至るようなことは少ない世界だと考えているが、それでもコゥナが背負っているのは立派な武器であり、相手は正体不明である。何が起きるか分からない。
「コゥナ……けして無茶はしないで。いったん国に帰る予定なんだろう? 君を待ってる人がたくさんいるんだから」
「分かっているとも。コゥナ様はいずれランジンバフの森の狩人になるのだ。不用意なことなど……」
鼻をひくつかせて立ち上がる。
かなりの距離を進んでいた。ホテルの敷地はとっくに出ていると思われるが、緑は濃くなる一方である。ユーヤはかなり息が上がっている。
「……何だか、やけに緑が濃いな、それに水の匂いもするぞ」
「コゥナ様、ここはシュネスハプト南西部にございますアプト・ユレネタゥ緑地でございます」
「? それは何だ?」
問い返したのはコゥナであるが、リトフェットはユーヤの顔をちらりと見て続ける。まばらではあるが街灯もあり、リトフェットはミリ単位で位置を調整して眼鏡を光らせる。
「大河ユレネタゥから引かれる水はシュネスハプトの動脈。200以上の公共井戸に水が引かれておりますが、その排水は下水溝に流されます。その下水がたどり着く場所がこのアプト・ユレネタゥ緑地なのです」
ふとユーヤが脇を見ると、小川が流れている。流れは澄んでおり、夜ではあるが川底の小石まではっきりと見える。とても下水とは思えない。
「下水でこんな綺麗な水なの……?」
「シュネスの浄水技術によるものです。シュネスハプトでは排水によって土地を汚染せぬように、貝類などによる大規模な浄水帯を整備しており、石鹸や化粧品などにも厳しい規制があります。この緑地帯は王立公園でもあり、大きな意味での浄水池でもあるのです」
いわば巨大な水の捨て場。
ユーヤの知る限りそんなものは聞いたこともない。異世界ならではの文化なのだろうか。
コゥナは低い体勢のまま言う。
「だが下水の匂いなどしないぞ。うーむ、これがシュネスハプトの浄水技術か。国に戻ったら学者を派遣して学ばせたいものだが……まず曲者を仕留めてからだな」
「コゥナ、くれぐれも言うけど無茶は」
「分かっている。なぜコゥナ様たちに近づいたのか聞き出すだけ――」
ふいに、広い場所に出る。
周囲を常緑樹の大木が囲んでいる。うっそうと茂る森のただ中という眺めである。
ベンチがあるから公園の中の広場であろうか。中央に街灯が立っているが、その灯りは落とされている。
遠くの街灯からの光と、月明かりによって周囲の木は視認できるが、どこかに誰かが潜んでいるとしてもまったく分からない。
――立ち去れ。
声が真後ろから聞こえた。ユーヤがはっと振り向くが、誰もいない。
――カルデルドニスには何もない。探るなど無意味だ。
――無為な詮索は国に混乱を生むのみ。
「コゥナ、変だ、いろんな方向から声がする」
「特殊な拡声筒を使っているのだろう。声に指向性を持たせて周辺の木に当てているのだ。しかも声の強弱を毎回変えている」
「そんな技術が……」
「闇に潜む者よ! お前は何者だ! まさかカルデルドニスが囲っている間者だとでも言うのか、一介のホテルがなぜそんなものを持つ!」
――我々は大義のために動いている。
「コゥナ、敵は複数かも」
「いいや、一人だ」
コゥナは静かに断言する。
「体臭は一人分しか感じない。どこかの木に隠れているのだ。……しかし、コゥナ様でも声の方向が掴めない。これほどの手練れがシュネスにもいたのか……?」
――我々の邪魔をするな。
――おとなしく立ち去るが賢明。
声が響く。素性を知られまいとしているのか、ひどく一方通行な声に思える。
(……「我々」という言い方を崩さない。あくまで複数だと思わせようとしている?)
(それとも、この場にいるのは一人だが、その人物は組織の一員であるとの強い自負がある……?)
それに似た疑問を、コゥナは胴間声でぶつける。
「我々と言ったな! もしカルデルドニスが私設の部隊を持っているならただ事ではないぞ! シュネス赤蛇国に弓を引く気か!」
沈黙。
それは思案の間を感じさせた。やはり相手も事を大きくしたくないのか、ユーヤはそう推測する。
――お前たちは誤解している。我々はシュネスに弓引く気はない。誰にも敵対せず、誰も損をしない。
――むしろ、シュネスに飛躍の翼が与えられようとしている。
(飛躍の翼?)
「こそこそとコゥナ様たちを嗅ぎ回って! 何を大それた事を言うか!」
――お前たちも同じようなもの。
――こそこそ、うろうろ、余計なことばかり。
声はその位置を絞るどころか、ますます平板で所在不明なものになる。感情は失せて抑揚は無くなり、話す人間の人格までも虚無になるかのようだ。発声している人間が冷静に徹しようとしているのか、伝えるべきはすでに伝えたと思っているのか。
ユーヤも周囲を探るが、樹木は認識できるものの人間は見つけられない。さほど遠くない気配はあるが、さすがのこの偏屈な人物でも、不気味さを覚えたことは否定できない。
コゥナはもっと明確に苛立っていた。どんと足を踏み鳴らして叫ぶ。
「やましいことが無いと言い張るなら出てこい! こそこそ隠れおって!」
――深き森の民、なぜ関わろうとする。お前には関係のないこと。
コゥナは、ユーヤからは見えなかったが、ほんの数瞬、眉根が怪訝な形を示す。
「お前が森の民の何を知る」
――よく知っている。掟を破り、森を出た放蕩者。弓だけは達者と息巻く未熟者。トゥグートの娘。
「なっ……!」
驚愕に目を見開く一瞬後、背中から弓を抜いて矢を番える。複数の動作は連続しており、弓が十分な張力を得るまで一秒とかからない。
「ユーヤよ、無茶をしないわけにいかなくなったぞ」
「コゥナ、落ち着いて」
「こいつは森の民だ。まさかランジンバフの森の住人ではあるまいが、間違いなく狩人。狩人がシュネスの問題に関係している。見過ごすことはできない」
「落ち着くんだ、ここは――」
ユーヤが何事かをつぶやく。けしてコゥナより遠くに声が伝わらぬよう、最小限度で。
「……む、なるほど」
そして数秒後。
「そこだ!」
射つ。矢は細枝を叩き折り、数枚の葉を貫通して闇の奥へ。
さらに二射、三射、矢を抜いてから射つまでが一つの動作に折り畳まれている。八方に射たれる矢はしかし、コゥナの手に手ごたえを残さない。
――やはり未熟者。
そして声は止み、すべての気配は闇の奥へ。
「くそ!!」
コゥナが、月へと叫ぶ。
その小さな身体からとは思えぬ声量。無数の葉が揺らされ、闇の中から鳥たちが飛び立って――。




