第30話 悪いことはできないもの
この日、僕にとって大きな驚きがあった。
二月の最初のデートの時に訪れた焼肉屋は、『焼肉 みたに』と言い、繁華街から少し離れた府立医大と京都御所の間の静かな住宅街の中にある。高校の二つ年下の後輩が、その妻と二人で始めた店で、一〇周年の祝いの花をおくったのは二年前だったろうか。
美味しい和牛を食べさせる、「知る人ぞ知る」大人の名店である。
七時の予約をしていたが、店についたのは八時前だった。
ちょうど落ち着いたところだと言う。九時を回ると、客は僕ら二人だけになる。
「今日、ハルさんと佐々倉さんがお見えになるといったら、サチの奴が何やらつくっているようなので、申し訳ないんですが、ちょっと味見してやってください」
ほどなくして、「お待たせしました」とおかみのサチさんが、銀色の皿に乗ったローストビーフをささげるように持って出てくる。
「不味くはないと思うんですけど、店で出すには何やもの足りんいうか、工夫が足りんというか、いかがなもんですかね」
三谷くんとサチさんも一緒に、洋風、和風の数種類のソースをからめたり、カイワレやサニーレタスを巻いたり、切り分ける肉の太さを変えて見たりと色々と試してみる。肉の味がしっかりしており、やわらかく十分に美味しいけれど、好みを言えばローズマリーの香りが中途半端に鼻につく。
店で出すとすれば、これだけ酒のあてに単独で食べるものか、何かアレンジするのか、主となる焼き肉との関係をどうするのか、肉料理に合うワインや数種類の日本酒と合わせながら、疑問や可能性についてワイワイとみんなで話す。
「前も思てたんですが、佐々倉さんはお料理お詳しいですね」
サチさんがそう振ってくれたので、彼女は看護師だけれど、料理が好きで、知り合いの店で日本料理を習っていると簡単に紹介する。
「何というお店ですか?」
「『ふじたか』という、八坂通りにあるお店です」
「八坂のふじたか言うたら、細川の店やないですか。なあサチ」
「えぇ~。細川くんは私の同級生で、奥さまと一緒に何度かお越しいただいてますよ。奇遇ですね」と目をまるくして驚いている。
細川くんというのは、彼の更に二つ(僕から数えて四つ)学年下の後輩で、高校の時から直接知っているわけではないが、彼が料亭を辞めて独立するときに、人づてにお肉のことを色々と教えてほしいと訪ねてきたらしい。その時に、同級生だったサチさんが、このお店のおかみになっていることを知ったという。
「細川くんは運動も勉強もようできたのに、先生方のアドバイス振り切って、進学せんと「さくらぎ」さんの板前にならはったんですよ。いちばん上のお姉さんは、東大の法学部に入られて、今はエライお役人さんやと聞いています」
三谷は「あの料亭に入れてもらうんは、そのへんの大学行くよりよっぽど難しいですけどね。喧嘩して停学くらって料理の道に進んだ奴とは、そもそもの出来がちゃいますわ」と低い声で笑った。
同じ高校の細川と言う名前を聞いた時点で、もしやと思っていたが、姉が東大法学部、ストレートだと言えば一人しかいない。心臓が上下左右ひっくり返りそうになったが、こういう時にまったく顔にでないのが京都人の京都人たるゆえんである。そう思うと、なるほど「ふじたか」という名前は、よく考えられておりインテリっぽくて洒落ている。
「なかなか悪いことはできんもんや」と、三人のうなずく顔を見ながら笑う。
「一度、お店にお伺いしたい思いながら、こちらも商売しているので、なかなか時間がなくて」とサチさんが残念そうに言うのを聞いて、「ランチも事前にお願いすると、やっていただけると思います。私から聞いてみましょうか」と結衣が提案。
「じゃあサチ、その時にローストビーフを持って行って、細川にも喰ってもらえ」
「サチさんとご一緒するということは内緒にして、私が友だちとランチしたいとお願いしてみますね。びっくりされるかな?」と、とんとん拍子に話がまとまった。
マンションに帰ってきたのは一一時を過ぎていた。
「浴衣、ええのが買えてよかった。出来上がりが楽しみやな」
「反物から選ぶなんて、はじめてで緊張しました。高価なものを、ありがとうございました」
結衣の柔らかい胸を後ろから抱き寄せながら、ぽちゃぽちゃお風呂に入っている。
「あのお店は、ご親戚か何かですか? みなさん矢代さんのことを『ハルさん』って呼んでおられたし。あと何度か、みなさんのお話しにでてきた「マユミ様」というのはどなたかなと思いながらお話し聞いてました」
「まあ、ちょっと入り組んでいるけど親戚みたいなもんやな。真弓さんいうのは二年前に亡くなった母さんの名前。結衣は入院中に僕の仕事を少し聞いただけで、こっちも取り立ててそんな話せえへんから、わからんもんな。たいした話やないけど、今日はもう遅いから、明日になったら、ゆっくりと教えてあげよ」
少し会話が止まって、結衣がもう少し何か言いたそうにもじもじとしている。
言い足りないことがあるのだろうが、気が付かないふりをする。
「そろそろ、上がるか?」とそれとなく促すと、「あの~」と言いかけて、また言いよどむ。
「どうした?」と聞くと、意を決したように、身体をまわして向き直り、少し恥ずかしそうにしながら「私も、矢代さんのことをハルさんって呼んでもいいですか?」と聞いてきた。
あまりの可愛さに、笑いと鼻水が一緒にでてくる。
「いいよ。じゃあ、緊張しないように練習してみるか。どうぞ」
「ハルさん」
「もっと大きな声で」
「ハルさん」
「もう一回」
「ハルさん」
最後は、泣き声になった。
「よし、合格」
何ともバカバカしくも、幸せな一日の締めくくりだった。




