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ハルの仕事と結婚  作者: singlemalt
五 月  ~早 苗 月~
28/32

第28話 風邪ひきさんのおっぱいパワー

 ホテルの部屋に入って、コンビニで買ってきた缶ビールのプルトップを引き上げ、ひと口だけ飲む。時刻は一一時半を過ぎている。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながらそのままゴロリと横になる。


 【プルプル】


 ワンコールで声が聞こえる。

「はいはい、お待ちしておりました。遅くまでお仕事ご苦労さまです」

「遅くなってごめんよ。昨日と違って、チョット元気な声になったね」

「まだ、もう少し鼻がグスグスしていて、微熱もあるんですけど、今日一日、寝ていたのでだいぶ元気になりました。明日、一日寝てると、バッチリ治ると思います」

「良かった。ご飯はちゃんと食べられた?」

「はい、お昼に師長さんがお見舞いに来て下さって、おかゆを作っていただきました。ちょっと厳しくて誤解されやすいんですが、とっても優しい人なんですよ」

「味付けは辛くなかった?」

「そんなこと言って~。でもまだ鼻が詰まっているので、味が良くわからないんですけどね。ハハ」と、鼻声を出して笑った。

「矢代さんは、まだ東京ですか?」

「そうだよ、新橋のホテルに帰ってきたところ」

「東京におられると、話し方やイントネーションが東京の人みたいですね」

「そないイケズなこと、いわんといておくれやす」

 御付き合いで少しだけ笑ってくれる。

 ゆかりさんから電話がかかってきて、僕が元気になって退院したこと、結局、最後まで原因がわからなかったことなどを話したという。

 まだ、頭の芯が少し重い。

 目を閉じ、結衣の声を聞いていると、なぜかじんわり涙がでてくる。

 

「ちょっと、お疲れですか?」

「どうして?」

「少し声にお元気がないというか、電話なので気のせいなのかもしれませんが」

「いままで五年ぶりに、東京で一緒に仕事をしてた後輩と会っていた」

 その声から、何かを感じ取っているようで、紡ぐ言葉を探している。

「いいお話しができましたか?」

「そやなぁ、結衣のおっぱい触りとうなった」

 そう言うと、「いっぱいいっぱい、触らせてあげますよ」と、母親がむずかる子供をあやすように、優しいこえで応えてくれる。

「結衣、一つ聞いていい?」

「はい」

「結衣は、運命って信じる? 人生において起きることは、偶然か必然か、どっちだと思う?」

「ボーっとしている頭には、なかなか難しい直球のご質問ですね」

 そう言って小さく笑い、少し考えていたが、落ち着いた確信に満ちた口調で続けた。

「私は運命を信じていますよ」


「入院されて、担当になって、お話したり聞いていただいたりする中で、お会いできてよかったな、もっとゆっくりお話ししたいなって思っていたんです。私はたくさんの患者さんのことを覚えていますけど、私のことを忘れないでほしい、覚えておいてほしいと思ったのは初めてでした。でも、ナース服を脱ぐと、街で会っても気づかれませんし、患者さんと看護師ですから退院されるとそれきりになる、それが当然だということもわかっていたんです」

 自分自身に言い聞かせるように、いつも以上にゆっくりと話す。

「それがね、あの日の土曜日、ばったりとお会いできたでしょ。私は、人込み嫌いなので河原町にいくなんて本当に久しぶりで、どうしてあの時にあそこに行ったのか、自分でもよくわからないんです。それに、あんなにたくさんの人がいたのに、矢代さんが、すーっと自然に目に入ってきたんです。その時に、『ああ、だからここにきたんだ』って思ったんです。私がどうして、あんな、とんでもないことをしたのかも今はわかります。わたしは男の人には奥手なのに、神様がそうしなさいって言っているんだと思って、だから、だから自分でも信じられないくらい、積極的にどんどんいけたんです」

 受話器を耳に当てたまま、結衣の声を聞きながら涙が溢れてくる。

「この三か月間、そのことをずっと考えていました。上手くは言えませんが、『これって、そういうことだったんだな』と感じる人にだけにあるんだと思います。それを何と呼ぶのかはわかりませんけど…」

 そう言い切ると、何度か咳きこんだ。

 何かを話そうとすると、涙声になりそうで、落ち着くまで待っていた。

「結衣は僕にとっても大切な運命の人やで」

 そう言うと、電話口から、ワーンという昨日とは少し違う泣き声が聞こえた。


 これまで何から目を逸らそうとしてきたのかはわかっている。

 それは、美穂子を失った空しさと、途中で投げ出してしまった自分自身への怒りだ。あれで良かったのか、正しかったのか、他に何かできることはなかったのかと、考えるのが苦痛だった。


 裏切られたのか、裏切ったのか…。

 見限られたのか、見限ったのか…。


 京都という殻の中に閉じこもり、仲の良かったタケとまで距離を取ってきた。

 逃げるほど、避けるほどに荷物は重くなっていく。残っているのは、もう事実だったのかどうかもわからないほど、負の感情によって修正・改竄された記憶でしかない。その過去データをデフラグし、自分の感情に合わせて形だけ清算しようとしたことが間違っているのだろう。

 哀しいことも、つらいこともあったけれど、それが京都に戻ってくるきっかけになった。祖父の最後にも間に合ったし、最愛の母の突然の死にも、そばについていてやることができた。原因不明の高熱が続いて死ぬような思いもしたけれど、それで結衣に会えたじゃないか。

 人生の節目の一つ一つをプラスマイナス、正解不正解に分けることに意味はない。関係や形は変わっても、美穂子や社長夫婦が、僕にとって大切な人であったこと、今でも大切な人であることには変わりない。そこから背を向ける必要はどこにもない。

 やはり、織り目が変わったのは、僕の行動が影響しているのだ。

 「なぜ、今なのか?」の答えは、今しかないからだ。

 入院後、仕事を整理したので、手は空いている。

 何ができるかわからない。力になれるかどうかもわからない。できることはないかもしれない。でも、話を聞いて寄り添ってあげることくらいはできるはずだ。

 そう思うと、心が少し軽くなった。

 

 缶ビールを飲み干すと、携帯の履歴の二番目をスクロールした。

 夜中の一時を過ぎていたが、ワンコールでつながった。

「タケ、さっき言い忘れたけど、山下社長と奥様にお会いしたら、矢代が会社のこともお体のことも、とても心配していたと、早くお元気になってくださいと言っていたと伝えておいてくれ」

「わかりました。必ずお伝え致します。きっと喜ばれると思います。ありがとうございます。ありがとうございます」

 そう言った、タケの声もくぐもっていた。

 今の段階で、それ以上、できることはない。あとは、どうするのか、どうしたいのかは先方が考えることだ。とりあえず後ろ向きのスタンスから、スクエアに戻すことができた。

 もう少しすれば、踵が上がってくるだろう。



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