第27話 あの日、僕はどんな顔をしていたのだろう
タケと別れて、一人で銀座から新橋に向かって歩く。
最初に感情を支配したのは猛烈な後悔だった。
「何やってんだ、俺は…」
舌打ちとともに何度も無意識に同じフレーズが口を突く。
タケに電話をするべきではなかった。
山下繊工の話など、聞きたくもなかったし、そもそも聞く必要もなかった。
山下社長やその奥さん、毎日遅くまで仕事していた真面目一本の研究員、やる気と元気が眩しいプロジェクトメンバー、意見が対立した洋さん、上場に反対する僕を鬱陶しそうに見ていた銀行の支店長や会社の上司、そして美穂子。嬉しそうな顔、笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、かかわった人々のその時々の顔が次から次へと浮かんでくる。
歯を食いしばりながら、それを中指でデリードを連打して強制排除していく。
特別なことが起きているわけではない。
タケが説明してくれたことは想定の範囲。
聞き流していた事実がデータによって確定しただけだ。
どんな企業であっても、永続的に成長を続けることはできない。チャンスもあればピンチもある。それは上場しても上場しなくても同じ。成長、拡大するメリットもあれば、逆に衰退するリスクもある。
誰かが死ぬわけではない。所詮は銭金の話だ。
株価が上がって事業譲渡すれば、山下一族の懐も相当、潤うはずだ。
それは僕が、そこにいてもいなくても同じ。
いまさら、できることなんて何もない。
それがわかっているのに、なぜタケに連絡したのか。聞かなければ良かった、触れるべきではなかった、どうして今さらこんなことをしたのか…。
「そうか、山下さんのところも大変なんだな」
「やっぱり、上場ってメリットもあるけど、リスクもあるよね」
「最後は本人たちの決めたことだし、こればっかりは仕方ないよね」
「なにを言っても、結果論でしかないからな。逆に『あの時に、上場してた方が良かった…』と恨まれる可能性だってあっただろうし…」
なぜ、そう軽くいなして一般論として距離をおけなかったのか。タケのせいじゃない。自分の弱さへの怒りだけがギリギリという奥歯の音とともに蓄積されていく。
後悔と合わせて、着実に大きくなっていくのが「なぜ」という思いだった。タケに連絡したのは、もやもやした噂話や過去と決別し、昔話としてファイルに格納するためにすぎない。それは結衣との未来を真剣に考え始めているからだ。いまの自分は山下染工と無関係であることを再確認するためだ。しかし、動き出してみれば、それにつられて連動かするように、いくつかの事象が動き始めている。
「おやっさんが、脳梗塞で入院した?」
「来春には、山下染工はハゲタカに買収されなくなる?」
去年の今頃であれば何も起きていなかったはずだ。
織り目が変わったのは何が影響しているのだろうか。
僕が過去に向き合おうとしたからなのか。
そんなバカなことがあろうはずがないが、そうではないと言い切れるだろうか。
これまで通り、全く関与しなければ、何も知らなければ、何も起こっていなかったような気がするのは、何故だろう。
一〇年、二〇年、その名前を忘れかけた頃に「山下繊工は外国企業に買収されてとうになくなったよ」「創業者一族は、放逐されてどうなっているかわからない」と聞かされるほうがよかっただろうか。マンションや新しい家が立ち並ぶ会社や工場の跡地を見て「へぇ~、このあたりも変わったなぁ」なんて軽く言えただろうか。
デリードキーから手が離れた。
山下のおやっさん、おかあさんに最後に会った時に僕はどんな顔をしていたろう。
別れの時、美穂子に何と言ったんだろう。
足が止まって、「ふぅ~」と大きく息を吐く。
どこまで歩いてきたのだろう。
都庁の空に浮かぶ月がきれいだ。今日は満月だろうか。
一一時を超えている。
月が滲んで、ぽろりと涙がこぼれる。
結衣の声が聴きたかった。




