恋心
「もうすぐお昼だけど、食事は別々にとる必要があるよね。その後はどうする?」
武器屋を出たクリスタが、おずおずといった様子で訊いてきた。
「……そうだな」
ここでいったん別れて、また待ち合わせるのは大変か。
それに、人通りが多いうちに部屋へと帰った方がいいだろうとも思った。
自室が安全かどうかはまた別の話だけど。
「昨日は大変だったし、今日はもう帰って休もうかな」
ハイドロが言うと、クリスタは幾分寂しそうな顔をして、
「うん。わかった。じゃあここで別れよう」
「送っていくよ」
「大丈夫。一人で帰れる」
あまり心配しすぎるのも違うか。
彼女が人質である、というこの状況になかなか慣れない。
人質としての価値があるうちは逆に大丈夫だとわかっていても、どこまで心配していいのかわからない。
ハイドロは、自分のこぶしを強く握り締めた。
こんな状況に慣れるべきではないのだ。
「街のことを教えてくれてありがとう、クリスタ。楽しかったよ」
「ううん。こちらこそありがとう。何か、良い案は浮かんだ?」
トーナメントに参加しなくてもすむ方法を探す、という名目で街を案内してもらっていたんだった。
ハイドロは首を横に振る。
「思い浮かばない」
「そっか……」
「一緒に逃げようか」
「え?」
クリスタは言葉の意味を受け取り損ねたのか、無表情でこちらを見てきた。
「ここから逃げて、僕と一緒に旅をしよう」
ハイドロは丁寧に言いなおした。
もちろん本気で言っていた。
この街にいても未来はない気がする。
ハイドロはグレイシアの手駒として使われ続けるだろうし、クリスタはハイドロを縛るための人質のままだろう。
グレイシアが領主になっても、自由にしてくれるとは限らない。
むしろ消される可能性の方が高い気がする。
「そうだね。旅をしてみたい」
クリスタは言った。続けて、
「古代魔法によって空に浮き続けているという空中城塞都市エアに行ってみたい。決して人に懐かないはずのモンスターと共存しているという魔場ボッカに行ってみたい。火山口の周囲に住んでいる火の妖精たちの集落に行ってみたい。ハイドロとだったら、きっと楽しいと思うの」
でもね――とクリスタは続ける。
「私は雪の妖精だから」
「……」
「寒いところじゃなきゃ生きられない。ううん、この街じゃなきゃ生きられないの。だって、体内の熱を排出するための装置は、ここにしかない」
この街の闘技場は、他の国にない高度な技術が使われている。
それが、雪の妖精たちの寿命を延ばしている。
一つの場所に根を張ることでしか生きられない種族がいる。
誰もがハイドロのような根無し草になれるわけじゃない。
好きなときに、好きな場所へ行けるわけじゃないのだ。
「だから、ごめん。一緒には逃げられない」
クリスタは顔を伏せた。
ハイドロは、自分の浅はかな発言を後悔した。
「こっちこそ、ごめん。雪の妖精のことを――クリスタのことを知りもしないで、勝手なことを言った。自分と同じ基準でものを言ってしまった。ごめん」
「謝らないで……謝らないでよ。巻き込んだのは私なんだから。ハイドロにこっちの事情を、都合を押し付けているのは私なんだから」
「巻き込んだのはガロとグレイシアだ。事情を押し付けられたとしても、それを背負うかどうかは僕が選べる。今ここにいるのは、僕の意思だよ」
これはハイドロの本音だ。
でも、どれだけ本気の言葉をぶつけようと、クリスタには近づくことができない。
一定の距離から踏み込めない。
彼女が雪の妖精だから触れない。
好意を抱いても触れられないのだ。
――好意?
ああ、そうか。そうだよな。ハイドロはこの街に来たばかりだ。クリスタと会ってから、まだ一日も経っていない。それなのにハイドロは、自分の命を危険に晒してまでグレイシアに手を貸そうとしている。
自分では、ただの善意だと思っていた。
善意という言葉が押しつけがましいなら、いろいろなことが運悪く重なった結果と言い換えてもいい。
とにかく、クリスタを放ってはおけない――それ以上の想いはないのだと思っていた。
違った。
自分は、クリスタのことが好きなんだ。
彼女に触れたいと思っているんだ。
ハイドロは今この瞬間に、自分の気持ちを自覚した。
とはいえ自覚したところで、種族間の障害を越えることはできない。
どれだけ好きになっても触ることはできない。
じゃあ、この想いを明かすのはやめておこう。クリスタに迷惑を掛けないようにしよう。
ハイドロは自分の恋心を自覚したと同時に、その恋心を封印することに決めた。
物理的な距離の制約は、そのまま心理的な枷になる。それは仕方のないことだ。
それでもクリスタのことを大切にしたいと思った。
「僕は、僕にできることをする。なんとかして現状を打破する」
「でも……」
クリスタは何かを言いかけ、それから「ううん、そうじゃない」とつぶやいた。
「ここで謝るのは違うんだよね?」
「うん」
「わかった。私も、自分にできることを考えてみる。」
クリスタはきびすを返した。その背中が、やけに小さく、遠く見える。ハイドロが手を伸ばしても決して届くことのない距離だ。彼女は少し歩いてから振り返り、
「今日はありがとう!」
大きく手を振った。ハイドロも手を振り返す。
「また明日!」
「うん。また明日」
クリスタはニコッと笑い、群衆の向こうに走っていった。
ずっと同じ空間にはいられない。だからこそ一緒にいられる時間は尊いのかもしれない。
なんてことを考えていると、
「へい、にいちゃん」
いきなり、背後から肩を軽く叩かれた。
この距離まで、ハイドロに気づかれることなく近づいてきたのか?
あり得ないだろ。とっさに振り返って、相手の顔を確認する。
驚きのあまり、思わず息をのんだ。
顔中にヒビの入った男が立っていた。
クリスタのように髪を伸ばして隠そうとはしていない。顔中に広がっているから意味がないのか、堂々と素顔をさらけ出している。
あまりにも脆そうで、こう言ってはなんだけど、とても綺麗だった。
触れただけで砕けてしまいそうな儚さがある。
何かの奇蹟で、かろうじてそこに存在している、そんな想いを見ている者に抱かせる。
「いやあ~。やっぱり他種族はあっちいな。あんたはひときわ熱い気がするぜ。なんだぁその角は。人間か?」
やっぱりこの男、さっき肩を叩いたよな。
雪の妖精にしては異質な距離感だ。熱が怖くないのか?
「おいおい、無視かよ。まあいいや。あんたさ、グレイシアの派閥に入って、フラストームとやり合うつもりか?」
見た目の儚さとは裏腹に、その口調は軽く、どこかひょうひょうとしている。
なんて答えるべきだろう。迷っていると、
「戦いなんてやめておけよ。くだらねえ」
「……」
「どうせ弱みを握られているんだろ? グレイシアはそういうことをするからな。なんなら俺が匿ってやってもいいぜ」
「あんたは何者だ?」
「お、喋ったな。俺の名前なんて、どうだっていいだろうが」
よくないだろ。
「どうして僕に絡んできた?」
「ちょいと興味があってね」
謎の男は、そこで言葉を止めた。
軽い口調で喋っている割に、あまり情報を漏らさない。
「ハイドロー! 忘れ物したー!」
なぜかクリスタが引き返してきた。
ハイドロを見て、その隣に立っている顔面ヒビだらけの男を見た。クリスタは不自然な体勢のまま、ぴしりと固まった。でも口だけはあんぐりと開けている。
「……クロノ様」
クリスタが呟いた。
クロノ様? 様って言ったか?
「おっと、連れが戻ってきたか。あんたとはまた会う気がするね。そんじゃ、またな」
謎の男は、すっと軽い身のこなしで距離を取り、音もなく去って行った。
その背中を、クリスタは鋭い目つきでずっと睨んでいた。彼女の発する刺々しい空気に、ハイドロは話しかけることをためらった。
クリスタは強く拳を握りしめていたけど、頭を振ってから「ふうー」と息を吐いた。意図して怒りを抑えようとしているらしい。彼女が落ち着くのを待ってから、
「あれは誰?」
「クロノ様」
「……つまり?」
「領主の三男、クロノ・ヴェイル様」
ああ、そうか。そうだったのか。
そういうことだったのか。
ハイドロの中のさまざまな問いが、一気に腑に落ちた。
ずっと欠けていた最後のピースが綺麗にハマった感覚だ。
「たとえ領主様の息子であっても、割れ者には、スノウリンクスに参加する権利がないの」
グレイシアが三男のことをあまり口にしなかったのも、三男が家督争いのトーナメントに参加しないのも、彼が割れ者だからなんだ。
でも、どうしてクロノという名前なのだろう。
「あいつの名前ってさ。十二花結晶のネックレス――クロノ・フラワーと関係があるのか?」
「彼のコアは、他の妖精と違って十二花結晶なんだよ」
雪の妖精のコア。
胸の奥に埋まっているという、ひとひらの雪の結晶。
それが十二花結晶?
クリスタの口ぶりからして、かなり珍しいことのようだ。それこそ、現実に採れる十二花結晶の鉱石と同じように。
「頭もよく、魔法の才能もあり、将来を期待されていたの。でも六歳のときに、自身の持つ強大な魔力に耐えられなくて。魔法が暴走し、コアを傷つけてしまったの。それで……」
クリスタが言い淀んだ。
それで割れ者になった、ということか。
「その暴走事故に、長男や次男が関与していたってことはないのか?」
「下町育ちの私には真実なんてわからないけど……誰かが関与しているわけじゃないとヴェイル家は公表しているね。あれは間違いなく魔法の暴走による自爆だったと。クロノ様ご本人もそう仰っているし」
「邪推だったか」
表向きにそう公表したのなら、それが真実だ。
裏で起こったことをあれこれと推測しても意味がない。
「だから、誰のせいにもできなかったんだ」
悪者がいない、ただの不運な事故。
「それでもクロノ様は、ずっとずっと頑張ってきたんだよ」
前領主が亡くなるまでは、割れ者というレッテルを跳ね除けるほど評判は良かったんだっけ。
クロノは、割れ者たちにとっての希望だったのだろう。
「私は……私たち割れ者は、彼に立ち上がってほしかった。軍政を拡大させ、近隣諸国に攻め入ろうとする長男グレイシアじゃなく、割れ者を役立たずとして排除しようとする次男フラストームじゃなく、悲しみを知っている三男クロノ様に立ち上がってほしかった」
でも現実はそうならなかった。
「クロノ様は、早々に家督争いから逃げたの。自分には関係ないって。領主様が亡くなってからまだ一か月しか経っていないけど、酒に溺れて遊び歩くようになった」
「……凄い変わりようだ」
親が亡くなったことで、今まで抑圧されていた何かが暴走した?
それとも別の理由があるのか?
「だから私は、あいつのことが嫌い」
クリスタは吐き捨てるように言った。
「割れ者だから応援していたのか?」
こう言ったらなんだけど、治世には関係ない要素だとハイドロは思った。
悲しみを知っていることと、良い領主であることは、別の問題だ。
「それもあるけど、それだけじゃない。とても聡明で強い人なんだよ。あの事故さえなければと、誰もが口にしていた」
事故さえなければ、か。
「過去に、問題児だらけの騎士と、武器を持ったこともない民兵を指揮して、隣国との小競り合いを収めたことがあったの。領主様はそこでクロノ様に戦死してもらうつもりだったのに、クロノ様は勝って帰ってきた」
「戦死してもらう? 割れ者の息子は必要ないってこと?」
「そう」
クリスタは平然と頷いた。
息子であろうと、コアが傷ついた妖精は生きている価値がないのか。
ハイドロは領主のことを知らないけど、嫌悪感を抱くには充分な話だ。
同時にクロノという人物の異質さが際立つ。
「領主様が亡くなった森の妖精との戦争も、クロノ様が収めたんだよ」
有能なエピソードしか出てこない男だ。
でも、とクリスタは続ける。
「家督争いを辞退した後は、見る影もないけどね。クロノ様のことを慕っていた騎士たちは絶望して、どんどん素行が悪くなっていったの。それこそ仕えている人と同じように、昼間からお酒を飲んだり、遊び歩いたりね」
「さっき街中で酔っぱらっていた連中って……」
あれは三男を支持している騎士だよ――クリスタはあのとき、そう言っていた。
ガロよりもたちが悪いと。
一応彼らはまだ、クロノを支持してはいるのか。
「私には、彼らがダメになっちゃった気持ちが少しわかる」
慕っていた存在が、ろくでもないやつに成り下がってしまった。
なまじ凄かったときを知っているぶん、その落差から生まれる失望感は大きいのかもしれない。
ハイドロに言えることなど何もなかった。
「クロノ様は、氷闘士のチャンピオン――カタクリにも認められていて、二人はとても仲が良かったんだけど、領主様が亡くなった後は反目し合っているんだって」
チャンピオン? カタクリ?
どこかで聞いた名前だ。
少し考えて思い出した。グレイシアが、自分と同程度の実力を持っている雪の妖精はカタクリしかいないと言っていたんだ。そんな妖精がクロノのことを認めていたのか。
しかしその関係性も、今は昔――。
「ごめん、いきなりこんな話をして」
「ああ、いや。聞けて良かった」
かなり重要な情報だったような気がする。トーナメントがどう転ぶかわからないけど、クロノの存在はどの陣営にとってもキーになるはずだ。
できればまた会いたいとハイドロは思った。
「そういえば忘れ物って何?」
ハイドロは話題を変えた。
クリスタの顔が、ぱっと明るくなる。
「あ! そうそう! 忘れ物っていうか、渡すのを忘れていた。はい、これ」
クリスタが差し出してきたのは、武器屋に売っていた氷狼のチャームだった。
彼女の手の中で、青く輝いている。
「プレゼント」
「どうして?」
「家督争いのトーナメントを、無事に終わらせられるように。私の願いを込めて」
ハイドロは右手を伸ばし、そのチャームを受け取った。手袋ごしでも、ひんやりしていて気持ちが良い。
「誰かに物をもらったのはこれが初めてだ」
旅をしていると、ちょっとした出会いはたくさんある。騙されることもあれば、親切にしてもらえることもある。数多くの温かい行為をたくさん受け取ってきたし、それらの思い出はすべて宝物だ。
でも、形あるものをもらったことは一度もなかった。
初めてのプレゼントが、好きになった相手からなんて……!
感極まって泣きそうになる。胸の奥から溢れてくるものをこらえて、目元をぬぐった。そんな自分が少しだけ気恥ずかしくて、ハイドロは誤魔化すように、クリスタに笑顔を向けた。
「ありがとう。大切にするよ」
「う、わ。反則だよ」
あたふたとするクリスタだった。両手を顔の前でぶんぶんと振って、
「えっと、気に入ってくれてよかった! それじゃあ、今度こそまた明日!」
「また明日」
クリスタはすぐに背を向けて、全力で走り去ってしまった。
ハイドロは少しの間チャームを握りしめて、手の中の冷たさに身をゆだねた。




