あのとき、クリスタに何があったのか
時間は少しさかのぼる。
「あなたたちは……」
ハイドロが侵入者に襲われたあの夜――クリスタの部屋を訪れたのはクロノと銀髪の受付嬢だった。
割れ者が住んでいるこの辺りは、顔見知りでなければすぐに警戒される。
でもクロノのことはみんな知っている。もちろん面識はない。
下町の妖精たちが一方的に知っているという意味だ。下町に住んでいる誰もが、彼のことを応援していた。期待していた。
まだクロノのことを信じている誰かが、クリスタのところに通したんだ。
「実は、君のことを前から知っていた。割れ者たちの間で有名な看板娘、クリスタだろ?」
クロノが言う。
「え? 知っていた?」
「立ち話もなんですし、お部屋に上がったらどうです?」
なぜか受付嬢がそう答えた。
「ここは私の部屋なんですけど!」
とクリスタは反論したけど、結局、二人を部屋に入れることにした。
壁には氷製のナイフがいくつも掛けられていて、テーブルの上には氷像彫刻の花が所狭しと飾ってある。床には服が散乱していて、足の踏み場もない。物が雑多にあり、ごちゃごちゃしている部屋だ。
こんな場所に領家の三男を入れることになるなんて。
掃除しておけばよかった。
……いや、ちょっと待て。ハイドロがここに来る可能性だってある。そうだよ。今、後悔していおいてよかった。クロノが帰ったら部屋を掃除しよう。
クリスタは前向きにそう考えた。
「これはまた、豊かなお部屋ですね」
元受付嬢がバカにしたように言った。
それに対してクロノは何も言わず、
「突然だが君にお願いがあるんだ」
急いでいるのか、いきなり本題に入った。
それは以下のような話だった。
領主が亡くなってから酒に溺れ、遊び歩いていたのは、グレイシアとフラストームの目を欺くための演技だった。いずれ来る領主の座を賭けた争いに、有利な状況で食い込むためだ。
クロノのことを慕っている騎士の中で、信頼のおけるものにはすべて話してある。
そのときまで一緒に堕落するフリをしてくれと頼んである。
チャンピオンのカタクリとも仲違いしておらず、彼はいつでも力を貸してくれる。
今回のトーナメントに割れ者は参加することができない。だからクロノは、顔を隠して参戦する。自分の剣技なら、グレイシアやリア、フラストームやリキュールに勝てる。それだけの自信がある。
しかし今回はハイドロという謎の存在が参加すると聞いた。
不確定な要素があるのに、賭けには出られない。
そこでクリスタにはハイドロとの橋渡し役になってもらいたい。
クリスタとハイドロに繋がりがあることはわかっている。できれば彼をこちらの陣営に引き入れたいが、無理なら強制はしない。他の手段を探る。
他にもクリスタには、この辺りに住んでいる割れ者たちをまとめてもらいたい。これは顔の広い君にしかできない。
割れ者と氷闘士を支持基盤にし、グレイシアとフラストームに対抗したい。
「ハイドロがどうするかは、ハイドロが決めることです」
話を聞いたクリスタは、そう答えた。
クロノが、ただのダメな奴じゃないと知って嬉しかった。本当ならすぐにでもクロノに協力したかった。
でもこれ以上、クリスタの都合でハイドロを振り回したくなかった。
この時点でのクロノの実力は未知数だ。
クリスタ一人であればこの賭けに乗っただろうが、今の自分はそう簡単には頷けない。クロノと通じていることがバレたら、自分はもとよりハイドロも消されてしまうのだから。
現状がどん詰まりなのはわかっている。
だからといって安易に違う道を選ぶわけにもいかない。もっとひどい状況になる可能性だって、多分にある。
何が正解なのか、どう動くことが最適解なのか、クリスタはわからなくなっていた。
卑怯な考え方かもしれないけど、クロノ陣営に協力すれば勝てるという、なんらかの確証が欲しかった。
今回のトーナメントは、関わった者の何かを変える。
運命なのか人格なのか縁なのか、それは各々違うけれど、クリスタのこともしっかり変えていた。
私は、狡猾に、不誠実に、臆病になってしまった――と自分ではそう思っていた。
大事なものがなければないほど、人は清廉になれる気がする。
「無理なら強制はしない。俺はグレイシアやフラストームとは違う。ただ、余計な邪魔が入ってほしくないだけだ」
「……伝えるだけなら」
「荷が重いなら、場をセッティングしてくれ。俺が直接交渉する」
ここで受付嬢が「お言葉ですがクロノ様」と割って入った。
「街中ではクリスタ様とハイドロ様に見張りがついております。クリスタ様の場合は下町まで来れば見張りもいなくなりますが、いかがいたしますか? ハイドロ様もここにお呼びして、お会いしますか?」
「いや、ハイドロには夜も見張りがついているよな。遅い時間に出歩けば不審に思われるかもしれない」
「クリスタ様のところに向かうとなれば、見張りもただの逢引だと思うのでは?」
「んなっ……!」
と声を上げかけたクリスタを無視して、クロノが口を開く。
「それはそうかもしれないが、俺たちでさえ、今夜ここに来るのは大変だったしな。あまり危険な橋は渡りたくない。それよりも俺に良い案がある」
「嫌な予感しかしませんが」
受付嬢が眉根を寄せた。
クロノは構わずに続ける。
「俺がグレイシアと一回戦で当たるよう手を回しておこう。そこでグレイシアに勝てば、奴は俺を消すために追手をかけるはずだ。そこで追手を返り討ちにすれば、ハイドロやクリスタの見張りに人手を割く余裕がなくなるだろ」
「……グレイシア様に勝てるのですか?」
「まあ、大丈夫だろ。俺は強いから」
「わかりました。その案で行きましょう」
受付嬢はクリスタに向き直って、
「それでいいですね?」
有無を言わさぬ訊き方だった。
「わかった」
とクリスタは素直に頷いた。
クロノがグレイシアに勝つ。そんなことが本当に起きたら、クロノ陣営に協力しよう――クリスタはそう思った。
それから一週間が経ち、すべてはクロノの思惑通りに事が進んだ。
闘技場の運営に携わる妖精たちの中にも、クロノを支持している派閥がある。彼らは秘密裏にクロノをエントリーさせた。
クロノがグレイシアに勝つと同時に、闘技場内のクロノ派は行方をくらませた。
もちろん危険だからだ。
彼らは、事前に協力を要請しておいたカタクリの水晶宮に匿っている。あそこは領家の妖精であっても、おいそれとは入れない場所だからだ。
グレイシアは負けた腹いせに、三十人以上の精鋭を動員して、クロノを場外で殺そうとした。
しかしクロノは追手を返り討ちにしてしまった。
その結果、ハイドロの見張りが一時的にいなくなり、彼をクロノと引き合わせることができた。
グレイシアとフラストームの会合が行われた前日のことである。
あっちでもこっちでも策謀が渦巻き、交渉が行われていたのだ。
その日、水晶宮の応接室には、クロノ、カタクリ、元受付嬢、ハイドロ、クリスタが顔をそろえていた。
ハイドロだけが他種族用の木のイスに、他の面々は氷のイスに座っていた。
このとき、ハイドロとカタクリは初対面だった。
カタクリはハイドロのことをいたく気に入り、
「今度、スノウリンクスで戦おうぜ」
と誘っていた。
銀髪の元受付嬢とは、
「また会いましたね。ご無事で嬉しく思います」
「うん。アイオーンさんも元気そうで何よりだ」
と言葉を交わしていた。
彼女の名前がアイオーンだと、クリスタはここで知った。
「初対面の時に僕のことを気にかけてくれたのは、クロノの役に立つと思ったから?」
「それもありますが、やはりガロのことが大きいですね。あいつの鼻っ柱をへし折ってくれたことは、本当に感謝しているのです」
「そっか」
ハイドロとアイオーンの二人が仲睦まじく会話をしていて、クリスタは胸の奥がざわついた。
嫉妬の炎が体内で暴れているのだと自覚できる。
スノウリンクスでこの感情をすべて放出したかった。
仮面をつけていない素顔のままのクロノが、
「さて、いいかい」
と話し始める。
「俺はグレイシアを倒した。明日はお前がフラストームを倒すだろ」
「僕がそんなに強く見えるのか?」
ハイドロが問うと、クロノは頷いた。
「見えるね。フラストームは負ける。そうすれば奴らは絶対にトーナメントを中止にしようとする。そのとき、こちらからわざと情報を流して、俺の正体を暴かせてやるのさ」
「暴かせてやる?」
ハイドロは首を傾げた。
クロノがにやりと笑う。
「いつまでも仮面のままってわけにはいかないしな。トーナメントのどこかで顔を明かす必要がある。自分の弱みは最大限利用しないと、損だろ」
「どうやって明かすんだ?」
「俺の派閥にいるフラストームのスパイに、それとなく情報を渡してやるのさ」
「でも弱みは弱みだろ。どうやってその弱みを利用する?」
ハイドロが言うと、クロノは両手を広げて「過剰な演出でごまかす」と言った。続けて、
「グレイシアとフラストームは、まず間違いなく闘技場で俺を告発するはずだ。大勢の前で俺をバカにすることが好きな奴らだからな。そんときを狙って、チャンピオンのカタクリや他の氷闘士に、俺を支持していると観客席から言わせる。できればお前さんにも声を上げてもらいたい」
「僕は構わないよ」
もうこの時点で、ハイドロはクロノに協力することを決めていたらしい。
「ありがとよ。とにかく実力のある連中に、ここぞという場面で立ち上がってもらう。相手が俺を貶めるために用意した舞台を、こっちが利用する。グレイシアとフラストームの企みを、絆の力が覆す。感動的だろ」
「計算じゃなければ、感動的かもな」
「っは! 言うね!」
「それで、その後はどうする?」
「勢いで流れをこっちに引き寄せて、領民の支持を取りつける。そのときにグレイシアとフラストームが悪あがきをするだろうから、さっさと片づける」
「グレイシアは僕に任せてくれ」
ハイドロが言うと、クロノは右手をひらひらと動かして、
「ああいいぜ。あいつムカつくもんな。じゃあ俺はフラストームをぶっ飛ばすか。あいつもムカつくからな」
「どっちもあんたの兄弟だろ」
ハイドロが呆れたように言った。
「まあな。さて、邪魔な奴らを全員片づけたら、最後は俺とお前で決勝戦を行う。そんで、周りのすべてを熱狂の渦に巻き込んでハッピーエンドだ! なあに、俺とお前の人気なら楽勝だぜ」
「……」
ハイドロは、黙ったまま腕を組んだ。何かを考えているらしい。
「何か問題が?」
クロノが訊くと、ハイドロはまっすぐにクロノを見据えた。
「問題はないよ。僕も手を貸す。君の陣営に加わる」
こうしてトーナメントの一日目が終わるころにはもう、ハイドロ、クリスタ、クロノ、カタクリ、アイオーンの五人で秘密裏に協定が結ばれていた。その目的は、グレイシアとフラストームを追い落とし、クロノとハイドロの二人で決勝戦を迎えることだ。
その後どうするかまで交渉で詰めなかったのは、賢明な判断だった。




