不正
勝った。
でも、事前にリキュールの戦いを見ていなかったら、負けていた――ハイドロはそう思った。
上下左右の方向に、大小絡めた氷魔法は、初見だと対処できない。
リキュールの手をすべて引き出してくれた仮面の妖精に感謝した。
ハイドロは倒れているフラストームに近づき、膝を折って彼の耳元に口を寄せ、
「グレイシアが、秘密裏に会談を設けたいと言っている。トーナメントをなかったことにしたいとさ」
観客席には聞こえないよう、ささやいた。
フラストームは驚いたのか、一瞬だけびくりと体が動き、
「……わかった。今夜、兄さまの部屋に僕が向かう。こうなったら仕方がない。とっておきの情報をくれてやるよ」
と小声で返してきた。
ハイドロは返事をする代わりに、フラストームの肩をぽんと叩いた。領家の妖精に対してあまりにも不敬な振る舞いだったけど、ハイドロにとってはどうでもよかった。
こういう相手になら触れられるのにな。
闘技場の底から通路に出ると、リアがいた。
仁王立ちしながらハイドロのことを睨んでいる。
何か、怒られるようなことをしたか?
思い当たる節がなかった。こういうことは気にしても仕方がない。
とりあえず先のフラストームの言葉を伝えるとリアは頷いた。
「よくやった。お前は別命があるまで待機しろ」
まさか褒められるとは思っていなかったハイドロは、驚いてリアの顔をまじまじと見返してしまう。
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
訝し気にこちらを睨み返したリアだったが、すぐにきびすを返して、慌ただしく通路を引き返していった。
ハイドロもそっちの方向だけど、一緒に歩きたくはない。
少し遅れてから受付前まで戻る。
そういえば今夜の会談で、どのような話し合いが行われるのだろう。ハイドロの関与するところじゃないけど、ちょっと見てみたい気もする。
とっておきの情報ね。
だいたい予想はつくけれど。
「……帰って寝よう」
闘技場から外に出ると、近くにいた雪の妖精がいっせいにハイドロを見た。昨日までのちょっとした視線や、ささいな噂、といった感じではない。
何かこう、恐れられているような気がする。
「おーい!」
そんな空気を、明るい声音が引き裂いた。クリスタだ。
いつものように小走りで近づいてくる。興味津々な周りの目をまったく気にしていない様子だ。
「凄いね! ハイドロ!」
「え? 何が?」
「さっきの戦いだよ。圧巻というか圧倒的というか、とにかく凄かった! 観客席なんて、もう呆然だよ。感動のあまり、泣き出す妖精までいてさ!」
「泣き出す?」
ハイドロは、昨日と同じように戦ったつもりだ。
違いがあるとすれば、ブレスでしか操ることのできなかった炎を、拳にまとわせてみたくらいか。
そこに感動する要素なんてあったか?
「なぜかみんな、排熱教の聖典を読み始めたりして」
「本当になんで?」
そんなことになっていたの?
「あんなに綺麗な炎、見たことないよ!」
「炎はいつだってキレイだ」
「と、に、か、く! 今や君は、仮面の妖精と対をなすほどの、大、大、大人気闘士なんだ! 有名人なんだよ! 最初から君のことをすごいと思っていた私は、誇らしいよ!」
リアから褒められたときは全然嬉しくなかったけど、クリスタから褒められれば心が軽くなる。
世界はこんなに素晴らしいものだったか、という気分になる。
「ありがとう」
素直にお礼を言うと、クリスタはニコッと笑った。
その後、ハイドロとクリスタはいつものように街へと繰り出した。
屋台で食事をしていると、グレイシアの部下が路地裏からこっちを見ていることに気がついた。人手が足りないはずなのに、もう見張りが復活していた。
でもこの距離から気づかれているようでは、たいした妖精じゃない。
見張りを安心させるようにハイドロは小さく手を振った。
それから特に大げさなことはせず、日が沈む前にクリスタとは別れた。
ハイドロは今まで通りグレイシアの兵舎に、クリスタは下町の自室に戻った。
夜は更ける。
グレイシアとフラストームが会合を行い、そんなこととは関係なくハイドロは眠る。
クリスタが、仮面の妖精が、チャンピオンのカタクリが、元受付嬢のアイオーンが、森の妖精のカカシが、近衛兵のリアが、フラストームの師匠のリキュールが、氷闘士が、旅人が、商人が、領民が――それぞれの思惑を抱きながら明日を迎えようとしていた。
◇
夜通し雪が降る。降り積もる。
そして、日が昇った。
今日の雲は分厚く、太陽の光は弱弱しい。
陰影も薄く、街のすべてが白く暈けている。
闘技場の前でクリスタと挨拶を交わし、いつものようにハイドロは氷闘士用の通路へ、クリスタは観客席へと向かった。
屋根があるのは観客席だけだ。したがって氷闘士が戦う闘技場の底には、雪が降り積もっていた。
今日は準決勝だ。
第一回戦、アンノウン・スノウ 対 アイナ
第二回戦、ラクト 対 ハイドロ
ラクトは名をはせた氷闘士であり、アイナはグレイシアの部下である。
どちらも優秀な剣士だが、リキュールやフラストーム、グレイシアやリアと比べれば、実力も人気も劣るだろう。
それでも観客たちは、今か今かと大会開始を待っている様子だ。
期待と不安が入りまじったようなざわめきが聞こえてくる。
ハイドロはいつもと同じように、氷闘士用の入り口手前にある通路で、壁に背を持たれかけていた。
自分の吐く息が白い。ハイドロは腹の中で魔力を練って、炎を自分の両手にまとわせた。暖を取るためだ。
今日は一段と冷え込んでいる。
通路の奥から誰かがやってきた。
礼装用のマントを身につけたグレイシアだ。彼はハイドロと、その両手に纏わせている炎を一瞥したが、何も言わないで闘技場の底に入っていった。
その後をついてきたリアが、ハイドロの隣で立ち止まる。どうやら彼女はここで待機らしい。気まずいから控室に戻ろうかと思っていると、
「あんたも散々ね」
リアに話しかけられた。
「どういう意味だ?」
「命を懸けてあのフラストームを倒したというのに、すべて仕切り直しになるのだから」
「……」
「私の下で使ってあげてもいいわ。好待遇にしてあげる」
「考えとくよ」
「即答しないのなら、要らない」
リアが会話を打ち切り、ハイドロに背を向けてしまった。
ちょうどそのとき、フラストームが反対側の通路からフ闘技場の底へ入ってくるのが見えた。体はまだ回復していないのだろう、ふらふらとした足取りをしている。
兄弟が並び立ち、観客席を見上げた。
グレイシアが一歩前に出る。
「この大会で不正が発覚した」
前置きなどなく、いきなり本題に入った。
観客たちがいっせいにざわめいた。
グレイシアはしばらく何も言わず、そのざわめきが収まるのを待った。そして、
「領主の座をかけた神聖なるトーナメントにおいて、不正などあってはならない。到底、許されるものではない!」
さらに大きく声を張り上げた。
観客たちは静まり返った。
ヤジも、怒声も、罵声も、何も聞こえてこない。しんとした静けさだけが、闘技場に充満する。それを不審に思ったのか、グレイシアとフラストームはお互いに顔を見合わせた。
だがここで言葉を止めるわけにはいかないのだろう、
「ゆえに我ら兄弟は協議の末、ヴェイル家の名において、トーナメントの中止をここに宣言する!」
観客の沈黙が、どんどん重くなる。
何かしらの反応があってしかるべき言葉なのに、みんな黙っている。
すると仮面の妖精が、ハイドロとは反対側の、闘士用の入り口から姿を現した。
並び立つグレイシアとフラストームの前で止まる。
「不正とはなんだ?」
仮面の妖精が言葉を発した。それに対して、
「お前だよ」
グレイシアが答えた。さらに続けて、
「トーナメントの関係者を買収し、参加資格もないのにエントリーを強行した」
ここでやっと、観客のざわめきが少し復活した。戸惑いの色が多い気がする。
「参加資格がない……? どういうことだ!」
観客席の誰かが叫ぶ。
何人か、それに追従する観客が出てきた。でも大混乱という感じではない。
ほとんどの観客が、静かに事態を見守っている。
「そいつは割れ者であり」グレイシアが仮面の妖精を指さし、
「我ら兄弟の三男、クロノ・ヴェイルだ」フラストームが続けた。
昨日フラストームが言っていた、とっておきの情報とはこれのことだろう。
観客たちの視線が、仮面の妖精に集中する。
視線には熱があると思ってしまうほど、闘技場の底が、重く熱く、空気がゆらめいていく。奇妙な熱の真っただ中にいるそいつは、自分の顔を隠している仮面を握り、ためらうことなく外した。
そこにいたのは告発どおりの男――クロノ・ヴェイルだった。
クロノは、もう必要のなくなった仮面を放り投げて、ヒビだらけの素顔を観客席に向ける。
「ひっ!」
と誰かの悲鳴が聞こえた。
少し遅れて、仮面が石床に落ち、粉々に砕けた。




