トーナメント開始
侵入者を引き渡して、部屋から出る。
すでに二週間分のお金を払っているとはいえ、もうここには泊まれないだろう。
「そろそろ一人でいるのは危険だぜ。従者が寝泊まりしている兵舎に来いよ」
グレイシアの部下からお誘いを受けたので、
「今夜からはそうするよ」
とハイドロは答えた。
宿屋の玄関口には、氷の剣を持った雪の妖精が何人かいて、周囲に睨みを利かせていた。ハイドロの部屋まで来た妖精の部下だろう。あいつ、しっかりと出入り口を固めてから入ってきたのか。まったく用意周到だな。
統率されている相手は怖い。
個の力がいくら強くても、ひっくり返される恐れがある。
それを身をもって体験したからこそ、今こんなことになっている。
出入り口に陣取っている妖精たちの横を素通りした。
視線が合ったけど、特に何も言われなかった。これは、行っていいってことだよな。
ハイドロは相手を刺激しないよう、ゆっくりと歩いてその場を離れる。自分の背中に、警戒心なのか敵愾心なのかわからない視線が、ずっと突き刺さっていた。
通りに出て、角を曲がる。何とも言えない圧力がなくなり、やっと一息つくことができた。
さて、クリスタが無事かどうか確認しなくては――そう思って走り出そうとしたところに、
「あ、いた! ハイドロー!」
ちょうどクリスタがやってきた。
どうやら走ってここまで来たらしい、はあはあと、肩で息をしている。
「昨日の夜はあちこちでスノウリンクスの参加者が襲撃されたって聞いてさ。ハイドロは無事かなって思って」
ここまで一気に喋ってから、クリスタは前かがみになって自分の膝に両手を置き、やっと呼吸を整えた。
「ふう~……。無事で良かった! ハイドロは襲われなかったんだね」
「襲われたけど、返り討ちにしたよ」
「え!? 襲われたの!? だだだだ、大丈夫?」
クリスタは気が動転したのか、自分が雪の妖精であることも忘れてハイドロの体を気遣うように触った。ハイドロもハイドロで、その手を振り払うことができなかった。
「怪我はない? ほんとに大丈夫? ……って、あっつい!」
案の定、熱で悲鳴を上げるクリスタである。
「あ、ごめん」
「ううん、こっちこそ。いきなり触ってごめん」
火傷したのか、クリスタは自分の手をさすった。
少し変な空気になりそうだったので、ハイドロは慌てて口を開いた。
「たぶんフラストームの手の者だろうって、グレイシアの部下が言っていた。それにお互い様とも言っていたな。自分たちもフラストーム陣営に暗殺者を送り込んだって」
「ほんっとさあ! なりふり構わず暗殺合戦をやりやがって! せめてスノウリンクスで決着をつけろっての!」
クリスタが怒鳴り、道行く人の何人かが、ぎょっとした顔でこっちを見た。
「声が大きいけど大丈夫なの?」
「みんな知っていることだから」
領民たちもバカではないか。
トーナメントの裏で何が行われているのか、どんな策謀が渦巻いているのか、なんとなくわかるのだろう。
こんなやり方で領主を決めたとして、領民は納得するのか?
……せざるを得ない、というのが実情かもしれないな。
不満があっても楯突くことはできない。
「でも口に出すのはまずいでしょ」
「うん。それはそうだね。気をつける」
素直に頷くクリスタだった。
日中はずっと、クリスタと一緒にいた。出店のような場所でご飯を食べて、日が沈むまで街のあちこちを見て回った。
夜は、グレイシア陣営の兵舎に泊まった。
待遇は良く、個室を使わせてもらえた。宿屋と似たような作りの部屋だったけど、安全性は段違いだ。
廊下の壁かけ燭台はずっと灯っていて、舎内が真っ暗になるということはない。
朝から晩まで、そして晩から朝まで――警戒が緩むことはなく、また見張りと見回りが途切れることもなかった。
何か情報を得られるかと期待したが、さすがにそこまでは無理だったけれど。
ちなみに、クリスタにも兵舎に泊まらないか提案してみたけど、大丈夫だと断られた。
彼女は彼女で、安全を確保するための伝手があるらしい。
ハイドロはそれ以上、踏みこまなかった。大丈夫だと言うのなら、大丈夫なんだろう。
それに、自分のことを人質として扱っている相手に保護を求めるのも、嫌かもしれない。ハイドロはこういう部分をあまり気にしないが、気になる人は気になるだろうし。
その後、クリスタとは毎日一緒に出かけて、街のことをいろいろと教えてもらった。
排熱システムの復旧も、滞りなく完了した。
クロノともう一度話してみたかったけど、あれから街中で出会うことはなかった。
――そして、つつがなくトーナメントの開催日はやってきた。
兵舎を出て会場へと向かう。
朝早いというのに、闘技場への道はもう、露店や行商、大道芸人で埋まっていた。酒場からも歌声や罵声が漏れ聞こえてくる。もう酔っぱらっているやつがいるらしい。
昨日までは雪に埋もれていた地味な街並みに、色鮮やかな旗に垂れ幕、長男と次男の紋章が飾られている。
教会も、大会当日であることを知らせるためにだろう、鐘を何回も鳴らしている。
肉を焼いているような香ばしい匂いがするし、甘い焼き菓子の香りまで漂ってくる。
住民たちにとって、今日はお祭りなんだ。
雪の妖精たちは、他種族とぶつかることを警戒してか、あまり固まって行動していない。喜び方もどこかよそよそしい気がする。熱を発散するのはスノウリンクスで、と決めているのかもしれない。その他の種族は、押し合うようにして屋台に並び、肩を組んで騒いでいる。当たり前だけど、こういったところに種族差が出る。
そんな大通りを、クリスタと二人で歩く。
歓喜の声を上げている住人たちを横目に、黙々と闘技場を目指す。
ああ、いいなぁ……とハイドロは切実に思った。
自分がトーナメントと無関係ならどれだけ良かったことだろう。何も考えずに、あの歓喜の坩堝に混ざりたかった。
「ねえ、ハイドロは緊張している?」
クリスタが、ハイドロの顔を覗き込んだ。
「緊張……はしていないな」
「私は緊張しているよ」
クリスタの顔は確かにこわばっている。
泣きそうにも見える顔でぎこちなく口を開き、
「これから何が起きるか、わからないんだよ?」
「そうだねぇ」
ハイドロは空を見上げた。
トーナメント初日にふさわしく――と言っていいのかわからないが、雲一つない青空だ。
大会を準備していたこの一週間は、ハイドロに打つ手がなかった。でもようやくトーナメントが始まる。事態が動けば、付け入る隙も必ず生まれる。
たとえば、ハイドロがフラストームを下すようなことがあれば、クリスタの安全を保障してもらえるようグレイシアに頼めるかもしれない。その場合、グレイシアをぶん殴る、という自分との約束は反故にしなければならないが、まあ仕方がない。
達成すべき一番の目標は、クリスタの、この街での永続的な安全だ。
それさえ叶うのなら、後は些末なことだろう。
「やるだけやってみるよ」
とハイドロは言った。
クリスタは両手を胸の前で組み、祈るようにハイドロを見た。
「死なないでね」
「うん」
闘技場に着いた。
入り口の前に石造りの巨大なゲートがあり、そこに星形騎士団と骸晶騎士団が、それぞれ六人ずつ待機している。その中の一人がこちらに近づき、
「トーナメント参加者のハイドロ様ですね。どうぞ中にお入りください。お連れ様は、もうしばらくお待ちいただけますか」
と言われた。
クリスタとはここでお別れだ。
「観客席から応援しているからね!」
というクリスタの元気な声を背にしながらゲートをくぐった。
そのまま歩いて、アーチ状になっている入り口をくぐり、闘技場に足を踏み入れる。
真正面には大理石で作られたカウンターがあって、そこに見知った顔の受付嬢が座っていた。
「お久しぶりですね、ハイドロ様」
銀に近い髪色をしている、ジトっとした目つきの女だ。ガロを倒したことで好意を持ってくれたのか、いろいろと便宜を図ってくれようとした。断ったけど。
カウンターは広々としていて、彼女の他に三人の受付嬢がいた。
「今日は一人じゃないんだ」
「この前、ハイドロ様の応対をしていたときは夜でしたから。ですが今日は、領主の座を賭けた一大トーナメントの開会式ですよ。ああ、どれほど観客が多いことでしょう」
右手を高く掲げ、嘆くように言った。
仕草が大げさだ。
「あ、そうだ。名前を聞いていなかった」
「ナンパでございますか?」
「違うよ」
「ふふ、ハイドロ様でしたら大歓迎ですよ」
やっぱり好感度が高い気がする。
何もしていないんだけど。
「アイオーンと申します」
受付嬢が唐突に言った。一呼吸を置いて、
「以後、お見知りおきを」
優雅に微笑んだ。長男のグレイシアや近衛兵のリア、その下につく数多の騎士たち、三男のクロノと、ハイドロがこれまで出会ってきたどの妖精よりも気品に溢れていた。
領家や騎士は彼女を見習った方がいい。
「参加者であるハイドロ様にはこれを」
受付嬢――アイオーンが、小さな氷板を差し出してきた。
冷たそうだったから、手袋越しに受け取る。そこには十六人の名前が刻まれていた。
ハイドロや、グレイシア、フラストームといった名前が確認できる。
各々の名前の上から線が伸びて、まとまり、最終的に一つの線となるよう描かれている。
トーナメント表だ。
後でじっくり確認しよう。
「さて、ハイドロ様」
アイオーンが立ち上がった。そのままカウンター席の端にある仕切りを超えて、ハイドロの横に立つ。
「私は、これから行くべき場所がございます」
「え? トイレ?」
「そういう意味ではございません」
どういうこと?
「もうすぐ観客を入れる時間だろ? 大丈夫なのか?」
「私の他に三人もいるのですから、問題ないでしょう。ハイドロ様のご武運をお祈りしております」
「まるで、もうここに戻ってこないような言い方だ」
と口にしてから、アイオーンがそのつもりなのだと気がついた。
ハイドロは困惑して、何かを言おうと口を開いたけど、何も言葉が出てこなかった。彼女はふっと微笑み、
「また会いましょう」
闘技場から出て行った。




