第9話: 融点(前編)
午前5:00 ― 最後の金曜日。
誠は目を開けた。ここ数日で初めて、彼の口元に笑みがこぼれる。
(金曜日だ……やっと、たどり着いた……)
彼の目の下には、ゴシックホラーの舞台メイクかと見紛うほどの濃い隈が刻まれていた。しかし、鏡を見つめるその瞳には、小さく、そして愚かな希望の光が宿っている。
砂漠の中のオアシスのように輝く、たった一つの言葉。
(今日さえ終われば……二日間の休みだ。アプリも、通知も、オレンジ色のウィッグもない。僕と、布団と、録り溜めたアニメの年末特番だけだ)
その時、スマートフォンが震えた。赤いアプリと青いアプリ。
ブブー、ブブー。
「金曜日:通し稽古。バルコニーのシーン+ラストシーン。衣装着用必須」
「金曜日:ディベート模擬戦。テーマ:倫理と自由意志。予定時間:3時間」
誠は通知を見つめた。
(……3時間のディベート。通し稽古。衣装……)
笑みが消える。
(今日を生き延びるんだ……今日だけだ……)
哀れな勘違い野郎である。彼には知る由もなかった。「金曜日」はトンネルの出口ではなく、二人の飼い主が彼の正気を一滴残らず絞り出すための「濾し器」に過ぎないということを。
……
誠はゾンビのような顔で朝食に下りた。キッチンでは、一人の女性が彼を待ち構えていた。彼の愛する母、星野真理だ。彼女はいつも通り、輝くような笑顔でそこにいた。
「おはよう、誠! よく眠れた?」
(母さん……僕がどれだけ眠れてないか、知ったら驚くよ……)
しかし、彼はその言葉を無理やり飲み込み、自分に嘘をついた。
「ああ、母さん。最高だよ」
食卓では**颯太**が、外科医のような集中力で朝食を食べていた。彼は誠を見つめる。観察する。そして、皿から目を離さずに言い放った。
「兄ちゃん、隈が首まで届きそうだよ」
誠は冷や汗を流しながらも、質問を逸らそうとした。
「おはよう、颯太。元気そうで何よりだ」
「最後に寝たのはいつ?」
「……颯太」
「アニメ、いつから見てないの?」
「いいから朝ごはんを食べなさい、颯太」
「お母さんが言ってたよ。そんな顔をしてる時は、何かがすごく悪い時だって」
**真理**がキッチンから穏やかな笑顔で顔を上げたが、その瞳はすでに誠を、彼自身が恐れ、熟知している精密さで観察していた。
「学校は順調なの、誠?」
「あ、ああ……どうしてそんなこと聞くの、母さん?」
彼は精一杯のトーンで答えた。
「その隈のせいよ」
真理は誠に近づくと、彼の頬を優しく、だが逃がさないように引っ張った。
「この隈を見て。まるで一週間も寝てないみたいじゃない」
「心配しすぎだよ、母さん。最近は宿題とか色々忙しいだけだから。ほら、分かってるでしょ?」
この少年は、息をするのと同じくらい簡単に嘘をつく。なんて恐ろしい奴だ。
「そう、頑張ってるのね、誠」真理は悪戯っぽく笑った。「海外にいるお兄ちゃんの背中を追いたいんでしょ? あの人はいつもハードルを高く設定しちゃうから」
誠は疲れ切った笑みを浮かべながら、その嘘に乗っかるしかなかった。
「ああ……あいつだけがこの家族で目立つなんて、癪に障るからね」
「じゃあ僕が大きくなったら、兄ちゃんの背中を追い越してやるからね!」
颯太が興奮して誠の背中に飛び乗った。
「おい、やめろって言っただろ……。でも、待ってるよ、颯太」
(続けなきゃ……。こんなトラブル、なんてことない。僕は……全部、やり遂げられるんだ……)
……
誠は、戦場での最後の一日を迎えた兵士のような決意で新天学園に到着した。
一日はディベート模擬戦から始まった。三時間。**狐乃香**はいつもの効率の良さでそれを仕切るが、今日は何かが違っていた。彼女はかつてないほど厳しく、まるで無意識のうちに時間が残り少ないことを察し、週末が来る前に彼から搾り取れる全てを抽出しようとしているかのようだった。
「星野くん、自由意志に関する君の論証は脆弱だわ。君は循環論法に陥っている」
狐乃香はタブレットを指で叩いた。
「前提Bを再構成するまであと三十秒。カント倫理学による反論に移る前にやりなさい。早く!」
誠はノートを見つめた。文字が紙の上でダンスを踊り始めている。紙の白さが目に刺さり、痛覚を刺激した。
「前提は……人間が……」
誠の言葉が止まった。耳鳴りがする。遠くの方で、高い金属音のようなピリピリとした音が響いていた。
「あと十五秒」
狐乃香は、パートナーの死人のような青白さを無視して言い放った。
彼女は無意識に、通常よりも彼を追い込んでいた。週末、自分の制御を離れる「プロジェクト」に対する不安が、彼女に四十八時間メンテナンスなしで稼働するソフトウェアをインストールするかのように情報を詰め込ませていた。
誠はペンを握りしめ、拳が白くなるほど力を込めた。ディベートの模擬戦はまだ序の口に過ぎない。そして、部屋の空気はひどく、ひどく薄くなり始めていた……。
……
三時間の激闘の後、誠は講堂へと走った。
「遅いわよ、私の悲劇の主人公!」
**狸子**の声が舞台の中央から響き渡った。
彼女はスポットライトの下に立ち、まるでもののけのような神秘的なオーラを放っていたが、誠の目には難易度『インポッシブル』のラスボスにしか見えなかった。彼女の手にはロミオの衣装があった。重厚な紺色のベルベットのジャケット、タイツ、そして誠の生存意欲よりも重いマント。
「すまない……ディベートが……長引いて……」
誠は客席の椅子にすがりつきながら、なんとか声を絞り出した。
「私の聖域で論理を語らないで!」
狸子は舞台から飛び降りた。その身のこなしの軽やかさを見ただけで、誠の膝には激痛が走るようだった。
「狐乃香が君の魂を数字で乾かしているのね。私が火を灯してあげるわ! 着替えて! 今すぐ!」
誠は機械的な動きで更衣室へ向かった。ロミオのジャケットは彼には少し大きく、ベルベットの感触は息苦しいほどの熱を帯びていた。服に窒息させられている感覚があったが、文句を言う気力すら残っていなかった。
「いいわ、星野くん。ラストシーン。キャピュレット家の墓所よ」
狸子は誠を舞台の上に引きずり上げた。
「ロミオはジュリエットが死んだと信じ込んでいる。私が欲しいのは苦悩よ。シェイクスピア本人が墓の中から飛び起きるほどの絶望を叫びなさい。アクション!」
誠は冷たい舞台の床に膝をついた。床に降りるという動作だけで眩暈がし、講堂全体が大きく一回転したように感じた。
「ああ……ジュリエット……」
誠が口を開いた。その声は弱々しく、演技などではなく単純に酸素が足りていないせいだった。
「君のいない世界は……暗すぎる……」
「もっと強く!」
最前列から狸子の怒号が飛ぶ。
「囁き(ささやき)はいらない、痛みの咆哮をちょうだい! あなたが最も愛するものを思い浮かべて、それを投影するのよ!」
(僕が最も愛するもの……布団……アニメ……倒れてない時の母さんの顔……ああ、あと悟空……)
誠は重いジャケットの下で、背中を伝う冷たい汗を感じていた。
「ジュリエット!」
誠は残されたエネルギーの全てを振り絞って叫んだ。
「君の美しさは……僕には……論破できない**前提**だ!」
狸子が動きを止めた。信じられないといった様子で、憤慨しながら額に手を当てた。
「ちょっと待って、待ちなさい! 『前提』!? シェイクスピアにディベート用語を持ち込んだの!? 誠、あの女を頭から消し去りなさい! 今、あなたが考えるべき女性は私だけよ! もう一回! 最初から!」
それから二時間が経過した。狸子は、週末を前に自分のテリトリーを主張したいという(狐乃香と同じ)無意識の衝動に突き動かされ、彼に一瞬の休息も与えなかった。床に倒れ込む動作を十回。主役の女優(今日はセメントの袋のように重く感じた)を抱え上げる動作を五回も強いた。
「体が硬いわよ、誠。リラックスして、でも緊張感は保つの!」
狸子は舞台に上がり、誠の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「悲劇を感じなさい!」
「感じてるよ……」
誠は囁いた。周辺視野が真っ暗に染まっていく。白い火花のような光が、目の前で踊り始めていた。
「僕の……循環器系の悲劇を感じてる……」
「その意気よ! その手の震えを毒を飲むシーンに活かしなさい! 完璧だわ!」
狸子は、彼が今にも意識を失しそうであることに全く気づいていなかった……。
午後4:30
誠は、狸子に「解放」された後(実際には、彼がもはや一言もまともに喋れなくなったため、追い出されたに等しいのだが)、講堂を後にした。着替える気力すら残っていなかったため、時代がかったシャツとズボンの衣装を一部身につけたままだ。カバンは片方の肩から今にも落ちそうで、床の上を引きずらんばかりだった。
彼は出口に向かって、二階の廊下を壁に寄りかかりながら歩いていた。一歩一歩が重力に対する辛い勝利だった。
(あと少し……校門まで……一歩……また一歩……)
しかしその時、最悪の事態が起きた。「挟み撃ち(ピンチ)」が完成したのだ。
左からは、書類の束を抱えて職員室から出てきた狐乃香。彼女の鋭い視線が、誠とその滑稽な舞台衣装を射抜いた。
右からは、最後にして「極めて重要な」指示を出すために講堂から追いかけてきた狸子。
二人は足を止めた。誠は二匹のアルファ個体の捕食者に追い詰められた獲物のように、その中心に取り残された。
「星野くん」
狐乃香が先に口を開いた。いつものトーン――冷徹で、正確で、拒絶を許さない声。
「自由意志に関する君の論証の締めくくりに、まだ構造的な欠陥があるわ。週末に入る前に今すぐ修正して。そうしないと月曜日、私たちは不利な状態で――」
「誠くん」
狸子が台本を手に割り込んだ。
「毒のシーンをもう一回だけ合わせましょう。一回だけ。今やれば、月曜日は完璧な状態で――」
「ちょっと待ちなさい、団蔵さん。私は彼と話しているのだけど」
「私のほうが今日の午後は先に彼と話していたわ、善狐さん」
「技術的に言えば、契約は学業の優先順位を――」
「契約のどこにも、廊下での土壇場の稽古を禁止するなんて書いてないわ――」
二人の声が重なる。議論が加速していく。二人のどちらも、喧嘩の最中に誠をまともに見てはいなかった。彼を単なる参照点として、あるいは争奪の対象となる領土として、一歩も譲りたくない計算の中の変数として扱っていた。
誠は二人の声を聞いていた。
あるいは、聞こうと努力していた。
声が遠くなっていく。まるで誰かが世界のボリュームを少しずつ絞っているかのようだった。廊下が建築学的にありえないほど長く伸びて見える。天井のライトが点滅している――あるいは、点滅しているのは彼の瞳か。
(……すごく、疲れた)
先ほどの白い火花が戻ってきた。数は増え、より輝きを増している。
(ひどく、ひどく疲れたんだ……)
(今日の朝、颯太が……『いつもの兄ちゃんにいつ戻るの?』って聞いた気がする)
(……答えられなかったな)
(待てよ……颯太はそんなこと聞いてないか。何を考えてるんだ、僕は……)
「……星野くん、聞いてるの?」
「誠くん、あなた――」
二人は同時に言葉を止めた。
誠が壁に手を突いたからだ。ゆっくりと。まるでその壁だけが、彼を現世に繋ぎ止めている唯一の糸であるかのように。
彼の肌は白い。青白いのではない――廊下の蛍光灯の下で、ただの紙のように真っ白だった。
「星野くん」
狐乃香の声色が変わった。わずか一音。他人には気づかぬほどの変化だったが、それを聞いた狸子の背中には冷たいものが走った。
「大丈夫……」
誠が言った。その声は、どこか遠い場所から響いているようだった。
「少し……時間を……」
(一秒だけ。そのあと前提を修正して、毒のシーンをやって、校門を出て、布団に……)
そして、廊下が傾いた。
床がせり上がってくる。
全てが、消えた。
誠は音もなく崩れ落ちた。ドラマチックな演出も、ポーズもなかった。ただ、もうこれ以上何も与えることができない人間がそうするように――横向きに、ゆっくりと。地面に触れる前に、その瞳は閉じられていた。
完全なる静寂。
二人は人生で最も長い一秒間、立ち尽くした。
最初に動いたのは狐乃香だった。
彼女は膝をつき、二本の指を誠の首筋に当てた。臨床的な正確さで脈拍を探る。表情は変えない。語る声も、平坦なままだ。
「脈拍あり。呼吸正常。おそらく血管迷走神経性失神」
(蓄積された疲労。継続的なストレス。そして、おそらく長期にわたる睡眠不足……)
沈黙。
(私自身が、生成に加担した変数)
彼女の指は誠の首筋に置かれたままだ。それを離さないのは、医学的な必要性からではない。脈拍は既に確認できている。ただ、彼女自身がまだ動けなかったのだ。
(契約から三日。たった三日で、彼はこうなった)
(最後に彼が、私が指示したグルコース報告書以外のものを口にするのを見たのは、いつだったかしら……)
声には出さない。出せるはずもない。だがその思考は、普段なら論理が支配している彼女の脳内を占領し、論理は初めて、その事実にどう対処すべきか分からずにいた。
狸子は何も分析しなかった。
彼女はただ、誠の反対側に膝をつき、彼を見つめた。
演技も、仮面も、その瞳の奥に常に潜んでいた計算もない。
ただの彼女。目を見開き、膝の上で手を震わせている十六歳の少女がそこにいた。
「誠くん」
その声は小さかった。演出家の声でも、女優の声でも、老獪な操作者の声でもない。ただ本当に怯え、それを隠す術を知らない者の声だった。
「誠くん、ねえ……」
反応はない。
狸子の手が、無意識に誠の頬へと伸びた。だが、完全には触れられない。あと一センチというところで止まり、小刻みに震えていた。
【冷たい。】
【どうして、こんなに冷たいの?】
【二時間前まで稽古をさせていたのに、今は――】
「私たち、何をしたの……?」
彼女は囁いた。狐乃香に向けた言葉ではない。誰でもない、自分自身に、あるいは答えのない空虚な廊下に向けられた問いだった。
狐乃香はその言葉を耳にした。
そして、答えなかった。
答えは、彼女自身の計算の中に、彼女が構築したタイムラインの中に、今朝の三時間の模擬戦の中に、午前5時30分のメッセージの中に、そして狸子の稽古中に要求したグルコース報告書の中に、明確に存在していたからだ。
論理が、初めて何の役にも立たなかった。
二人は誠を挟んで、静寂の中にいた。争いも、戦略も、仮面もない。
ただ、理解したくなかった事実を突きつけられた二人の少女がそこにいた。
三十秒も経たないうちに、狐乃香はスマートフォンを取り出した。
指は震えていない。語る声は平坦で、実務的だった。
「新天学園の保健室ですか。北廊下の二階です。生徒が意識を失いました。血管迷走神経性失神の可能性があります。今すぐ来てください」
通話を切った。
狸子が彼女を見たが、狐乃香は視線を返さなかった。
二人は何も言わなかった。
ただ、冷たい廊下の床の上で、誠の両脇に座り込み、どうやって破ればいいのか分からない沈黙の中で、救助を待ち続けていた。
...
新天学園の保健室は、消毒液の臭いとエアコンの冷気に包まれていた。誠は一台のベッドに横たわり、薄い毛布を掛けられ、隣ではバイタルモニターが静かに拍動を刻んでいた。ロミオのベルベットジャケットは脱がされ、部屋の隅の椅子に掛けられている。それは、そこで起きた全ての出来事の沈黙の目撃者のようだった。
看護師は、廊下で狐乃香が算出した通りの診断を下した。重度の疲労、血管迷走神経性失神。身体的な異常はない。安静。水分補給。そして、二人が最も恐れていた言葉が告げられた。
「ご家族に連絡する必要があります」
狐乃香と狸子は壁際の椅子に座っていた。二人の間には、正確に一つ分の空席がある。それ以上近づくことも、遠ざかることも選ばなかった。
誠はまだ目を覚まさない。
【心拍数は安定。顔色も戻りつつある。あと十五分から二十分で意識を回復するはず……】
狐乃香はモニターの画面を、まるでデータ端末であるかのように見つめていた。誠の顔を見るよりも、数字を見る方がよほど簡単だったからだ。
狸子は膝の上に置いた自分の手を見つめていた。廊下での出来事以来、彼女は一言も発していない。何の仮面も被ろうとせず、ただそこに座っていた。「演じない自分」が何者であるかも分からぬまま。
二人の間の沈黙は、いつもの喧嘩のような刺々しいものではなかった。
もっと重く、もっと切実な、別の種類の沈黙。
先にそれを破ったのは狸子だった。どの役柄にも属さない、彼女自身の声で。
「……あなた、今日はいつ食べたの?」
狐乃香は瞬きをした。その問いは、誠とは全く無関係なものだったからこそ、彼女を狼狽させた。
「……何のこと?」
「だから、いつ食べたのかって聞いてるのよ。今日」
一拍の間。
「……関係ないわ」
「聞いたのはね、私も食べてないからよ」
沈黙。
【なぜ、そんなことを言うの?】
狸子はその問いには答えず、ただ自分の手を見つめ続けた。
「彼を絞り出すことに夢中になりすぎて、二人とも何も見えてなかったのね」
それは責め苦ではなかった。ただの事実の指摘。誠がいつも口にするような、残酷なほど単純な正直さ。だからこそ、無視することはできなかった。
狐乃香は答えなかった。だが、否定もしなかった。
……
二十分後、保健室のドアが開いた。
看護師ではなかった。
星野真理だった。肩にバッグをかけ、どの母親も受けたくはない電話を受けた者の瞳をしていた。その背後には、彼女の袖を両手でぎゅっと掴んだ颯太が続いていた。
真理は一直線にベッドへと向かった。誠の手を握り、額に触れ、そして深く息を吐いた。
颯太はベッドの脇に立ち尽くし、目を見開いて、固く震える顎を引き結んでいた。まだ泣き出すまいと、必死に耐えている子供の顔だった。
彼はいつものように、誠の袖を一度だけ引いた。
誠は答えない。
すると颯太は、騒ぐこともなく、ただ静かに涙を流した。
真理は長男の手を離さないまま、片腕で颯太を抱き寄せた。そして初めて、壁際に座っていた二人の少女へと視線を上げた。
狐乃香と狸子は、本能的に同時に立ち上がった。
真理は二人を見た。ただ一度。声を荒らげる必要すらない、静かな重圧を伴う沈黙。
彼女は微笑んだ。
「連絡をくれて、そばにいてくれてありがとう」
それは世界で最も温かい、感謝の言葉だった。
そして、それこそが最大の問題だった。
狐乃香なら論理で反論できた。狸子なら芝居で返せた。しかし、真実を知らない母親からの、心からの感謝に対する防具など、二人は持ち合わせていなかったのだ。
(私たちに、お礼を言っている)
(私たちに、彼を看病したことを感謝している)
(彼がそのベッドに横たわっている原因が、私たちだとも知らずに……)
真理は少しの間を置いて、誠の毛布を整えた。そして再び二人を見た。穏やかな微笑みは変えぬまま、だがその瞳は、口にする前の問いを既に投げかけていた。
「あなたたちは、誠のお友達?」
保健室の静寂は、絶対的なものとなった。
狐乃香は床を見つめた。
狸子は自分の手を見つめた。
どちらも、答えることができなかった。
そして真理は、声を荒らげることもなく、トーンを変えることもなく、冷徹な論理と完璧な仮面を打ち砕く唯一の言葉を口にした。
「息子を……誠を助けてくれてありがとう」
小さな間。彼女の瞳が、静かに二人を射抜く。
「……でも、何かがおかしいわよね?」
完全なる、沈黙。
狐乃香は、頭を垂れたいという不合理な衝動に駆られた。
狸子は、どんな演劇も教えてくれなかった感情――舞台も、隠れるための幕もない場所で感じる「本物の羞恥」に震えていた。
颯太は黙ったまま、誠の袖を引き続けている。
そして誠は、まだ答えない。
第9話:完
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皆さん、こんにちは。お元気ですか? 皆さんが(僕とは違って)元気で過ごしていることを願っています。
さて、この素晴らしい(そう信じたい!)小説の第9話をお届けします。先週、今週末には第9話を出すと約束し、誓ったのですが……実は体調を崩してしまいました(ええ、この時期に風邪を引くなんて。僕はダメな奴です)。
でも、そんなことはどうでもいいんです。問題は、僕の精神的・肉体的な状態が物語に影響を与えてしまったようで、この回は今までで一番シリアスで、どこか冷たい雰囲気になってしまったと感じています。本来のジャンルである「ラブコメ」からも、少し離れてしまったかもしれません。
それに、お気づきかもしれませんが、今回は自分の中でも少し矛盾というか、書き方にムラが出てしまいました。普段は一気に書き上げて投稿するのですが、今回は数日に分けて書いたからです(いつもは一気呵成に書くタイプなんです)。もしミスを見つけたら、本当にごめんなさい。僕を〇したくなっても、その気持ちは分かります……。
あと、これを書いている最中に、この記号(◆ ◇)のことを思い出しました。場面転換に点を使うより、こっちの方がずっといいですよね。
今度こそ約束し、誓います。第10話(後編)は今週末に出します。体調も回復して気分もいいので、頑張ります。ここまでこの長い文章を読んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。
では、第10話でお会いしましょう。
零時卿より。




