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第8話:過剰搾取のパラドックス

星野ほしの まことが自らの魂を売り渡してから三日が経過した。彼の肉体は既に、支払いきれないほどの代償ツケを払い始めていた……。ああ、なんてバカなんだ。


午前5時00分。

誠が目を開ける。完全な暗闇。アラームはまだ鳴っていない。

だが、スマートフォンが震えた。

半開きの目でそれを掴む。二つの通知。赤いアプリと、青いアプリ。


【午前5:30 - 狐乃香】: 論理的謬説の研究:「人身攻撃アド・ホミネム」と「滑りやすい坂論法スリッパリー・スロープ」。45〜60ページを読了後、報告せよ。


【午前5:35 - 狸子】: おはよう、私の主人公くん! シャワーを浴びながら発声練習をすること。ドからソまでの音階スケールよ。例外は認めないわ〜。


誠は片目を閉じたままシャワー室へ這っていき、脳内で三段論法を処理しようとした。


「……前提その一、愛は社会的構成概念である! 前提その二、ド・レ・ミ・ファ・ソ! 結論、したがって……レだ!」


狸子の要求通りに声を張り上げながら、石鹸で体を洗う誠。その時、浴室のドアが勢いよく開いた。そこに立っていたのは弟の颯太そうた。10歳。恐竜のパジャマ姿で、寝癖だらけの頭をした彼は、語彙力こそ少ないが鋭い疑問を抱いているようだった。


「兄ちゃん……誰と話してるの?」

「誰でもない! ドアを閉めろ!」


誠は赤面しながらシャワーカーテンで身を隠したが、幼い弟は困惑した表情を崩さない。


「なんで惑星の名前を叫んでるの?」

「音階だよ!」

「ふーん……じゃあ、なんで音階を叫んでるの?」

「叫ばなきゃいけないんだよ!」

「へぇ……なんで?」


誠の動きが止まる。お湯は流れ続け、シャンプーが額を伝い落ちる。


(いい質問だ、颯太。僕が一番知りたいよ……)


誠は、幼い弟のような単純で悩み一つない人生を送りたかったと、心から願った。


「ドアを閉めてくれ、頼むから」

「兄ちゃん……大丈夫?」


(いやいやいや、全然大丈夫じゃない! 狂った女二人に無茶苦茶なことをさせられてるんだ、助けてくれえええ!)


人類史上、最も切実な絶望を心の中で叫んだ誠だったが、口から出た声は全くの別物だった。


「……ああ。朝飯、食ってこい」


颯太は三秒間、何かを疑うような、しかしそれを表現する言葉を持たない子供特有の真剣な眼差しを向けた。そして、静かにドアを閉めた。

誠は再び、三段論法地獄へと戻る。


一方その頃、家の一階では……。颯太が母親に、この世の真理を語るような冷静さで告げていた。


「お母さん、兄ちゃん、頭おかしくなったみたいだよ」

「あら、どうしてだい?」

「シャワー浴びながら、ソ・レー・ミー・ファーって変な歌を叫んでた」


颯太は不器用に兄の真似をしてみせたが、母は笑いながらその頭を撫でた。

「ああ……放っておきなさい。きっと反抗期なのよ」


……彼には「反抗」することさえ法的に(契約書で)許されていないなど、母は知る由もなかった。


午前10時30分。

誠は目の下に深い隈を作りながらも、時間通りに学園に到着した。狐乃香の「ペナルティ条項」に容赦はない。

休み時間までは比較的平穏だった。だが、その平穏は、肩に置かれた手によって無残に引き裂かれた。そのまま文字通り、体育館の裏へと引きずり込まれる。


団蔵 狸子だ。手には台本、そして拒絶を一切許さない笑顔。


「ゲリラ稽古よ!」


狸子は劇的なポーズを決め、声を張り上げた。


「バルコニーのシーンよ。私はジュリエット、あなたはロミオ。激情を! 炎を! ……その死体のような顔以外の何かを見せて!」

「狸子さん、ここは体育館の裏ですよ。ゴミ箱だってあるし――」

「芸術に地理的な境界など存在しないわ」


誠は溜息をつき、台本を掴む。持てる限りの力を振り絞り、セリフを唱え始めた。

「おお……ジュリエット。僕の君への愛は……」


ブブッ。

スマートフォンの振動。青いアプリ。狐乃香だ。

『リマインダー:正午までに朝食の血糖値レポートを送信せよ。栄養価も添付すること』


誠はメッセージを見た。台本を見た。脳のどこかで、音を立てずにショートが起きた。


「おお、ジュリエット……僕の君への愛は……このインスリン量と比較すれば、統計的に無視できるものだ」


静寂。

狸子が彼を見つめる。丸五秒間、瞬きもせずに。


「……は? ……インスリン? 統計的? 何なのよ、一体どうしちゃったの、誠くん!?」


狸子は拳を握りしめたが、その表情はすぐに、抑え込まれた怒りへと変わった。


「すみません、狐乃香さんがこれを送れって――」

「彼女、今あなたにメッセージを送っているの?」


精神状態はボロボロだったが、誠はその声の響きに本能的な恐怖を感じた。

「は、はい……」


消え入りそうな呟きが、狸子の怒りに油を注いだ。


「あの女……狐乃香の『狐』。数字で誠くんを洗脳しているのね。過剰搾取だわ! 芸術家をあんな風に扱うなんて、誰一人として許されることじゃない!」


狸子は明らかに激怒していたが、数分前に自分の目的のために誠の首根っこを掴んで引きずり回した事実など、その脳内からは綺麗さっぱり消え去っていた。……ああ、哀れな誠。


午後2時00分。

その後、ディベート部の部室にて。狐乃香は誠に古典論理の分析課題を与えていた。

誠は集中しようと努めた。だが、彼の脳は数時間もの間、三段論法とシェイクスピアの独白の間を往復し続けており、もはやどちらがどちらなのか判別がつかなくなっていた。……実に凄惨な状況である。


「星野くん。前提Aは『すべての人間は死ぬ』。前提Bは『ソクラテスは人間である』。結論は?」


黒板にロミオの幻影を見ていた誠が答えた。


「結論は、ロミオは古代哲学者の代数的数値を愛していた。だから彼は毒を飲んだんだ。彼の人生という方程式の解は……悲劇トラジェディだったから!」


ガラン、と狐乃香の手からペンが落ちた。その乾いた音が静かな部室に響き渡ると、その場にいた数少ない部員たちは、本能的な恐怖に駆られて逃げ出した。


「……ロミオ? 代数的数値?」


狐乃香はメガネの位置を直し、その瞳に危険な光を宿らせた。


「演劇部のあの女……あなたの処理能力を損なわせているわね。これほど論理的な脳をシェイクスピアの暗記に使うなんて、知性に対する冒涜よ。彼女、くだらないことにあなたを使いすぎているわ!」


それからしばらくして……。

誠はディベートが長引いたせいで遅刻した。狸子は既にウィッグを用意していた。

それは蛍光色の、オレンジ色をした、あまりにも無残なシロモノだった。


「第7-B条:遅刻によるペナルティよ」


狸子が天使のような微笑みで告げる。


「稽古の間中、ずっとそれを被っていなさい」


誠は、もはや失うもののない尊厳を胸にウィッグを被った。

シーンは愛の告白。部活の看板女優と対峙する誠。全員が見守り、狸子が演出の指揮を執る。


「魂を込めて、誠くん! 彼女を愛していると納得させるのよ!」


誠は彼女を見た。看板女優を見た。そして、数時間もの間「ディベート・モード」だった彼の脳は、その瞬間に唯一できることを実行した。

彼は両手で、空中に仮想のベン図を描き出したのだ。


「見てくれ。この円は君の関心事だ。そしてこの円は僕の関心事だ」


彼は絶対的な荘厳さをもって、その中心を指差した。


「この積集合インターセクションこそが……愛だ」


講堂を静寂が支配した。部員のほとんどが口をあんぐりと開け、目の前にいた女優は、誠のことを得体の知れないバカを見るような目で見つめていた。


「誠! 数学じゃなくて魂を込めなさい!!」


狸子は憤慨し、稽古を中断させた。


その日の夕方。

「偶然」にも、二階の廊下で狐乃香と狸子が鉢合わせた。ああ、なんて恐ろしい。

二人ともそれが偶然ではないと分かっているし、この瞬間が来ることを予見していた。ただ、白々しく「しらを切って」いるだけなのだ。なんという性格の悪さだろうか。


「団蔵さん。奇遇ね」

「狐乃香さん。奇遇ですわね」


二秒間の礼儀正しい沈黙。我々凡人には一瞬だが、彼女たちにとっては千の罵倒に匹敵する時間だ。


「星野くんが認知的過負荷の兆候を見せているわ」

狐乃香は前を見据えたまま言った。

「特定の課外活動が、彼の分析パフォーマンスに悪影響を及ぼしているようね」


「あら、興味深いわね」

狸子が毒を含んだ甘い声で返す。

「誠くんが稽古に来る時、頼んでもいない数式で脳がいっぱいになっているの。特定の『血糖値への執着』が、彼の芸術的感性をブロックしているみたいだけど」


「芸術は学問的優先事項ではないわ」

「論理には心がないものね」

「心では全国大会には勝てないわ」

「全国大会では劇場は埋まらないわよ」


二人は火花を散らし、互いを睨みつけた。

廊下には居心地の悪い沈黙が流れ、だが二人は止まらなかった。


「彼はもっと学習時間が必要よ」「演劇のせいでストレスが溜まりすぎているわ」「このままでは学業成績に響くわよ」……。

次々と屁理屈を並べ立てるが、どちらも譲らない。それどころか、その意固地さがさらに怒りを増幅させ、二人の間には殺気すら漂い始めた。


そして、ついに痺れを切らした二人は、ほぼ同時に最終提案を突きつけた。


「いい加減にしましょう……彼のディベートのセッションを二回分、削ることを提案するわ。その代わり――」

「稽古の時間を短縮することを提案するわ。その代わり――」


二人は言葉を止め、見つめ合った。


「「却下よ」」


長い、長い溜息のような沈黙。


「……なら、このまま続けるというのね」

狐乃香が冷ややかに言った。

「あなたがそれを望んでいるように見えるけれど?」

狸子が毒を込めて応じる。


二人は背を向け、正反対の方向へと去っていった。結局、何一つ解決しなかったが、二人とも自分が何かを勝ち取ったような、奇妙な満足感だけを抱いていた。……まあ、天才たちの考えることは凡人には理解できないものである。


日が沈みかける頃、誠は学園の門をくぐった。

リュックには、返し忘れたオレンジ色のウィッグが虚しくぶら下がっている。左耳の後ろには、朝5時から流し忘れた石鹸の泡がこびりついたままだ。そして手の甲には、誰に頼まれたわけでもないベン図が虚しく描かれていた。


誠は校門の前で立ち止まり、深く息を吐いた。


(やっと……一日が終わった……)


間。


(……いや、これから先、こんな日がずっと続くんだ)


スマートフォンのバイブレーション。赤いアプリと青いアプリ。同時だった。


『明日:バルコニーのシーン。独白モノローグを完璧に暗記してくること』

『明日:謬説の評価試験。第4章から第7章まで』


誠は二つの通知を見つめ、静かにスマートフォンをポケットにしまった。

そして、力なく歩き出す。


(悟空……僕に力を貸してくれ……)


新天学園のどこかで、二人の天才は翌日の「トレーニング計画」を見直していた。互いに「相手が要求しすぎている」と確信しながら。


もちろん、どちらも間違ってはいなかった。

だが、誠はそれを指摘するにはあまりに礼儀正しく――。

あるいは、あまりに臆病すぎた。……恐らくは後者だろう。ああ、本当におめでたい奴だ。


第8話:完


...


【作者より】


あはは、捕まえた! まさかこんなに早く次のチャプターが上がるとは思わなかったでしょ? 正直、連日投稿なんて連載開始以来初めてかもしれません。


さて、いかがでしたか? ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。今日は珍しく朝から気分が良くて、勢いで二話連続投稿しちゃいました。


この調子で(信仰心と共に!)明日も更新しちゃうかも……。あるいは、そのまま来週まで姿を消すかもしれません(笑)。


もしよければ、「お気に入り」登録や応援をお願いします! 皆さんの反応が僕の何よりの支えになります。


それでは、次のチャプターでお会いしましょう!


作者:零時卿

(あの女……もう我慢の限界だわ。彼女のせいで誠くんがいつもより馬鹿になってる。支離滅裂なことばかり言って。きっと善狐の狐が、不可能な論理情報を詰め込んでいるに違いないわ。今すぐ止めさせなきゃ)


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