第10話:融点(後編)
保健室は静寂に包まれている。誠は眠り、バイタルモニターだけが静かに拍動を刻んでいた。
真理はベッドの傍らに座り、息子の手を握っている。颯太は部屋の隅の椅子に丸まり、涙は止まったものの、その表情はまだ硬いままだった。
狐乃香と狸子は壁際に立ったまま、居座るべきか去るべきか、そしてどんな顔をすべきか分からずにいた。
「あなたたちは、誠のお友達?」
どちらも答えなかった。
そして真理は、声を荒らげることもなく、トーンを変えることもなく、冷徹な論理と完璧な仮面を打ち砕く唯一の言葉を口にした。
「息子を……誠を助けてくれてありがとう」
小さな間。彼女の瞳が、静かに二人を射抜く。
「……でも、何かがおかしいわよね?」
狸子と狐乃香の身体が硬直し、わずかに震えた。だが、二人は即座に自分を立て直した。しかし、彼女たちには返答する時間など与えられなかった。
「あのね……」
真理は息子から目を離さずに言った。その声は甘く、まるで音楽のようだった。
「誠は昔から、隠し事のできない子なの。小さい頃、隠れてお菓子を食べた時なんて、すぐに耳が真っ赤になったわ」
真理は小さく笑い、ようやく顔を上げた。その瞳は微笑んでいるが、捕食者のような鋭い光を宿していた。
「でも最近、あの子の耳は赤くならない。ただ青白いだけ。手は震え、颯太の話では、ゲームで弟に勝つ体力すら残っていないそうじゃない」
再び、沈黙。
「最近は家に帰ってきても、夕食すら食べられないほど疲れ果てているわ」
観察眼という名の石が、静かな水面に投げ込まれる。だが、二人の天才もただ黙って引き下がるわけにはいかない。
狐乃香が喉を鳴らし、論理の仮面を取り戻そうとした。
「星野さん、ご心配は理解します。ですが、新天学園の学業的厳しさは……」
「学校のせいじゃないわ、善狐さん」
真理がその言葉を遮った。久しぶりに感じる、血が凍るような穏やかさだった。
「そして、それが『演劇的熱意』のせいだとも思えないのだけれど……そうよね、弾正さん?」
ドラマチックな言い訳を繰り出そうとしていた狸子は、口を開けたまま固まった。女優の仮面が一瞬でひび割れる。
(……この人、まさか知っているの?)
(……気づかれている?)
二人は同時に、滅多に感じることのない「恐怖」と「サスペンス」に支配された。
「息子が何かに巻き込まれているのは分かっているわ。あの子を擦り減らしている何か。そして、その中心にいるのはあなたたち二人だってこともね」
その一言が、二人の頭脳に決定的な混乱をもたらした。
(どうして……? この女性、私たちと会ったばかりなのに、もう真実に辿り着いている? 論理的にありえないわ。誠くんが契約のことを話した……? いえ、考えにくい。だとしたら、この人もまた……)
狐乃香が思考の迷宮に陥る中、狸子もまた余裕を失っていた。
(本当に……誠くんのお母さんなの? 似ても似つかないわ。それに私が『女優』であることまで見抜いている。仮面を被っても無駄ね。もしかして、この人も私と同じ……)
二人が同じ予感に辿り着く前に、トドメの一撃が放たれた。
「兄ちゃん、もうアニメを見てないんだ。時間がないって言ってた」
颯太が言った。ただ事実を述べるだけの、子供ゆえの残酷なまでの純粋さ。
真理はゆっくりと頷き、二人から視線を外さない。
「変よねぇ?」
トン単位の重みがある甘い声。
「あの子、昔は自分にとって大切なことのためなら、いつだって時間を作っていたのに」
その時、幸運にもモニターの音律が変わり、誠がようやく意識を取り戻し始めた。
彼が最初に見たのは白い天井、そして次に見たのは、疲弊した精神が想像しうる最悪の悪夢だった。母、狐乃香、狸子の三人が同じ部屋にいるという地獄絵図。
(嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ――)
「……か、母さん?」
誠は身を起こそうとして、囁くように呟いた。そして状況を理解すると、激しく動揺して声を上げた。
「母さん! どうしてここに? 大丈夫だよ、ただの……日射病なんだ。最近の新天はすごく暑くて。狐乃香さんと狸子さんは部活の仲間で、すごくいい人たちなんだ。プロジェクトを手伝ってくれてて、それで……!」
真理は彼を見た。ただ、見つめた。誠が物心ついた時から知っている、いつだって同じ意味を持つ穏やかな微笑みを浮かべて。
「嘘ね、誠」
たった三文字。世界中の温かさと、宇宙中の厳しさを込めた言葉。
「いや、本当に……狐乃香さんも狸子さんも、すごく……」
真理は誠の胸に手を置き、彼をベッドに押し戻した。その感触は優しいが、誠はまるで山が自分を押し潰しているかのような重圧を感じた。母の微笑みは崩れないが、その瞳は氷の刃と化していた。
「誠、今日はもう十分嘘をついたわね。おやすみなさい」
真理の声は拒絶を許さなかった。絶対的な命令。誠は人生で初めて、実の母親に対して根源的な恐怖を感じた。彼は震えながら口を閉じ、枕に沈んだ。狐乃香と狸子が一歩後退し、同じ思考を共有した。
(この女……)
(……危険すぎる)
「休みなさい。お話は家でしましょう」
『お話は家でしましょう』。
星野真理の言語において、それが何を意味するか誠は痛いほど分かっていた。だからこそ彼は目を閉じ、死んだふりを続けることが今の最善策だと決めた。
真理は恐ろしいほどのエレガンスで立ち上がった。
「颯太、ちょっとお兄ちゃんを見ていてね」
泣き続けていた颯太は素早く頷いた。真理は二人の少女に、ドアの方へ行くよう合図した。二人はまるで刑場へ向かう囚人のように、彼女に従った。
冷たく静まり返った廊下で、真理は足を止めた。一瞬背を向け、それからゆっくりと振り返る。母親としての温かさは完全に消え去っていた。彼女はまだ微笑んでいる。だが、その瞳の奥にある「何か」が決定的に変わっていた。
「あなたたちは、とても聡明な子たちなのね?」
二人は本能的に頷いた。
「分かるわ」
真理は一人、また一人と、絶対的な静寂の中で見据えた。
「狐乃香さん。狸子さん」
初めて名前で呼ばれた。その響きに、二人の血が凍りつく。
「息子とあなたたちの間で、正確に何が起きているのかは聞かないわ」
沈黙。
「でもね、あの隈が理由もなく現れるはずがない。あんなに元気だった子が、理由もなく足を引きずって歩くはずがない。そして……」
声のトーンは一定のまま。低くも高くもならない。
「……今朝、『大丈夫?』と聞いた私に、あの子が笑顔で嘘をついたこともね」
狐乃香は、幼い頃以来感じたことのない感情に襲われた。
狸子は、どんな劇的な役柄でも経験したことのない――本物の戦慄を覚えた。
真理は、いつもの甘いトーンで続けた。
「今日、説明を求めたりはしないわ。誠ももう大きいし、自分の決断は自分のものよ」
短い沈黙。
「でも……私の子供たちは、私にとって何よりも大切な宝物なの。もし、あなたたちの『遊び』が再びあの子をベッドに送り込むようなことがあれば……あるいは、あなたたちの不始末のせいで颯太がもう一粒でも涙を流すようなことがあれば……」
彼女の瞳が、二人を静かに、そして確実に捉える。
「……その報いは、学業的なものでも演劇的なものでもないわよ」
声を荒らげることはない。露骨な脅迫もしない。ただ、いつものように微笑んでいる。
だからこそ、効いた。
狐乃香なら、最悪の学業的シナリオを算出して備えることができた。狸子なら、いかなる劇的な修羅場への対応も稽古できた。だが、微笑みながら「逃がさない」と告げる母親へのプロトコルなど、どちらも持ち合わせてはいなかった。
「分かったかしら?」
二人は言葉もなく、ただ頷いた。
「よろしい」
真理は瞬く間にいつもの甘いトーンに戻ると、出てきた時と同じ静けさで保健室へと戻っていった。
廊下には、狐乃香と狸子だけが取り残され、沈黙が支配した……。
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夜。新天学園の無人の廊下に、狐乃香と狸子の姿があった。誠は既に真理と颯太と共に帰宅し、保健室も閉まっている。
待ち合わせたわけではない。ただ、いつものように二人は同じ場所に、同じタイミングで辿り着いただけだ。
今回はどちらも、それが偶然であるふりをしなかった。
最初に口を開いたのは、狐乃香だった。
「現在の契約は……控えめに言っても非効率的だわ」
狸子が即座に応じる。
「完全に持続不可能ね」
沈黙。
「義務的なセッションを週二回に削減することを提案するわ」
狐乃香が言った。
「受け入れるわ。ただし、稽古はスケジュールの重複がないよう隔日に設定すること」
狸子が返す。
「午前七時前のメッセージ送信は禁止」
「九十分以上の連続した稽古も禁止」
「身体的なペナルティも、なし」
狸子が狐乃香を見た。
「……ウィッグの条項は?」
「削除よ」
「……いいわ」
廊下に静寂が戻る。二人は互いを見ようとはせず、ただ前方を見つめていた。
やがて狸子が、どの役柄でもない声で言った。
「ねえ……私たち、あの子を酷使しすぎたのかしら?」
狐乃香が答えるまでに、正確に三秒かかった。
「データは、そう示唆しているわね」
また、沈黙。
「……それと、あのお母さんは?」
狐乃香がメガネを押し上げる。
「私が算出できない、考慮もしていなかった変数よ」
(そして、二度と敵に回したくない存在)
言葉には出さず、心の中でそう付け加えた。
狸子が、笑いともつかない声を漏らす。
「生まれて初めて、怒鳴られもせずに恐怖を感じたわ。あの女性……本当の意味で格が違うわね。私たちより、ずっと上の……」
狐乃香は答えなかった。だが、否定もしなかった。
二人は別れの言葉もなく、それぞれの方向へと歩き出した。まだ紙には書かれていないが、既に二人の頭の中に刻み込まれた「新しい契約」を胸に。
仲良くなったわけではない。
ただ、この街のどこかに、自分たちが制御できない存在――自分たちよりも遥かに危険な「母親」が微笑んでいるという事実。
全てを支配することに慣れきった二人の天才にとって、それだけで十分すぎるほどの動機だった。
第10話:完
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皆さん、こんにちは。お元気ですか? 皆さんが元気で過ごしていることを願っています。
さて、この小説の第10話をお届けします。週末に更新すると約束していましたが……実はひどい食あたりで病院に担ぎ込まれていました。2週間前の高熱に続き、今度はこれです。今月はどうやら運命が僕の味方をしてくれていないようですね。
でも、そんなことはどうでもいいんです! もしここまで読んでくださったのなら、お気に入り登録などで応援していただけると励みになります。
今週こそは(また別の不幸が襲ってこない限り!)、第11話を出します。ところで、自分でも気づいたのですが、今回のエピソードはすごく短くなってしまいましたね(ああ、僕は詐欺師か何かでしょうか、神様……)。完全に体調が戻ったら、もっとボリュームのある章を書きたいと思っています。
もし短いままでも、どうか読み続けてください。この物語には、まだまだ探索すべきことが山ほど残っていますから。
ということで、今回はここまでです。第11話を楽しみに待っていてください!(ちなみに、星野真理を自分で書いていて、彼女のことが大好きになりました。今や僕の一番のお気に入りキャラクターです)
零時卿より。




