第11話:怪しい静寂(あるいは、理由も分からず楽園を楽しむ方法)
最初に目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。
その次に映ったのは、疲れ果てた頭が想像しうる最悪の悪夢。母、弟、狐乃香、そして狸子。四人が同じ部屋に揃っていた。
(いやだ。無理無理無理無理――)
「か、母さん……?」
誠は身を起こそうとしながら呟き、それから慌てて声を張り上げた。
「母さん! なんでここに!? 僕なら大丈夫だよ、ただの……そう、熱中症! 最近の進天学園はすごく暑いから。それに、狐乃香さんと狸子さんは部活の仲間で、すごく良い人たちなんだ。プロジェクトを手伝ってくれてて――!」
真理は彼を見つめる。ただ、じっと。誠が物心ついた時から知っている、そしていつだって、絶対に同じ意味を持つあの穏やかな笑みを浮かべて。
「嘘ね、誠」
たった二言。世界のあらゆる温かさと、宇宙のあらゆる断固さを込めて放たれた言葉。
「いや、本当に、狐乃香さんと狸子さんはすごく……」
真理は誠の胸に手を置き、彼を無理やり横にさせた。触れ方は優しかったが、誠はまるで山が自分を押し潰しているかのように感じた。
(あの笑顔……あの笑顔は絶対にマズい。中三の時、ベッドの下の漫画コレクションを見つけた時と同じ笑顔だ。あの時は三日間何も言わなかったのに、その後……全部、消えた。跡形もなく。でも、今回はそれより酷い。もしかして、あの契約のこと、バレてる?)
(あの笑顔は危険だ。母親という形をした世界の終わりだ)
「誠、今日の嘘はもう十分よ。おやすみなさい」
(お、おやすみなさい? まだ午後五時だよ、母さ――)
「休みなさい。家でゆっくり話しましょう」
その言葉だけで、誠の精神は崩壊した。抵抗して何か言おうとしたが、体は抗議一つ受け付けなかった。誠の胸にある真理の手は、狐乃香の論理と狸子のドラマを足したものよりも重かった。
誠は口を閉じ、唾を飲み込み、戦う前に敗北を悟った男の諦めと共に枕に沈んだ。
(……寝たふりを続けるのが一番だ。それしか選択肢はない。それが、この人生に残された最後の手段だ)
そして、彼は目を閉じた。
だが、眠ってはいなかった。
聞いていたのだ。
真理が立ち上がる音がした。ドアへと向かう足音が聞こえた。彼女が静かに合図を送る気配がした。目をつぶっていても、母親を熟知した息子特有の超自然的な確信で、その合図が狐乃香と狸子に向けられたものだと分かった。
(廊下に出るんだ……)
(三人が、廊下へ……)
(僕の母さんが、廊下で狐乃香 善狐と狸子 団蔵の二人とだけになるなんて……)
一筋の冷や汗が、背中を上から下へと伝った。
(いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。これ以上ないほど最悪の展開だ。地下室よりも、学園中の追いかけっこよりも、あのオレンジのウィッグよりも酷い。密室の廊下で、あの二人が母さんと一緒にいるなんて。アニメの主人公だって正気を保ったまま生き残れないような、壊滅的な大惨事だ)
しかし、この哀れな男が反応する前に、最後の一言が聞こえてきた。
「奏太、少しの間お兄ちゃんを見ていてね」
(見ていてって……)
その瞬間、母さんの声も二人の少女の気配も消え、ただ沈黙だけが残った……。その沈黙を破ったのは、幼い弟の声だった。
「兄ちゃん……」
誠は片目を開けた。
奏太は、何が起きているかを正確に理解しているが、それを表現する言葉を持たない子供特有の表情で彼を見ていた。
「母さん、あの顔してるよ」
「……どの顔?」
誠も囁き声で返した。答えは分かりきっていたが。
「兄ちゃんの漫画を見つけた時の顔」
(お前、あんなに小さかったのにあの時の顔を覚えてるのか……。もしや「彼」も、あの顔を覚えているのかな)
その瞬間、誠は幼い頃の記憶を思い出した。奏太がまだ赤ん坊で、長男がまだ一緒にいた頃の記憶を……。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
(分かってた。分かってたのに、なんで聞いちゃったんだろう)
誠は目を閉じた。再び寝たふりに戻る。奏太は黙って彼の袖を引っ張り続けた。兄が「寝たふり」という戦略を選んだのなら、弟としてそれを邪魔するつもりはなかったのだ
外の廊下は、不気味なほど静まり返っていた。
誠は目を閉じ、心臓をバクバクさせながら、聞こえないものは存在しないのだと自分に言い聞かせた。
(大丈夫だ。全部うまくいく)
(母さんはただ……お喋りしてるだけだ。狐乃香さんと、狸子さんと。午後五時の、誰もいない廊下で)
(何もかも、完璧に大丈夫なはずだ……)
そう思おうとしたが、やはり耐えきれず、彼はベッドの上で身悶えした。
(ああ、クソッ、無理だ! 全部最悪だ! 母さんは全部知ってるんだ! もうおしまいだああああ!)
「兄ちゃん、どうしたの!? 痙攣してるの!?」
奏太が慌てて誠を落ち着かせようとしている最中、扉が開く乾いた音が二人を硬直させた。
真理が病室に戻ってきた。その顔には、いつもの微笑みが浮かんでいる。
「あら……二人で何をしているの? 兄弟仲良く遊んでいるのかしら?」
「あ、あはは……母さん。そう、奏太と……『警察と泥棒』ごっこをしてたんだ。僕が泥棒で、奏太が僕を捕まえる警察だよ」
誠はベッドの上に正座し、奏太は母の傍へと寄った。真理は怒っているようには見えなかったが、その笑顔を知っている誠に安らぎなど微塵もなかった。
「家に帰りましょう、誠」
それは、質問ではなかった。
「……はい、母さん」
彼はゆっくりと立ち上がった。 失神のせいではなく、廊下で何かが起き、自分にはそれが全く分からないという見えない重圧で体が痛んだ。
扉の方を見た。 狐乃香も狸子も、そこにはいなかった。
(……帰ったのか? 消されたのか? あの笑顔で溶かされたのか?
「あの……狐乃香さんと狸子さんは?」
残った勇気を振り絞って尋ねた
「もう帰ったわよ。あの子たち……考えることがたくさんあったみたいだから」
それ以上、誠は何も聞かなかった。 リュックを拾い、奏太が差し出した手を黙って握り、母の後について出口へと向かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
家への帰り道は、誠の短い人生の中で最も緊張した時間だった。 車の窓の外を街の光が通り過ぎていくが、この哀れな男は運転手の項と、母から漂う謎のオーラにしか集中できなかった。
彼は最悪の事態を覚悟していた。 叱責か? 拷問か? もしかしたら、母に奴隷にされてしまうのか? おそらく誠は、アニメの見すぎでバカな想像をするのをやめるべきだった。
だが結局、何も起きなかった。 それどころか、三人が家に入ると、誠はある匂いに気づいた。 それは彼の好物の匂いだった。
「座りなさい。夕食の準備はできているわ」
真理が告げた。
三人は何も言わずに席に着いた。 全てが普通に見えた。
(えっ、これ夢か? 母さんはきっと僕を殺すと思ってたのに……。もしかして、今回はそんなに怒ってないのかも)
彼が食事をしながらできるだけポジティブに考えようとしていた時、母の質問が思考を引き戻した。
「ねえ、誠。進天学園での生活は本当はどうなの?」
彼女は肉を切り分けながら尋ねた。
「あの狸子という子は、素晴らしい女優だと聞いたわ。本当なの? 部活であなたをたくさん働かせているのかしら?」
「あ……うん、彼女はすごいよ」
皿の上で汗をかかないように必死で答えた。
「でも、僕は簡単な手伝いをしてるだけだから、その……」
(次の劇でロミオ役をやるなんてバレたら、殺されるかもしれない)
「狐乃香さんはどう? 時間をとても大切にする子のようだけど。あなたに良くしてくれている?」
「あ、ああ、すごく良くしてくれてるよ。ちょっと厳しいけど、そんなに特別なことじゃないから、あはは……」
こうして、誠は真理からの何百もの質問の砲火を浴び、必死で答え続けた。 なんという恐ろしさ。 食事が終わると、真理は彼に部屋へ行くよう命じた。 彼は何も起きなかったと安心し、幸せな気分で部屋へ向かった。
だが、この「脳みそチキン」が気づかなかったのは、息子が過剰に酷使されていたという確信を真理に与える全ての証拠を、自分から提供してしまったということだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
翌週の月曜日。
誠はいつものように午前5時に目を覚ました。 だが、何かが違っていた。 この一週間彼をトラウマに陥れていた二つのアプリが、跡形もなく消えていたのだ。 演劇部と弁論部のアプリがない。 それは彼を驚かせた。 まるで最初からインストールされていなかったかのようだった。
「変だな……」
彼は呟いたが、ゆっくり考えている時間はなかった。 急いで学校へ行く準備を整えた。
誠は全神経を研ぎ澄ませ、警戒レベルを最大にして進天学園の門をくぐった。
(よし。月曜日だ。あの……「事件」以来の最初の日。二人とも何が起きたか分かってるはずだ。僕だって、廊下で母さんと何かが起きたのは分かってる。誰も教えてくれないけど。結論:何が起きてもいいように覚悟しておかないと)
中央廊下に入った。 弁論部の部員が論理パズルを持って待ち構えているか、演劇部の誰かが台本と怪しい色のウィッグを持ってどこからか飛び出してくるのを予期していた。
だが、誰も現れなかった。
自分のロッカーに着き、扉を開けた。 メモや課題、あるいは赤いインクで自分の名前が書かれたベン図が入っていることを期待した。
そこにあったのは、数学の教科書と、先月から忘れていたガムの包みだけだった。
(すごく変だ)
一時間目の授業中、誠は背筋を伸ばして席に座り、まるで空気中の何かを嗅ぎ取ろうとする動物のように感覚をフル回転させていた。
何も起きない。
休み時間、彼は誰かに呼び止められるのを期待して、二階の廊下を三往復した。
何も。
正午、スマホが震えた。 誠は心臓をバクバクさせながらそれを掴んだ。
奏太から、猫のミーム画像が送られてきただけだった。
(……)
(これは罠だ。絶対に罠に違いない)
だが、その後の数日間も同じだった。 狐乃香からは読むべき記事のテキストが届き、狸子からは発音練習のボイスメッセージが届くといった、ごく小さな依頼はあった。 しかし、それらはすべて理にかなった内容で、誠が睡眠や正気、ましてや尊厳を犠牲にする必要など微塵もないものだった。
三日間、全力で疑い続け、廊下を通るたびに後ろを振り返り、届くはずのない「罠のメッセージ」を探して二度も三度もスマホを確認した後……
誠は、考えるのをやめた。
なぜなら、彼は誠だからだ。
(何が起きたのかは分からない。どうして二人が変わったのかも。……たぶん、知らない方がいいんだろうな)
(大事なのは、今、僕には「時間」があるってことだ)
時間。
その言葉は、少年漫画の主人公が隠された力に目覚めた時のような壮大な響きを持って、彼の脳内に響き渡った。
その日の放課後、家に着いた誠はリュックを部屋に放り投げ、数週間前から頭の中でシミュレーションしていた通りの完璧な動きで布団にダイブした。 そして、何世紀も前から止まっていたかのように感じていた、読みかけのチャプターを開いた。
奏太がドアからひょっこりと顔を出した。
「兄ちゃん、アニメ見てるの?」
「ああ」
「僕も一緒に見ていい?」
誠は弟を見た。 それから画面を見て、また弟に視線を戻した。
「五分おきに『何が起きてるの?』って聞かないならな」
「十分おきに聞くって約束するよ」
(妥当な取引だ)
「来いよ」
奏太は駆け寄ってくると、散歩に連れて行ってもらう直前の犬のようなエネルギーで兄の隣に陣取った。 誠は音量を上げた。 画面が輝き、オープニングテーマが流れ始める。
数週間ぶりに、星野 誠は何の脅威も感じることなく微笑んだ。
(ああ……。これでいいんだ。これこそ、僕が必要としていたものだ)
(あの廊下で、母さんが何をしたのかは知らない)
(あの二人に何を言ったのかも知らない)
(そして正直なところ……一生知らないままでいたい)
哀れな馬鹿め。 あの二人が今、どんな状態に陥っているのかも知らずに……。
第11話:完
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
作者のあとがき
帰ってきたよ、イェーイ!!(笑)
こんにちは。ここまで読んでくれてありがとう。そして第11話にお付き合いいただき感謝です!
「あ、チャプター更新しなきゃ」って思い出して書き上げたんだけど、自分でもすごく楽しんで書けました(後悔はしてない!)。
皆さんもこの話を楽しんでくれたなら嬉しいです。少なくとも僕は最高に楽しみました。まあ、ここまで読んでくれたんだし、改めて「ありがとう」だよね。
さて、今週末には新チャプターを公開予定です。先にちょっとだけ予告しておくと、次は狸子と狐乃香に焦点を当てた話になります。
あの子たち、真理のせいでガチでトラウマを植え付けられちゃってるから……。かわいそうに。まあ、何が起きたかは次を待っててね。
土曜になるか日曜になるかは断言できないけど、「週末」に投稿するから。それじゃ、またね!
零時卿より。




