第22話: 唯一空いている馬鹿
誠は、これが得られる最善の反応だろうと判断した。
深呼吸する。
そして、今年度思いついた中で最大の馬鹿げた提案を口にする覚悟を決めた。
「狐乃香さん……男装して、俺たちの劇のロミオ役をやってほしいんだ」
沈黙。天井の照明の電気的な羽音まで聞こえそうなほどの、完全な沈黙だった。狐乃香は完全にフリーズしていた。タブレットの画面に触れようとしていた指が、空中でピタリと止まる。ディベート部室の気温が一気に10度ほど下がったように感じられた。
ゆっくりと、彼女は視線を上げる。そして口を開いた時、その声は室温よりもさらに数度冷たかった。
「……今あなたの口から出た戯言を説明できる、論理的な理由を一つだけ挙げなさい」
誠は処刑を目前に控えた気分で、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そ、その、だな……遥の残したトラウマのせいで誰もロミオをやりたがらなくて、狸子がすごく悲しんでてストレスを抱えてたんだ。だから俺は、最高のロミオを連れてくるって英雄的な約束をしてしまって……でも、演技ができる知り合いなんていないってことにさっき気づいたんだ! 狐乃香さんは背も高いし、声に威厳があるし、かっこいいから……」
「却下」
5秒もかからなかった。彼女の脳は、工業用シュレッダーのような効率でその主張を処理し、評価し、粉砕した。
「早っ!?」
と、誠は悲鳴を上げた。
「あなたの計画は非効率的で、非合理的で、統計学的に見ても愚かよ」
狐乃香は容赦なく言い放った。
「私には演劇の経験がないし、性別を偽っていることがバレるリスクは98.4%。そして何より重要なのは、それは『あなた』の約束であって『私』のじゃないということ。結論:その馬鹿げた実験の被検体は他で探しなさい」
誠はパニックに陥った。追い詰められている。最後のカードを切るしかない。汚いカードを。
「だ、だけど狐乃香さん! 俺たち、友達だろ!」
誠は両手を合わせて懇願した。
「友達ってのは何でも助け合うもんだろ! それが友情の黄金ルールだ! 頼む!」
狐乃香は彼をじっと見つめた。そして、立ち上がった。
ほんの一瞬、誠は上手くいったかと思った。だが次の瞬間、狐乃香は彼に向かって歩き出し、制服の襟をしっかりと掴むと、本を読んだりタブレットをいじったりしているだけの人間とは思えない驚異的な力で、彼を出口へと引きずり始めた。
「ま、待って! 狐乃香さん! 首が、首が締まる!」
「あなたの言う通りよ、星野くん」
狐乃香は、もう片方の手で部室のドアを開けながら、恐ろしいほどの落ち着き払った声で言った。
「真の友人は何でも助け合うものよね」
誠は混乱し、半ば窒息しながら瞬きした。
「じゃ、じゃあ、やってくれる……?」
「ええ。あなたの友人として、私はあなたの人格的成長を助けることに決めたわ」
彼女は誠をドアの枠のちょうど真ん中に配置しながら宣言した。
「自分の問題を自分で解決できる、自律した個人になれるよう手助けしてあげているの。どういたしまして」
何が起きているのかを悟り、誠の顔が歪んだ。
「待って、待って、いやだ、自律なんて過大評価だ、俺はもっと他人に依存して——!」
ドゴォッ!
狐乃香の靴の裏が誠の背中にクリーンヒットした。驚くほど技術的で完璧な蹴りが、彼を廊下へと直接吹き飛ばした。
誠は顔面から床に墜落し、痛みにうめいた。半ば寝返りを打ち、鼻をこすりながら泣きそうになる。
ドアの敷居に立つ狐乃香が、彼を見下ろしていた。だが、彼女のいつもの中立で無関心な仮面は、わずかにひび割れていた。その頬は羞恥で真っ赤に染まり、眉は憤りと隠しきれないパニックが混ざり合って寄せられていた。
「それに、星野くん」
彼女は彼を指差して非難した。
「言っておくけれど、西園寺遥の一件であなたが完全に精神崩壊しないよう、私はすでに助けてあげたはずよ。正確に計算するなら、むしろ私の方があなたに貸しを要求するべき立場でしょう!」
誠は反論しようと口を開いたが、彼女はそれを最後まで言わせなかった。
「ついでにはっきり言っておくけど!」
狐乃香は完全に冷静さを失い、頭に浮かんだ光景の恥ずかしさから少し上ずった声で叫んだ。
「この人生でも、マルチバースのどの人生においても、全校生徒の前で男装して演技するなんて絶対に引き受けないから! 完全に馬鹿げてるわ!」
バタンッ!!
ディベート部のドアが、窓ガラスが震えるほどの勢いで閉められた。内側から鍵をかける音が響く。
こうして、星野誠は床に転がったまま、打ちのめされ、屈辱にまみれ、これから一体どうすればいいのか全く分からない状態に取り残された。
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ディベート部前の廊下の床は、セントラルヒーター完備の学園の屋内廊下にしては異常に冷たい。誠はここ数週間の経験から、それを経験則として確認していた。
なぜ知っているかといえば、彼が約3分間、そこに転がったままだったからだ。
怪我をしているわけではない。起き上がれないわけでもない。ただ、起き上がるには向かうべき「目的地」が必要であり、今の星野誠には、立ち上がる労力に見合うだけの目的地が全く存在しなかったのだ。
(なんで俺、いつも床に転がってるんだ……?)
床がすっかり親しい友人のように感じられるほど、十分なトラウマを処理してきた人間特有の静けさで、彼はそう考えた。
(最初は遥に演劇部から蹴り出された。そして今は狐乃香さんにディベート部から蹴り出された。これって俺のパッシブスキルか何かか?)
彼は天井を見上げた。
(俺の顔、サッカーボールみたいに見えるのかな)
(そういうことか?)
(俺の顔って、人に「蹴ってくれ」って訴えかけてるのか?)
廊下に響く足音。
誠が見覚えのある2年生の男子生徒が、隣で立ち止まった。「医療の緊急事態」なのか、それとも「ただの星野くんが星野くんしているだけ」なのか、どう反応すべきか迷っている特有の表情を浮かべている。
「星野くん……大丈夫?」
「いや」
「あ、そう」
そして、そのまま歩き去っていった。
誠は遠ざかるその後ろ姿を見つめた。
(精神的なサポートをありがとう、神天。この学校はNPCでさえ俺をスルーするのか)
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一方、その木製ドアの向こう側では。
狐乃香善子はディベート部室で一人、立ち尽くしていた。彼女の呼吸は普段よりもわずかに荒い。ぎこちない動作でスカートのシワを伸ばし、眉をひそめながら、いつもの定位置である椅子へと歩いていく。
星野を拒絶した。純粋な論理で論破し、粉砕した。部室からも追い出した。この件はすでに解決済みだ。
それなのに……。
狐乃香はタブレットを開いた。仮想キーボードの上で、指が勝手に動く。
男子高校生の平均身長。低音域を出すための発声モジュレーション技術。男装コスプレ用の胸つぶし。シークレットインソール。
「……もし、シルエットを誤魔化すために骨組みのしっかりしたベストを着たとしたら……」
彼女は独り言を呟きながら、目で素早く記事をスキャンしていく。
「そして、腰ではなく肩から歩くように姿勢を調整すれば、生体力学的には若い男性の動きを模倣できるはず。ロミオの台詞の韻律は……」
突然、狐乃香はピタリと固まった。
自分の手を見る。そして、演技や男装に関するタブで埋め尽くされたタブレットの画面を見た。
首筋から耳の先まで、一瞬にして真っ赤に染まった。彼女は部室中に響き渡るほどの勢いで、バンッとタブレットを閉じた。
「私はいったい何を計算しているのよ!」
彼女は羞恥で顔を覆い、自分自身に腹を立ててシャーッと威嚇するように声を漏らした。
「やらないって言ったでしょ! 統計学的に見ても世界最悪のアイデアなんだから!」
彼女は経済学の本を取り出し、その日の午後の残りの時間を、誰にも知られることなく世界の金融問題を解決することに費やした。星野のあの馬鹿げた提案を考えないようにするためだ。もっとも、その試みは成功しなかったのだが……。
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誠は最終的に起き上がった。
活力や新たな決意に満ちてのことではない。床に転がっていてもこの問題の処理において新たな進展は得られないと判断し、どこへ向かうか明確でなくても、とりあえず歩けばマシになるかもしれないと考えた人間の、緩慢な動きだった。
歩いた。
この時間、メインの廊下はほとんど無人だった。一日の終わりの陽光が窓からオレンジ色の角度で差し込み、すべてを実際よりも穏やかに見せていた。
(ロミオが必要だ)
(ロミオがいない)
(ロミオを用意するって約束した)
(狐乃香さんには蹴り飛ばされた)
(マジで詰んでる)
彼は窓の前で立ち止まった。
中庭の方を向いたが、実際に中庭を見ているわけではなかった。
そして、自分から思い出したわけでもないのに、その日の朝、楽屋で狸子が言っていた言葉のこだまが蘇ってきた。
ロミオについてでも、劇についてでもない。もっと具体的なことだ。
『みんな、遥には及ばないんじゃないかって恐れているの』
誠は眉をひそめた。
(みんな、遥には及ばないんじゃないかって恐れている)
(みんな、遥に匹敵する誰かを見つけようとしている)
(俺も、遥に匹敵する誰かを見つけようとしている)
(なんで?)
その疑問は、推論のプロセスを経ずに自然と湧き上がってきた。誠にとって本当に重要な疑問がいつもそうであるように。
(なんで俺たちは、遥の代わりを見つけようとしてるんだ?)
窓の前で立ち尽くす。
(遥は部全体にトラウマを植え付けた。部員たちをロボットに変えた。恐怖で演技させた。演技ってのは内側から外側へ出るべきもので、外側から内側へじゃないってことを、みんなに忘れさせた)
(なのに、あいつがいなくなった今でも……みんな、あいつのルールの下で演技し続けてる)
(あいつが不在でも、残した恐怖はそこに居座っている)
(それってまさに、あいつが望んでいたことじゃないのか?)
誠は窓ガラスを見つめた。
窓が答えてくれるはずもなかったが、ガラスに映る自分自身の顔にはあるものが浮かんでいた。どうやってそうなったのか正確には説明できないが、何かのピースがカチッとはまった時の、あの特有の表情だ。
(遥みたいなロミオは必要ない)
(必要なのは、その全く逆のものだ)
彼は、先ほどよりも少しだけ明確な目的を持って出口へと歩き始めた。
大した目的ではないかもしれない。それでも、ゼロではない。
右足の引きずり具合が、少しだけマシに見える程度の目的には。
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星野家。午後6時48分。
玄関のドアが開くと、いつものように、まず夕飯のいい匂いが出迎えてくれた。
「ただいまー」
誠は敷居をまたぎ、いつもの玄関の定位置に鞄を置くと、その動作を何千回も繰り返してきた人間特有の無意識の動きで靴を脱いだ。
「兄ちゃん!」
奏太が廊下から姿を現した。話し相手が帰ってくるのを何時間も待ちわびていた、10歳児特有のエネルギーに満ちている。
「遅いよ。迷子になったのかと思った」
「迷子になってない。色々と大変な一日だったんだよ」
「倒れた時よりも?」
「はあっ? いや、あれとは違うだろ」
と、誠は心外そうに言った。
奏太は、そうした区別を非常に重んじる人間特有の真剣さでその言葉を処理した。
「蹴られたの?」
誠は弟を見た。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「右足、引きずってるから」
それを聞いて、誠の顔から血の気が引いた。
(この子……大人になったら恐ろしいことになりそうだな……)
「壁にぶつかったんだよ」
「あ、そう」
奏太は言った。廊下で会ったあの生徒と全く同じトーンだった。どうやらこれは、この家の遺伝的な特徴らしい。
「誠」
キッチンから声が響いた。それは誠が物心ついた頃から、注意深く耳を傾けなければならないと学習してきた、あの特有の静かな声だった。
星野真理がエプロン姿でキッチンのドアの枠から顔を覗かせた。表面上は完全に中立だが、読み取る術を知っている者からすれば、その下には全く別のものが潜んでいると分かる表情だ。
彼女は1秒間、誠を見つめた。
「何かあった?」
「あ、いや、俺の知る限りは特に……」
真理はさらに1秒間彼を見つめた。彼女は誠の心を読んでいるのだ。そして数秒後、小さく頷いた。
「ご飯、あと10分でできるわよ」
そしてキッチンへと戻っていった。
誠は止めていた息を吐き出した。
(……なんか、丸裸にされた気分だ……)
奏太が誠の袖を引っ張った。
「本当に大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。ただ……ちょっと考えてただけだ」
「何を?」
「問題について」
「手伝おうか?」
誠は弟を見た。奏太は、世の中には手助けのしようがない問題が存在するということをまだ知らない子供だけが持つ、絶対的な誠実さの表情を浮かべていた。
「今回のは、奏太には無理だと思う」
「そっか」
奏太は気を悪くした様子もなく言った。
「俺、今見てるものがあるんだ。一緒に見る?」
奏太が見ていたのは、ミュージカルだった。
誠が普段好んで見るようなものではない。凝った舞台美術の中で、人体が自然に生み出す以上の酸素を必要としそうな熱量で、俳優たちが日本語で歌い上げている。それでも誠は、鞄を廊下に置いたまま、靴下も脱がず、頭の中ではまだロミオの問題を処理しながらソファの奏太の隣に座った。すると、画面の中の何かが、彼が求めてもいないのに心に浸透し始めた。
俳優たちは、完璧ではなかった。
それが最初に気づいたことだった。
演技が下手だという意味ではない。彼らが「生身の人間」であり、自分の持てる全てを懸けて困難な何かに挑んでいるのが目に見えて伝わってくるのだ。そしてその姿は、どれほど技術的に非の打ち所がない演技であっても生み出せない「何か」を観客に起こさせていた。
(……面白いな)
奏太が画面を指差した。
「あそこにいるのが主役。最初はキャストの中で一番下手だったんだよ」
「へえ。それで?」
「今は一番上手い」
「マジで? 何が変わったんだ?」
奏太は、大半の大人よりもフィクションに関する質問を真面目に受け止める子供特有の真剣さで、しばらく考え込んだ。
「多分、『上手に演技しよう』とするのをやめて、『本気で演技する』ようになったんだと思う」
誠は画面を見た。
その時、主人公はステージの真ん中で何かを語っていたが、誠は奏太の言葉を処理するのに忙しすぎて、その内容を認識できなかった。
(『上手に演技しよう』とするのをやめて、『本気で演技する』ようになった……)
(それはまさに、遥がやっていたことの正反対だ)
(遥は完璧に演技していた。技術的には。でも、その内側には「本物」が何もなかった)
(そして演劇部のみんなは、それを求めている。本当は完全に空っぽだった奴の、技術的な完璧さを探し求めているんだ)
誠は口を開きかけた。
閉じた。
そして、もう一度開いた。
「奏太」
「なに?」
「未経験の素人でも、本気で自分をぶつければ、上手く演技できると思うか?」
奏太は、興味深い問いを見つけた人間特有の、真剣な眼差しで誠を見つめた。
「『上手い』かどうかは分からないけど」
と、彼はついに言った。
「でも、兄ちゃんは『本気で演技できる』と思う。そっちの方が、上手いことよりずっと面白いよ」
誠は一瞬、絶句した。
(この10歳児……俺が3時間追い求めていた答えを、さらりと出しやがった)
(屈辱的で、でも最高に素晴らしいな。こいつ、大人になったら間違いなく俺たちの兄貴分になるぞ……)
その時、真理が昼食を運んできた。
いつもの静かな効率の良さで2つのトレーを運び込み、ソファの前の小さなテーブルに置く。彼女は一瞬画面に目を向け、それからソファに並んで座る2人の息子を見た。それぞれの表情は全く違うが、どちらも画面に釘付けになっている。
「二人とも、そんなに集中して。何を見てるの?」
真理は冗談めかして言った。
「ミュージカル」
奏太が答える。
「あら、そうなの? あなたたち、いつから演劇なんて好きになったの?」
真理が尋ねた。その声には、純粋な好奇心と、制御された楽しさが混じっている。
「僕は昔からずっと好きだよ」と奏太。
「俺は、緊急事態で好きになりかけてる」
と誠が言った。
真理は二人を見つめた。
そして、彼女のデフォルト状態である、あの静けさを纏って言った。ある人にとっては慰めになり、ある人にとっては状況次第で恐怖すら感じさせる、彼女特有の穏やかさで。
「二人とも、誰かさんが挑戦してみればいいんじゃないかしら」
それは特定の誰かに向けたものではなく、画面に向かってつぶやくように、まるで天候について言及する程度の軽い口調で言われた。
奏太が即座に誠を指差した。
「兄ちゃんがやるべきだよ」
「奏太」
「兄ちゃんは、主人公の顔をしてるから」
「奏太」
「それに、もうロミオの台詞をいくつか知ってるでしょ。だって1ヶ月前、シャワー浴びながら歌ってたもん」
「奏太ぁ!!」
真理がゆっくりと誠の方へ首を向けた。
誠はその首の角度を3歳の頃から知っている。会話の温度が切り替わった合図だ。その瞬間、誠の胸の中で、何かがカチリと音を立てた。新しいアイデアが生まれたわけではない。ずっとそこにあったのに、スイッチが入るのを待っていたアイデアが、ついに火を吹いたのだ。
(俺だ)
(俺がロミオをやるべきなんだ)
(一番の適任だからじゃない。台詞を少し知っていて、やるべき切実な理由がある唯一の空いている馬鹿が、俺だからだ)
(なんてひどい考えだ)
(客観的に見れば、俺の人生史上、最悪のアイデアだ)
(演技なんてできない。舞台映えする存在感もない。技術もない。ロミオに必要なものなんて一つも持っていない)
(でも、遥みたいな恐怖も内側に飼っていない)
(そしてそれが、奇妙なことに、唯一重要なのかもしれない)
誠は勢いよく立ち上がった。
奏太が彼を見上げる。
「どこ行くの?」
「考える」
「馬鹿だなあ、帰ってきた時からずっと考えてるじゃん」
「じゃあ、別のやり方で考えるまでだ」
真理が誠の立ち上がる姿を見つめる。何の動きも示さないのに、その視線は完全に彼を捉えていた。
誠は母の方を向いた。
「ありがとう、母さん」
真理が瞬きした。一度だけ。
「何を感謝してるの?」
「ミュージカルのこと」
「私はミュージカルなんてかけてないわよ」
「じゃあ、ご飯のこと」
「ご飯はまだできてないわよ。というか、テーブルの上で冷めていってるわ」
「後で食べるよ。……とにかく、ちょうどいい瞬間にいてくれて、ありがとう」
真理は一瞬だけ誠を見つめた。
そして、彼女が時折見せる、誠が何よりも大切にしている稀有な柔らかさで、彼の頭に手を置いた。
何も言わない。
ただ、軽く髪を乱しただけ。
星野真理にとって、それは20分間のモチベーションビデオと同じ意味を持っていた。
誠は微笑んだ。
そして、下した決断を最後まで練り上げるために、自分の部屋へと向かった。
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翌日。演劇部部室。午後4時15分。
誠はオーディトリアムのドアを押し開いた。肩にかけた鞄の重みを感じながら。その表情には、確信こそなかったが、自分が何をしようとしているのかすら分かっていない、あの頃の迷いもまたなかった。
むしろそれは、自分がこれからやろうとしていることが悪いアイデアだと完全に分かっていながら、他の選択肢がさらに最悪だからという理由で、とにかくやってやろうと決めた人間の表情だった。
部員たちはステージや客席に散らばり、ここ数日そうしてきたように、ロミオ抜きで稽古をしていた。雰囲気は遥がいた数週間前よりも活気があったが、それでも「何かが欠けているのに、どう解決すればいいのか分からない」という根本的な緊張感が漂っていた。
狸子は台本を手にステージの中央に立ち、誠がこれまでに「自分が不安に思っていることを誰にも気づかせないために、部長として振る舞っている」と読み取れるようになった、あの表情で他の部員たちを見ていた。
誠は中央通路で立ち止まった。
(よし。)
(いくぞ。)
「みんな!」
12対の目が彼に向けられた。
そして、それに加わる狸子の目。
誠はその重圧を感じたが、すでに緊張を処理し終え、取り返しのつかない決断を下した先にある領域へと辿り着いた人間の決意をもって、それを無視した。
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
誰も答えない。彼はそれを、続けてもいいという許可だと受け取った。
「なんで、もう一人の『遥』がいなきゃいけないんだ?」
沈黙。
何か深いことを処理している時の沈黙ではない。自分の聞き間違いではないかと疑っている時の沈黙だ。
いつも台本を貸してくれる2年生の健二が、困惑とわずかな心配が混じった表情で彼を見た。
「えっ?」
「遥はもう辞めた。もういないんだ。なんでみんな、あいつと同じような奴を見つけなきゃいけないみたいに振る舞ってるんだよ?」
さらなる沈黙。
1年生の女子、花が恐る恐る手を挙げた。
「それは……劇にはロミオが必要だからです」
「ああ」
「それに、ロミオは演技が上手くないと……」
「なんで?」
花は、そんなことを聞かれるとは思っていなかったという表情で、ゆっくりと手を下ろした。
「だって……大切な劇だからです」
「劇が大切なものになるためには、ロミオが完璧じゃなきゃいけないのか?」
「失敗しないために——」
「どう失敗するって?」
誠はステージの中央に向かって歩き出した。遥のような優雅な足取りではなく、ただ「行くべき場所へ行く」という以外の意図も計算もない、いつもの歩き方で。
「遥は技術的に完璧だった。だろ?」
誰も何も言わなかった。
「そうだろ?」
健二がゆっくりと頷いた。
「技術的には……凄かったよ」
「じゃあ、あいつがここにいた時、どうだった?」
さらに長い沈黙。
「みんな、怖がってた」
後ろの方から、誰とも特定されたくないような小さな声が聞こえた。
「その通りだ」
誠は言った。
「みんな怖がっていた。外から見れば完璧な部活だったけど、内側は死んでいた。そして遥がいなくなった今でも、あいつが残した恐怖だけはまだここにある。あいつが『それだけが価値のあることだ』と思い込ませたせいで、みんな今でもあいつと同じレベルの誰かを探し続けてるんだ」
彼は言葉を切った。
戦略的な間ではない。次に言うべきことを整理する必要があったからだ。
「でも……もし問題なのは、『遥みたいなロミオがいないこと』じゃないとしたら?」
「『みんないなくなった奴の真似をしようとしていること』自体が、問題だとしたら?」
オーディトリアムは静まり返った。
先ほどの、困惑や戸惑いの沈黙ではない。何かが違う。ずっと宙に浮いていた何かが、ようやく着地点を見つけた時のような沈黙だ。
健二が眉をひそめる。
「それって、つまり……?」
「ロミオは、遥である必要はないのかもしれないって言ってるんだ」
誠は答えた。
「もしかしたら、ロミオに必要なのは、本気で挑戦したいと思う『誰か』ってだけなのかもしれない」
またしても沈黙。
さらに長い沈黙だった。
そして、その沈黙の中で。この瞬間のためだけの十分な燃料を積んでオーディトリアムに乗り込んできた誠の勇気が、タンクの底をつき始めていることに気づき始めた。
なぜなら、アイデアをひっさげて乗り込んでくることと、そのアイデアの続きを期待して自分を見つめる12人の人間と向き合うこととは、全く別の問題だったからだ。
(誰も拍手していない)
(誰も肯定してくれない)
(見られてる)
(全員、俺を見てる)
(なんでみんな俺を見てるんだ!?)
(そりゃあ俺が、ロミオについて曖昧で哲学的なことを言って具体的な解決策を何も出さなかったから、今みんなその具体的な解決策が出てくるのを待ってて、でも俺には分からなくて——)
彼は狸子を見た。
狸子は台本を胸に抱きしめながら、ステージの中央から彼を見つめていた。誠がすでに知っている、あの表情で。
部長としての表情ではない。女優としての表情でもない。いつものどんな仮面も被っていない表情で。
それは、何日も重すぎるものを背負い続け、何を待っているのか自分でも分からないまま、ただ何かが変わるのを待っている人間の表情だった。
(遥は彼女を壊しかけた)
(彼女を、もう一人の美羽に変えてしまうところだった)
(そして今、彼女はあそこに立ち、どこへ向かうべきか分からない部を、たった一人で支えようとしている。あいつはもういないのに、あいつが残した恐怖がまだ漂うこの場所で)
(そして、俺は約束した)
(俺が最高のロミオを見つけてくるって、約束したんだ)
(なのに、誰も見つからなかった)
(客観的に見てできるはずもないのに、それでも挑戦しようとしている唯一の馬鹿を除いては)
誠は息を吸い込んだ。
そんな状況を彼は望んでいなかった。そんなことは絶対にさせない。
誠は、指の関節が白くなるまで拳を強く握りしめた。喉の奥につかえた恐怖の塊を飲み込み、顔を上げ、振り絞れる限りの力強い声で口を開いた。
そして、その場では馬鹿げて聞こえても、後になって真実だと判明するようなことを言う時の、あのあり得ないほどの落ち着き払った声で言った。
「俺がロミオをやる」
オーディトリアムは静まり返った。
劇的な沈黙ではない。予想外の情報を与えられ、脳がそれを処理するためにもう少し時間を必要としている時の、集団特有のあの沈黙だ。
健二が瞬きをした。
「……えっ?」
客席の脇にいた別の部員が言った。
「……お前が?」
花は誠を見た。次にステージを見た。そして再び誠を見た。
「……私たち、終わった」
彼女はごく小さな声で呟いたが、静まり返ったオーディトリアムの中では全員の耳に完璧に届いてしまった。
誠は全員を見渡した。
それ以上は何も言わなかった。
すでに言ったこと以上に言うべきことはなく、これ以上何かを付け足したところで、このアイデアが今よりいくらか馬鹿げたものに聞こえるか、さらに馬鹿げたものに聞こえるかの違いしかなく、どちらにせよ状況の役には立たないからだ。
狸子も何も言わなかった。
言うべきことがなかったからではない。誠がその言葉を口にした瞬間、彼女の頭の中で何かが起こり、それを完全に処理するのに時間が必要だったからだ。
彼女は思い出した。
いつも稽古に遅刻してくる男の子を。台本をなくす男の子を。その日の朝に狐乃香から三段論法を吹き込まれたせいで、ロミオの台詞と形式論理学の議論をごちゃ混ぜにしてしまう男の子を。狸子がシーンをやり直させるたびに文句を言う男の子を。そして、当時の彼女にとっては腹立たしいほどの一貫性を持って、こう言い続けていた男の子を。
『演技なんてしたくない』
『俺は役者じゃない』
『なんで俺なんだよ?』
その同じ男の子が今、オーディトリアムの中央に立っている。昨日、彼女自身が貼ってやった絆創膏を頬につけたまま。誰に強制されるでもなく、契約やプレッシャーなど、以前彼をそこへ導いたどんな理由のせいでもなく、彼自身の意志でこう言っているのだ。
『俺がロミオをやる』
狸子は目を見開いた。
これ以上ないほど大きく。
いつも被っているどんな仮面でもない、それらすべてよりも古くてシンプルな表情で。
予期していなかったものを見てしまい、それをどう扱えばいいのか正確には分からないが、それでも、今目にしたものが「重要」なのだと、分析も思考プロセスも必要としない絶対的な確信を持って理解した人間の表情だ。
演劇部全体が完全にフリーズしていた。
12人の人間が、演技もできず、舞台映えする存在感もなく、技術もなく、ロミオに必要とされるものを何一つ持っていない一人の男の子を見つめている。
彼が持っているのは、たった一つだけ。
挑戦しようとする、唯一の空いている馬鹿になる覚悟だ。
そして、西園寺遥が神天学園の中庭から姿を消して以来初めて、オーディトリアムにいる誰一人として、何と言えばいいのか分からなかった。
第22話:完
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【作者より】
どうもこんにちは、皆さんお元気ですか?
というわけで、ようやく第22章をお届けします!
更新に数日かかってしまってすみません。かなり忙しかったのもあるんですが……実は今回投稿した章、元々の原稿の「第2版」なんです。というのも、最初に書いた第22章のデータが(なぜか)破損して消えてしまい、泣く泣く最初から全部書き直す羽目になりまして……。そんなちょっとした悲しい事情があったこと、ご理解いただけると嬉しいです。
それはさておき、もし今回のエピソードを楽しんでいただけたら、ハート(いいね)などを押して応援してもらえるとすっごくハッピーです!
今回は以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。
第23章もどうかお楽しみに!
零時卿 より




