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第15話:影の舞台


新天学園の講堂に流れる空気は、嵐の前の静電気のようだった。


「おお、ロミオ、ロミオ! なぜあなたはロミオなの? 父を忘れ、その名を捨てて。さもなくば、私を愛すと誓って…」


弾正狸子の声が止まった。いつもなら観客を包み込む完璧な絹のような声が、安物のガラスのように砕けた。それは叫びではなく、虚無だった。


「狸子さん…」


最前列の暗闇から、演劇部の部員が囁いた。


「リズムが。シーンの鼓動より3秒早い。ジュリエットは絶望しているのよ、ただ… 欠落しているんじゃない」


狸子は床に視線を落とした。その手が微かに震え始める。

(ダメだ… 言葉が、喉に詰まっている)

彼女の脳裏には、星野誠と狐乃香が共に歩き、彼女には決して解読できない沈黙を共有している光景が、編集ミスのように繰り返されていた。


「15分休憩」


狸子の声は、意図したよりも乾いて響いた。部員たちは顔を見合わせ、一流女優に対するような警戒心を持って、静かに散っていった。狸子はステージから降り、背筋を伸ばして縁に座った。床の一点を見つめるその姿は、まるでそこに説明責任を負う誰かがいるかのようだった。


誰一人、彼女に近づこうとはしなかった。ただ一人を除いて。


「おい、狸子!」


誠が客席の後方から現れた。ノートを手に、アニメのキャラを描いていたバカな姿を隠しもせず、いつもの力強い、悩みなどなさそうな足取りで近づいてくる。


「死にそうな顔すんなよ! ほら、これやる」


彼がポケットから取り出したのは、彼なりの解決策――一粒のレモン飴だった。


「狐乃香が言ってたんだ。脳が協力しなくなった時はこれが効くって。今の狸子さんにはぴったりだろ?」


誠は真面目な、どこか狐乃香の冷徹な論理を真似ようとしたトーンで言った。だが、その隠しきれないお節介な笑顔のせいで、台無しだった。その純粋な笑顔は、今の狸子にとっては傷口に塗られる塩でしかなかった。


(どうして… どうして私を救おうとするの? あなたはもう、狐乃香を選んだくせに。私を… 憐れんでいるの?)


「飴なんていらないわ、星野くん」


声は平坦だった。部長でも、女優でもない。誠が一度も聞いたことのない、氷のような新しい声。


「おいおい、冗談だって。でも、話したいことがあるなら――」

「話したくないって言ってるの」


誠は飴を差し出したまま、瞬きをした。狸子の瞳にある冷たさに、彼は恐怖を感じた。それは狐乃香の論理的な冷たさではない。沈みゆく者が、救助者の手を自ら振り払う時の冷たさだ。


「……狸子さん」

「話したくないと言ったはずよ」


誠は飴を引っ込めた。一瞬、彼女を凝視した。何かが本当に大切になった時に彼が見せる、あの当惑するほどの集中力で。


「……大丈夫か?」

「完璧よ」

「この三日間、同じモノローグでトチってるだろ」

「役者には不調な日もあるわ。普通のことよ」

「あんたには、普通じゃない」


狸子は彼を見た。その瞳にあるのは怒りではなく、傷口を見られたくない者の恐怖だった。


休憩の15分が過ぎた。部員たちは綱渡りでもするかのような慎重さで持ち場に戻る。狸子は再び舞台に立った。長く息を吸い、そして、やり直す。


「おお、ロミオ、ロミオ! なぜあなたはロミオなの?…」


今度は言葉が出た。完璧ではない。流れるような美しさもない。だが、出た。客席から見守る誠は、もうノートを取っていなかった。


(間違いなく、これは演技じゃない。俺の知っている狸子じゃないんだ)


誠は確信していた。狐乃香の論理問題を解く時と同じ、絶対的な確信。

(彼女は、何かに必死で耐えているんだ)


彼が鉛筆を強く握りしめたその時、講堂の扉が大きく開かれた。


ドラマチックにではなく。ゆっくりと、音を立てる必要のない者が入ってくる時のような、静かな宣言として。


まず、音が届いた。板張りの廊下を叩く靴の音。正確で、急ぎもせず、新天学園の誰の足音とも違うリズム。そして、その姿が現れた。


講堂が、墓場のような静寂に包まれた。


「嘘だろ…」

「まさか、彼は…」


西園寺 遥。


彼は、その床が神から与えられた領地であるかのように歩いた。周囲を見渡しもせず、言葉で挨拶もしない。その存在そのものが、服従を強いる傲慢な挨拶だった。彼はステージの縁で足を止め、見上げた。鋭く、美しい瞳が狸子を射抜く。


「2023年11月14日。東京ユースシアター」


声は柔らかく、洗練されていた。だが、呼吸を困難にするほどの圧力を孕んでいた。


「『リア王』のコーディリアを演じた君。第三幕、王を見る直前に正確に1.2秒、呼吸を止めたね。あの抑制された痛みの微細な表情は、ベテランの批評家たちを沈黙のうちに泣かせた」


遥は狸子を見つめたまま、ステージの階段を上がった。誠の誠実な笑顔とは対照的な、傲慢な笑みを浮かべて。


「あの時の弾正狸子は、希望そのものだった。ステージこそが真実が宿る唯一の場所だと理解しているダイヤモンドだった」


彼は彼女の一歩手前で止まった。


「だが、今見たものは……その、凡庸で迷いのある『ジュリエット』は……芸術に対する侮辱だ」


狸子は身をすくめた。恐怖で動けなかったが、その下には、歪んだ崇拝の火花があった。

(彼が… 覚えている。私の最高の瞬間を。私の価値を知っているのは、彼だけだ)


「西園寺さん……私は……」


「新天に来たというから」遥の声は優しかった。威圧的ではなく、ただ静かに一音一音に圧力を乗せていく。「もっと大きな舞台を求めたのかと思っていた」


一呼吸。


「だが、廊下から聞こえてきたものを見る限り……君を追い込む者が誰もいない場所を見つけただけのようだね」


「二年前の秋の祭典を覚えているかい? 第三シーンのモノローグ。最後の一行の前に22秒の沈黙。観客の誰一人として呼吸ができなかった」


遥の瞳は彼女から離れない。


「私は三列目、C列の7番席にいた。そして、泣いたよ。……私は滅多に泣かないんだ、狸子」


それはデータのように淡々と告げられた。


「ならば、今廊下から聞こえてきたものが、私にとってどれほど……『懸念すべき事態』か、理解できるだろう?」


狸子は凍りついた。遥が最高の自分を知っているということは、今見せている姿はただの「落胆」でしかない。西園寺遥の落胆は、狸子にとって死よりも重い失敗を意味していた。


しかし、その時。


「おい!」


誠の声が講堂に響いた。遥のようなエレガントな重みも、正確さもない。ただ真っ直ぐで、飾りのない声。誠は狸子の前に立ち、彼女を庇うように立ちはだかった。


遥は一瞬、驚いたような顔をした。ただの「書き割り」が喋り出したのを不審に思う演出家のような顔で。


「あんたがどこのどいつか知らねえが、彼女は誰よりも努力してる。ここに来て彼女をゴミみたいに扱う権利なんて、あんたにはねえよ」


遥はすぐには答えず、まず誠を観察した。誠は、遥に無視されているのではなく、「二秒で分類され、もう注意を払う価値がないと判断された」という、今までにない屈辱を感じた。


遥は表情を変えず、狸子に向き直った。


「いつから、観客が役者の仕事に意見するのを許すようになったんだい?」

遥は傲慢そのものの笑みを浮かべた。

「これが君の新しい基準か? 天才の欠片もない少年が、『努力』で才能の欠落を埋められると信じている。……失望したよ」


狸子はパニックに陥った。歪んだ精神の中で、世界は二つに割れた。誠の愛(もう失ったと思っているもの)か、遥の承認(自分のアイデンティティを守る唯一のもの)か。


(彼が行ってしまったら……遥さんに軽蔑されたら……私は死ぬ。ただの壊れた仮面になっちゃう)


「星野くん……」

狸子の声は震えていたが、言葉は短剣だった。


「狸子?」


誠は困惑して彼女を見た。狸子は目を合わせなかった。


「……講堂から出ていって」


誠は動かなかった。

「狸子さん――」

「お願い」


その言葉は小さすぎた。講堂の広さに対して、そしてその言葉が持つ意味の重さに対して。


「あなたには、この世界の才能がない。ここで何が起きているのか理解できないのよ。そして、今は……」


長すぎる沈黙。


「今は、私の邪魔をしないで。……恥をかかせないで」


誠は長い間、彼女の顔を見つめた。

そこに何かを探した。これが本心ではないという証拠を。仮面の下にある本当の彼女を見ようとした。だが。


何も見つからなかった。


誠はリュックを拾い上げた。急ぐこともなく、ドラマチックな仕草もせず、出口へと歩き出した。その種の痛みには、正しいポーズなんて存在しないことを彼は知っていたから。


重い扉が、彼の背後で閉まった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

夕暮れの廊下で、誠は扉の前に立ち尽くしていた。

中から、遥の低く正確な声が聞こえてくる。


「よし。やり直そう。……邪魔者なしで」


誠は壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。

(この世界の才能がない、か……)


それは、嘘か真実かさえどうでもよかった。狸子がそれを言ったという事実が、誠の胸を刺した。

(何が起きたんだ……狸子が、あんな風に振る舞うなんて)


彼はノートを開いた。最後に書いた狸子についてのメモを探す。

『狸子さんが、おかしい』


その下に、考えるよりも先に書き殴った。

『あの男は何だ?』

『どうして彼女はあんなに怯えている?』

『どうして、あの男への恐怖が、俺との――』


そこでペンが止まった。

誠はその最後の一行を塗りつぶし、ノートを閉じた。


(狐乃香に相談すべきか……)

(……いや、あいつをこれ以上、面倒に巻き込むわけにはいかない)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

講堂内では、狸子が再びステージの中央に立っていた。

遥は最前列に座り、評価者の目で彼女を凝視している。


(やり直して。完璧にやって)

(彼が見ている。失敗は許されない。今失敗したら、全てを失う)


彼女の頭を支配していた歪んだ思考が、さらに加速する。

(誠は狐乃香を選んだ。あの子には論理とタブレットと、彼が持ってくるレモン飴がある)

(私には、これしかない。このステージしかない。遥さんの視線しかない)

(これを失ったら、私には何も残らないの)


狸子は口を開いた。

今度はモノローグが溢れ出した。完璧ではない。だが、そこには失われていた何かが宿っていた。


本物の、「絶望」という感情が。


最前列で、遥は表情を変えなかった。

だが、一度だけ、微かに頷いた。


狸子は、その頷きを、崩れそうな世界で唯一の足場であるかのように掴み取った。


(……これだけで、いい。これしかないんだから)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


廊下では、誠がまだ床に座っていた。

夕焼けのオレンジが、紫へと変わっていく。


(いつか、本当の狸子に会える日が来るのかな……)


その問いに答えは出なかった。

彼は立ち上がらず、ただ紫色の闇が深まっていくのを、閉ざされた扉の前で見つめていた。


第15話:完

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


どうも、皆さんお元気ですか?

怒っていないといいのですが……。今週は毎日更新と言っていましたが、昨日は本当にバタバタしていて、危うく車に轢かれそうになるほどでした(笑)。でも大丈夫、生きています!


というわけで、今日のチャプターをお届けします。

新キャラ、ハルカの名前や性格を決めるのに少し時間がかかってしまいました。皆さん、彼についてどう思いますか? かなり嫌な奴でしょう? まあ、そう思わせるのが今回の目標だったので。


そして狸子マミコも、少し執着心が強くなっています。彼女のこの変化も楽しんでもらえれば嬉しいです。これからはしばらく狸子に焦点を当てていくので、狐乃香このかの出番は当分先になるかもしれませんが、新しい「アーク」にぜひ期待してください。


明日はまた更新します(今度は本当に!)。

では、また明日お会いしましょう。バイバイ!


零時卿レイジ・キョウより

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