第16話: 鳴り止まぬ雑音
西棟の廊下の床は、マコトが記憶していたよりもずっと冷たかった。
あるいは、数週間前に初めてそれを感じた時は、まだ放課後の残り香と、二人の天才と理不尽な契約を交わしたばかりの熱量が残っていたからかもしれない。今は違った。今や床の冷気は、硬い平面的に長時間身を横たえている時にしか味わえない、あの残酷なまでの実直さで背中を駆け上がってくる。
マコトは動かなかった。
目の前にある講堂の扉は、依然として閉ざされたままだ。木製の扉に遮られた西園寺の声は、数分前にはすでに聞こえなくなっていた。どこかのタイミングで稽古は再開されたのだろう。マコトが見つめていない瞬間に、真実子さんは舞台に戻り、彼がいた時には決して口にしなかった言葉を紡いだのだ。
「あなたには、この世界に向いている才能なんてない……。私に恥をかかせないで」
そんな言葉を投げかけられたのは、決して初めてでした。これまでの人生、ずっと平均的な生徒で、帰宅部で、誰の目にも留まらずに廊下を通り過ぎていくただの「エキストラ」として生きてきた。目立たないことには慣れっこだった。
だが、今回は違った。
この痛みは、才能の有無 y 神天学園のヒエラルキー、あるいはレベルといったものとは全く無関係な、特異な痛烈さを持っていた。
真実子さんに言されたからこそ、痛むのだ。
(どうして……)
その問いへの答えは、まだ見つからない。普段なら深く考えず、直感だけで物事を解決してきたマコトだったが、生まれて初めて、従うべき直感そのものを見失っていた。
彼は手帳を開いた。
以前に書き殴った文字に目を落とす。
『あの男は何者だ?』
『なぜ彼女はあの男を恐れている?』
『なぜあの男への恐怖は、何よりも重く……』
横線で消された一節。
マコトはそれをしばらく見つめた。
それから、一番下に新しい言葉を書き加えた。
『あの男は、真実子さんに何をしている?』
下線を一本だけ引いた。たったの一本。
(あの男は、真実子さんに何をしている?)
そして、廊下の薄紫色の景色が完全に闇に包まれるまで、その問いの文字をじっと見つめ続けた……。
ブブブ。
ポケットの中でスマートフォンが震え、静寂を破った。マコトは気だるげにそれを取り出す。光る画面に表示された名前に、彼の背筋が文字通り跳ね上がった。
狐乃香さんからのメッセージだった。
新たな契約の一環として通知をミュートに設定している弁論部アプリの知らせではない。数日前、特に理由もなく一緒に歩き始めた時と同じくらい自然に開設された、個人のダイレクトチャットからの通知だった。
『善狐狐乃香:星野くん。学園の放課後時刻が終了してから、正確に三十四分が経過しています。あなたが弁論部室に立ち寄って報告、あるいは挨拶を行う形跡は確認されませんでした。過去三週間の記録に基づくと、これはあなたの日常的な行動パターンにおいて百パーセントのアノマリー(異常)を示しています。論理的な説明を要求します』
マコトはそれを読み、一瞬体を硬直させて呆然とした。
(俺の日常パターンの逸脱、だって……)
(挨拶をサボったタイミングまで完全に把握されてる。恐ろしすぎるだろ……)
いつもなら冗談めかして笑い飛ばせるところだったが、今日のマコトにとっては、それが予期せぬ形で奇妙な安らぎをもたらしてくれた。
本当のことを返信しようかとも思った。『うん、実はちょっとあって。演劇部にホラー映画から飛び出してきたようなヤバい奴がいて、真実子さんに講堂から追い出されちゃったんだ。何が起きてるのかさっぱり分からないんだよ』と。
だが、それを読んだ狐乃香さんの姿が脳裏をよぎった。彼女なら即座に変数を計算し、タイムラインを構築して、問題の説明が終わる前に「すでに作戦は完了しています」と言わんばかりの表情で、タブレットを手に西棟 of 廊下に現れるに違いない。
そしてマコト自身、まだ自分がどんな問題に直面しているのかさえ正確に把握できていない。自分が理解する前に、誰かに先回りして解決される心の準備はできていなかった。
おぼつかない手つきで、彼は返信を打ち始める。彼女をこの厄介事に巻き込みたくはなかった。少なくとも、まだ。
『星野誠:狐乃香さん、ごめん! ちょっと急用ができちゃってさ。お袋からスマホに電話があって、家の手伝いをするからすぐ帰ってこいって言われたんだ。だから急いで飛び出しちゃって! 明日は絶対に挨拶しに行くからさ、それじゃあ、へへ』
(嘘が下手くそだな。俺はいつも嘘をつくのが下手だ)
画面の向こう側で、狐乃香さんが文字を入力していることを示す三点リーダーが表示され、消え、また現れては、再び消えた。
届いた返信は一言だけだった。
『善狐狐乃香:了解しました』
マコトは再び首を傾げた。
(え、了解……? それだけ?)
(普段なら明日のスケジュールのリマインダーを送ってくるか、俺の言い訳のパターンは統計的に予測可能だって切り捨ててくるはずなのに。珍しいな……)
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通信の反対側――完全に整頓され、静寂に包まれた自室で、善狐狐乃香はタブレットの画面を見つめていた。彼女の瞳は、マコトの紡いだ言葉を一回、二回、三回と執拗になぞる。
『お袋』という文字を目にした瞬間、彼女の背筋を微かな、ほとんど誰にも気づかれないほどの戦慄が駆け抜けた。マコトの母親――狐乃香の持つあらゆる論理をことごとく打ち破る、あの圧倒的で容赦のない女性の姿が脳裏に浮かび上がる。
(マリさん……)
彼女はその情報を、正確に四秒間かけて処理した。
そして、一切の議論を挟まないほどの圧倒的な効率性をもって、それ以上考えるのをやめることにした。
関心がないわけではない。ただ、前回「星野真理」という名前が彼女の脳内リソースを占有した際、何一つ計算を成立させられないまま、午前三時まで天井を見つめ続ける羽目になったからだ。
(母親が呼び出したのであれば、それは彼の領分です)
(マコトくんには、彼自身の事情を持つ権利があります)
(それが『友達』という概念の意味。少なくとも、私が理解している定義ではそうなるはずです)
彼女はスマートフォンを机の上に置いた。
再びタブレットに向き直る。
しかし、保留していたドキュメントを開く直前、彼女の指先が机の表面を小さく一度だけ叩いた。
(明日は挨拶に来る。彼はそう言いました)
(もし来なければ――その時は、確実に何かが起きています)
彼女はドキュメントを開いた。
そして、自身の持つすべての自制心を総動員し、明日までその件について思考を割かないことを決意した。
だが、分類不可能な小さな変数としての『疑念』は、彼女の片隅に静かに漂い続けた。
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翌日。午前八時十三分。
マコトは荷物を詰め込んだ通学鞄を抱え、バスの車中で下した決意を胸に神天学園へと到着した。
調査を開始する。
今度は八十九年前の新聞を漁るわけではない。手帳の端にメモを書き留めるのとも違う。本物の探偵のように、観察し、処理し、行動する前に全てを「理解」するのだ。
(狐乃香さんなら、そうするはずだ)
(俺も同じようにやってみる)
(絶対に失敗しない)
神天学園の正門をくぐる時、彼の胸にはこの三つの確信があった。
前者の二つは、およそ四分間持続した。
そして三つ目の確信は、中央廊下で対向してきた一年生の集団を避けようとした瞬間までしか持たなかった。彼は自分の鞄に足を引っ掛け、派手に転びそうになり、辛うじて柱にしがみついて落差を免れたものの、床にぶちまけた教科書を拾い集めるために続く三十秒を費やす羽目になった。通りがかる三人の一年生が、同情の目を彼に向けていた。
(よし。潜入捜査は順調だ。これなら俺の好きなアニメの主人公たちも誇りに思ってくれるに違いない)
彼は内心で明るく、決意を新たにした。
しかし、少年は無意識のうちにこの日最初の過ちを犯していた。朝のルーティンを破ってしまったのだ。いつもなら授業前に弁論部に立ち寄り、狐乃香さんに飴を置いていくか、必要以上に大きな声で挨拶をするのが常だった。だが今回、決意に満ちた思考に没頭するあまり、彼は西棟の廊下をそのまま通り過ぎてしまった。
弁論部室の内部。狐乃香は背筋を寸分の狂いもなく真っ直ぐに伸ばし、ティーカップを手に持っていた。デジタル時計の表示は午前八時十五分。
『午前八時十五分:星野誠が騒々しく扉を開ける』
『午前八時十六分:今期のアニメについてくだらない戯言を口にする』
『午前八時十七分:出所不明の怪しい菓子を差し出そうとする』
時計の数字が八時十八分に変わり、やがて八時二十分になった。扉が動く気配は一切ない。
狐乃香はミリ単位の正確さで、極めて緩やかにティーカップを置いた。冷徹で分析的な双眸が、入り口の木目の扉へと向けられる。日々のコミュニケーション構造を完璧にプログラミングしていた彼女の脳内システムが、明確なエラーを検知した。
(部室に現れず、間抜けな発言も皆無……。となれば、何かが起きています。これが現時点で成立する唯一の論理的変数です。母親の件が影響している可能性は極めて低い。……今度は一体何に首を突っ込んだのですか、マコトくん)
その数分後、自身の教室へと向かう途中、狐乃香は中庭に面した大きな窓の近くで足を止めた。彼女の視線は、東棟の講堂に向かって早足で歩いていく、見覚えのあるボサボサ頭のシルエットに釘付けになる。マコトだ。だが、その歩調はいつもとは明らかに異なっていた。いつもの締まりのない足取りではなく、その表情に笑みは一切ない。
狐乃香は制服のスカートのポケットに両手を忍ばせ、彼が演劇部の重厚な扉の向こうへと消えていくのを静かに見送った。
(興味深いですね、演劇部ですか。対象はそこだったわけです。調査は後ほど行います。今はそのタイミングではありません)
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午前八時二十四分。演劇部講堂。
マコトはいつも通りの勢いで講堂の扉を押し開けた。すなわち、具体的な作戦など何一つないものの、「今日こそは状況を変えてみせる」という漠然とした、だが固い決意だけを携えて。
最初に彼が肌で感じたのは、異様な「静寂」だった。
それは、無人の講堂が持つ静けさではなかった。大勢の人間がそこに存在しながらも、不要な雑音を立てぬよう、極限まで神経を尖らせているがゆえの沈黙だった。
部員たちはそれぞれの配置についていた。いつもなら最初の数分間、大声でセリフを合わせていた連中が、今はひそひそと地を這うような囁き声で言葉を交わしている。舞台裏を演劇部特有の混沌としたエネルギーで動き回っていた者たちも、今は速度を落とし、極めて慎重に、明確な意図を持って静かに歩いていた。
マコトは彼らを観察した。
(なんだ? 一体こいつら、何の虫に刺されたんだ?)
それは発表会前の緊張感とは全く異質のものだった。誰に告げられることもなく、その空間の温度だけが急激に塗り替えられたかのような、肌を刺す緊迫感。
マコトは知った顔を探した。
そこにはケンジがいた。真実子さんが見ていない隙に、いつも余分な台本を貸してくれる二年生の先輩だ。彼は、床に何かが落ちているわけでもないのに、異常なまでの集中力で足元の一点を見つめていた。
そこにはハナがいた。いつも誰よりも十分早く来て、頼まれてもいないのに小道具の整理を始める一年生の女子だ。彼女は、マコトが一週間前にも全く同じ場所で見かけた、あの三つの箱を機械的に並べ替えていた。
(待て、待て。こいつらの動きは絶対におかしい。まるで……機械的に動かされてるみたいだ)
マコトの胸に、じわりと恐怖が広がっていく。部員全員が、まるで中身のない『空っぽの殻』のように動いていた。
「おはよう、星野くん」
マコトがその側を通り過ぎた瞬間、照明担当の男子の一人が声をかけてきた。
その声は完全に平坦だった。視線は照明コンソールから微動だにせず、その身体だけが硬直した、ロボットのような正確さで動いている。
その時、マコトは理解した。
それは狐乃香さんの持つ、あの計算され尽くした冷徹さ――自ら選択して効率性を突き詰めた先の美しさとは、根本的に異なるものだった。彼らのそれは、ルールに従わなかった先に待ち受ける『何か』を恐れ、ただ命令をなぞっているだけの歪な機構。自ら機械になることを選んだ者と、恐怖によって機械に仕立て上げられた者の決定的な違いがそこにあった。
狐乃香は自らその冷徹さを選んだ。だがこの部員たちは、そうする以外に安全な選択肢がないからこそ、それを身にまとっているのだ。
狐乃香と濃密な時間を過ごしてきたからこそ、マコトはその違いを一瞬で見分けることができた。
(違う……。これは狐乃香さんとは全然違う。あの人は論理的に考えるから冷たいんだ。工程、こいつらは……こいつらは恐怖で動けなくなってる。破壊されないために、ただ命令に従うだけのアニメの殺人ロボットと同じだ。本当の感情なんて、ここには一つもない)
マコトは中央の通路を突き進み、真実子さんの姿を探した。
そして、彼女は舞台の上にいた。
真実子さんはジュリエットの独白の稽古をしていた。昨日失敗した冒頭の部分ではなく、第二幕の、ジュリエットが庭園でロミオを待つシーンだ。シェイクスピアが切迫感と恐怖の混ざり合った感情を驚くべき精度で描き出したそのセリフを、マコトは今になって初めて、その本当の意味を理解し始めていた。
言葉は淀みなく流れ出ていた。
マコトは通路の真ん中で足を止め、その声に耳を傾けた。
(嘘だろ……。昨日よりも、確実に上手くなってる)
最初の感情は安堵だった。しかし、それはすぐに、より複雑で重苦しい歪みへと変わっていく。
確かに、言葉は完璧だった。リズムも正確だ。その佇まいは、真実子さんがジュリエットのフリをしているのではなく、完全に『ジュリエットそのもの』だった。
だが、何かが決定的に欠落している。
マコトは、今朝のバスの中で決意したことを実践しようと試みた。狐乃香のメソドロジー(方法論)を真似て、観察し、パターンを探し、データから変数を構築して結論を導き出そうとしたのだ。
姿勢を観察する selv。――正常。
声のテンポを観察する。――正常。
身振り手振りを観察する。――正常。
(全部正しい。正しいはずなのに……何かが狂ってる)
マコトは自分の胸に手を当てた。
しかし、まさにその最後の瞬間、彼はデータの向こう側にある『何か』を捉えた。胃袋を直接殴られたかのような、強烈な不快感が彼を襲う。
真実子の目の下には、隠しきれない色濃い隈が刻まれており、肌は痛々しいほどに青白かった。端、やはり光はない。
狐乃香ではないマコトには、秒数をカウントすることも、微細なシステムエラーを検出することもできない。
だが、マコトにデータは必要なかった。彼は人間のあり方を、直感という本能を通じて理解する男だからだ。そして彼の直感は、舞台の上のジュリエットが『生きていない』ことを明確に告げていた。
(真実子さんは、もう目で笑っていない……。生き延びるために、ただ演技をしてるんだ)
彼は手帳にその一文を書き留めた。論理的な方法論ではない。ただ、その事実を自分の頭の外に吐き出さなければ、押し潰されそうだったからだ。
『真実子さんは、「大丈夫なフリ」の演技をしている』
その文字を見つめ、マコトはもう一度、強く下線を引いた。
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最前列の客席から、両肘を膝につき、舞台にその鋭い視線を固定している人影があった。
西園寺遥は、この二十分間、微動だにせずその姿勢を保ち続けていた。
そして彼の隣――肘掛けを共有するほど密着した位置に、昨日マコトが気づかなかった人物が座っていた。
小柄な少女だった。真実子さんよりも、この場にいるどの部員よりも小さい。低い位置で結ばれたツインテールは、本来なら彼女を無害で愛らしく見せるための記号であるはずだった。別の文脈であれば、その目論見は成功していただろう。しかし、西園寺の影に完全に隠れ、彼がこちらを見向きもしないにもかかわらず、その身体を完全に西園寺の方へと傾けているその歪な座り方が、ツインテールという記号をただ不気味なものへと変貌させていた。
瞳は異常に大きかった。だが、やはり光はない。
マコトは彼女を凝視した。
(あ、? 誰だ、あの子は?)
そう考えてしまうのも無理はなかった。遠目から見る彼女のシルエットは、まるで小学生のそれだったからだ。
(え、待て待て。まさか西園寺の隠し子……!?)
戦慄したマコトは、すぐさま自分の右平手で頬を強く叩いた。
(いやいや、落ち着けマコト。んなわけないだろ、論理的にあり得ない。あいつが子供を連れてくるわけがない)
無意識のうちに、狐乃香が言いそうなセリフが脳内を駆け巡る。マコトは再び分析へと意識を戻した。
姿勢を観察する。西園寺にべったりと寄り添っている。――従属。
瞳を観察する。舞台ではなく、西園寺の横顔に固定されている。
両手を観察する。膝の上に置かれ、微動だにせず、何かを待っている。
(……あいつ、何から何まであの男の指示を待ってるんだ)
マコトは不快そうに眉をひそめた。
(一体、どういう関係なんだよ――)
「十分間の休憩」
舞台の上から響いた真実子の声が、マコトの思考を微塵に切り裂いた。部員たちは、張り詰めていた重い荷物をようやく下ろしたかのように、目に見えてその身体を弛緩させた。
マコトは素早く手帳をポケットに仕舞い込む。
(今しかねえ。動くなら、今だ)
彼は座席から立ち上がり、舞台の上で台本を片付けている真実子さんへと歩み寄った。距離は短い。彼女がマコトの接近に気づかないフリをするには、あまりにも短すぎる距離だ。
それでも、真実子は気づかないフリを突き通そうとした。
「真実子さん」
反応はない。
「真実子さん、一瞬だけでいいから話がしたいんだ」
彼女は人工的なまでの集中力で、頑なに台本を整理し続けている。
「聞こえてるんだろ」
「今、忙しいの、星野くん」
彼女の声は完全に平坦だった。昨日のような冷たさではない。感情の起伏が一切削ぎ落とされた、ある意味では昨日よりも質の悪い拒絶。
「本当に、一瞬でいいんだ」
「その一瞬の余裕もないの」
「休憩は十分だ。まだ九分半はある」
沈黙が流れた。
「台本を確認しているから」
「台本なら完璧だろ。真実子さん、それ九歳の頃から一字一句暗記してるじゃないか」
真実子の手が、ピタリと止まった。
講堂に入ってきて以来、彼女は初めてマコトの目を真っ直ぐに見つめた。
そしてマコトは、遠目からでは分からなかった彼女の現実を至近距離で目撃した。演技をするためだけに開かれた瞳、そこに本来あるべき輝きの全損、端メイクでは隠しきれていない、寝不足の濃い隈。
だが、マコトが次の言葉――正しい言葉か、あるいは単に誠実なだけの言葉を探し当てるよりも早く、真実子は台本を抱え、客席に向かって一歩を踏み出した。
まるでマコトがそこに存在しないかのように、その横を通り過ぎていく。彼女の唯一の目的地は、最前列だった。マコトの目の前で、真実子は西園寺の前に立ち、その肩を限界まで緊張させながら、彼の口から発せられる言葉、仕草、あるいは承認の端切れを、飢えた獣のように切望しながら待っていた。
西園寺は、無人の舞台から視線を動かそうともしなかった。
「で、どうだ?」
西園寺が短く、ただそれだけを口にする。
「第二幕の台詞は、良くなってきていると思います」
真実子の口から、マコトの聞いたこともないような卑屈な声が漏れた。
「テンポも、あるべき位置に収まってきたかと」
「テンポはな」
西園寺は言った。
「だが、感情が伴っていない」
真実子は言葉を失う。
「ジュリエットは、望んで待っているのではない。待つ以外の選択肢が存在しないからこそ、そこに佇んでいるんだ。諦念と希望を混同するなと言ったはずだが?」
「……了解しました。修正します」
「期待しているよ」
西園寺は再び舞台へと視線を戻した。
真実子はその場に、一秒、二秒、三秒と立ち尽くしていた。何か言葉が付け足されるのを待つように。だが、男の口からそれ以上の音が出ることはなかった。
それを見ていたマコトの脳裏に、今朝の誓いが去来する。
(調査しろ。観察しろ。動く前に、まず全てを理解するんだ。論理的に考えろ、マコト)
だが、脳内を過ったその誓いは、彼が愛読してきた数々のラブコメアニメの主人公たちが絶妙なタイミングで介入するあのカタルシスによって、一瞬で上書きされてしまった。マコトは衝動的に一歩を踏み出し、二人の間に割って入って真実子さんの腕を掴み、その場から連れ出そうとした。
しかし、彼は通路の半分にすら到達できなかった。
あの低いツインテールの少女が、気配もなく、静絶な速度でマコトの前に立ちはだかったからだ。彼女はマコトの進行ルートを、完全にその小柄な身体で封鎖した。
大きく、本来なら表情豊かであるべき彼女の瞳には、マコトがすでに嫌というほど学んできた、あの『光の欠落』が張り付いていた。
少女は一秒間、マコトを見つめた。
それから、にっこりと微笑んだ。
それは瞳の奥には一切届かない、自分が何をしているのかを完全に自覚している者の笑みだった。
「ペットの分際で、ご主人様たちの会話を邪魔しちゃダメだよ、雑音くん」
少女は言った。その声は高く、表面上は信じられないほど甘かったが、その底には純度の高い、絶対的な蔑みが充満していた。
マコトは完全に呆然とした。投げつけられた侮辱の意味を処理するために、何度も瞬きを繰り返す。
マコトは彼女を見つめ返した。
(は……?)
それしか頭に浮かばなかった。
「……何だって?」
「ペット、って言ったの」
彼女は同じように、軽い鈴の音のような声で繰り返した。
「ご主人様を邪魔しちゃいけないの。これは世界の基本ルールだよ?」
マコトはそれを、丸々三秒間かけて脳内で咀嚼した。
「あ? ペット? 邪魔……? おいおい、おチビちゃん、頭のネジでもぶっ飛んでんのか? 一体何の話をしてるんだよ」
少女は、小さな手で口元を覆いながらクスクスと不気味に笑った。しかし、その大きな瞳だけは、依然として凍りついたように冷酷なままだった。
「ふふっ、雑音の割には面白いね。少なくとも、この部室に転がってる他の『空っぽの殻』よりは、少しは元気があるみたい」
「おい、ふざけるな! お前のアニメみたいな戯言に付き合ってる暇はないんだ。俺は友達を助けに行かなきゃならない。真実子さんは大丈夫なんかじゃない、見れば分かるだろ! あのスーツの馬鹿のせいで苦しんでるんだ! 俺はただ、彼女と話をして、この泥沼から連れ出したいだけだ。彼女を救いたいんだよ、畜生……!」
マコトは完全に理性を失い、感情をぶちまけた。
フィルターを通さない、剥き出しのマコトの誠実さが講堂の通路に響き渡る。それは、心から幼馴染の価値を案じる少年の、純粋で偽りのない叫びだった。
一瞬、講堂全体の空気が凍りついたかのように思えた。
直後、ツインテールの少女は上半身をのけぞらせ、狂ったように爆笑し始めた。それはヒステリックで、あまりにも残酷な笑い声だった。近くにいた数人の部員がその音に肩を震わせ、巻き込まれまいと一斉に俯いた。
「救う? お友達? お願い、可笑しすぎてお腹が痛い! なんて安っぽくて、反吐が出るほどセンチメンタルなのかしら!」
少女は目元に浮かんだ嘘くさい涙を指先で拭い、息が詰まるほどの圧倒的な優越感を湛えてマコトを見下ろした。
「よく聞きなよ、雑音くん。本物の演技の世界に『お友達』なんて概念は存在しないの。一般人の安価な感情なんて、ここには一ミリの居場所もない。私たちは全員が盤上の駒であり、最高傑作を創り上げるための道具に過ぎないの。糸を引く運用者になるか、主人に仕える駒になるか……あるいは、舞台の邪魔になるだけの無価値な雑音か。その三つしかないんだよ」
(盤上の駒、最高傑作のための道具……?)
マコトの思考が、一瞬だけ完全に停止した。その言葉、その忌々しい階級システム――。それは、あの日狐乃香さんが口にしたものと、全く同じ構造だった。
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【回想】
神天学園の廊下を、マコトと狐乃香が並んで歩いていた。
「私の家系には、ある分類が存在します」
マコトは横目で彼女の横顔を見た。
「運用者、駒、そして雑音」
彼女はまるで、数学の公理でも引用するかのような淡々とした口調でそう言った。
「運用者とは、糸を引く者。決断を下し、変数を制御する者です」
一拍の置き。
「駒とは、動かされる者。有用であり、必要不可欠ですが、代替可能な存在です」
「じゃあ、雑音は?」
「そのどちらの役割も果たせない者。システムにただ干渉を引き起こすだけの存在です」
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マコトはそのすべてを鮮明に思い出していた。
だが、孤独ゆえにそのシステムを淡々と受け入れていた狐乃香とは違い、目の前の少女はその冷酷な基準を、どこか病的なまでの信仰心を込めて口にしている。
「そんなの……ただの凡庸な戯言だ!」
マコトは奥歯を噛み締め、喉の奥から湧き上がる怒りをかろうじて言葉に変えた。
「人間をただの駒や道具だと思うなんて、一番惨めな生き方だ! 誰だって、そんな風に扱われていいわけがない!」
しかし、少女は彼の怒りに眉一つ動かさなかった。それ contrario、その微笑はさらに軽蔑の色を深めていく。
「唯一の凡庸はあんたの方だよ、雑音くん。そんな甘ったれた台詞を吐くのは、あんた自身に一グラムの才能もない弱虫だから。自分自身で輝けない人間は、いつだって天才を自分と同じ泥沼の底に引きずり下ろそうとする。私の『ご主人様』と自分を一緒にするな。あの人はこの舞台における神様で、あんたは……あんたはゴミの中にカウントされる資格すら探せない有象無象なんだから」
マコトはそのクソガキを怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだが、一音を発するよりも早く、講堂の電子チャイムが無機質に鳴り響いた。十分間の休憩時間が終了したのだ。
機械的に、すべての部員たちがまるで見えない糸に操られる人形のように、元の配置へと戻っていく。
謎の少女は一歩後ろに下がり、最後に小馬鹿にしたような笑みをこぼした。
「あら、哀れだね。本当に予測通り(プレディクタブル)に動くんだ。せっかくの十分間を私との口論で全部無駄にして、真実子先輩の側に近づくことすらできなかった。本当に、使えない雑音」
それだけを言い残すと、彼女は返事をも待たずに身を翻し、軽やかな足取りで西園寺遥の元へと戻っていった。そして、侵入者を追い払ったばかりの飼い犬が愛撫をねだるかのように、自然な動作で彼の腕にその身体を絡ませる。
マコトは通路の真ん中で立ち尽くした。呼吸は荒く、両拳は無力感で小刻みに震えていた。
遠くの舞台上で、真実子さんが硬直した肩を落としながら、再び技術的な拷問に耐えるべくスタンバイする姿が見えた。
「真実子さん!」
マコトは必死に声を張り上げ、舞台に向かって一歩を踏み出そうとした。
だが、それ以上、進むことはできなかった。
突如として、二つの影が彼の目の前に立ち塞がったからだ。
長身でしなやかなシルエットが視界を完全に遮り、舞台の光を遮断する。西園寺遥が、恐ろしいほどの優雅さをもって、マコトの真ん前に移動していた。その傍らには低いツインテールの少女がおり、西園寺はほんの一瞬だけ、彼女を横目で一瞥した。
「美羽。入り口は綺麗にしておけと言ったはずだ。雑音が耳障りになってきた」
西園寺が口にしたその洗練された低い声は、空間の空気を一気に二倍の重さに変えるような威圧感を持っていた。
少女――朝比奈美羽は、狂信的なまでに激しく首を縦に振り、彼の側面にさらに密着した。精神を根底から破壊され、自らのアイデンティティすら喪失した者だけが見せる、絶対的な従属の姿勢。
「申し訳ありません、西園寺様。この虫ケラは言葉が通じないようです。自分が善意を持っているからというだけで、貴方と同じ空間に存在する権利があると勘違いしているのです」
美羽は毒蛇のような視線でマコトを睨みつけた。
西園寺は視線をマコトへと落とし、まるで完璧なキャンバスに付着した一滴の汚れを見るかのような、完全な外科学的な無関心さで彼を観察した。二人の天才が少年の前に並び立ち、完璧な同期を見せながら、逃げ道を完全に塞ぐ。
「まだ自分の分を弁えていないのか、雑音?」
西園寺は純粋な傲慢さを湛えた笑みを浮かべて問いかけ、その隣で美羽がクスクスと嘲笑を漏らす。
「お前はここに『お友達ごっこ』をしに来たのだろうが、この舞台において、才能を持たない者に発言権などない。お前は完全に一人だ、星野誠。この凍りついた講堂で、お前のために指一本動かす者など、誰一人として存在しない」
マコトは完全に二対一の構図にハメられ、その場を支配する天才たちの窒息しそうなプレッシャーの下で、己の無力さを嘲笑われていた。彼を背後から支えてくれる者は、この広い空間のどこにもいない。
朝比奈美羽の笑い声が講堂の壁に反響する。細く、執拗で、張り詰めたナイロン糸のように鋭い。
マコトは動かなかった。顎を強く噛み締めすぎて、顔の側面に鈍い痛みが走るほどだった。
わずか数十センチの距離。西園寺遥の瞳には、怒りの感情など微塵も浮かんでいなかった。それが何よりも恐ろしかった。そこにあるのは憎しみではなく、汚染された検体を廃棄する前に観察する、外科医のような平坦な冷静さだけだ。
マコトは西園寺を真っ直ぐに見つめ返した。
すると西園寺は、この講堂に彼が足を踏み入れて以来初めて――顕著な才能も、芸術的な血筋も、その空間に存在する理由を正当化する変数を何一つ持たない人間の瞳の奥に、想定外の『何か』を発見した。
そこには、恐怖がなかった。
恐怖よりもずっと静かで、ずっと強情な何かが、そこに居座っていた。
沈黙は正確に三秒間続いた。
次の瞬間、西園寺はマコトの予想を裏切る行動に出た。
彼は、微笑んだのだ。
先ほど像のような傲慢な笑みではない。もっと小さく、もっと冷酷な、例外的なアノマリー(異常値)をカタログに分類し終え、通常よりも少しだけ慎重に『排除』することを決めた者の笑み。
西園寺が手を伸ばした。
マコトが事態を処理するよりも早く、西園寺の指先が彼の制服の襟元を掴んだ。その動作はあまりにも優しく、それゆえに、一切の力を必要としていない事実を突きつけてきて最悪だった。
至近距離で、二人の顔が向き合う。
人間の持つべき情緒的な温かみが完全に削ぎ落とされた、剃刀のように鋭い双眸が、不快なほどの至近距離からマコトを射抜く。
「よく聞きなさい」
西園寺はいつもの声で言った。穏やかで、正確で、一切のひび割れもない声。
「お前は雑音だ。それはお前に才能がないからではない――いや、実際ないのだがね。そうではなく、お前が『想い(善意)』さえあれば十分だと盲信しているからだ。誰人を助けたいという衝動が、その人間の物語に介在する権利を自身に与えてくれると勘違いしている」
一拍。
「そんな権利は、どこにもない」
マコトは視線を逸らさなかった。
身体の脇に下ろした両手は、ピクリとも動かない。
「物語を紡ぐのは、常に本物の価値を提供できる者だけだ」
西園寺のトーンは、一ミリのブレもなく淡々と続く。
「レモン飴と安っぽい善意を引っ提げて現れ、その想いだけで、すでに自らその道(生存戦略)を選択した人間を救えるなどと思うな」
その最後のフレーズだけが、他の言葉とは明らかに異なる重さでマコト의 胸に突き刺さった。
それがより残酷だったからではない。西園寺が、あの『レモン飴』の事実を完全に把握しているという、恐るべき正確さを持っていたからだ。マコトが気づいていた以上に、この男はすべてを観察していた。
「団蔵真実子にお前の救いなど必要ない」
西園寺は最後に、静かに告げた。
「彼女に必要なのは、輝くことだ。そしてお前という存在は、彼女が『今この瞬間に感じてはならない弱さ』を無駄に思い出させるだけの足枷に過ぎない」
西園寺は襟元から手を離した。
掴んだ時と全く同じ、恐るべきほどの重みのない滑らかさで。
マコトは無意識に一歩、後ろへとよろめいた。西園寺に押されたわけではない。ただ、彼の脳が事態の物理的・精神的な衝撃を処理しきれず、脚が勝手に拒絶反応を起こしたのだ。
「これより先」
西園寺は、すでにその会話が数分前に終了したかのように、舞台の方へと自然に身体を向けながら言い放った。
「私がここにいる限り、この講堂には一つの基準が存在する。そしてお前は――その基準の遥か下(未満)だ」
美羽がマコトに近づき、その一切の感情が籠もっていない、貼り付けたような笑みを浮かべ、まるでお恵みでも与えるかのような極小の囁き声で告げた。
「悪く思わないでね、雑音くん。あんたは単に、大切なことが起きる高次元のステージに、そもそも存在すらしていないの」
彼女は背を向けた。
そして、もはや指示を仰ぐ必要すらなく、西園寺の影の形に完全に重なるような足取りで彼の後を追う。
講堂の重厚な扉が閉まった。
激しく叩きつけられたわけではない。
ゆっくりと。その静けさ自体が、絶対的な拒絶の宣言だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆
マコトは、自分がいつ立ち上がるのをやめたのか、正確には分からなかった。
それは劇的なドラマもなく、ごく自然に段階を経て起きたことだった。彼の膝が折れた。廊下の床は、いつも通りの実直な冷たさで彼の身体を受け入れた。彼は通学鞄を傍らに転がし、落とした衝撃で白紙のページを開いたままの手帳を見つめながら、ただそこへ座り込んでいた。実際には、目の前にある閉ざされた扉の木目すら、その視界には入っていなかった。
学園の東棟は、午前九時の薄暗い陰影に包まれており、高い窓からは微かな太陽の光が斜めに差し込んでいるだけだった。
彼の身体は震えていた。寒さのせいではない。生まれて初めて味わう、圧倒的なまでの無力感のせいだ。
(何もできなかった……)
(俺は狐乃香さんじゃない。作戦も、データもない。俺はただの……雑音だ)
彼は悲痛な思考に沈み、 shadow西園寺が最後に残した一言を反芻した。
『大切なことが起きる次元に、お前は存在すらしていない』
その言葉が、頭の中で何度も、何度も明滅する。
激しい怒りは湧いてこなかった。それよりも、ずっと長い間重い荷物を背負い続け、ようやくそれが『全く違う方向』へ向かって歩いていたのだと気づかされた時のような、底期れぬ疲弊感が彼を支配していた。
(だけど、本当にそうなのかな……?)
それは自嘲的な問いかけではなかった。誰も見ていない空間で、自分自身の内面と徹底的に向き合う、残酷なまでの実直さから出た純粋な疑問。
(俺の存在が、知らず知らずのうちに真実子さんを傷つけてるのか?)
(俺が側にいることが、彼女に、今は感じちゃいけない感情を思い出させてるって言うのか……?)
彼は手帳を引き寄せた。自分が最後に書き記した文字を探す。
『真実子さんは、「大丈夫なフリ」の演技をしている』
その文字を、しばらくの間じっと見つめた。
そして、その下へ、何も考えずにただペンを走らせた。
『じゃあ、俺は何をしてるんだ?』
その言葉の下には、もう線は引かなかった。
答えのない、そして本当に大切な瞬間にいつも自然と湧き上がってきていたはずの『直感』すらも失われたその問いの文字が、閉ざされた扉とマコトの間の空間に、いつまでも虚しく漂い続けていた。
これほど長い人生の中で、星野誠が「次に何をすべきか」を完全に見失ったのは、これが初めてのことだった。
そして、いつもならそこから『正しい答え』を見つけ出すための出発点であったはずのその空白が、今回ばかりは、ただ彼を引きずり込む底なしの空虚として横たわっていた。
(俺は、もう……手を引くべきなのかな)
その問いは、飾り気もなく、小さく、静かに胸の奥へ届いた。
(真実子さんが求めているのは、本当にそういうことなのかな)
(俺が、ただそこに『いない』ことなのか?)
マコトは手帳を閉じ、膝の上にそっと置いた。
廊下の静寂は、ますます密度を増し、重く、永遠のような長さで二人を隔てていく。
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コツ。コツ。コツ。
その音は極めて規則的だった。正確無比。神天学園の制服の靴がリノリウムの床を叩く、一歩あたり正確に〇・六秒の短いサイクル。
マコトは顔を上げなかった。どこかの教師か、あるいは居残っていた吹奏楽部の部員だろうと思った。赤くなった目と、乱れた呼吸を誰にも見られたくはなかったからだ。
しかし、その足音は、マコトが座り込んでいる場所から正確に一メートルの距離でピタリと止まった。
「星野くん」
その声は、メスで空気を切り裂くような圧倒的な鮮烈さを持って鼓膜を叩いた。感情の起伏は一切なく、上辺だけの偽りの同情もそこには存在しない。だが今のマコトにとっては、その平坦なトーンこそが、真冬の最中に冷水を浴びせられたかのような強烈な覚醒をもたらした。
彼はゆっくりと目を開け、顔を上げた。
善狐狐乃香が、廊下の向こう側に立っていた。
彼女は弁論部室のある方向から歩いてきたのではなかった。その逆――東棟の側から歩いてきていた。つまり、彼女はマコトを見つけるために、学園内をわざわざ大きく遠回り(ロデオ)してきたということを意味していた。
唯華はマコトの姿を捉えると、その足を止めた。
彼を見つめる。
そして、ここ数週間、狐乃香の「表向きの表情」と「内面の真意」の違いを必死に読み取ろうとしてきたマコトには、彼女の瞳の奥に、普段なら絶対に存在しない『何か』が宿っているのが見えた。
それは厳密には心配や同情とは違っていた。もっと自制され、コントロールされた静かな何か。だが、それは間違いなく本物だった。
マコトは口を微かに開けたまま、何度も瞬きをした。
「狐、……狐乃香さん? どうしてここに……。教室に戻ってないと、もうすぐ授業が……」
「次の学術ブロックが開始されるまで、正確にあと四分あります」
彼女は顔の筋肉を一切動かさずに、マコトの言葉を遮った。
「西棟からこの地点まで直線移動を行うには、必要にして十分すぎる時間です。私の存在はスケジュールにおけるアノマリー(異常値)ではありません。あなたの方こそ、現時点における明確な異常を検知させています」
狐乃香は手にしたタブレットの位置を一センチだけ下げ、マコトの制服のジャケットにその視線を固定した。
「制服の腰の付近に、高密度の微細な埃が付着しています。呼吸数は一分間あたり二十四回。これは安静時における通常の数値から、およそ三十三パーセント上昇している計算になります。さらに……」
狐乃香はミリ単位でその細い瞳をさらに狭め、少年の胸元を凝視した。
「シャツの胸元の生地、ちょうど胸骨のあたりに、微かに円形の圧迫痕が確認できます。経験則から導き出される結論――あなたはあの場所(講堂)から、物理的な力によって排除されたのですね」
マコトは気まずそうに肩をすくめ、視線を床へと逃がした。恥ずかしさが一気に押し寄せ、頬が赤く染まっていく。
「いや、なんでもないんだって……。中でちょっと、足が引っかかっちゃってさ。俺がドジなのはいつものことだろ、へへ……」
笑い飛ばそうとしたが、その笑声は喉の奥で引きつり、惨めな呻きとなって消えた。
唯華は鼻から、極めて短い息を吸い込んだ。それは、人間の愚かな計算ミスによって完璧なアルゴリズムが狂わされた時に、彼女がいつも見せる不快感のサインだった。
そして、何の許可も求めず、これまでの人生で彼女自身が自らに課してきたあらゆる潔癖症的な確率論を完全に無視して――狐乃香は寸分の狂いもない真っ直ぐな姿勢のまま膝を折り、廊下の床へ、マコトの真隣に静かに座り込んだ。
制服の生地が壁に触れることすら許さないほど背筋を板のように伸ばしたままだったが、その物理的な距離は、驚くべきに近かった。
マコトは横目で彼女の横顔を盗み見、完全に言葉を失った。
「お、おい、狐乃香さん、床が汚れてるだろ……。あんた、埃とか大嫌いなはずじゃ……」
「この廊下における埃の汚染レベルは、学園のメンテナンス基準において十二パーセント未満です。短期的な観察期間としては、許容範囲内と判断します」
彼女は真っ直ぐ前方の、閉ざされた講堂の扉を見つめたまま淡々と言い放った。
「それに、現在の私たちのコミュニケーションにおける暗黙の条項に基づけば、システム(駒)に明確な不調が確認された場合、運用者はその状態を適切にモニタリングする義務があります。話しなさい、星野くん。一体どのような変数が、あなたのシステムをそれほどまでに書き換えたのですか」
マコトは膝の上で両拳を強く握りしめた。彼女の口から発せられる『駒』という冷たい言葉が、今のマコトには不思議と冷たくは感じられなかった。それが、狐乃香なりに必死に自分を案じている唯一の不器用な表現なのだと、今のマコトには痛いほど理解できたからだ。
「俺がバカだったんだよ、狐乃香さん」
マコトの声は小さく震えていた。これまで張り合ってきた『名探偵』のフリ(仮面)が、完全に粉々に砕け散っていく。
「あんたみたいに観察して、パターンを探して、データを分析すれば、真実子さんの身に何が起きてるのか分かるんじゃないかって思ったんだ。あんたみたいに格好よく解決できるって、本気で思っちゃったんだよ」
狐乃香は一切言葉を挟まなかった。ただ静かに、前方の壁を見つめたまま彼の声を拾い続けている。
「端、俺には無理だった」
マコトは奥歯を噛み締めた。
「俺にはそんな才能なんてない。秒数を数えることも、データを読み解くこともできない。俺に分かったのは、真実子さんが『もう目で笑っていない』ってことだけだ。彼女が苦しんでることしか分からなかった。なのに、助けようとしたらあの男が……西園寺遥が現れて。それから美羽って名前の、まるで主人(西園寺)のためだけに動く壊れたロボットみたいな女が出てきてさ。才能のない奴には発言権なんてない、お前はただの無価値な雑音だって言われたんだ。……そして一番最悪なのは、あいつらの言う通りだったってことだよ、狐乃香さん。俺は本当に何もできなかった。ゴミみたいに追い出されて、真実子さんには見向きもされなかった。俺はこの凍りついた空間で、完全に一人だ。何かを変えられる才能なんて、俺には一ミリもないんだよ」
沈黙が再び廊下を支配した。だが、それは先ほどの講堂の、あの息の詰まるような沈黙とは根本的に違っていた。それは、何かが始まるのを静かに待つ、静謐な沈黙。
狐乃香は丸々五秒間、微動だにせず座っていた。それから、極めて緩やかな動作で、マコトの方へと顔を向けた。
その漆黒の双眸がマコトの瞳を真っ直ぐに射抜き、少年は思わず息を呑んだ。
「あなたの分析は、百パーセント誤り(エラー)です、星野くん」
彼女は、一切の反論を許さない絶対的な確信を持って言い放った。
「え……?」
「第一:適切な認知トレーニングを経ていない者が、私の分析手法を安易に模倣しようとする行為は、九十八パーセントの確率で致命的な破綻を招く非効率な選択です。あなたは私ではないし、そうなる必要性も論理的に存在しません。あなたのプロセッサ(脳)は定量的な論理ではなく、定性的な認知(直感)によって駆動しているのですから」
狐乃香は空いた方の手の人差し指を、一本だけ小さく立てた。
「あなたは弾蔵さんが『もう目で笑っていない』ことに気づいたと言いましたね。それは決して小さなデータではありません、星野くん。私のシステムが同じ結論を導き出すには、最低でも三日間の継続的な観察リソースを必要とする、極めて高次元な『人間的診断』です。あなたはそれを、わずか三分で成し遂げた。自身の直感をグラフにプロットできないからという理由だけで、その絶対的な価値を過小評価するのはやめなさい」
マコトは端を見つめた。胸の奥が、どくんと大きく跳ね上がる。
「第二:」
狐乃香は立てた指を下ろすと、マコトの予想を完全に裏切る動作で、その細い指の関節でマコトの額を小さく、トントンと小突いた。想定外の刺激に、少年の身体が微かに後ろへとのけぞる。
「あなたは自分が『完全に一人だ』と言いました。その発言は、現時点で観測されている客観的な現実と明確に矛盾しています」
マコトは突かれた額に手を当て、信じられないというように瞬きを繰り返した。
「客観的な、現実……?」
「現在私たちが占有している幾何学的な空間において、ここには二人の人間が着座しています。私は全体のサンプルのうち、正確に五十パーセントの割合を占めています。したがって、統計学的に、あなたが今一人であるという確率はゼロです」
唯華は再び正面を向いた。しかし、その白い耳の先端が、ほんの少しだけ、誰にも気づかれないほど微かに桜色に染まっていた。
「西園寺遥は、才能の有無だけを価値の尺度とする閉鎖的なシステムで動いているようですね。それはかつて、私の家族が私に強制しようとした歪な機構と同じです。結果(成果)を出すためには一定の効率性を持つかもしれませんが、長期的に見れば、運用者自身を内側から破壊する致命的なバグを孕んでいます。あの男が、私の観測領域で人間の価値をそんな雑な基準で分類できると思っているのであれば……それは重大な計算違い(バグ)です」
狐乃香は一連の動作で美しく立ち上がり、制服のスカートに付着した見えない埃を二回、パパッと払って、いつもの高潔な統治者としての佇まいを取り戻した。端、手にしたタブレットの画面を親指の滑らかなスワイプで起動する。
「本日午後四時より、弁論部において『周辺環境の構造解析セッション』を開始します」
狐乃香は、いつもの無表情の中に冷徹な決意を秘めた瞳で、地上に座り込むマコトを静かに見下ろした。
「星野くん。現在のあなたのパフォーマンス(稼働率)は四十パーセント未満です。放課後までに、その数値を通常レベルまで復旧させなさい。あの講堂の論理構造を、パーツの一つに至るまでバラバラに解体します。……勘違いしないでくださいね、弾蔵真実子は私のプライオリティ(優先事項)ではありません。単に、現在のあなたの不調が、私たちの契約の生産性に悪影響を及ぼしているからに過ぎません。……動きなさい。授業が始まります」
マコトはもう一秒だけその場に座り込み、自分を待たずにスタスタと教室へ向かって歩き始める狐乃香の、あの真っ直ぐな背中を見つめていた。
先ほどまで胸を焦がしていたあの鈍い痛みは、いつの間にか完全に消え去り、代わりに、彼がよく知っているあの心地よい熱量が全身を駆け巡っていた。
マコトは床を蹴って勢いよく立ち上がると、制服のズボンを力強く叩き、通学鞄のストラップを両手でギュッと握りしめた。その顔には、彼を彼たらしめる、あの騒々しくて少しバカっぽい、100%の本物の笑顔が戻っていた。
「待ってくれよ、狐乃香さん! 歩くの早すぎるって、畜生! ……それから、さっきのデコピン、ありがとな! なんか頭のニューロンがカチッと繋がった気がするよ!」
狐乃香はその歩みを止めなかった。しかし、その薄い唇の端が、世界には決して観測されないレベルの、ほんの一ミリだけ、静かに、けれど確かに上を向いた。
それは、二人が紡ぎ始めた新たな論理のタイムラインの中にだけ、完璧なデータとして刻まれていた。
「……後で、全てを話しなさい」
それは質問ではなかった。
マコトはゴクリと唾を呑み込んだが、それでも、最高の笑顔を浮かべて答えた。
「了解、ボス。あなたの仰る通りに!」
朝の柔らかな光が差し込む東棟の廊下には、もう二人の姿はなかった。
そこには、閉ざされた講堂の扉と、誰も読むことのない手帳の最後のページに書き残された、一本の下線もない、答えのない小さな問いだけが静かに取り残されていた。
第16話:完
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆
どうも、皆さんこんにちは!
ええ、わかっています。毎日更新するという約束を二度も破ってしまって本当にすみません……。でも、今回はそのお詫びとして、めちゃくちゃ長いチャプターを用意しました! おそらく2万文字はあると思うので、これで満足していただけると嬉しいです。
個人的には、今回のチャプターは本当に気に入っています。ちょっと自分でも引くくらい、いつも以上にインスピレーションが湧いてしまいました。明日こそは、絶対に次のチャプターを更新します(信じて待っていてください!)。
あ、ちなみにですが、この「アーク」(まだそう呼べるか分かりませんが)が終わったら、物語は一度落ち着いて、いつものラブコメ(ROMCOM)に戻る予定です。
なんか、書いていて自分でもびっくりするくらい、最近の展開が鬱っぽくなってしまいましたし、何より自分自身でも少し怖くなるようなテーマ(もう気づいている方もいると思いますが、今回は「人間の価値」が裏のテーマです)に深く踏み込んでしまったので。
でも、このシリアスな展開を乗り越えたら、またいつもの6千文字くらいの通常運転に戻りますし、ついに皆さんが待ち望んだ(?)本格的な恋愛頭脳戦……というか、ラブコメの可愛い戦争が始まります!
それまでは、今のこの少しダークな展開を楽しんでいただきつつ、次のチャプターを待っていてください(神様、もう私に何もハプニングを起こさないでくださいね……笑)。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
それでは、次のチャプターでお会いしましょう。
零時卿より




