第14話:温もりのパラドックス
星野 誠は、よく眠れなかった。
アニメのせいではない。午前2時に奏太に枕の半分を奪われたせいでもない。外部的な要因は何ひとつなかった。
ただ、午後11時から深夜0時までの間のどこかで、彼の脳内がある瞬間を無限ループ再生し始めたからだ。あの、善狐 狐乃香に対して、計画も安全網もなく正面から言い放ったあの瞬間を。
『図書室で立ったまま寝たり、ポケットに飴を隠してる狐乃香の方が、朝の5時にタイムラインを送りつけてくるやつより、ずっと面白いと思うぜ』
誠は枕に顔を埋めた。
(……俺は何を言っちゃったんだ!?)
(あんなの、どんな告白台詞だよ!?)
(というか、誰のつもりであの善狐 狐乃香にそんなこと言ったんだ、俺は!)
ベッドの中で悶え苦しむ。隣で悪夢を見たのか勝手に移動してきた奏太が、何か意味不明なことを呟きながらさらに枕を奪っていった。
誠は天井を見つめた。
(あいつは天才だ。監視カメラも持ってるし、暇つぶしに俺の行動タイムラインを作るようなやつだ。そんな相手に、俺は「飴を食べてる姿が面白い」なんて言ったんだぞ)
(終わった。死ぬ。明日学園に行ったら、俺の内申書と社会的評価、そしておそらく生存意欲のすべてが計算通りに抹殺されてるに違いない)
奏太が再び呟いた。今度は「兄ちゃん、バカ……」と聞こえたような気がした。
(……知ってるよ、奏太。知ってるよ)
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水曜日。午前7時55分。進天学園、正門。
火曜日が「調査の日」だったなら、水曜日は「核パニックの日」だった。
(あの論理の女帝に……あんなことを……死ぬ。絶対、中央廊下で俺を殺そうと待ち伏せしてるに違いない……!)
そのため、午前8時、誠は普通の生徒として登校しなかった。彼は「植物」として入った。文字通りだ。リュックにいくつか造葉を貼り付け、ロビーの植え込みの近くで背を丸めて歩く。狐乃香が通り過ぎる時、動かなければ自分を「装飾品」として認識するはずだと信じ込んで。
(完璧だ。俺が今、無力な植物だとは誰も気づかない。このマスタープランなら、狐乃香も俺を見つけられないはずだ)
内心で「これはいける」と笑っていたが、残念ながらこのバカに何かがうまくいくことなどなかった。
「星野くん……」
聞き覚えのある年配の声に、誠の動きが止まった。顔を上げると、歴史の教師がじっと彼を見つめていた。
「一体全体、植え込みの中で何をしているんだね?」
誠は言葉に詰まった。そして、稼働可能な数少ないニューロンを総動員して、思いついたことをそのまま口にした。
「あ、えーと……環境保護の、デモンストレーション……です」
引きつった笑顔で言うが、教師の目はさらに冷ややかになった。誠は観念して「変装」を脱ぎ捨て、普通の人間として廊下を歩き始めた。
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誠が知らなかったのは、その同じ時刻、2階で善狐 狐乃香がタブレットを手に、中央廊下を見下ろす窓の前に立っていたことだ。
彼女はタブレットを見ていなかった。
下の廊下を見ていた。
(星野くんは7時55分に到着。通常より2分早い。これは、彼が緊張しているか、家に忘れ物をした時にしか起こらない統計的逸脱ね)
沈黙。
(……廊下Bの植物の陰に隠れているわ)
沈黙。
(なぜ、廊下Bの植物の陰に隠れているのかしら?)
彼女の指がタブレットを一回、トントンと叩いた。
(……私を避けている)
3秒間、それを処理する。
(なぜ私を避けるの? 昨日、対立を仕掛けたのは彼の方よ。問いを投げかけたのも彼。答えを待たずに立ち去ったのも彼だわ)
彼女はわずかに目を細めた。
(……自分が言ったことを後悔しているのね)
さらに長い沈黙。
(……なぜ、それが私を苛立たせるのかしら?)
その問いに対する論理的な答えはなかった。そして答えがないことこそが、昨夜彼女をいつもより長く寝かせず、誠の言葉をデバートの論拠のように精密に反芻させた原因だった。
『……狐乃香の方が……ずっと面白いと思うぜ』
(……その「面白い」の正確な定義は何? 彼はどのようなパラメータを用いてその結論に達したの? 私が自分自身について持っていない、どんなデータを彼は持っているというの?)
問いには答えが出ない。そしてそれは、狐乃香にとって容認できないことだった。
彼女はタブレットに視線を落とし、学園のマインドマップを開いた。ここ数週間の誠の行動パターンに基づき、彼が今日通るであろう確率の高いルートを算出した。
今彼がAブロックにいるなら、2時限目にはCブロックにいる。休み時間はおそらく図書室か屋上。昼食は、誰も邪魔をしない食堂の隅。
狐乃香はマップを閉じた。
(……追いかけるつもりはないわ)
沈黙。
(……ただ、迎撃するだけよ)
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午前9時20分。2階と3階の間の階段。
誠は1時限目を比較的平穏に乗り切っていた。清掃用のカートの陰に一度隠れるだけで済んだし、掃除のおじさんは何も聞かないほど親切だった。
今、彼は3時限目の化学の授業のために3階へ上がっていた。リュックを背負い、警戒心を最大に高めて。
(3階は比較的安全なテリトリーだ。狐乃香は11時までここには来ない。余裕を持って――)
「おはよう、星野くん」
誠は2階の踊り場で凍りついた。
狐乃香が壁に寄りかかり、タブレットを抱えて立っていた。まるで見知らぬ場所で彼に出会うのが、世界で最も自然なことであるかのような無表情だ。
(……は!? どうやって!? 2分前まであいつは2階の反対側にいたはずだぞ!?)
「じ、授業があるんだ」
誠はあいまいに上を指差した。
「知っているわ。化学、3階、3-B教室ね。あと7分あるわよ」
「そ、それじゃあ俺は……」
「また後で」
狐乃香は壁から離れると、何事もなかったかのように2階へ戻っていった。
誠は自分の足がまだ使えることを思い出すまで、まる4秒間立ち尽くしていた。
(何だったんだ今の? おはようを言うためだけに待ち伏せしてたのか? それとも警告か? 絶対に警告だ、間違いない……!)
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午前10時45分。Cブロック廊下。
誠はルートを3回変更した。
3回だ。
北廊下、南廊下、中央廊下を避け、実際の避難訓練以外に誰も使わない東棟の非常階段を使い、自分でも二度と思い出せないようなルートでCブロックに到達した。
彼は慎重に角から顔を出した。
誰もいない。
息を吐く。
(よし。誰もいない。これなら教室に――)
「星野くん」
反対方向からだった。
狐乃香がいつも通りの足取りで、タブレットを手に角を曲がってきた。まるで偶然そこに辿り着いたかのように。
誠は踵を返し、早歩きで逆方向へ進んだ。
「星野くん、あなたの教室はあちらよ」
「トイレに行くんだ!」
「一番近いトイレもあちらよ」
誠は加速した。
走ってはない。厳密には走っていない。だが、すれ違う3人の生徒が道を譲るほどには速かった。
角を曲がる。
すると、そこに立っていた狐乃香と衝突しそうになった。彼女はいつもの無表情でそこにいた。
誠は2歩後退した。
「……どうやって!?」
「並行廊下よ」
狐乃香は淡々と言った。
「幾何学は嘘をつかないわ、星野くん」
誠は彼女を見た。自分が来た廊下を見た。並行廊下を見た。そしてまた彼女を見た。
(幾何学を使って俺を捕まえてる……!? これまでの人生で一番怖い体験だ。数週間前の追跡劇の方がマシだったかもしれない……!)
「あ、あの、俺は……」
「トイレね。分かっているわ。右側よ」
そして彼女は、彼がそれ以上何も言う前に去っていった。
誠は交差点に立ち尽くし、何が起きたのかを処理しようとしていた。通りかかったクラスメイトが彼を見た。
「大丈夫か、星野?」
「……いや、ダメだ」
誠は心底正直に答えた。
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午後12時30分。食堂。
誠は万全の策を講じていた。
入り口から最も離れた食堂の隅に座り、入り口に背を向け、トレーを盾のように置き、隣の椅子には荷物を置いて誰も来られないようにした。
うつむいて食事を摂る。
(10分だ。昼食の10分間さえ生き残れば、あとは午後の授業が始まるまで屋上で過ごせばいい)
誰かが目の前のテーブルにトレーを置いた。
誠は顔を上げなかった。
(……まあ、ちょっと置いただけだろ、きっと)
だが、その人物は座ることに決めたようだった。
誠はうかつにも顔を上げた。そこに彼女がいた。
狐乃香はテーブルの向こう側から彼を見ていた。勝利の表情でも、脅迫の顔でもない。何か複雑な問題を解決しようと決意し、正面からぶつかろうとする者の真剣さだった。
「……どうやって?」
「脱出ルートの確率第4候補:食堂、南西の角、入り口に背を向ける位置。今日、あなたがまだ使っていなかった唯一のエリアよ」
誠は目を閉じた。
(……だろうな。当然、俺の逃走エリアの記録も持ってるんだろうな……!)
「善狐さん、俺はただ……」
「『面白い』って、どういう意味?」
誠は目を開けた。
狐乃香はテーブルに肘をつき、答えを求めて決して引き下がらないような強烈な眼差しで彼を射抜いていた。
「え?」
「昨日のことよ。『面白いと思う』って。辞書によれば、面白いとは興味を引くこと、注意を引くことを指すわ。でも、あなたの口から出たそれは、結論のように聞こえた」
沈黙。
「どのようなデータに基づいた結論なの?」
誠は彼女を見た。
そして、彼の胸の奥にある、熟考せずとも問題を解決し、推敲せずとも真実を口にするあの「バカなメカニズム」がカチリと音を立てた。
今日一日の恥ずかしさも、昨夜から積み重なった恐怖も、まだそこにあった。だがその下に、それらすべてよりも単純で明快な何かがあった。
狐乃香は、本気で彼の言葉が理解できていなかったのだ。
怒っているのではない。困惑しているのだ。
そして、彼女は今日一日中、幾何学や確率を使って彼を追い回したのは、彼を殺すためではなく、それを聞くためだったのだ。
誠はトレーに箸を置いた。
椅子に背中を預け、話し始めた。
「データじゃないんだ、善狐さん」
狐乃香は何も言わず、待った。
「あんたと知り合ってから毎日、俺は自分が、あんたのレベルに到達できないバカだって感じさせられてきた。愚痴じゃなくて、事実だ。俺はあんたのレベルには届かない。でも、そのせいで、あんたを……一人の『人間』として見ることが難しかったんだ、分かるか?」
沈黙。
「あいつだって疲れるんだ。あいつだって悪い日がある。あいつだって、何かが自分を削っているから、午前11時にレモンの飴が必要なんだ……ってさ」
狐乃香は動かない。
「図書室で立ったまま寝てるのを見て、弱いなんて思わなかった。あんたが何かに立ち向かっていて、それを一人でやっていて、周囲の人間はあんたを怖がるのに必死で、誰もそれに気づいてないんだって思ったんだ」
静寂。
「それが、あんたを『人間』に見せたんだよ。そして、完璧なものより、人間らしいものの方がずっと面白いんだ」
食堂は周囲の人々の喧騒で溢れていた。トレーがぶつかる音、重なる会話、後ろの席で誰かが大笑いする声。
だが、その南西の角だけは、絶対的な静寂に包まれていた。
狐乃香は彼を見ていた。
いつもの分析的な目ではない。もっと細く、それでいて同時に開かれた、長い間閉ざされていた扉が、予想外の場所で鍵を見つけた時のような表情だった。
「……そんなこと、誰にも言われたことがなかった」
あまりに小さな声で、誠は聞き逃しそうになった。
「何が?」
「私を『見ている』なんて」
沈黙。
「普通、みんなは私をリソース(資源)として見るか、脅威として見る。あるいは、超えるべき目標として」
彼女の指がテーブルを一回、トントンと叩いた。いつもの神経質な仕草だが、今回はそれを止めようとはしなかった。
「……何かに立ち向かっている人間だなんて、一度も」
誠は何も言わなかった。彼女に続けさせた。
だが、狐乃香は続けなかった。まだ手をつけていないトレーをじっと見つめ、名前をつけるにはあまりに複雑な表情を浮かべていた。
「……どうして、そんなことを気にするの?」
その問いは真っ直ぐだった。いつもの鋭さはない。ただ純粋な問いだった。
誠は一瞬、考えた。
「そこに、あんたがいるからだろ」
狐乃香はわずかに眉をひそめた。
「それは論理的な答えではないわ」
「ああ、でも、本当の答えだ」
その瞬間、チャイムが鳴った。人々が教室へ戻り始める中、狐乃香は立ち上がり、背を向けた。
「また後で、星野くん」
それだけ言って、彼女は去っていった。
(……待て、怒ってるのか?)
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午後3時15分。西棟廊下。演劇部部室の近く。
一緒に歩く約束をしたわけではなかった。
段階的に、そして何の告知もなく、二人はただ鉢合わせ、同じ方向へと歩き始めた。どちらが提案したわけでもなく、ただそうなった。
西棟の廊下はこの時間、最も人通りが少ない場所の一つだ。高い窓から差し込む柔らかな西日と、遠くの講堂で誰かが練習している微かな音が響いている。
二人は沈黙の中で歩いていた。気まずい沈黙ではない。
それは奇妙なことに、言葉で埋める必要を感じさせない、心地よい沈黙だった。
最初に口を開いたのは狐乃香だった。
「私の家族には、一つの分類が存在するの」
誠は横目で彼女を見た。
「演算子。駒。そしてノイズ」
彼女はまるで数学の公理を引用するかのような無表情で言った。
「オペレーターは、糸を引く者。決断を下す者。変数を制御する者よ」
「駒は、動かされる者。有用で必要だけど、代替可能なもの」
「じゃあ、ノイズは?」
「どちらの役にも立たない者。システムに干渉を引き起こすだけの存在よ」
誠はそれをしばらく咀嚼した。
「……俺はどのカテゴリーだったんだ?」
狐乃香はすぐには答えなかった。
「最初は……」
彼女は足を止めた。誠も止まった。
「最初はノイズだった。有用な変数が一つもなく、私の環境に問題を引き起こし、修正を必要とする存在」
「そりゃ光栄だな」
誠は皮肉を盾にしようとした。
「その次は、欠陥のある駒だったわ」
「おい、そっちの方が酷いだろ!」
誠は心外そうに言った。
「マシよ。欠陥のある駒には、修正の可能性があるもの」
彼は困惑して彼女を見た。
「……じゃあ、今は?」
狐乃香は再び歩き出した。誠が後に続く。
「今は……どのカテゴリーにも当てはまらないわ」
いつもの確信に満ちた声ではない。
「そして、それが……」
長い沈黙。
「それが、自分でもどう解決すればいいのか分からないシステムエラーを、私の中に引き起こしているの」
誠はしばらく沈黙を漂わせた。
「その分類、小さい頃から教えられたのか?」
「物心ついた時からよ」
「……友達は、どのカテゴリーに入るんだ?」
狐乃香は再び足を止めた。
誠も止まった。
「友達……?」
彼女は小さく呟いた。
「友達というカテゴリーは存在しないわ」
ドラマチックな響きはなく、ただの事実として彼女は言った。
「私の家族にとって、友情は時間の無駄であり、脆弱性のベクトルよ。もし誰かが有用な駒でもないのに近くにいるなら、それはまだ特定できていない『何か』を求めているからだと教わったわ」
誠は長い間、彼女を見つめた。
そして、重要なことを言う時にだけ現れるあの奇妙な静けさを持って、彼は言った。
「それは……すごく孤独だな」
狐乃香は答えなかった。
だが、彼女の姿勢が変わった。わずかに。命じられたわけでもなく、肩から1センチほどの緊張が抜けていった。
「善狐さん」
「何?」
「友達にならないか?」
廊下に静寂が降りた。
狐乃香は彼を見た。未知のパラメータに遭遇し、システムが処理しきれていない時のあの表情で。
「……友達?」
困惑して彼女は言った。そんなことを真っ直ぐに頼まれたのは、人生で初めてだった。
「ああ」
「それは、具体的にどのような内容を含んでいるの?」
誠は真剣に考えた。
「大したことじゃない。もしあんたが図書室で立ったまま寝ても、俺は誰にも言わない。悪い日があっても、そうじゃないふりをする必要はない。レモンの飴を安心して持ってていい、俺は絶対に笑わないから」
沈黙。
「それに、もしあんたがいつか自分の抱えてる問題を話したくなったら、俺が聞くよ。結局、友達ってのはそのためにいるんだろ」
狐乃香はそれを処理した。
デバートの論拠のように速くではなく、初めて見るものを対照データなしにゆっくりと確認するように。
記憶のどこか遠くで、母親の声が聞こえた。彼女の家族のすべてと同じように、正確で温もりのない声。
『友達なんて高価な幻想よ、狐乃香。誰もが何かを求めている。問題は彼らがあなたを利用するかどうかではなく、いつ利用するかよ』
彼女はその確信を公理のように信じて育ってきた。論駁不能、証明済み。
だが、公理とは証明なしに受け入れられる主張のことだ。
そして、一日中植物の陰に隠れ、89年前の新聞をカムフラージュに使っていた星野 誠は、彼女から何かを奪おうとしている人間には到底見えなかった。
彼は、苛立たしいほど不可解に、ただ同じ方向に歩こうとしているだけの人間に見えた。
(……これは何?)
論理ではない。戦略でもない。彼女が知っているどの概念にも当てはまらない。
それはもっと小さくて、奇妙なものだった。
好奇心。
未解決の問題に対する知的好奇心ではない。ずっと暗かった部屋に灯りが点いたような、温かくて、少し居心地の悪い何か。
彼女は手を伸ばした。
誠はそれを見て、その手を取った。
握手は短かった。誠の手は力強く、狐乃香の手は少しぎこちなかった。理論上は知っていても、それを実行した筋肉の記憶がなかったからだ。
「……分かったわ」
狐乃香は言った。
その声は少し違っていた。柔らかくなったというよりは、武装が解かれたような響きだ。
「でも、これはあくまで科学的な好奇心からの試行だということを忘れないで」
「はいはい、分かったよ、友達」
その最後の一言に、狐乃香は再び虚を突かれた。「友達」と呼ばれたのは、人生で初めてだった。
「……もしあなたが途中で、これが時間の無駄だと判断したら、そう言って。すぐに終わらせるから」
誠は彼女を見た。
「あんたは、それでいいのか?」
「……私が判断するよりはマシよ」
再びの沈黙。
そしてその時、進天学園の誰もが一度も見たことのないことが起きた。
善狐 狐乃香が、笑ったのだ。
デバートで相手を威圧するために使う計算された笑みではない。議論を締めくくる冷たい笑みでもない。
小さくて、ほとんど気づかないほど微かな、2秒も経たずに消えてしまった笑み。だがそれは完全に、そして救いようがないほど「本物」だった。
「……本当に、変な人ね、星野くん」
「まあ、もっと酷いことも言われてきたから気にするな」
二人はその後、当たり前の日常を話し始めた。もはや違う階層にいる二人の人間としてではなく、狐乃香がこれまで知らなかった「友達」という関係として。
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二人の誰も気づかなかった。廊下の突き当たりに何があったかを。
20メートルほど先、演劇部のある講堂へと続く角のところで、一人の人影が立ち尽くしていた。
弾正 狸子は、午後の練習に必要な小道具を探しに出た帰りだった。倉庫からの近道としてこの廊下を選んだ。
そして、彼らを見た瞬間に足が止まった。
何を話しているかは聞こえなかった。距離が遠すぎた。
だが、握手は見た。
そして、狐乃香のあの笑みを見た。表情や微細な仕草を読み取ることに長けた狸子には、それが紛れもなく「本物」であると一瞬で理解できた。
二人が自然に歩き出すのを、彼女は見つめていた。
彼女の表情に怒りはなかった。予想していたような激しい嫉妬でもない。ただ静かで、重苦しい何か。まるで劇がクライマックスを迎え、観客が物語の結末を悟った時のような感覚。
(……誠くんは、狐乃香さんを選んだんだ)
招かれざる思考が、独りでに湧き上がった。
(当然よね。彼女は論理、彼女は構造……彼女はすべてにおいて筋が通っているもの)
自分の中の何かが崩れ落ちるような感覚。
(私はただのお面で、舞台装置で、人工的な光だものね……)
狸子は自分の手に視線を落とした。手にしていた小道具――劇で使うための偽物の懐中時計が、廊下の光を反射して虚しく輝いていた。
(……もう、終わりにすべきなのかな)
舞台の独白のようなドラマチックさはなかった。誰も見ていない時にだけ出る、飾りのない小さな声で彼女は思った。
(彼がもう、探していたものを見つけたのなら……私の物語は、第3幕に行く前に終わってしまったのかもしれない)
彼女は踵を返した。
急ぐこともなく、演劇部の方へ戻っていく。誰かに見られている時のような優雅な仕草はそこにはなかった。
ただ、歩いた。
廊下から講堂のドアまでのどこかで、ここ数週間強く輝いていた何かが、ほんの少しだけ曇った。
消えたわけではない。
だが、点滅していた。
講堂のドアが、静かな音を立てて閉まった。
西棟の廊下には、誰もいなくなった。ただ西日が差し込み、終わりの見えない練習の声だけが遠くに響いていた。
第14話:完
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どうもどうも、皆さんお元気ですか?
第14話をお届けします。約束通り、今週限定の毎日更新、しっかり守っていますよ!
さて、見ての通り狐乃香の掘り下げは一旦ここまで。物語は順調に進んでいます。そして……次はいよいよ狸子の番です。
彼女については、すごくダークで、でも同時にどこか美しい……そんな展開を構想中です。上手く形にできるかどうか自分でも挑戦ですが、楽しみにしていてください。
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最後まで読んでくれてありがとう。明日のチャプターもお楽しみに!
零時卿 より




