しじまのけもの
化物草紙 実話怪談短編集用に作っていた話です。
時間が経ったらそちらに加えます。
これはKさんから聞いた話だ。
Kさんは農具の営業職で、仕事柄、地方へ出張することが多い。
その夜も取引先との打ち合わせを終え、宿へ戻るために川沿いの遊歩道を歩いていた。
時刻は午後10時過ぎ。
近くに田んぼや畑がある程度には田舎だが、街灯はあるし、住宅も近い。
しばらく歩いていると、不意に違和感を覚えた。
(やけに静かだな……)
先程までうるさいほどに鳴いていた虫の声は聞こえず、辺りは静まり返っていた。
風が吹いている感触はあるにも関わらず、木の葉が揺れる音さえしない。
耳がおかしくなったのかと思い、咳払いをしてみる。
「ンンっ……」
自分の声は聞こえた。
試しに大きく拍手をしてみた。
_パンッ。
夜道に音が響く。どうやら耳がおかしくなったわけではないらしい。
周囲の音だけが消えていた。
気味が悪くなり、少し足を速める。
その時だった。
「フー……」
すぐ後ろで、生暖かい吐息が漏れた。
息からは凄まじい獣臭さが漂ってくる。
自分の肩よりも上から息を吹きかけているところから、犬や猫では決してない。
明らかにもっと大きな生き物の息だった。
(クマかなんかか……?この距離は……殺される?)
思わず振り返りそうになったが、動物を刺激しないよう、振り返らずにゆっくりと前へ歩き続ける。
「フー、フン……」
また背後から生暖かい空気とともに音が聞こえる。
距離は先程と変わらない。
すぐ後ろだった。
聞こえるのは恐怖に警鐘を鳴らす自分の心音と、その獣の息遣いだけだった。
しばらくの間、歩いているとKさんは気づく。
(さっきからずっと風景が変わらない……?)
街灯。
川沿いに立つ細い柳の木。
その並びが、いつまで歩いても同じだった。
さっき通り過ぎたはずの場所が、また前に見える。
歩いている感覚はあるのに、どこにも進んでいないようだった。
その間も、
「フー……」
吐息だけは、変わらず、すぐ後ろにあった。
Kさんは走り出した。
背後の獣を振り切るつもりだ。
だが、息遣いは離れない。
背後の気配は同じ距離を保ったまま、ぴったりとついてくる。
どれくらい走ったのか分からない。
息が切れ、足がもつれた瞬間だった。
急に光が飛び込んできた。
気が付くと、宿付近の大通りに立っていた。
車が何台も走り抜ける。
街路樹を揺らす風の音。
Kさんの宿の近くだった。
現実に引き戻されるように、あらゆる音が耳へ飛び込んでくる。
恐る恐る振り返ると、背後には何もいなかった。
宿に着いた時間は午前2時だったという。
後日、Kさんはその場所を昼間に歩いてみた。
遊歩道は真っすぐで、とても迷うような場所ではない。
Kさんは死を体感した、最初で初めての体験だったらしく、今でもはっきり覚えているという。
「後ろにいたアイツは……その気になれば、いつでも俺を殺せたと思うんです」
そこで1度、言葉を切った。
「でも、殺す気なら、とっくにやってるんですよね」
「俺が怖がってるのを分かってたんです。わざとあの距離を保って、振り返るか、走るか、ずっと見ていた。……遊ばれてたんですよ」
Kさんは再び沈黙してから、小さく続けた。
「あんな事をするのは……多分熊とか、そういうものじゃないと思います」




