第8話「護符が熱を持つ夜に」
夢を見ていた。
王都の工房。
長い廊下。
振り返るたびに誰かが消えていく、不思議な夢。
リシェルは夢の中で走っていた。
どこへ向かっているのか、自分でもわからなかった。
ただ、何かが壊れていく音がする。
遠くで、結界が崩れる音がする。
止めなければ。
直さなければ。
――その瞬間。
胸元が、熱くなった。
「っ」
リシェルは目を覚ました。
暗い天井。
自分の部屋。
だが、胸の護符が熱い。
本物の熱さだ。
(異常がある)
修復士の本能が、即座に体を動かした。
布団を跳ね除け、上着を羽織り、道具袋を掴む。
廊下に飛び出した。
◆
夜中の城は、静まり返っていた。
魔術灯が最低限の光を放つだけで、人の気配がない。
護符はまだ熱い。
方向を確かめようと手で包むと、熱の向きが感じ取れた。
奥へ。
封印された部屋の方向だ。
(やっぱり)
リシェルは走った。
廊下を曲がり、使用人のいない区画へ入る。
空気が冷たくなる。
魔術的な重さが、肌で感じられる。
曲がり角を抜けた先。
封印された部屋の前に、人影があった。
黒い装束の、背の高い人物。
フードで顔を隠し、扉に手を当てていた。
封印を、解こうとしている。
「止まれ!」
叫ぶより先に、リシェルの体が動いた。
道具袋から感知用の水晶片を取り出し、人影に向かって術式を展開する。
感知から封鎖へ。
修復士の技術は、本来攻撃には向かない。
でも、術式を縛ることはできる。
「動くな!」
水晶片が光り、人影の足元に術式の輪が描かれた。
一瞬だけ、人影が硬直した。
だが。
「邪魔をするな」
低い声。
男の声だ。
人影が手をかざすと、リシェルの術式が霧散した。
(強い)
瞬時に判断した。
正面からでは止められない。
リシェルは即座に次の手を打った。
護符を握りしめる。
ディルヴァルトへの緊急信号だ。
護符の術式が起動する感触があった。
「それも無駄だ」
人影が振り返った。
フードの奥に、冷たい目が見えた。
「お前が修復士か」
「そうですが」
「ここから離れろ。お前には関係ない話だ」
「関係あります」
リシェルは人影と封印された扉の間に、体を割り込ませた。
「この城の術式は、全部わたしの管轄です。あなたが触れていいものは一つもない」
「死にたいのか」
「死ぬつもりもありません」
人影が、じっとリシェルを見た。
「……なぜここにいる。お前は追放されたはずだ」
「知っているんですか、わたしのことを」
「アンセル卿から聞いた。王都から追い出した修復士が、なぜかここにいると」
リシェルは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
アンセルの名前が出た。
ということは、この人物はアンセルと繋がっている。
「あなたは、アンセル卿の部下ですか」
「答える義理はない」
「あるでしょう。あなたが今やろうとしていることは、この城への不法侵入と封印の破壊です。立派な犯罪です」
「法など、関係ない」
人影が一歩前に出た。
リシェルは退かなかった。
怖い。
怖いけれど、退いたら扉への道を開けることになる。
(退けない)
「お前を傷つけたくはないが、どかないなら容赦しない」
人影が手を上げた。
その手に、黒い魔力が凝縮されていく。
攻撃魔術だ。
リシェルは道具袋を前に構えた。
それで防げるものではないとわかっていても。
次の瞬間。
「触れるな」
廊下の奥から、声が轟いた。
◆
ディルヴァルトが、廊下の端に立っていた。
マントもなく、シャツ一枚。
明らかに眠りから飛び起きたような格好だ。
だが、その目は完全に覚めていた。
灰青の瞳が、凍りつくような光を放っている。
「公爵」
人影が、低く言った。
「久しぶりだな、タイス」
ディルヴァルトの声が、静かに、でも確かに怒りを帯びていた。
「……知っている人ですか」
リシェルが小声で聞いた。
「五年前の侵入者だ」
リシェルの息が詰まった。
五年前に封印を破り、ディルヴァルトに呪いをもたらした人物が。
今夜、また来た。
「お前が呼んだか、アンセルが送り込んだか」
「どちらでもいい」
タイスと呼ばれた人影が、フードを外した。
四十代ほどの男だった。
目が鋭く、顔に古い傷がある。
「あの呪具が必要だ。今夜もらっていく」
「させない」
「五年前に邪魔されたが、今夜は違う。お前の呪いは進行している。抵抗できないはずだ」
「試してみるか」
ディルヴァルトが一歩前に出た。
その手に、封印の術式が展開され始めた。
タイスが即座に攻撃魔術を放った。
黒い魔力が廊下を走る。
「ッ」
リシェルは咄嗟に術式を展開した。
攻撃を防ぐことはできない。
でも、術式の軌道をわずかにずらすことはできる。
修復士の技術は、構造を読んで組み直すことだ。
飛んでくる術式の構造を瞬時に読み、干渉する。
黒い魔力が、リシェルの頬をかすって壁に当たった。
壁が焦げた。
「リシェル!」
ディルヴァルトの声が変わった。
低いのは変わらない。
でも、その声の奥に、今まで聞いたことのない何かがあった。
焦り、だった。
「大丈夫です!」
「下がれ」
「下がりません、一緒に対処します」
「危険だ」
「危険なのはわかってます、でも」
リシェルは扉の前に立ちながら、水晶片を構えた。
「ここを開けさせるわけにはいかないので」
タイスが舌打ちした。
「厄介な修復士だ」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうですか」
タイスが再び魔力を凝縮させた。
今度は先ほどより大きい。
ディルヴァルトが封印の術式を完成させようとしている。
だが、呪いの影響で、いつもより構築が遅い。
(時間を稼がなければ)
リシェルは頭を回転させた。
攻撃は無理。
正面から防ぐのも無理。
でも、修復士にできることがある。
「タイスさん」
リシェルが、真っ直ぐに相手を見て言った。
「あなたが持ってきた封印干渉の術具、今朝から構造が歪んでいます」
タイスが、わずかに動きを止めた。
「……何?」
「三日前にこの城の封印に干渉しようとした痕跡がありました。あれはあなたですよね。あのとき使った術具、今もそれを持っているなら……使わないほうがいいですよ」
「何の話だ」
「歪んだ術具で封印に触れたら、術式が暴走します。この廊下ごと吹き飛ぶかもしれない」
嘘ではなかった。
三日前の干渉痕を調べたとき、使われた術具の特性まで読んでいた。
あれは精巧だが、反動を吸収する機構が壊れていた。
「……」
タイスの動きが、一瞬だけ止まった。
その隙だった。
「リシェル、下がれ」
ディルヴァルトの声と同時に、封印の術式が完成した。
廊下に、巨大な光の網が展開された。
ディルヴァルト家の血統魔術、封印特化の術式。
タイスが跳ぼうとした。
だが、間に合わなかった。
光の網が、タイスを包んだ。
男が動きを封じられ、膝をついた。
廊下に静寂が落ちた。
◆
しばらく、誰も動かなかった。
封印術式の中で、タイスが歯を食いしばっている。
「……久しぶりに、本気で展開したな」
ディルヴァルトが、息を整えながら言った。
リシェルは相手が無力化されたことを確認してから、ゆっくりとディルヴァルトを振り返った。
「ディルヴァルト、大丈夫ですか」
「お前が聞くな。かすったのはお前だろう」
「ちょっとだけです」
「見せろ」
ディルヴァルトが近づいてきた。
リシェルの頬に手を伸ばしかけて、止まった。
「……触れていいか」
小さな声だった。
リシェルは少し驚いた。
「はい」
ディルヴァルトの手が、リシェルの頬に触れた。
大きな手のひらが、傷のあたりをそっと確認する。
「浅い。だが、跡が残るかもしれない」
「それくらい大丈夫です」
「大丈夫ではない」
ディルヴァルトの声が、低いままなのに、どこか別の色を帯びていた。
リシェルは少しだけ、顔が熱くなるのを感じた。
「……痛くはないです、本当に」
「お前は痛くても言わない」
「そんなことは」
「言わない」
断定された。
リシェルは反論できなかった。
ディルヴァルトの手が、頬から離れた。
その手が、一瞬だけリシェルの髪に触れた気がした。
ほんの一瞬だけ。
「……カルロスを呼ぶ。こいつを拘束する」
「はい」
「お前は部屋に戻れ」
「でも」
「戻れ」
「……わかりました」
リシェルは一歩引いてから、立ち止まった。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「護符、ちゃんと機能しました。ありがとうございます」
男は答えなかった。
でも、その横顔に、見たことのない表情が浮かんでいた。
安堵、という言葉が、いちばん近かった。
◆
部屋に戻って、リシェルはベッドに腰を下ろした。
頬がじんじんしてきた。
今更、傷の痛みが出てきた。
(大丈夫って言った手前、痛いとは言えないな)
思わず苦笑した。
ディルヴァルトに見抜かれていた。
痛くても言わない、と。
三週間も経っていないのに、もうそこまで読まれている。
それが、不思議と嫌じゃなかった。
しばらくして、扉が静かにノックされた。
「はい」
「俺だ」
ディルヴァルトだった。
扉を開けると、男が片手に小さな瓶を持っていた。
「傷薬だ」
「……自分で塗れます」
「頬には塗りにくいだろう」
反論できなかった。
部屋に入ってきたディルヴァルトが、椅子を引いてリシェルの前に座った。
「動くな」
「はい」
大きな指が、傷に薬を塗っていく。
思ったより優しい手つきだった。
この人は、ものを扱う手が丁寧だと思った。
封印術式を組むときも、護符を作るときも、きっとこういう手つきで。
「……痛いか」
「いいえ」
「嘘をつくな」
「……少しだけ」
ディルヴァルトが手を止めた。
「正直に言えたな」
「言えるときは言います」
「今後は最初から言え」
「……はい」
薬を塗り終えて、ディルヴァルトがリシェルを見た。
近い距離だった。
椅子に座って、向かい合っているから。
灰青の瞳が、まっすぐにリシェルを見ている。
「今夜、お前が扉の前に立たなければ、俺が間に合わなかったかもしれない」
「わたしは修復士ですから、城の術式を守るのは仕事です」
「それだけではないだろう」
「……それだけですよ」
「嘘をつくな、と言った」
リシェルは少し黙った。
「……ディルヴァルトを、守りたかったのかもしれません。あの呪具が持ち出されたら、呪いが悪化するかもしれないから」
「それも修復士としての判断か」
「……半分は」
「半分は」
「あとの半分は、よくわかりません」
ディルヴァルトが、リシェルを見続けた。
何かを考えているような、静かな目だった。
「タイスから話を聞いた」
「聞けたんですか?」
「封印の術式の中では、どんな人間でも正直になる」
「それは便利な術式ですね」
「アンセルが次の行動に移ろうとしている。時期は、式典の前後だ」
「つまり二ヶ月以内、ということですね」
「ああ。式典に俺を呼び出すのも、その一部だと思う。王都でなければできないことがある」
「王都でなければできないこと」
「王家の呪術庫だ」
リシェルは息を呑んだ。
「王家の呪術庫に、何があるんですか」
「俺の呪いの根本を断てる、唯一のものがある」
「それを、アンセルが狙っている?」
「逆だ」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「その呪術庫の中に、俺の呪いを完成させるものがある。アンセルの目的は、俺を完全に壊すことだ」
沈黙が落ちた。
完全に壊す。
「……なぜ、ディルヴァルトをそこまで」
「辺境公爵が機能しなくなれば、国防の要が崩れる。魔獣が侵入し、辺境が荒廃する。そのどさくさで、利権を得ようとしている者がいる」
「それがアンセル卿の目的」
「そうだ」
リシェルは目を閉じた。
ディルヴァルトの呪いを完成させる。
それは、この人の感情と意志をすべて奪うということだ。
強くて、不器用で、耳が赤くなって、護符を作ってくれた、この人の。
すべてを。
「させません」
リシェルは目を開けた。
「絶対に、させません」
「リシェル」
「怒ってます、今」
「わかっている」
「怒ると仕事が捗ると言いましたが、今は怒りすぎて逆に落ち着いてます」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「……俺が言えることではないかもしれないが」
「何ですか」
「今夜のことで、怖い思いをさせた」
「ディルヴァルトのせいじゃないです」
「お前を巻き込んだのは俺だ」
「巻き込まれたんじゃなくて、自分で選びました」
リシェルは真っ直ぐに男を見た。
「わたしは自分の意志でここにいます。最初からそうです」
ディルヴァルトが、しばらくリシェルを見ていた。
その目が。
また少しだけ、手前に来た気がした。
感情が。
封じ込められたはずの感情が。
「……リシェル」
「はい」
「お前に、一つ頼みたいことがある」
「何ですか?」
「式典に、一緒に来てくれ」
「それは最初から行くつもりです」
「そうじゃない」
ディルヴァルトが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「俺の、隣にいてくれ。式典の間、ずっと」
「それは、契約妻として当然では」
「契約だから、じゃない」
低い声が、夜の部屋に落ちた。
リシェルは息を忘れた。
「お前が隣にいると、俺の術式が安定する。呪いの進行が遅くなる」
「それは、施術の効果で」
「それだけじゃない」
ディルヴァルトが、リシェルを見つめた。
「お前がいると、俺は」
男が、一瞬だけ言葉を止めた。
「……落ち着く」
リシェルの心臓が、強く打った。
落ち着く。
それはリシェルも、同じだった。
ディルヴァルトの隣が、いつの間にか一番落ち着く場所になっていた。
「……わかりました」
リシェルは、なるべく普通の声で答えた。
「隣にいます。ずっと」
ディルヴァルトが頷いた。
立ち上がり、扉へ向かう。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「今夜、怪我はないですか」
「ない」
「本当に?」
「……お前が聞くな」
「聞きます」
男が、扉の前で立ち止まった。
振り返りはしなかった。
でも、肩が少しだけ揺れた気がした。
「……ない。本当に」
「わかりました。おやすみなさい」
「……ああ」
扉が閉まった。
リシェルは一人になって、ランプの光を見つめた。
胸が、ひどくうるさかった。
落ち着く、と言ってくれた。
契約だから、じゃないと言ってくれた。
(わたしも)
リシェルは膝を抱えた。
(わたしも、同じだよ)
言えなかったけれど。
言えるようになる日が来るのかどうか、まだわからないけれど。
ただ、一つだけわかった。
二ヶ月後の王都。
アンセルとの対決。
呪いの真相。
何が待っていても。
この人の隣にいたいと、思っている。
第8話 了




