第7話「俺の妻に、指一本触れるな」
朝の空気は、今日も冷たかった。
リシェルは道具袋を肩にかけながら、城の正門へ向かっていた。
今日は南側の結界補強をする予定だ。
昨日ディルヴァルトと話してから、頭の中でずっと術式の計算が回っていた。
アンセルの次の干渉が来る前に、できる限り強固にしておかなければ。
正門が見えてきたとき、カルロスが小走りで近づいてきた。
「奥様、少しよろしいでしょうか」
「どうしましたか?」
「門前に、客人が。王都から来たと名乗っているのですが……」
カルロスの顔が、珍しく困惑している。
「王都から?」
「ええ。閣下への面会を求めているのですが、閣下はまだ執務室で……」
「わかりました、わたしが先に話します」
「奥様が?」
「契約妻ですから」
◆
正門の外に出ると、一人の若い男が立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。
王都の魔術師が着る青の制服を身にまとい、背筋をぴんと伸ばしている。
整った顔に、いかにも頭が良さそうな目をしている。
だが、その目がリシェルを見た瞬間、かすかに揺れた。
「……あなたが、修復士リシェル・フォーン?」
「そうですが」
「ここにいたんですね」
男はほっとしたような、でも複雑そうな顔をした。
「わたしはグレイン。王都魔術師団の者です。ディルヴァルト公爵閣下への面会と、あなたへの伝達事項があって参りました」
「伝達事項」
「はい。……できれば閣下がいる場で話したいのですが」
「少し待ってください」
リシェルは振り返り、カルロスに目配せした。
カルロスが頷いて、城の中へ駆けていく。
グレインとリシェルは、門前で向き合ったまま待った。
リシェルはさりげなく相手を観察した。
王都の魔術師団の制服。
若い。役職はそれほど高くないだろう。
でも、しっかりした足取りと目の色から、実力はあると見える。
そして、緊張している。
(これは、言いにくいことを言いに来た顔だ)
修復士の仕事は、相手の状態を読むことでもある。
術式だけでなく、人間も。
「グレインさんは、何年目ですか」
「え? ……四年目です」
「そうですか。わたしより少し後輩ですね」
「あなたの話は、師団でも聞いたことがあります。優秀な修復士だと」
「王都では追放された修復士ですけどね」
グレインが、少し目を伏せた。
「……それについても、お話があります」
その言葉が終わらないうちに、背後から足音が響いた。
振り返ると、ディルヴァルトが正門の前に立っていた。
マントを羽織った、いつもの黒い装い。
表情は無だが、その目がグレインをまっすぐに見ている。
「ディルヴァルト公爵閣下に、お目にかかれて光栄です」
グレインが深々と頭を下げた。
「グレイン。用件を言え」
ディルヴァルトの声は、いつも以上に低かった。
「……はい」
グレインが頭を上げた。
一瞬、躊躇するような間があった。
「王都魔術師団上層部より、ディルヴァルト公爵閣下への通達です」
そして、告げた。
「修復士リシェル・フォーンを、王都に引き渡してください」
◆
静寂。
朝の風だけが、三人の間を通り過ぎた。
リシェルは、自分の中で何かが冷えていくのを感じた。
引き渡す。
まるで、物のような言い方だ。
「……理由を聞かせろ」
ディルヴァルトの声は、変わらず低かった。
「はい。リシェル・フォーン氏は、王立魔術工房の追放処分に際し、手続きに不備があったことが判明しました」
「不備だと」
「はい。本来、王都の修復士の雇用解除には、魔術師団の承認が必要です。工房が単独で追放処分を下したことは、手続き上の瑕疵にあたります。そのため、本人を一時的に王都へ戻し、改めて処遇を決定する、とのことです」
リシェルは黙って聞いた。
頭の中で、高速で考える。
手続きの不備。
改めて処遇を決定。
要するに、もう一度王都で裁定を行うということだ。
だが。
(なぜ今? なぜ突然?)
追放されて十日も経っていない。
手続きの不備を、こんなに早く指摘するのは不自然だ。
「師団がそれを知ったのは、いつだ」
ディルヴァルトが鋭く聞いた。
「……三日前に、工房から報告が上がってきたと聞いています」
「三日前」
リシェルはディルヴァルトを見た。
三日前。
ディルヴァルトが「調べたいことがある」と言ったのも、三日前だ。
偶然ではないだろう。
「グレインさん」
リシェルが口を開いた。
「はい」
「あなた個人は、今回の通達をどう思っていますか」
グレインが、一瞬目を見開いた。
「……それは」
「正直に言ってください。あなたは、言いにくいことを言いに来た顔をしていた。ということは、ご自身も納得していない部分がある」
グレインが、唇を引き結んだ。
しばらくの沈黙。
「……個人的な意見を言える立場では」
「言えない、ならそれでいいです」
リシェルは静かに答えた。
「ただ、一つ確認させてください。この通達は、命令ですか? それとも要請ですか?」
「……要請、です」
グレインが、わずかに目を伏せて答えた。
「命令ではない」
「わかりました」
リシェルはディルヴァルトを見た。
男は無言で立っていたが、リシェルと目が合った瞬間、かすかに頷いた。
その意味を、リシェルは理解した。
「では、わたしからお答えします」
リシェルはグレインに向き直った。
「要請には応じかねます。わたしは現在、ディルヴァルト公爵閣下と正式な雇用契約を結んでいます。契約中は、勝手に移動することはできません」
「ですが、手続きの問題が」
「手続きの問題があるなら、王都で解決していただければ結構です。わたしが戻る必要はありません」
グレインが困った顔をした。
「リシェル・フォーン氏……」
「それと、一つ申し上げると」
リシェルは声の温度を少しだけ下げた。
「手続きの不備を三日前に把握して、今日使いを寄越すのは、いくら何でも早すぎます。何か、別の理由があるのではないですか」
グレインの顔が、かすかに強張った。
答えなかった。
答えられなかった、のだろう。
「……わかりました」
グレインが、深く息を吸った。
「回答は、上に持ち帰ります。ただ、上層部は納得しないかもしれません。再度、通達が来る可能性があります」
「そのときはそのときで対処します」
「……」
グレインがディルヴァルトを見た。
「閣下、一つだけ、個人的にお聞きしてもよいですか」
「何だ」
「リシェル・フォーン氏は……ここで、大切にされていますか」
奇妙な質問だった。
ディルヴァルトが、グレインをまっすぐに見た。
「それを聞いてどうする」
「……いえ、ただ」
グレインが、少し表情を崩した。
「彼女のことは、師団でも知っていました。真面目で、腕が良くて、理不尽な扱いを受けてきた人だと。だから……上からの命令で来ましたが、正直、ここに来ていてよかったと思っています」
その言葉は、本音に聞こえた。
リシェルは少し驚いた。
「……グレインさん」
「すみません、余計なことを言いました」
「いいえ。ありがとうございます」
グレインが、もう一度深く頭を下げた。
「では、失礼いたします。……お気をつけて」
最後の一言が、誰に向けて言ったのかは、わからなかった。
◆
グレインが去ってから、ディルヴァルトがリシェルを見た。
「怖かったか」
「少し」
「正直だな」
「怖くないと言えば嘘です。でも」
リシェルは正門を見た。
「引き渡されるつもりもありません」
「ああ」
「わたしをあちらに戻す気は、ありますか」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「ない」
一言。
でも、その一言がこれまでで一番重かった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
「でも言わせてください」
リシェルはディルヴァルトを見上げた。
「ありがとうございます、ディルヴァルト」
男が、視線をかすかに逸らした。
「……行くぞ」
「え、どこへ?」
「朝食がまだだろう」
「あ、そうですね」
並んで城の中へ戻り始めた。
朝の光が、結界の光を照らしている。
ディルヴァルトが、ぽつりと言った。
「アンセルが動き始めた」
「あの要請も、アンセルが糸を引いていると思いますか」
「おそらく」
「王都の魔術師団とも繋がっているんですね」
「上層部に一人、アンセルと近い人間がいる。そいつを通じて、師団を動かした」
「厄介ですね」
「ああ。だが」
ディルヴァルトが前を向いたまま言った。
「お前が来てから、俺の術式は安定している。感情が戻っている部分もある」
「感情が?」
「呪いの進行が、ここ数日で緩やかになった」
リシェルは少し立ち止まりそうになって、堪えた。
「……それは、よかったです」
「お前の施術の効果だ」
「毎日続ければ、もっとよくなると思います」
「そのつもりだ」
二人は廊下を歩いた。
リシェルは、さっきのグレインの言葉を思い出していた。
『ここで、大切にされていますか』
ディルヴァルトはあの問いに、直接答えなかった。
でも。
(大切にされてる、と思う)
朝食の前に探しに来てくれる。
護符を作ってくれた。
引き渡すつもりはないと、迷わず言ってくれた。
口には出さない人だけれど。
全部、行動で示してくれている。
「……リシェル」
「はい」
「今日の結界修復、俺も行く」
「一緒に来てくれるんですか?」
「アンセルが動いているなら、一人で外に出るな」
「警護、ということですか」
「そうだ」
リシェルは少し考えてから、頷いた。
「……わかりました。でも、手伝ってもらいますよ」
「何を」
「術式の確認。二人でやれば、半分の時間で終わります」
「俺は修復士ではない」
「確認するだけでいいです。ディルヴァルトの魔力があれば、遠くまで状態を読めます」
「……使い方が雑だな」
「それくらい信頼してるってことです」
ディルヴァルトが、またかすかに口の端を動かした。
やっぱり笑いには見えないけれど、確かに笑いに近い何かだった。
「……仕方ない」
「ありがとうございます」
「礼が多い」
「ディルヴァルトが、礼を言いたくなることをするので」
男が視線を逸らした。
その耳が、また少し赤い。
リシェルは気づかないふりをして、前を向いた。
◆
昼過ぎ、南側の結界修復が終わった。
今日はディルヴァルトが隣にいたおかげで、確かに作業が早かった。
二人で術式の状態を確認し合いながら進める作業は、思ったより息が合った。
ディルヴァルトは修復の専門家ではないが、術式を読む力は本物だった。
リシェルが言う前に問題箇所を指摘することもあったし、魔力の流れを整えてくれることで、リシェルの施術が格段にスムーズになった。
「……やっぱり、二人でやると速いですね」
「俺は何もしていない」
「してます。ディルヴァルトがいるだけで、結界全体の安定度が違います。公爵家の魔力が通っているからかな」
「ディルヴァルト家の血統魔術は、封印と防衛に特化している」
「だから辺境を守ってきたんですね」
「代々そうだ」
リシェルは完成した結界の光を見た。
さっきまで揺らいでいた部分が、完全に安定している。
「綺麗だ」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「え?」
「直した後の結界が、といった意味だ」
「ああ……そうですね。壊れていたものが直ると、いつもこんな光になります。好きなんです、この瞬間が」
「なぜ修復士になったのか、少しわかった気がする」
「そうですか?」
「壊れたものが直る瞬間が、好きなのだろう」
リシェルは驚いた。
「……正解です。なんでわかったんですか」
「お前が直し終えるたびに、同じ顔をするから」
「同じ顔?」
「安心した、という顔だ」
リシェルは少し考えた。
「……そんな顔、してますか、わたし」
「している」
「恥ずかしいな」
「なぜ」
「感情が全部顔に出てるみたいで」
「それでいい」
ディルヴァルトが、まっすぐリシェルを見た。
「わかりやすいのは、いいことだ」
「ディルヴァルトみたいに、わかりにくいよりいいということですか」
「俺はわかりにくいか」
「正直、最初はわかりませんでした。でも、最近は少しわかる気がします」
「何がわかる」
「行動で示す人なんだなと」
ディルヴァルトが、リシェルを見続けた。
しばらくの沈黙。
「……覚えておけ」
「何を?」
「お前がわかりにくいと感じることがあれば、直接聞け。俺は嘘をつかない」
「知ってます」
「なぜ知っている」
「わかるから。行動を見ていれば」
ディルヴァルトが、また視線を逸らした。
草原の向こう、山脈に夕陽が沈みかけている。
橙と紫が混ざったような空が、辺境の上に広がっていた。
「帰るか」
「はい」
並んで城へ向かう。
二人の影が、夕陽に伸びていた。
リシェルはふと、今朝のグレインの最後の言葉を思い出した。
『お気をつけて』
あれは、誰に向けた言葉だったのだろう。
王都が動いている。
アンセルが動いている。
でも今この瞬間は、隣に頼もしい人がいる。
それだけで、十分だと思った。
◆
夜。
施術を終えて、リシェルが書斎を出ようとしたとき。
「リシェル」
「はい?」
「今朝のグレインについて、一つ伝えておく」
ディルヴァルトが、机の前に立ったまま言った。
「あいつは、アンセルの側の人間ではない」
「そうなんですか?」
「師団の中で、アンセルに懐疑的な一派がいる。グレインはそちら側だ。今日の来訪は、上からの命令であると同時に……こちらへの警告の意味もあったと思う」
「警告?」
「アンセルが動いていると、知らせに来た」
リシェルは今朝のグレインの顔を思い出した。
言いにくそうな顔。
でも、最後に個人的な言葉を残していった。
『彼女のことは、師団でも知っていました』
「……味方が、王都にもいるということですね」
「完全な味方とは言えないが、少なくとも敵ではない」
「それは、心強いです」
ディルヴァルトが頷いた。
「二ヶ月後の式典まで、状況はさらに動く。準備を怠るな」
「はい。ディルヴァルトも」
「俺は問題ない」
「問題ないって言う人が、一番問題あることが多いです」
「……お前は、俺に対して遠慮がないな」
「してもいいですか?」
「しなくていい」
「じゃあしません」
ディルヴァルトが、かすかに息を吐いた。
呆れているのか、それとも別の感情なのか。
「……おやすみ、リシェル」
今夜は、向こうから先に言ってくれた。
リシェルの胸が、じわりと温かくなった。
「おやすみなさい、ディルヴァルト」
扉を閉めた。
廊下に立って、少しだけ目を閉じた。
二ヶ月後、王都へ行く。
アンセルに会う。
すべての真相に、向き合う。
でも今夜は。
(ちゃんと眠れそう)
護符を手で包みながら、リシェルは自分の部屋へと歩いていった。
第7話 了




