第5話「その呪具に、触れてはならない」
城に戻ったのは、夕暮れ時だった。
東側の損耗箇所を半分ほど修復し終えて、リシェルは道具を片付けながら肩を回した。
二日続けての野外作業で、さすがに体が疲れている。
でも、疲労感より達成感のほうが大きかった。
壊れていたものが直っていく。
それだけで、十分報われる気がした。
「奥様」
城の入り口で、声をかけられた。
振り返ると、廊下の端に男の使用人が立っていた。
三十代くらい。
真面目そうな顔をしているが、今は少し青ざめていた。
「はい、なんでしょう」
「……少し、よろしいでしょうか」
◆
案内されたのは、廊下の隅にある小さな控え室だった。
男は扉を閉めてから、改めてリシェルに向き直った。
「申し遅れました。わたくしはカルロス。この城で三十年、閣下のお父上の代からお仕えしております」
「カルロスさん。わたしはリシェルです。よろしくお願いします」
「存じております」
カルロスが、深く息を吸った。
「奥様に、お伝えしなければならないことがあります」
「何ですか?」
「閣下の私室の奥に、封印された部屋があります」
リシェルは少し首を傾けた。
「封印された部屋?」
「はい。入ってはならない、と歴代の使用人すべてが言い伝えられてきた部屋です。そこに、古い呪具が保管されています」
「古い呪具」
「ディルヴァルト家に代々伝わる、禁忌の呪具です」
カルロスの顔が、より険しくなった。
「奥様は修復士でいらっしゃいます。壊れたものや呪われたものを見ると、放っておけない性質でいらっしゃるのではないかと」
「……よくわかりましたね」
「昨日今日と拝見しておれば、わかります」
カルロスが真剣な目をした。
「だからこそ申し上げます。あの部屋の呪具には、絶対に触れないでください。お願いいたします」
「……それは、なぜですか?」
カルロスが、一瞬だけ躊躇った。
「以前、触れようとした者がいました」
「誰が?」
「……前任の奥様です」
◆
沈黙が落ちた。
前任の奥様。
マーゴが言いかけて止めた言葉が、脳裏に浮かんだ。
「閣下には、以前も契約妻がいらっしゃったんですか」
「はい。四年前に、一度」
カルロスが静かに言った。
「王都の貴族の令嬢でした。閣下の呪いを治すと言って、この城にやって来られた。魔術師の家の出で、それなりの腕をお持ちだとのことでした」
「……その方が、呪具に触れた?」
「触れようとした、と言うべきでしょうか」
カルロスが目を伏せた。
「封印を解いた瞬間に、術式が暴走しました。その方は城から運び出されることになり……それ以来、閣下はあの部屋を二重に封印されました」
「その方は今、どうされているんですか」
「王都の病院に、今も」
リシェルは息を吸った。
「……それは」
「閣下はご自身を責めておられます」
カルロスが静かに続けた。
「あの方が来たのも、閣下の呪いを治したいという気持ちからでした。なのに、あのような結果になってしまった。それから閣下は、誰も城に入れようとしなかった」
「なのに、わたしを……」
「奥様が初めてです。四年ぶりに、閣下が自ら連れてこられた方は」
カルロスが、リシェルを真っ直ぐに見た。
「だからこそ、お願いいたします。あの部屋には近づかないでください。あの呪具は、生半可な修復士ではどうにもならない代物です。奥様に何かあれば……閣下がまた」
男は言葉を切った。
でもその続きは、言わなくてもわかった。
「……わかりました」
リシェルは頷いた。
「今すぐ飛び込むつもりはありません。ちゃんと状態を把握してから、慎重に対処します」
「ご理解いただけて」
「でも」
リシェルはカルロスを見た。
「放置するつもりもありません。その呪具がディルヴァルトの呪いに関係しているなら、なおさら」
カルロスが目を見開いた。
「……関係、とおっしゃいますと」
「まだ確信はありません。でも、ディルヴァルトの呪いが五年前から急に進行したんですよね? その頃に、何かありませんでしたか。あの部屋で」
カルロスが、ゆっくりと目を伏せた。
「……五年前、あの部屋の封印が一度、何者かによって破られました」
「何者かによって?」
「侵入者がいたんです。夜中に、気づいたときには封印が解かれていて。すぐに閣下が気づいて対処されましたが、呪具が少し動かされた形跡があった」
「それが、五年前」
「はい」
リシェルは黙って考えた。
五年前に封印が破られた。
その後から、ディルヴァルトの呪いが急速に進行した。
偶然とは思えない。
「教えてくれてありがとうございます、カルロスさん」
「奥様……」
「慎重にやります。心配しないでください」
カルロスが、深く頭を下げた。
「……どうか、ご無事で」
◆
夕食は城の食堂で、ディルヴァルトと二人でとった。
最初は豪華な席を用意しようとしていたらしいマーゴを、リシェルが止めた。
普通のテーブルで、普通の食事でいいと言ったら、ディルヴァルトが「それでいい」と即答した。
だから今は、長すぎる食堂テーブルの端に二人で並んで座っている。
食事をしながら、リシェルはどう切り出すか考えた。
「……何を考えている」
ディルヴァルトに先を越された。
「え? 顔に出てましたか」
「出ている」
「何か言いたそうな顔か、と聞かれたらそうです」
「言え」
相変わらず、命令口調だ。
でも不思議と嫌な感じがしないのは、そこに強制の色がないからだと気づいた。
ただ、聞きたいのだ。
「……封印された部屋について、聞いてもいいですか」
ディルヴァルトの手が止まった。
一秒の沈黙。
「カルロスに聞いたか」
「はい。怒りますか?」
「怒らない」
男がゆっくりと食器を置いた。
「知りたいことがあるなら、俺に直接聞けばよかった」
「聞けたら聞いてました。でも、ディルヴァルトが話してくれそうな感じじゃなかったので」
「俺が話さないと思ったか」
「はい」
「……なぜ」
「あの部屋のことは、隠したいことでしょう。カルロスさんの顔を見て、わかりました。閣下が……ディルヴァルトが、ずっと抱えてきたことだって」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「前任の奥様の話も、聞いたか」
「はい」
「それでも、怖くないか」
「怖いです」
リシェルは正直に答えた。
「でも、それはわたしが判断することで、ディルヴァルトが心配することじゃないと思います」
「お前が怪我をすれば、俺の責任だ」
「わたしが無謀なことをしなければ怪我しません。修復士は、安全確認が最初の仕事なので」
ディルヴァルトが、少しの間リシェルを見ていた。
「……あの呪具を、見るつもりか」
「封印の外側から確認するだけです。触りません。今すぐは」
「今すぐは、とつけた」
「正直なので」
男が、ゆっくりと息を吐いた。
「……見せる」
「え?」
「外側からの確認なら、俺が立ち会う。一人で近づくな」
リシェルは少し考えた。
「……ありがとうございます。でも、一つ確認させてください」
「何だ」
「カルロスさんから聞いた話で、一つだけ気になったことがあります」
リシェルは真っ直ぐにディルヴァルトを見た。
「五年前に、あの部屋に侵入者がいましたよね」
ディルヴァルトの目が、かすかに細くなった。
「……知っていたか」
「カルロスさんから。それで、その後からディルヴァルトの呪いの進行が速まった」
「ああ」
「それは、偶然じゃないと思います」
沈黙が落ちた。
ランプの光が、二人の間で揺れている。
「……俺も、そう思っている」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「あの侵入者が何者で、何のために封印を解いたのか。五年間、調べているが、まだわかっていない」
「調べている」
「ああ。辺境だけでなく、王都にも繋がりがある可能性がある。だから、すぐには動けない」
リシェルは頷いた。
「それが、契約結婚が必要だった理由とも関係していますか」
「一部は」
「全部は、まだ教えてもらえない?」
「……今は」
「わかりました」
リシェルは食事に戻った。
「焦りません。でも、いつか全部教えてください。修復士として、問題を全部把握しないと、ちゃんと直せないので」
ディルヴァルトが、少しの間リシェルを見ていた。
「……なぜ、そこまでする」
「仕事だからです」
「契約には、呪いの修復など含まれていない」
「でも壊れてるものを目の前にして放置するのは、わたしの性に合わないので」
リシェルは肩をすくめた。
「それに」
言ってから、少し迷った。
でも、正直に続けた。
「ディルヴァルトは、わたしが追放されたとき助けてくれました。三年間、見ていてくれた。だから……わたしも、できることはしたいんです」
ディルヴァルトが、何も言わなかった。
ただ、リシェルを見ていた。
その目が、また少しだけ近い場所に戻ってきているような気がした。
「……食事が冷める」
男が、静かに言った。
「あ、そうですね」
二人で食事を再開した。
窓の外で、辺境の夜風が鳴っていた。
◆
食後。
「行くか」
ディルヴァルトが立ち上がった。
「今からですか?」
「お前が気になるなら、早いほうがいいだろう」
リシェルは慌てて道具袋を持った。
城の廊下を、ディルヴァルトの後ろについて歩く。
奥へ、奥へ。
使用人がいない区画に入ると、空気が変わった。
冷たい。
魔術的な、独特の冷たさがある。
そして廊下の突き当たりに、黒い扉があった。
普通の扉とは違う。
扉そのものに、幾重もの術式が刻まれている。
触れるだけで危険なほどの、強固な封印だ。
「ここだ」
ディルヴァルトが扉の前に立った。
リシェルは扉から一歩引いた位置に立ち、鞄から水晶片を取り出した。
封印に翳す。
「……」
すぐに、異常がわかった。
水晶が、ざわりと反応した。
(これは)
封印の術式が、歪んでいる。
外側からこれだけわかるということは、内側は相当な状態だ。
でもそれより。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「この封印、外から誰かが干渉しようとした痕があります」
「……何?」
ディルヴァルトの声が、低くなった。
「最近ですか?」
「新しい痕ではない。でも古くもない。……一年以内、という感じです」
「一年以内に、誰かがこの封印に触れたと」
「触れた、というより……解こうとした感じです。でも途中で止まっている」
リシェルは水晶片を翳したまま、丁寧に痕跡を読んだ。
「上手くいかなかったのか、それとも邪魔が入ったのか。どちらかはわかりませんが」
ディルヴァルトが、扉を見た。
その目が、静かに、でも確かに険しくなっていた。
「一年前に城を訪れた者が、何人かいる」
「心当たりがあるんですか?」
「ある」
低く、短い答えだった。
「……ディルヴァルト」
「何だ」
「これ、単純な話じゃないですよね」
「ああ」
「五年前の侵入者と、一年前のこの干渉と、ディルヴァルトの呪いの進行と。全部、繋がってる」
男が静かに頷いた。
「お前には、そのうち全部話す」
「そのうち、じゃなくて早めにお願いできますか」
「なぜ」
「修復士は、問題の全体像を把握しないと対処できません。それに」
リシェルは扉を見た。
「これを誰かが狙っているなら、早く動かないと次の干渉が来るかもしれない」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「……三日待て」
「三日?」
「確認したいことがある。三日後に、全部話す」
リシェルは頷いた。
「わかりました。三日待ちます」
「その間、この部屋には近づくな」
「はい。近づきません」
「約束するか」
「約束します」
ディルヴァルトが、リシェルを見続けた。
「……信じる」
「信じてくれるんですか」
「お前は嘘をつかない」
「そう見えますか」
「見える」
リシェルは少し笑った。
「嘘をつくのが下手なんです。顔に出るって言われます」
「知っている」
「知ってるんですか」
「毎日見ていれば、わかる」
毎日。
まだ三日しか経っていないのに。
リシェルは小さく笑いながら、廊下を戻り始めた。
◆
夜遅く、部屋に戻ってランプをつけたとき。
扉がノックされた。
「はい?」
「俺だ」
ディルヴァルトの声だった。
リシェルは扉を開けた。
男が廊下に立っている。
片手に、小さな木箱を持っていた。
「これを渡しておく」
「何ですか?」
「魔力感知の護符だ。この城で、何か異常な魔術的変化があれば反応する」
リシェルは木箱を受け取った。
中に、金属製の細い護符が入っていた。
精巧な細工で、術式が刻まれている。
「……これ、かなり高価じゃないですか」
「俺が作った」
「え?」
「封印が専門だ。護符も作れる」
リシェルは護符を見た。
それからディルヴァルトを見た。
「これを、わたしのために?」
「何かあったとき、俺がすぐ来られるようにするためだ」
「それは……」
リシェルは護符を手に取った。
冷たい金属が、指に馴染む。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「いります。だってこれ、ディルヴァルトが作ったんでしょう。時間がかかったはずだ」
「……さほどでもない」
「嘘つかないでください。こんな細かい術式、時間がかかるのは修復士でもわかります」
ディルヴァルトが、視線を逸らした。
その顔が、かすかに。
ほんのかすかに、耳まで。
(また、赤い)
リシェルはそれを見て、なんとも言えない気持ちになった。
「大切にします」
「……ああ」
「おやすみなさい、ディルヴァルト」
「……ああ」
男は踵を返した。
廊下を歩いていく背中を見ながら、リシェルは扉を閉めた。
護符を、胸の前で握りしめた。
温かくなっていた。
さっきまでディルヴァルトが持っていたから、きっと。
それだけのことなのに。
(なんで、こんなに胸が騒ぐんだろう)
リシェルはランプの光を見た。
三日後に、全部話してくれると言った。
この呪いの真相。
五年前の侵入者。
一年前の封印への干渉。
それらが全部繋がったとき、何が見えるのか。
そしてその先に、どんな陰謀が潜んでいるのか。
護符を首にかけながら、リシェルはランプを吹き消した。
第5話 了




