第4話「修復士の朝は、夜明け前から始まる」
目が覚めたのは、夜明け前だった。
見慣れない天井。
見慣れない部屋の匂い。
一瞬、ここがどこかわからなくて、それからすぐに思い出した。
辺境公爵領。
ディルヴァルトの城。
わたしの、新しい居場所。
「……よし」
リシェルは布団を跳ね除けて起き上がった。
感傷に浸っている時間はない。
昨日、結界の地図と台帳を確認した。
損耗箇所が想像以上に多い。
早く動かなければ。
◆
薄暗い廊下を歩いていると、台所の方から光が漏れていた。
顔を出すと、マーゴが竈の前でぎょっとした顔をした。
「リシェル様! こんな時間に何を」
「仕事に行こうと思って。朝食はいりません」
「いりませんって、まだ夜明け前ですよ!?」
「結界の一番弱っている箇所、朝一番で確認したいんです。日中より早朝のほうが魔力の流れが読みやすくて」
マーゴが呆然とした顔をした。
「……少し待ってください」
五分後、リシェルは温かいパンとスープを持たされていた。
「食べながら行ってください。転んでも知りませんよ」
「ありがとうございます、マーゴさん」
「まったく。閣下も無茶をされるけど、奥様まで」
マーゴの呟きを背中で聞きながら、リシェルは城の外へ出た。
◆
早朝の辺境は、静かだった。
冷たい空気が肌を刺す。
草原の向こうに、まだ薄暗い山脈が連なっている。
でも空の端が、少しずつ白み始めていた。
(綺麗だな)
リシェルはパンを齧りながら、結界の光を目で追った。
昨日遠くから見たより、近くで見るとよくわかる。
光の揺らぎが、いくつかの箇所で顕著だ。
一番弱っているのは、北東の端。
そこに向かって歩き始めた。
草を踏む音だけが響く。
リシェルは歩きながら、修復士としての感覚を研ぎ澄ませた。
この感覚が好きだ。
現場に立って、問題を探して、解決の糸口を見つける瞬間が。
工房でデスクに縛られていた六年間より、こっちのほうが断然いい。
北東の端に着いたとき、リシェルは立ち止まった。
「……ああ、これは」
結界の光が、はっきりと欠けていた。
まるでガラスにヒビが入ったような状態。
外側からの圧力で、術式の一部が剥離しかけている。
リシェルは鞄から道具を取り出した。
修復士の必需品。
魔力を通す特殊な針と糸、術式を書き込む羊皮紙、感知用の水晶片。
まず状態を確認する。
水晶片を結界の光に翳すと、歪みのパターンが浮かび上がった。
「……なるほど。二週間前の魔獣の衝撃で、基底術式の第三層と第五層の間がずれてる。単純な補修じゃ追いつかない。根本から組み直したほうが早いかも」
独り言を言いながら、リシェルは計算を始めた。
必要な魔力量、修復にかかる時間、優先順位。
頭の中で式が組み上がっていく。
この作業が、何より好きだ。
パズルを解くような快感がある。
「何をしている」
背後から声がして、リシェルは飛び上がった。
「っ!! び、驚かせないでください!」
振り返ると、ディルヴァルトが立っていた。
こんな早朝に、どうしてここにいるのか。
しかも普段より少しだけ、装いが簡素だ。
マントを羽織っていない。
シャツの首元が開いていて、黒い痣がより見えやすい。
「お前こそ、こんな時間に何をしている」
「仕事です」
「夜明け前から?」
「早朝のほうが魔力の状態が読みやすいので」
ディルヴァルトが、リシェルの手元を見た。
水晶片と羊皮紙と計算式。
「……もう作業に入っているのか」
「まだ確認段階です。でも、ここが一番損耗が激しいですね」
リシェルは結界の欠けた箇所を指した。
「第三層と第五層の間がずれています。二週間前の衝撃が原因だと思います。補修で誤魔化すより、この区間だけ術式を組み直したほうが長持ちします。一日あれば終わります」
「一日で?」
「単純な構造じゃないですか、ここ。複雑ではあるけど、規則性がある。読みやすい部類です」
ディルヴァルトが、静かにリシェルを見た。
「……以前の修復士は、ここを直すのに四日かかると言っていた」
「修復の手順によりますね。わたしは独自の組み方をしているので、早いです」
「独自の組み方」
「工房のやり方とは少し違うんです。上司に何度も直すように言われたんですが……まあ、今は関係ない話ですね」
リシェルは羊皮紙に計算式を書き込みながら答えた。
ディルヴァルトが、しばらくその手元を見ていた。
「……今日一日で終わると言ったな」
「はい」
「無理はするな」
「しません。困ったらちゃんと言います」
男はそれ以上何も言わなかった。
でも、立ち去らなかった。
リシェルが作業しているそばに、黙って立っている。
「……閣下も早起きなんですか?」
「閣下ではない」
「あ。……ディルヴァルト様も、早起きなんですか?」
「様もつけるな」
「……それは本当に慣れないんですが」
「慣れろ」
また有無を言わせない口調だった。
リシェルはため息をついた。
「……ディルヴァルト、も、こんな時間に何をしていたんですか」
「お前を探していた」
さらりと言われて、リシェルはペンを止めた。
「……え?」
「朝になったら部屋がもぬけの殻だったと、マーゴから報告があった」
「マーゴさんから? あのひと、もう起きてたんですか」
「この城で一番早起きだ。何十年もそうだ」
「……それで、閣下が、じゃなくてディルヴァルトが、わたしを探しに?」
「ああ」
当然のように言う。
リシェルはなんと返せばいいかわからなくて、結界の光に視線を戻した。
(探してくれた、のか)
たったそれだけのことなのに、なぜか胸の奥が温かくなった。
昨日の今日だ。
まだ本当の意味での縁もほとんどない。
契約を結んだばかりの、あくまでも雇用関係だ。
それでも、いなくなったら探してくれる人がいる。
(工房では、いなくても誰も気にしなかったのに)
そんなことを思ったら、急に目の奥が熱くなってきて、リシェルは慌てて計算式に集中した。
「リシェル」
「……はい」
「朝食は?」
「マーゴさんにパンをもらいました」
「それだけか」
「十分です」
「足りない」
「足りてます」
「修復士の作業は魔力を消費する。食事は重要だ」
リシェルはちらりとディルヴァルトを見た。
真顔だった。
心配しているのか、ただ事実を言っているのか、顔だけではわからない。
でもたぶん、どちらでもある気がした。
「……ありがとうございます。昼はちゃんと食べます」
「俺も昼はここに来る」
「え? こんな辺鄙な場所に?」
「何か問題か」
「問題は……ないですが」
リシェルはまた計算式に戻った。
ディルヴァルトは結局、しばらくそこに立っていた。
何をするでもなく、ただリシェルの近くに。
不思議と、その存在が邪魔ではなかった。
むしろ。
(なんか、落ち着く)
自分でも意外な気持ちだった。
◆
午前中いっぱいかけて、リシェルは損耗箇所の全体像を把握した。
昼になると、約束通りディルヴァルトが現れた。
マーゴが用意したらしい弁当箱を二つ持って。
「ちゃんと昼食だ」
「……本当に来た」
「来ると言った」
草の上に並んで座って、食事をとった。
辺境の風が、草原を揺らしていく。
不思議な光景だとリシェルは思った。
追放されて三日、縁もゆかりもない土地の草っ原で、呪われた公爵と弁当を食べている。
「どうした」
「いえ、人生って面白いなと思って」
「面白い?」
「三日前、自分がここにいるなんて想像もしてなかったので」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「後悔しているか」
「してません。むしろ」
リシェルは弁当を見つめた。
「ここのほうが、好きかもしれません。王都より」
「理由は」
「空が広い。仕事が山ほどある。それと」
言いかけて、止まった。
「それと?」
「……なんでもないです」
ディルヴァルトが少し間を置いてから、視線を前に戻した。
「言え」
「えっ」
「言いかけたことを引っ込めるな。気になる」
リシェルは少し迷ってから、正直に言った。
「……王都は、いつも誰かに見られてる気がして、落ち着かなかったんです。工房でも、上手くやらなきゃとか、気に入られなきゃとか、ずっと考えてて。でもここは、そういうの関係ない気がして」
「俺がいるが」
「ディルヴァルトは、わたしに変に取り繕えとか言わないので」
男は答えなかった。
しばらく風の音だけが続いた。
「……そうか」
低い声が、ぽつりと落ちた。
「俺もそう思う」
「え?」
「王都は、疲れる。ここのほうがいい」
リシェルはその横顔を見た。
ディルヴァルトが、まっすぐ前を向いたまま言う。
「お前が来る前は、城に戻っても息が詰まるだけだった」
さらりと言われた言葉が、じわりと沁みた。
(この人も、ずっとひとりだったんだ)
強くて、恐れられて、誰も近づかなくて。
広い城の中に、一人でいた。
「……これからは、少し違うといいですね」
リシェルは前を向いたまま、そっと言った。
「わたし、ここにいますから」
ディルヴァルトが、ゆっくりとリシェルを見た。
その目が、昨日書斎で見た色をしていた。
感情が遠い場所から、少しだけ手前に戻ってきたような。
「……ああ」
短い返事だった。
でもそれだけで十分だった。
◆
午後から、本格的な修復作業に入った。
リシェルは結界の欠損部に手を当て、魔力を流し込んだ。
術式を読む。
歪みを確認する。
一層ずつ、丁寧に修復していく。
これが修復士の仕事だ。
派手さはない。
魔獣を倒すわけでも、強力な魔術を放つわけでもない。
ただ、壊れたものを直す。
それだけ。
でも、直ったとき。
「……よし」
数時間後、リシェルが手を離すと、結界の光が均一に戻った。
欠損していた部分が、完全に塞がっている。
光の揺らぎがなくなった。
どこからか見ていたらしいディルヴァルトが、近づいてきた。
「……終わったか」
「はい。この区間は完了です」
「強度は」
「修復前より上です。術式の組み直し方を少し変えたので、次に同じ規模の衝撃が来ても、前回より持ちこたえられると思います」
ディルヴァルトが結界の光を見た。
しばらく無言で見ていた。
「……見事だな」
「ありがとうございます」
「褒めている」
「わかってます」
リシェルは少し笑った。
ディルヴァルトが、かすかに眉を動かした。
「笑うな」
「なぜですか」
「変な気分になる」
「変な気分?」
男が視線を逸らした。
リシェルにはその意味がよくわからなかったが、なんとなく追及しないほうがいい気がした。
空を見上げると、夕暮れが近づいていた。
橙色に染まる辺境の空は、王都では見たことのない色をしていた。
「明日は東側の損耗箇所に取り掛かります」
「一人でできるか」
「できます。でも……ディルヴァルト」
「何だ」
「よかったら、また昼だけでも来てください」
言ってから、少し後悔した。
これは仕事の話ではない。
ただ、来てほしいと思っただけの話だ。
おかしなことを言ったかと思いながら横を見ると。
ディルヴァルトが、まっすぐ前を向いたまま。
その耳が、かすかに赤かった。
「……ああ」
短く答えた。
「来る」
◆
夜、部屋に戻って、リシェルはランプの前でノートを開いた。
今日の記録。
『北東区間の修復完了。予定通り一日で終了。ディルヴァルトの呪いについては、引き続き調査が必要。ただし、接触時に暴走が起きないことは確認済み。このまま定期的に術式を整えることで、進行を遅らせられる可能性が高い』
ペンを止めた。
それから、もう一行書いた。
『昼食、一緒に食べた。草原で弁当。なぜか、とても居心地がよかった』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
これは仕事の記録だ。
こんなことを書いてどうする。
でも消さなかった。
ページをめくって、ぼんやりと今日を思い返す。
(耳が赤かったな)
あの瞬間を、また思い出した。
感情がないと噂される公爵の耳が。
夕暮れの光の中で、少し赤くなっていた。
(そんなところも、あるんだ)
呪われた辺境公爵が。
耳を赤くする。
リシェルはランプの光を見つめた。
なんだか、不思議な気持ちになった。
◆
翌朝、またリシェルが夜明け前に起きると。
城の入り口に、ディルヴァルトが立っていた。
今日は自分で弁当箱を二つ持っていた。
「……早いですね」
「お前が先に出るから」
「昨日も探すのが大変でしたか?」
「今日は場所を聞いておいた」
リシェルはそれを聞いて、つい笑ってしまった。
「なぜ笑う」
「なんでもないです。行きましょう」
並んで歩き出した。
早朝の冷たい空気の中、二人分の足音が草を踏む。
ディルヴァルトが、ふと口を開いた。
「昨日、城の者たちが言っていた」
「何を?」
「結界が直ったと。北東の光が綺麗になったと」
「気づいてくれましたか」
「城から見える。ずっと欠けていた光が、昨日の夕方から戻っていた」
ディルヴァルトが、前を向いたまま続けた。
「使用人の一人が、今朝俺に言った。三年ぶりに、結界の光が完全に見えた、と」
リシェルは足を止めた。
「三年ぶり」
「ああ」
「……三年間、ずっとあの状態だったんですか」
「直せる者がいなかった」
三年間。
誰も来なくて、誰も直せなくて。
城の人たちは毎日、欠けた光を見ながら暮らしていたのだ。
「……もっと早く来ればよかったです」
「それはお前のせいではない」
「でも」
「リシェル」
ディルヴァルトが立ち止まって、リシェルを見た。
朝の薄い光の中、その灰青の瞳が真っ直ぐこちらを向いている。
「お前は来た。それで十分だ」
短い言葉だった。
でも、その重さが。
じわじわと、胸の奥に落ちていった。
「……はい」
リシェルは一度だけ、目を瞬いた。
「行きましょう。今日も仕事があるので」
「ああ」
また並んで歩き出した。
朝の空が、少しずつ白んでいく。
結界の光が、昨日直した区間だけ、はっきりと輝いていた。
第4話 了




