第2話「呪われた公爵と、二人だけの馬車」
旅立ちの朝は、雨だった。
王都の石畳が濡れて光り、馬蹄の音が雨音に混じる。
リシェルは宿の前で、黒塗りの大きな馬車を見上げた。
紋章が刻まれている。
盾と剣を組み合わせた、ディルヴァルト公爵家の紋章だ。
昨日まで、こんな馬車に乗ることになるとは思っていなかった。
昨日まで、工房の寮で寝ていたのに。
「乗れ」
馬車の扉の前に、ディルヴァルトが立っていた。
昨日と同じ漆黒のマント。
雨に濡れているのに、まるで気にしていない様子だ。
供の者が数人いるが、誰も口を開かない。
この主人に合わせているのか、全員が無言で静止している。
「……おはようございます、閣下」
「ああ」
返事が短い。
でも昨日から短いので、これが普通なのだろうとリシェルは判断した。
トランクを従者に預け、馬車に乗り込む。
内装は、驚くほど質素だった。
高級な馬車のはずなのに、余計な装飾が何一つない。
座席は上質な革張りだが、調度品と呼べるものはほとんどなかった。
そしてディルヴァルトが、リシェルの対面に座った。
二人きりの空間。
馬車が動き出す。
しばらく、沈黙が続いた。
◆
リシェルはひそかに観察した。
窓の外を見ているディルヴァルトの横顔。
整いすぎた輪郭。
長い睫毛。
引き結ばれた唇。
近くで見ると、余計に現実感がない。
こんな人間が存在するのかと思う。
彫刻が呼吸しているみたいだ。
(でも怖い、という感じはしない)
不思議と思った。
呪われた公爵と聞けば、もっと禍々しい雰囲気を想像していた。
でも実際は、ただ――遠い。
感情がそこにあるのに、手が届かない場所に封じられているような。
「見ているぞ」
低い声が降ってきた。
「っ……す、すみません」
リシェルは慌てて視線を窓に逃がした。
顔が熱い。
こんなにじろじろ見ていたのに気づかれていたとは。
「……失礼いたしました。ついつい」
「構わない」
ディルヴァルトは窓の外に目を戻した。
短い沈黙。
「何を見ていた」
「え?」
「俺の顔を、何を確認したくて見ていた」
問いが真っ直ぐすぎて、却って答えにくい。
「……その、呪いの話を聞いていたので。どういう状態なのか気になって」
「呪いの痕を探していたか」
「正直に言うと、はい」
リシェルは覚悟を決めて答えた。
嘘をつくのは苦手だし、この人に通用するとも思えない。
「……修復士として、状態を把握しておきたかったんです。もしお手伝いできることがあれば」
ディルヴァルトがリシェルを見た。
真正面からの視線。
この人の目が正面から合うと、なんとなく胸の奥が締まる感覚がある。
「呪いは修復できないぞ」
「一般的な修復士には無理です。でも、呪いと魔術構造は根本的には同じ原理なので、完全な修復ではなくとも進行を遅らせることは……」
言いかけて、止まった。
ディルヴァルトの表情が、ほんのかすかに変わっていた。
驚き? それとも別の何か?
「……余計なことを言いました。仕事の話は、着いてからにしましょう」
「待て」
馬車の中に声が響いた。
ディルヴァルトが前のめりになった。
といっても、ほんの数センチの話だ。
でも、その数センチが、なぜかひどく近く感じた。
「続けろ」
「……え?」
「進行を遅らせると言ったな。根拠はあるか」
低い声が真剣だった。
リシェルは少し考えてから、頷いた。
「あります。修復士の技術は、魔術構造の歪みを読んで整えることです。呪いというのは、本質的に魔術構造を歪め続ける術式です。だから、呪いそのものは切れなくても、構造の歪みを定期的に整えることで……進行スピードを落とせる可能性がある」
「可能性、か」
「試したことがないので断言できません。でも、理論上は。それに」
リシェルは続けた。
「閣下の呪いは、普通の呪いとは少し違うと聞いています。感情を蝕む類の術式なら、精神系の魔術構造に作用しているはずで。わたしが得意としているのは、そういう繊細な構造の修復なんです」
言ってから、また余計なことを言ったかと思った。
でも、ディルヴァルトは黙ってリシェルを見ていた。
何かを考えているような、静かな目だった。
「……お前が、修復士として優秀だという話は聞いた」
「工房の失敗の噂のほうが広まっていると思いますが」
「俺が聞いたのは別の筋だ」
リシェルは首を傾けた。
「別の筋、といいますと?」
「追放が決まる前から、お前の名前は知っていた」
◆
馬車が石畳の継ぎ目を越えて、かすかに揺れた。
リシェルの心臓も、それと一緒に揺れた気がした。
「前から、わたしの名前を?」
「三年前、辺境に近い領地で大規模な結界崩壊があった」
ディルヴァルトが静かに言う。
「あのとき、応援で派遣された修復士チームの中に、一人だけ突出した成果を出した者がいた。最も複雑な崩壊点を、たった一日で修復した」
「……それは」
「お前だ」
リシェルは息を吸った。
三年前。
確かにあった。
辺境の大規模任務。
あのとき、リシェルは先輩たちが匙を投げた崩壊点を一人で担当させられた。
嫌がらせだと思っていた。
実際、失敗しろと思っていた人間も工房にいたはずだ。
それでも、やり遂げた。
徹夜で計算して、術式を組み直して。
朝日が昇るころ、結界が復元したとき、一人で泣いた。
「……覚えていてくださったんですか」
「ずっと動向を見ていた。ああいう修復ができる者は、滅多にいない」
淡々とした口調。
褒めている感じはないが、ディルヴァルトが嘘をつくタイプには見えない。
「だから、追放の話が流れてきたとき」
男は視線を窓の外に戻した。
「好機だと思った」
リシェルは少しだけ沈黙した。
「……つまり閣下は、わたしが追放されるのを待っていたんですか」
「正確には、お前が工房を出るタイミングを待っていた。追放でなくとも、引き抜くつもりだった」
「……それは」
「不快か?」
リシェルは少し考えた。
不快かどうか。
「……いいえ」
正直に答えた。
「むしろ、救われました。昨日あの場所に閣下がいなければ、わたしは今頃どうしていたかわからない。だから、待っていてくれたなら……ありがとうございます」
ディルヴァルトが、ゆっくりとリシェルを見た。
「礼を言われると思わなかった」
「なぜですか」
「利用したも同然だ」
「お互い様ですよ」
リシェルは肩をすくめた。
「わたしも閣下を利用して、修復の仕事に就くわけですから。契約ですから、お互いが得をすればそれでいいんです」
ディルヴァルトは答えなかった。
でも、今度の沈黙は少し違う気がした。
拒絶じゃなくて、何かを考えている沈黙。
馬車はいつの間にか王都の城壁を越え、広い街道へ出ていた。
雨はまだ続いていたが、少しだけ明るさが増していた。
◆
昼過ぎ、馬車が宿場町で休憩のために止まった。
従者が食事を手配している間、リシェルは馬車の外に出て、伸びをした。
長時間の馬車は、思ったより体に響く。
「痛いか」
背後から声がして、振り返るとディルヴァルトが立っていた。
「少し腰が、という程度です。大丈夫です」
「辺境までは三日かかる」
「……三日」
「途中の宿は手配済みだ。無理をする必要はない」
さらりとした言葉だった。
気遣いを気遣いと思っていないような、自然な口調。
なのに、どうしてだろう。
(あれ。なんか、優しい)
昨日会ったときから、冷たい人という印象があった。
無口で、感情がなくて、怖い公爵。
でも実際は、ちゃんと人の状態を見ているし、さりげなく配慮している。
「閣下は、ずっとこんな感じなんですか」
「こんな感じ、とは」
「無口で、でも気を遣ってくれる感じ」
ディルヴァルトが眉をかすかに動かした。
「俺が気を遣っているように見えるか」
「はい」
「……そうは言われたことがない」
「そうですか?」
「冷たい、怖い、近づくなと言われる」
あまりにも淡々とした言い方に、リシェルは少し笑いそうになった。
「……それは、閣下が表情に出さないからじゃないですか。行動は全然そうじゃないと思いますが」
「お前は変なことを言う」
「よく言われます」
ディルヴァルトが、リシェルをしばらく見ていた。
その目がまた、あの真剣な色をしている。
「……飯を食え」
それだけ言って、先に歩いていってしまった。
リシェルは苦笑してから、その背中を追った。
◆
夜、宿の一室でリシェルはランプの明かりの下、小さなノートを広げた。
修復士の習慣で、仕事上の記録を必ずつける。
今日の記録。
『ディルヴァルト公爵。呪い有り。感情系の術式か。進行を遅らせる可能性を相談したところ、興味を示した。本人はそれを期待していない様子だが、少なくとも話を聞く意思はある』
ペンを走らせながら、今日の会話を思い返した。
三年前から、わたしの動向を見ていた。
その言葉が、じわじわと温かい何かをリシェルの胸の中に広げていた。
誰かがちゃんと見ていてくれていた、という事実が。
工房でどれだけ透明人間扱いされても、誰かは見ていてくれていた。
(それが、よりにもよってこんな人だとは)
呪われた、辺境の、感情の薄い公爵。
でも。
リシェルはペンを止めた。
馬車の中で、ディルヴァルトが少しだけ前のめりになった瞬間を思い出した。
「続けろ」
あの声の色が、頭から離れない。
感情がないとは、思えなかった。
ちゃんとそこにあって、ただ、出し方がわからなくなっているだけのような。
それが呪いのせいなのか、それとも元からなのか。
(修復士として、気になる)
そう自分に言い聞かせた。
ただの職業的な興味だ、と。
ランプの炎が、ゆらりと揺れた。
◆
翌朝、馬車が出発する前。
リシェルが荷物を積み込んでいると、ディルヴァルトが隣に立った。
「昨夜、眠れたか」
「はい。よく眠れました、ありがとうございます」
「そうか」
短い沈黙。
「……お前は、本当に辺境でいいのか」
何かを確かめるような、静かな問いだった。
「はい」
「後悔するかもしれないぞ。辺境は王都とはまるで違う。魔獣も出る。呪具の損耗も激しい。修復士として、楽な仕事ではない」
「それは承知しています」
「怖くないのか」
「怖いです」
リシェルは正直に答えた。
「でも、修復の仕事ができる場所があるなら、それでいい。わたしは……壊れたものを直したいんです。それだけは、誰にも取れない」
ディルヴァルトは答えなかった。
ただ、リシェルを見ていた。
その灰青の瞳が、朝の光を受けてかすかに揺れる。
「……わかった」
それだけ言って、男は馬車に乗り込んでいった。
リシェルも続いて乗り込む。
馬車が動き出した瞬間。
「リシェル」
名前を呼ばれた。
昨日まで「お前」だったのに、今日は名前だった。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥がじくりとした。
「……はい」
「辺境に着いたら、一つだけ話がある」
ディルヴァルトは窓の外を見たまま言った。
「契約結婚の前に、お前が知っておかなければならないことだ」
その声の色が、少しだけ暗かった。
「……それは、どんな話ですか」
「俺の呪いについてだ」
男が、ゆっくりとリシェルを見た。
「そして、なぜ俺がお前を必要としているか、本当の理由について」
第2話 了




