第1話「追放の朝、運命は最悪の形で動き出した」
その日、わたしの世界は終わった。
いや――正確には、終わらされた。
◆
「リシェル・フォーン。本日付で、お前を王立魔術工房より追放処分とする」
工房長のギルフォードが、分厚い眼鏡の奥から冷たい目を向けてきた。
広い会議室。
長テーブルの向こうに並ぶのは、工房幹部たちの顔、顔、顔。
誰も、わたしの目を見ようとしなかった。
「……理由を、聞かせていただけますか」
喉が渇く。
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
「理由だと?」
ギルフォードが鼻で笑った。
「アンセル卿の依頼品を破損させたこと。これは明白な事実だ」
「破損させていません」
即座に返した。
「わたしは確かに修復作業を行いました。でも、納品前の検品で異常はなかった。問題が起きたのはアンセル卿の屋敷へ持ち込まれてから数日後で――」
「言い訳はよい」
隣の副工房長、ヴェルナーが冷ややかに遮った。
「アンセル卿は激怒されている。損害賠償の要求も来ている。お前のせいで工房の信頼が失墜した」
「ヴェルナー副工房長」
リシェルは静かに、しかし真っ直ぐに顔を上げた。
「あの呪具は、元々欠陥品でした。修復前に既に内部構造に亀裂が入っていた。わたしは記録にも残しています。事前に『完全修復は困難である』と報告書に書いた」
「その報告書は、内部書類として処理した」
「……処理、とは?」
「提出されなかった、ということだ」
ヴェルナーの視線が、す、と逸れた。
その一瞬で、すべてがわかった。
――報告書は、握り潰されていたのだ。
「つまり、わたしは最初から」
「追放は決定事項だ。今日中に工房の寮を出ろ。これ以上の審議には応じない」
ギルフォードが書類をテーブルに叩きつけた。
反論の余地など、最初からなかった。
そういう会議だったのだ。
◆
春の風が、冷たかった。
王都アルトリスの大通りを、リシェルはトランクを引きずりながら歩いていた。
六年間。
この街で働いた、六年間。
魔術修復士の資格を取ったのは十七歳のとき。
誰もが「修復士なんて地味な仕事」と言った。
魔力量で優劣が決まるこの世界で、「修復」という技術職を選んだ同期はほとんどいなかった。
それでもリシェルは続けた。
壊れたものが直るのが、好きだったから。
役に立てることが、嬉しかったから。
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
馬鹿みたい。
六年間、真面目に働いて、休日も惜しんで技術を磨いて。
結果がこれだ。
濡れ衣を着せられて、一日で追放。
工房のみんなは、誰も庇ってくれなかった。
あれだけ一緒に仕事をした同僚たちが、誰一人、声を上げなかった。
(わかってた、けど)
わかっていた。
ずっと前から、薄々感じていた。
わたしの修復精度が上がるたびに、空気が変わっていくのを。
先輩たちの目が、少しずつ冷たくなっていくのを。
でも、仕事さえ誠実にやっていれば大丈夫だと思っていた。
技術は裏切らないと、信じていた。
(甘かった)
トランクのキャスターが石畳に引っかかり、がたん、と躓いた。
リシェルはその場にしゃがみ込んだ。
泣かない、と思っていた。
泣いたって何も変わらないし、誰も助けてくれない。
でも。
「……っ」
目の奥が、じんわりと熱くなった。
行くところがない。
お金はある。しばらく宿に泊まれるくらいは。
でも、王都で追放された修復士を雇う工房なんてない。
ギルフォードたちが、すでに業界中に話を回しているはずだ。
地方に戻るか?
でも故郷には、帰れない事情がある。
じゃあ、どこへ。
「……泣くな」
頭上から、低い声が降ってきた。
リシェルは弾かれたように顔を上げた。
◆
男が立っていた。
見上げるほどの長身。
漆黒のマントが、春風に揺れている。
銀糸が縫い込まれた高級な仕立てのそれは、どう見ても貴族のものだ。
顔は、フードの影に半分隠れていたが。
それでも見えた。
鋭利に整った輪郭。
氷を溶かして固めたような、灰青の瞳。
見たことのない顔だった。
でも、見た瞬間に息が止まった。
美しいという言葉が、こんなに陳腐に感じたことはない。
「……泣いていません」
リシェルは即座に立ち上がり、袖で目元を押さえた。
男は答えなかった。
ただ、無言でリシェルを見ていた。
その視線が、まるでリシェルの内側を全部覗いているみたいで、居心地が悪い。
「……何か御用でしょうか」
「お前は修復士か」
問いが突然すぎて、一瞬思考が止まった。
「……元修復士です。今日付で」
「追放されたか」
断定だった。
問いですらなかった。
「……なぜ、そう思うのですか」
「あの工房から追放された修復士が今日出るという噂は、もう広まっている」
リシェルは絶句した。
なんということだろう。
追放が決まった今日の朝に、すでに噂が流れている。
どれだけ徹底した嫌がらせだ。
「……ご存知なら、話しかけるまでもないでしょう」
踵を返そうとした。
「雇う」
男の声が、リシェルの背中に刺さった。
「……何ですって?」
「お前を雇う」
振り返ると、男はまだ同じ場所に立っていた。
フードが少し動き、灰青の瞳がまっすぐにこちらを向く。
「俺の修復士として」
リシェルは男の顔を、まじまじと見た。
貴族、だろう。
どう見ても上位貴族の雰囲気がある。
でも、こんな大通りに供もつけず一人でいるのは不自然だ。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ディルヴァルト」
短い答え。
でも、その名前だけで、リシェルの全身から血の気が引いた。
「……ディルヴァルト、公爵閣下?」
「そうだ」
ディルヴァルト辺境公爵。
知らない者はいない。
いや、知っているからこそ、誰もが近づかない名前だ。
辺境を守る最強の魔術師一族の当主。
国防の要を担う、王国随一の実力者。
そして――
(呪われた公爵)
数年前から、ある呪いに侵されているという噂があった。
その呪いは感情を蝕み、彼を少しずつ別の何かへと変えていく、と。
だから周囲から恐れられている。
だから誰も辺境へ行きたがらない。
「わたしを、雇いたいとおっしゃるのですか」
「ああ」
「修復士として?」
「それだけではない」
男が、一歩近づいてきた。
リシェルは本能的に後ずさりしそうになって、踏みとどまった。
「俺の妻として契約しろ」
◆
沈黙。
大通りに馬車の通り過ぎる音だけが響いた。
「……妻」
リシェルの声が、裏返りそうになった。
「契約上の話だ」
ディルヴァルトは淡々と続ける。
「辺境には政争が来る。俺に妻がいれば、王都からの干渉を一部遮断できる。お前には修復士として働いてもらいつつ、表向き妻として振る舞ってもらえれば十分だ」
「それは……」
「報酬は相応に払う。お前が断りたければ断っていい」
ディルヴァルトがリシェルを見た。
その目が、恐ろしく静かだった。
感情がない、というのとは少し違う。
感情が、どこか遠い場所に閉じ込められているような。
(この人が、呪われた公爵)
リシェルは深呼吸をした。
状況を整理しよう。
わたしは今、王都で行き場を失っている。
お金はすぐ底をつく。
業界には悪評が回っている。
そして目の前には、呪われた辺境公爵が「契約妻として雇う」と言っている。
普通なら断る。
絶対に断る。
でも。
(辺境には、修復士が必要なはずだ)
辺境。
そこは魔獣の被害が絶えない土地だ。
防衛用の結界は常に損耗し、呪具も酷使される。
腕のいい修復士が、どれだけ求められているか。
リシェルは修復士だ。
修復の仕事がしたい。
それが、ずっとの夢だった。
「……一つ、確認させてください」
「何だ」
「契約妻というのは、あくまでも名義上の話ですね」
「そうだ」
「修復士としての仕事は、ちゃんとさせてもらえますか。道具も材料も、必要なものは支給していただけますか」
「ああ」
「報酬は、前払いでお願いします。最初の三か月分だけで構いません」
「……交渉するか」
ディルヴァルトが、かすかに眉を動かした。
感情の薄い顔に、ほんのわずかな変化。
驚いているのだろうか。
「行き場のない女だからと言って、足元を見られるのは嫌いです」
リシェルは真っ直ぐに答えた。
「わたしは使える修復士です。辺境で必要とされるような仕事は、ちゃんとこなせます。だから対等な条件で雇ってください」
沈黙が数秒続いた。
ディルヴァルトは無言でリシェルを見ていた。
その灰青の瞳が、じっとこちらを映している。
「……わかった」
男は静かに言った。
「前払い三か月分、承諾する。必要な道具は辺境で揃える。他に条件はあるか」
「いいえ」
「では、決まりだ」
ディルヴァルトが手を差し出してきた。
大きな、綺麗な手だった。
でもよく見ると、その手首の少し上に、黒ずんだ痣のようなものが覗いている。
(呪いの、痕)
リシェルはその手を、しっかりと握り返した。
「よろしくお願いします、閣下」
男の口元が、かすかに動いた。
笑った、わけではないと思う。
でも、ほんの少し、何かが和らいだような気がした。
「辺境へは明後日発つ。準備を」
「……明後日ですか」
「問題あるか」
「いいえ、全然」
行き場のない追放修復士に、準備するものなんてほとんどないのだから。
◆
夜、宿の小さな部屋でリシェルは天井を見上げた。
今日一日で、何が起きたのか。
工房を追放されて、王都を放り出されて、見知らぬ辺境公爵の契約妻になることになった。
「……わたし、何してるんだろ」
呟いて、少し笑った。
怖くないかと言えば、嘘になる。
あの公爵が何を考えているのか、さっぱりわからない。
呪われているというのも、どこまで本当の話なのか。
でも。
(修復の仕事が、できる)
それだけで十分だと、今は思う。
壊れたものを直したい。
役に立ちたい。
その気持ちだけは、誰にも折れなかった。
そしてもう一つ。
(いつか必ず、あの工房の連中に見せてやる)
追放された修復士がどこまでいけるか。
わたしを使い捨てた人たちに、後悔させてやる。
リシェルは瞼を閉じた。
明後日、辺境へ旅立つ。
そこに何が待っているのか、まだわからない。
ただ、一つだけ引っかかっていることがあった。
あの公爵は、なぜ今日、あの場所にいたのか。
なぜ、わたしが追放されたことを知っていたのか。
なぜ、わたしを選んだのか。
噂が流れていた、と彼は言った。
でも。
(最初から、わたしを探していたみたいだった)
あの灰青の瞳が、脳裏に浮かんだ。
感情を失った、と噂される男の目。
なのに、どうしてあの瞳は。
――あんなに真剣に、わたしだけを見ていたのだろう。
第1話 了




