第九話 永遠宿し、輝く輪
あたりはすっかり焼け落ちていた。
ほんの数時間前まで、ここにはスカイローク社の威光とやらがあったはずだ。
和田の城。
欲望と虚飾と、他人を踏み台にして積み上げた王国。
だが今、その天下を見下ろすように立っているのは、胡散臭い笑みを浮かべた一人の男だった。
深紅のコート。
焼け跡をものともせず、まるで最初からここが自分の舞台だったみたいな顔をしている。
「それで、久方ぶりだな、小娘」
紅が面倒そうに言う。
その視線の先には、ようやく落ち着きを取り戻した冴がいた。
冴は妹を支えるように立ちながら、露骨に嫌そうな顔を紅へ向ける。
「あんたを呼ぶのは不服だったけどね」
「え、お姉ちゃん知り合いなの!?」
紬が勢いよく顔を上げた。
自分と同じように紅から“小娘”呼ばわりされている姉を見て、驚愕している。
冴はそんな妹に一瞬だけ目を向け、それから諦めたように息を吐いた。
「彼も私も、同じ国家直属の立場にいるのよ」
「もっと簡単に言えば――上司」
「えええええええ!?」
紬の声が焼け跡へ響いた。
信じられない、という顔で紅を見る。
便利屋だの、怪しいおじさんだの、好き放題に思っていた相手が国家に属しているなんて、想像もしていなかったのだろう。
「揃いも揃って失礼な小娘だ」
紅が鼻を鳴らす。
冴は呆れたように肩をすくめた。
「彼は最後の国家魔術師よ」
「しかも、その歴は現職の国家魔導士の誰よりも長いわ」
「え、じゃあ何歳なの、紅?」
紬の質問に、紅の口元がにやりと吊り上がる。
いかにも待ってましたと言いたげな顔だ。
冴はそれを見て、また始まったという顔をした。
「俺は三百歳以上だ」
「お、お爺ちゃんだったの!?」
「誰がお爺ちゃんだ!」
紅が即座に怒鳴る。
冴はふっと笑った。
「ふふふ。残念だったわね」
「本当は尊敬の眼差しが欲しかったんでしょ」
「ちっ、つまらん小娘どもめ」
不機嫌そうに吐き捨てながらも、紅の顔色は悪くない。
紬はまだ驚きから立ち直っていないらしく、まじまじと紅の顔を見つめていた。
そんな中、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、なんで生きてるの?」
紅の眉がぴくりと動いた。
「だって確実に、紅の熱なくなってたよ?」
「どこまで失礼な小娘だ」
紅は深くため息をつき、左手を持ち上げる。
その指に嵌められていたのは、質素な指輪だった。
一見すれば地味だ。装飾も少ない。
だが近くで見ると、その奥に妙な威圧感が潜んでいる。
「これは《不死鳥の寵愛》と呼ばれる」
「最高位のアーティファクトだ」
言い方が少しだけ自慢げなのが腹立たしい。
「この指輪は、装着者が死亡したとき一日に一度だけ、“不死鳥の寵愛”を発動できる」
「最初に装着した時点の肉体情報を記録し、それを基に復元する仕組みだ」
「そ、そんなの無茶苦茶じゃん!」
紬が思わず叫んだ。
あまりにも非現実的な性能に、驚きより先に抗議が口をついて出たらしい。
「はん。お前のような小娘に扱える代物ではない」
紅は指輪をひと撫でしながら続ける。
「こいつは意志を持っている」
「気に入った人物にしか、まともに力を貸さん」
「え、じゃあ紅のことは好きなんだ」
紬が素直に言う。
その瞬間、紅の顔がわずかにしかめられた。
「……それが、少々癪なんだ」
「へ?」
「どうやら、こいつは“おじさん”が好きらしい」
一瞬、空気が止まる。
冴が先に吹き出した。
「……は?」
紬は数秒遅れて理解した。
「え、なにそれ」
「いや、待って。紅、指輪に“おじさん枠”で好かれてるの?」
「黙れ」
紅が即座に返す。
だが耳のあたりがわずかに不機嫌そうだった。
「前に、マスターへ預けたことがある」
「そのときは、俺が使う以上の性能を発揮していた」
「えぇえぇえぇ!?」
今度は別方向の驚きだった。
紬は指輪と紅を交互に見比べる。
「ほんとにおじさん好きなんだ……」
「しかもマスターさんの方が上ってこと?」
「……黙れと言っている」
紅は低く言う。
だが、その声音にはいつもの威圧感より、どこか釈然としない響きが混じっていた。
冴は肩を震わせる。
「ふふっ……なるほどね」
「それは確かに、ちょっと嫌かもしれないわ」
「笑うな、小娘」
「お姉ちゃんまで小娘って呼ばれてる……」
「そこは今どうでもいい」
紅は苛立たしげに指輪を外すと、紬へ向かって投げた。
「試してみるか」
「えっ、ちょ、ちょっと待って――」
慌てて受け取る。
紬は半信半疑のまま、自分の指へ嵌めた。
次の瞬間。
「あっつ!!」
悲鳴が上がった。
紬は慌てて指輪を外し、ぶんぶんと手を振る。
「熱い熱い熱い! なにこれ!?」
自分の指が溶けていないか、本気で確認するほどの熱だった。
紅は腕を組んだまま鼻で笑う。
「言っただろう。気に入らん相手には容赦がない」
「うわ、性格悪っ」
「お前にだけは言われたくない」
紬は涙目のまま指輪を見つめ、それからじわじわと紅を見た。
「でもつまり、紅は好かれてるんだ」
「……不本意ながらな」
「しかも“おじさん”として」
「その話を引っ張るな!」
冴の笑い声が、焼け跡の中に小さく響いた。
紅は何とも言えない顔で指輪を取り返し、乱暴に指へ嵌め直した。
そのタイミングで、焼けた窓枠を越えて新たな人影が入ってくる。
紬は反射的に身構えた。
だが、その頭を冴が優しく撫でる。
「大丈夫」
「彼らは仲間よ」
現れたのは、国家魔導士たちだった。
それなりに整った制服。
だが顔には疲労と苛立ちがしっかり滲んでいる。
先頭の男が、紅を見るなり露骨に顔を引きつらせた。
「あのですねぇ……我々、一応国家魔導士なんですよ」
「国側の人間なんですよ」
「そんな国の人間が、令状もなしに企業へ乗り込んで、会社半壊させてるんです」
「これ、どっちが悪党か分かんなくなるんですよ」
その口調には、もはや遠慮がなかった。
紅は平然としている。
「だから貴様らは役立たずなのだ」
「おてんば娘に先を越される」
「それについては何も言えないっす……」
男は肩を落とす。
横で冴が、なんとも居心地の悪そうな顔をしていた。
「……いや、それはほんとごめん」
「でも、レイモンドさんが回してくれたデータのおかげで、こっちも公式に動けるようにはなったんです」
「ただ――」
周囲を見回す。
焼けた床。
崩れた壁。
焦げ臭い空気。
「……どうやら遅かったみたいっすけど」
「お前らに横取りされると、つまらんからな」
紅がしてやったりという顔を向ける。
男は本気で殴りかかりたいような顔になった。
「もうちょい被害減らしてくださいよ……」
「叱られるの俺らなんすよ……」
「知るか」
「はぁーーー、まじでこの人……」
額を押さえ、男は地団太を踏んだ。
だが、すぐに気を取り直して部下たちへ指示を飛ばす。
「おい、全員動け」
「ネズミ一匹逃がすな。資料も端末も全部押さえろ」
「そこで丸焦げになってる豚も回収」
男が指した先には、和田だった。
もはや見苦しさの象徴でしかない焼け焦げた死体を、部下たちがどこか雑に運んでいく。
「レイモンドさん」
去り際に男が振り返る。
「次は絶対、あの人に会ってくださいよ」
「じゃないと、あの人ほんと面倒なんですから」
「気が向けばな」
「向けてくださいよ、絶対」
男の悲痛な声を背に、調査は本格的に始まった。
ビルの中を国家魔導士たちが行き交う。
証拠の回収。生存者の確保。残骸の確認。
戦場だった場所が、今度は“事件現場”へ変わっていく。
その間に、いつの間にか朝日は高く昇っていた。
焼けた窓から差し込む光が、三人へ降り注ぐ。
普段なら暑いだけの陽射しが、不思議と心地よかった。
やっと、夜が終わったのだと実感できる。
◇
それからしばらくして、冴は国家魔導士たちの手で精密検査を繰り返すことになった。
だが、拍子抜けするほど何も異常は見つからなかった。
魔粒子の濃度。
魔術回路への影響。
人工魔装の侵食痕。
精神への汚染。
どれも、信じがたいほど綺麗に消えていたという。
そのため、冴は思っていたよりずっと早く退院した。
あの日を境に、紬の世界には色が増えた。
以前の世界は、いつもどこか灰色だった。
教室も、通学路も、夕焼けも、人混みも。
全部が薄暗く、くすんで見えていた。
でも今は違う。
朝の空は青く、制服の白は眩しく、夕方の街は思ったよりずっと温かい。
世界は、自分が思っていた以上に明るくて、騒がしくて、色鮮やかだった。
「おい、出来損ない」
聞き慣れた声が背後から飛ぶ。
学園の廊下。
いつものように、自分を見下したいだけの学友たちが立っていた。
「マギマギアはどうした?」
「ついに壊しっぱなしで買えなくなったのか?」
少し前の自分なら、それだけで萎縮していた。
視線を逸らし、息を潜め、やり過ごすことしか考えられなかった。
けれど今は、違う。
彼らもまた、自分と同じだ。
弱いことを認めたくなくて、誰かを下に置いて安心しているだけ。
自分を鼓舞するために、紬を使っていただけ。
そう分かってしまえば、恐れる理由なんてなかった。
「ちっ、無視すんなよ」
ひとりがマギマギアを向ける。
発動するより先に、紬の指先がわずかに光った。
ぱちっ、と小さな閃光が弾ける。
「ぐわっ、目が!」
「前が見えねぇ!」
悲鳴を上げる彼らを、紬は振り返りもしなかった。
そのまま校門を抜ける。
以前の自分なら、まっすぐ帰るだけだった足取りに、今はもう一つの寄り道が増えていた。
最初は驚くだけだった町の人混みも。
暗くて怖かった路地裏も。
今では少しずつ馴染みがある。
でも、いちばん好きな場所はやっぱりここだ。
BAR Emrys。
重い扉を開ける。
中では、いつものように空気が少しだけおかしかった。
「お願いよぉ、紅ちゃん!」
「あなたしか頼れる人はいないのよぉ!」
筋肉隆々の女性――と呼んでいいのか分からない何かに腕を絡まれ、紅が本気で嫌そうな顔をしている。
「分かったから離れろ!」
「おい、小娘! この悪魔をどうにかしろ!」
カウンターの奥では、マスターが実に楽しそうにその光景を眺めていた。
紬は思わず笑ってしまう。
今の自分の日常は、小さな非日常であふれている。
けれど、その非日常はもう怖いものじゃない。
むしろ少しだけ、誇らしい。
そんな日常が、紬は好きだった。
「おい、小娘! 聞いているのか、小娘――!」
紅の苛立った声が、店の中へ響く。
紬は笑いながら、その喧騒の中へ歩いていった。
◇
巨大なガラス窓の向こうに、東京の夜景が広がっていた。
ビル群の灯りは宝石のように瞬いている。
男は、背後で許しを請う声など存在しないかのように、窓の外だけを見ていた。
だが、その輝きを、男はひどくつまらなそうに見下ろしていた。
背後では、ひとりの男が床に額を擦りつけるようにして震えていた。
汗の滴が、磨き上げられた床へぽたりと落ちる。
「見てみろ」
低い声に、男の肩がびくりと跳ねる。
「顔を上げろ。あそこだ」
恐る恐る視線を向けた先、巨大な窓の向こうには満月があった。
白々と、静かに、何もかもを見下ろすように浮かんでいる。
「不愉快だろう」
男は答えられない。
ただ喉を鳴らし、乾いた唇を震わせた。
「あれは私を見下ろしている」
「は、はい……」
男は小さくため息をついた。
「芸術は、完成しただけでは足りない」
懐から無機質な拳銃を取り出す。
その黒い金属が、月光を鈍く反射した。
「穢れてはじめて、価値を持つ」
「分かるか?」
「は、はい……!」
震える声。
返事はした。だが理解などしていないことは明白だった。
窓の向こうでは、満月が変わらぬ顔で浮かんでいる。
男はそれを見上げたまま、わずかに口元を歪めた。
「月が汚れ、空が穢れれば――」
その声音には、奇妙な恍惚が滲んでいた。
「さぞ美しいだろうな」
その言葉を最後に、男はようやく満月から視線を外した。
静かに振り向き、土下座する男へ銃口を向ける。
「ま、待っ――」
乾いた音がひとつ、部屋に響いた。
静寂。
硝煙の匂いだけが、ゆっくりと広がっていく。
男はそのまま高級な椅子へ腰を下ろした。
深く背もたれに身を預け、薄く目を細める。
「時は満ちた」
漆黒のスーツに身を包んだ者たちが、無言で死体を回収する。
その手際は、不気味なほど丁寧だった。
男の唇が、わずかに吊り上がる。
「せいぜい抗ってみせろ」
低い声が、夜景を見下ろす部屋に静かに落ちた。
「魔術の象徴――紅の魔術師」
そのころ、東京の空にはじわじわと黒い雲が広がり始めていた。
まるで巨大な都市そのものを、静かに呑み込もうとするかのように。




