第十話 ep1 割れた鏡の向こう側
いつも通り鳴る信号の電子音。
急ぎ足で横断歩道を渡る人々。
再開発の工事音が、絶え間なく街の空気を震わせている。
そんな、どこにでもある東京の夕方。
何一つ変わらないはずの日常の片隅に、一輪の花だけが場違いに供えられていた。
星未彩は、その前で足を止めた。
白い花弁が、春の終わりの風にかすかに揺れる。
何度見ても、そこにあるだけで胸の奥が痛んだ。
一年前。
ここで、青音隼人は死んだ。
事故だった。
そう言われた。
突然の連絡だった。
仕事から帰る途中、車にはねられたのだと。
あまりに呆気なくて、現実味がなかった。
さっきまでそこにいたはずの人が、二度と戻らない。たったそれだけのことが、どうしても理解できなかった。
婚約の話もしていた。
遠くない未来を、二人でそれとなく語り合っていた。
大きな夢じゃなくていい。静かでも、笑って過ごせる場所があれば、それでいいと思っていた。
けれど、その未来は一瞬で途切れた。
それから彩は、長い時間を止まったまま生きてきた。
仕事を休み、実家に戻り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
泣かない日が来ても、心の奥に空いた穴だけは埋まらなかった。
それでも、ようやく。
ようやく少しだけ、前を向かなければと思えたのだ。
隼人が望むはずがない。
自分がずっと立ち止まり続けることを、彼が喜ぶはずがない。
だから、区切りをつけるためにここへ来た。
花を供え、手を合わせ、それで帰るつもりだった。
そうしてもう一度、日常の中へ戻るつもりだった。
「……た……」
不意に、何かが聞こえた。
彩は顔を上げる。
耳に入ってくるのは、信号機の機械音と、遠くの工事音、車の走る音。どれも聞き慣れた街の音ばかりだ。
聞き間違いだ。
そう思って、立ち去ろうとした時だった。
「……す……け……」
足が止まった。
今のは何だ。
風の音ではない。工事現場の無線でもない。
どこか、電子音に似ていた。
スピーカー越しにひどく劣化した声。
ノイズが走って、言葉の輪郭だけがかろうじて残っているような、そんな不自然な響き。
彩は思わず周囲を見渡した。
だが、誰も自分を見ていない。
足を止める人もいない。
この場に異変を感じているのは、自分だけだった。
「……て……」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
幽霊、という言葉が頭をよぎった。
けれど、違う。
そんな曖昧で湿った気配ではない。
もっと硬質だ。
もっと不格好で、不自然で、何かに削られた残骸みたいな響きだった。
まるで――誰かの声を、無理やりどこかに押し込めて、壊れた機械越しに再生しているみたいな。
彩は息を呑む。
「……たす……け……て……」
今度は、はっきり聞こえた。
声だった。
確かに、声だった。
耳を澄ませた瞬間、ノイズの向こうに微かな人の温度が混ざる。
苦しそうで、掠れていて、それでも必死に届こうとしているような声音。
「……ごめ……ん……彩……」
彩の喉がひゅっと鳴った。
今、名前を呼ばれた。
全身の血が一気に逆流するような感覚に襲われる。
そんなはずがない。
そんなはずが、あるわけがない。
隼人は死んだ。
一年前に、ここで。
忘れようとしていた。
忘れてはいなくても、せめて受け入れようとしていた。
それなのに。
「隼人……?」
震える声が漏れる。
返事はない。
ただ、耳を澄ますほどに、あの不気味なノイズが鼓膜にまとわりついてくる。
まるで、助けを求める声そのものが、正常にこの世界へ届ききれていないようだった。
何かに阻まれているのか。
それとも、どこかで欠けてしまっているのか。
怖い。
でも、聞き間違いにしたくなかった。
彩は供えられた花の横にしゃがみ込み、必死に声の出所を探そうとする。
けれど、見えるのはアスファルトと電柱、それから流れていく人の足だけだった。
「私は、ここだよ……」
気づけば、声がこぼれていた。
「ここだよ、隼人……」
涙が落ちる。
視界が歪む。
けれど、呼ばずにはいられなかった。
「ここにいるよ……」
電柱に縋るように手をつく。
抱きしめる相手など、もうどこにもいないのに。
周囲を歩く人々は、誰一人として立ち止まらなかった。
泣き崩れる女がいても、みんな自分の帰る場所へ向かっていく。
当たり前だ。
この街では、誰がいつ死んでもおかしくない。
明日失うのが自分か、誰か大切な人か、それすら分からない。
だから人は、見て見ぬふりをして日常を続ける。
けれど、それでも。
想いだけは、確かにそこに残るのだとしたら。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
不意に、穏やかな声が降ってきた。
彩が顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
初老に差しかかっているはずの年齢に見えるのに、背筋はまっすぐ伸びている。
どこか中世の貴族じみた気品をまとった男だった。
彼は柔らかな目で彩を見つめ、そっとハンカチを差し出す。
「私でよければ、お話を聞きましょうか?」
見ず知らずの他人だ。
普段の自分なら、きっと断っていた。
けれど、その時の彩には、一人で立ち上がる力が残っていなかった。
今、自分が聞いたものを。感じたものを。
誰かに否定せず受け止めてほしかった。
彩は小さく頷き、ハンカチを受け取った。
男に導かれるまま、歩いていく。
どこへ向かっているのかも、途中からよく分からなくなっていた。
ただ、あの声を聞いた直後の混乱の中で、その落ち着いた背中だけが不思議と頼りになった。
辿り着いた先は、古びたバーだった。
木製の看板には、BAR Emrysと書かれている。
レトロで、どこか時代から取り残されたような外観。
ドアにはOPENの札が掛かっていた。
「どうぞ」
男が扉を開ける。
中に入った瞬間、彩は目を瞬かせた。
「いいでしょ、教えてよ紅!」
「小娘にはまだ早い」
「私、もっと強くなりたいの!」
「第二階位なんぞ、貴様が普段使えば自爆して終わりだ」
「使えたもん! あの時は!」
「土壇場以外で使えてからほざけ」
店の奥では、一人の少女が頬を膨らませていた。
その向かいには、深紅のコートを纏った長身の男がいる。
本を片手に、面倒そうな顔すらせず、ただ淡々とページをめくっていた。
「むぅぅぅ……」
少女の頬がますます膨らむ。
そのあまりの分かりやすさに、彩は泣いていたはずなのに、一瞬だけ目を奪われた。
すると少女がこちらに気づき、ぱっと顔を上げた。
「え、マスター、お客さん!?」
「珍しいー!」
どうやら、自分をここまで連れてきた男がこの店のマスターらしい。
彼は困ったように微笑んだ。
「そこまで客のいない店だと思われていたとは、少々傷つきますね」
「だって普段いないじゃん」
「世知辛い話です」
そう言ってマスターはカウンターの椅子を勧めた。
「どうぞ、お掛けください。何か温かいもの……と言いたいところですが、今は喉を潤す方が先ですかね」
目の前に置かれたグラスにはオレンジジュースが注がれていた。
彩は礼を言って、それを口にする。
乾ききっていた喉に、冷たさが染み込んでいった。
「少しは落ち着きましたか」
「……はい」
それでも、胸の奥のざわつきは消えない。
むしろ静かな場所に入ったことで、さっきの声が余計に鮮明によみがえってきた。
彩は両手を膝の上で握りしめる。
「一年前、私には……婚約を考えていた人がいました」
その一言で、店の空気が少しだけ静かになる。
「そろそろ結婚しようかって、そんな話をしてた時に……突然、連絡が来たんです。事故に遭って、亡くなったって」
少女の手から、持っていたフォークが落ちた。
かちゃん、と乾いた音が響く。
深紅のコートの男は、ほんの少しだけ帽子のつばに触れた。
表情は変わらない。
「それからずっと、立ち直れなくて……。仕事も休んで、実家に戻って……今日、ようやく、ちゃんと区切りをつけようと思って現場に行ったんです」
彩は唇を震わせながら続ける。
「最初は、花を供えて帰るつもりでした。けど……声が聞こえたんです」
少女が息を呑むのが分かった。
「最初はよく聞き取れませんでした。ノイズみたいで……機械越しの、壊れた音みたいで……。でも、耳を澄ますと、確かに……助けて、って」
そこまで言って、彩は視線を落とした。
「それだけじゃありません。最後に……私の名前を呼んだんです。ごめん、彩って」
次の瞬間。
「うわああああん!」
少女が大泣きした。
「なんでそんなつらい話なのー! ひどいよぉぉ!」
あまりにもまっすぐに泣かれて、彩はきょとんとしてしまう。
マスターは慣れた手つきで少女と彩の両方にティッシュを差し出した。
「紬さん、少し落ち着いて」
「だってぇ……!」
鼻をすする音が店内に響く。
そのあまりの率直さに、彩の胸に張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。
「……すみません。私のことで」
「謝らなくていいわ!」
涙目のまま、少女――紬が身を乗り出す。
「そんなの放っておけないもん!」
マスターが静かに問いかけた。
「その声は、一度きりですか?」
「……いえ。耳を澄ますと、何度か。はっきり聞こえたのは短いですけど……確かに、あそこにありました」
「ふむ」
マスターは顎に手を当てる。
その横で、これまで沈黙していた深紅の男が、初めて口を開いた。
「電子音のようだった、と言ったな」
低く、よく通る声だった。
彩が頷くと、男は本を閉じる。
「湿った残滓の類なら、もっと曖昧に滲む。だが、ノイズが混ざるとなると話は別だ」
紬が目を丸くする。
「それって、幽霊じゃないってこと?」
「断定はせん」
男は椅子にもたれたまま、赤い瞳を細める。
「だが自然に残ったにしては、少々整いすぎている」
彩はその言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。
「整いすぎている……?」
「声というものは、普通そこまで都合よく形を保たん。名前を呼び、助けを求める。そこだけ切り取ったように残るのは妙だ」
まるで、現象そのものを観察するような口調だった。
同情より先に、別の何かを見ているような。
紬が少しだけむっとする。
「紅、そういう言い方……」
「事実だ、小娘」
紅と呼ばれた男は、淡々と続けた。
「ただの怪談で済ませるには不自然だ。何かしら、人の手が入っている可能性がある」
人の手。
その言葉に、彩の背中が冷えた。
事故で死んだはずの人の声。
そこに、人の手が入っている?
「ま、待ってください……それってどういう……」
「さあな。だから見に行く価値がある」
紬がぱっと顔を上げた。
「じゃあ!」
「私が行くわ!」
勢いよく立ち上がる。
「こう見えても私は魔術師なんだから! 絶対、解明してみせる!」
そのまま彩の両手を握りしめる。
「私、一ノ瀬紬! よろしくね!」
「え、あ……は、はい……星未彩です……」
「彩さんね! 大丈夫、放っておいたりしないから!」
そのままドアへ向かって駆け出そうとした瞬間。
「おい、小娘」
低い声が店内を止めた。
紬の肩がびくっと跳ねる。
「場所も状況もろくに聞かず、何をどう解明するつもりだ。貴様の暴走癖には毎度呆れさせられる」
「う……」
「依頼人を置いて先に走るな。せめて話を最後まで聞け」
「……はい」
しゅんと肩を落とす紬。
彩はそんなやり取りを見て、少しだけ息をついた。
不思議だった。さっきまであれほど胸を締めつけていた苦しさが、この店の空気の中では少しだけ和らいでいた。
紅はゆっくりと立ち上がる。
長身の影が、店の灯りをわずかに遮った。
「女」
「……は、はい」
「事故現場まで案内しろ」
「え……」
「紅の魔術師は一度受けた依頼は守る」
「それが俺の流儀だ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だがその赤い眼差しには、奇妙な冷たさと、それ以上に奇妙な頼もしさが同居していた。
「行くぞ」
彩は息を呑む。
怖い。
この男は少し、怖い。
なのに、どうしようもなく安心してしまう。
マスターが穏やかに微笑んだ。
「どうやら決まりですね」
その言葉に背中を押されるように、彩は小さく頷いた。
自分があの場所で聞いたものが何なのか。
あれは本当に、隼人の声なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
答えはまだ分からない。
けれど少なくとも、あの声を幻聴の一言で終わらせずに済むのだと思うと、少しだけ救われた気がした。
それでも胸の奥には、拭い切れない不安が残っている。
あの声は、助けを求めていた。
そしてそこには、ただの幽霊話では済まない、妙な硬さがあった。
まるで誰かの想いが、壊れた機械の奥で、まだ処理しきれずに取り残されているみたいに。




