第十一話 ep1 割れた鏡の向こう側②
夕暮れが街の輪郭をゆっくりと鈍らせていく。
昼間の熱がまだアスファルトの上に残っているのに、風だけは先に夜の気配を連れてきていた。
人通りも朝や昼ほど多くはない。
それでも、車の走行音と信号機の電子音、この場所が今も生きた都市の一部であることを絶えず主張している。
そんな、何一つ特別ではない交差点に、三つの影が立っていた。
「ここか」
紅が短く言った。
深紅のコートの裾が、夕方の風にわずかに揺れる。
隣では紬がきょろきょろと周囲を見回していた。
「なんか……普通ね」
拍子抜けしたような声だった。
それも無理はない。
星未彩が昨日、泣き崩れたこの場所は、改めて見ればどこまでも平凡な道路脇にすぎない。
信号機の立つ横断歩道。
歩道に沿って並ぶガードレール。
その端に、今も小さく供えられた花。
怪異の現場と聞いて誰もが思い浮かべるような、湿った路地裏や人気のないトンネルとは程遠かった。
「もっとこう……暗い裏道とか、トンネルとか、いかにも何か出そうな場所かと思ってたわ」
「現実は、大抵つまらんものだ」
紅はそれだけ言って、そこで静かに目を閉じた。
紬はその様子を見るなり、慌てて彩へ向き直る。
「あ、えっと……彼が目を閉じてる時は、あんまり話しかけない方がいいから」
「そ、そうなの……?」
「うん。今たぶん、探ってるから」
彩は頷きながらも、目を閉じたまま微動だにしない紅を見つめた。
昨日の店内で見た時もそうだったが、この男は黙っているとひどく人間離れして見える。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気からわずかに浮いているような、そんな奇妙な感覚があった。
紬は一歩前に出ると、掌を軽く掲げて小さく呟き始めた。
探知魔術。
昨日、店の中で彼女が自信満々に口にしていたものだろう。
けれど、しばらくして紬は首を傾げた。
「……おかしいな」
「何か分かったの?」
彩が問うと、紬は困ったように眉を寄せる。
「全然。普通なの。変な残り香もないし、結界っぽいものもないし、術式の痕も見当たらない」
言いながら、また周囲を見回す。
「あるのは工事現場と……」
ふと視線が横へ逸れた。
「……あ、美味しそうなパン屋」
彩は思わずそちらを見る。
言われてみれば、通りの向こうに確かに小さなベーカリーがあった。
昨日もここに来たはずなのに、そんなものがあったことすら意識していなかった。
それだけ、自分は追い詰められていたのだと改めて思い知らされる。
紬はそんな彩の表情を見て、少しだけ声の調子を落とした。
「……つらいこと思い出させちゃうかもしれないけど」
「はい」
「もう一回だけ、昨日と同じように呼びかけてみてくれる?」
彩は供えられた花へ視線を落とす。
昨日、自分はここで確かに声を聞いた。
それは幻聴なんかではないと、今でも信じている。
けれどもし、今日何も起きなかったら。
全部、自分の願望が生んだ錯覚だったとしたら。
怖い。
だが、それ以上に確かめたかった。
「……分かったわ」
彩は小さく息を吸った。
胸の前で両手を握り、花の前へ歩み寄る。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ時間。
なのに今日は、昨日よりずっと遠く感じる。
「隼人」
呼びかける。
返事はない。
車が横を通り過ぎ、タイヤがアスファルトを擦る音だけが残った。
「私……あなたがいなくなってから、この一年……ずっと苦しかった」
言葉を紡ぐごとに、喉の奥が痛んだ。
自分でも驚くほど、胸の奥に沈めていたものが簡単に掘り起こされていく。
「なんであなただったのか、何度も考えた」
「どうして、あの日だったのか」
「どうして、何も言わずにいなくなったのかって……」
夕暮れの町は静かなままだ。
信号機の電子音が一定のリズムで鳴り続ける。
何も起きない。
それでも彩は、昨日の声を信じるように続けた。
「もう一度だけ……聞かせてほしいの」
「あなたの声を」
「お願い、隼人」
両手を強く合わせる。
祈るように額へ押し当てた、その瞬間だった。
ぴ――……
信号の電子音が、ほんの一拍だけ乱れた。
乱れた、と言っても本当に一瞬だった。
音程がわずかにずれた。
ノイズが混ざった。
その程度の、小さな違和感。
通り過ぎる人間が足を止めるほどではない。
紬も彩も、気づいた様子はなかった。
けれど。
閉じていた紅の目が、そこでゆっくりと開いた。
その赤い瞳が、信号機の方を一度だけ見た。
彩は気づかない。
紬も気づかない。
ただ紅だけが、そのかすかな乱れを拾っていた。
「隼人……?」
彩はなおも呼ぶ。
だが、昨日のような声は返ってこない。
ノイズも、名を呼ぶ声も、助けを求める響きもない。
あるのは、何も起きないという現実だけだった。
「どうして……」
彩の声が、今度こそはっきりと崩れる。
「昨日は、聞こえたのに……」
「確かに、聞こえたのに……」
その場に立ち尽くす彼女の背中は、小さく、あまりにも頼りなかった。
紬は唇を噛む。
自分が何か力になれると思った。
昨日、あんなふうに言い切ってしまった。
けれど、いざ現場へ来てみれば、自分の魔術では何一つ掴めない。
助けたいと思うのに、手が届かない。
その事実が、胸の奥を鈍く締めつけた。
「……紅」
紬が振り向く。
紅は信号機から視線を外し、ゆっくりと煙草を取り出していた。
指先で一本抜き出し、口元へ運ぶ。
次の瞬間、軽く指を鳴らすと、火が宿った。
夕暮れの中で、小さな火だけが妙に鮮やかに見えた。
紅は一度煙を吸い込み、静かに吐き出す。
白く細い煙が、冷えてきた空気の中へ溶けていく。
「依頼人を泣かせるとはな」
淡々とした声だった。
紬が反射的にむっとする。
「泣かせたのは私じゃないでしょ!」
「同じことだ。解決できんのなら、無責任に希望を持たせるな」
「なっ……!」
言い返そうとした紬を置き去りにするように、紅は彩へ視線を向けた。
「いくつか聞く」
彩は目元を拭い、慌てて頷く。
「……はい」
「貴様の想い人は、何の仕事をしていた」
唐突な質問だった。
彩は戸惑う。
声のことを聞いているはずなのに、どうしてそんな話になるのか分からない。
「彼は……ヴァルカンコーポレーションの研究所で働いていました」
その答えを聞いた瞬間、紅の目がわずかに細くなった。
煙草の火が、風もないのに小さく揺れる。
「研究内容は」
「詳しくは……。仕事のことはあまり話さない人だったから……」
「最後に、何か言っていたはずだ」
その口調には妙な確信があった。
彩は記憶を探る。
思い出したくなくて、ずっと奥へ押し込めていた最後の会話。
そこでようやく、一つの言葉が浮かぶ。
「……大きな仕事を任されたって」
「世界を変えるプロジェクトだ、って言ってました」
かすかに、乾いた音がした。
紅の指先から煙草が落ちたのだ。
地面に落ちた火種を、紅は靴先で踏み消す。
その仕草はいつも通りの無造作さだったが、帽子のつばの下の表情だけが、ほんのわずかに険しくなっていた。
彩は息を呑む。
「何か、分かったんですか……?」
紅はすぐには答えなかった。
代わりに一度、信号機の方へ視線を投げる。
電子音は、もう何事もなかったように一定のリズムを刻んでいる。
だが紅の中では、仮説はすでに形を変えていた。
そして、その形になってしまったからこそ、口にしたくなかった。
「……帰れ」
ぽつりと、紅が言った。
彩は目を見開く。
「え……?」
「これ以上は知るな」
紬も言葉を失う。
「ちょっと待ってよ、どういうこと?」
「どうもこうもない。依頼はここで終わりだ」
「はぁ!?」
紬が一歩前に出る。
「何それ! 一度受けた依頼は守るのが主義なんじゃなかったの!?」
「例外はある」
「説明になってない!」
紅は紬を見ない。
視線はずっと彩へ向いたままだった。
「女」
「……はい」
「貴様は昨日、あの声を聞いてどう感じた」
彩は息を詰める。
そんなこと、考えるまでもない。
「……安心、しました」
震える声で答える。
「まだ彼がいるんだって、そう思えたから……」
「そうか」
紅はそれだけ言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
「なら、なおさら知らん方がいい」
その言葉は、慰めのようでもあり、突き放しのようでもあった。
彩は分からない。
何を知らない方がいいのか。
なぜそこまで言うのか。
ただ、紅の声音にあった微かな重さだけが、やけに胸に残った。
「待ってください」
彩は思わず声を上げる。
「私は知りたいんです」
「彼がまだいるなら、会いたい」
「もし苦しんでるなら助けたい」
「たとえどんな真実でも、私は――」
「神秘とは」
紅が静かに言葉を被せた。
その声に、彩も紬も口を閉ざす。
「神秘のままだから、美しい」
夕方の風が、三人の間を抜けていく。
「分かってしまえば、それはもう別の何かだ」
紅は振り返らない。
ただ、その背中だけがどこか遠くにあるものを見ているようだった。
「俺は奴の声を知らん。だが――」
そこで一度言葉を切る。
「俺なら、聞きたくはない」
そう言って、紅は踵を返した。
「お、おい待ちなさいよ紅!」
紬が慌てて追いかける。
「どうしたのよ! 何が分かったの!? 説明しなさいよ!」
「小娘」
紅は足を止めずに言う。
「あとは好きにしろ」
「はあ!?」
「俺は帰る」
その声音は冷たかった。
だが本当に冷たいだけなら、もっと簡単だったのかもしれない。
そこには、知ってしまった者だけが持つ厄介な躊躇いがあった。
紬は紅の背中を睨みつける。
けれど、すぐに彩の方へ振り返った。
彩はその場に立ったまま、完全に取り残されていた。
期待した。
昨日の声の正体が分かるかもしれないと。
救いに近づけるかもしれないと。
なのに今は、余計に分からなくなっただけだ。
膝から力が抜け、その場に座り込みそうになるのを、紬が慌てて支えた。
「しっかりして!」
「でも、私……」
「まだ終わってない」
紬は強く言う。
「紅が何考えてるのか知らない。でも、私は諦めない」
「知りたいんでしょ?」
「だったら、ここで終わりになんかしない」
彩は紬を見る。
昨日も思ったことだが、この少女は驚くほど真っ直ぐだった。
無茶だし、未熟だし、勢いで走る。
それでも、その真っ直ぐさだけは疑いようがない。
「明日、もう一度来ましょう」
紬は言った。
「今度はもっとちゃんと調べる」
「絶対、何かあるはずだから」
彩の中で、冷え切りかけていた何かがわずかに戻る。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
紬は、いつものように明るく笑った。
「私は、あんな不愛想な男と違うもの」
その笑顔は、夜の入り口に立つ街の中で、小さな灯のように見えた。
_________________________________________________________________________
BAR Emrysの扉が開く。
戻ってきたのは、紅ただ一人だった。
マスターは何も言わず、静かにグラスを彼の前へ置く。
だが紅は、それにすぐ手をつけようとはしなかった。
椅子に腰を下ろしたまま、ただ静かに目を閉じる。
店の中には、古い時計の針が進む音だけが、かすかに響いていた。
どれほどそうしていたのか。
グラスの表面に浮いた結露が流れ落ち、カウンターをしっとりと濡らしていく。
やがて紅はグラスを手に取ると、一気に飲み干した。
「なぁ、マスター」
「はい」
「あんたは、解き明かした神秘が想像と違ったらどうする」
マスターはグラスを拭く手を止めずに答える。
「それは、がっかりしますね」
「俺もそうだった」
紅は視線を落としたまま続ける。
「たくさんの神秘を解き明かしてきた」
「その中には、下らんものもあった」
小さく息を吐く。
「だが、その神秘に縋るものもいた」
「それを追い求めて、生きているものだっている」
紅は、低く問う。
「なぁ、マスター。あんたならどうする」
マスターは少しだけ目を細める。
「私は受け入れられないでしょうね」
「……だが、それを知らなかったことが幸せに繋がるかは不明です」
紅は鼻で笑うように息を漏らした。
「知らないことが幸せである。当然でしょう」
マスターは静かに首を横に振る。
「しかし、人間は知ることこそが成長に繋がる」
「そう教えてくれたのは、あなたではなかったですか?」
紅は閉じていた目を開く。
マスターは変わらず、穏やかな顔でグラスを拭いていた。
「……そうか。そうだったな」
紅は、わずかに口元を歪める。
「まさか、貴様に教えられるとはな」
マスターが笑う。
「冗談を。私が子供の頃から、あなたは何も変わっておりませんよ」
「貴様の生意気なところもな」
静かなバーに、二人の短い笑い声が落ちた。
だがその夜。
紅の脳裏には、あの一瞬だけ乱れた信号の電子音が、いつまでも残っていた。




