第十二話 ep1 割れた鏡の向こう側③
昨日と変わらない夕方だった。
信号の電子音。
急ぎ足で横断歩道を渡る人々。
再開発の工事音が、絶え間なく街の空気を震わせている。
何も変わっていない。
そう思わせるには十分なほど、町は昨日と同じ顔をしていた。
けれど、その景色の前に立つ二人だけは違った。
電柱のそばで静かに息を整える星未彩。
その隣で、自分を奮い立たせるように胸を張る一ノ瀬紬。
紬はマギマギアで時刻を確認し、小さく頷いた。
「……うん。この時間」
明るく言ったつもりだった。
けれど、自分でも少し声が硬いのが分かった。
彩が、ふと呟く。
「あの人は……来ないのね」
紬は少しだけ口を尖らせた。
「あいつ、昨日あんなことだけ言って、どっか行っちゃったのよ」
そう言いながらも、胸の奥には小さな不安があった。
紅がいない。
それだけで、このありふれた交差点が少し頼りなく見える。
それでも紬は笑ってみせる。
「でも大丈夫。今日は私がちゃんと確かめるから」
彩はその笑顔を見て、かすかに目を細めた。
助けを求める時、人はたぶん、答えより先にそういう顔へ縋るのだ。
彩はしゃがみこみ、昨日と同じ場所へ花を供えた。
昨日の花はまだ綺麗なままだった。
それでも、もう一度置く。
彼のために。
届くかどうかも分からないまま、それでもそうせずにはいられないみたいに。
「ねぇ、隼人」
彩の声は驚くほど静かだった。
「あなたがいなくなってから、一年たったの」
信号の電子音が一定のリズムを刻む。
車が横を走り抜け、工事の音が遠くで金属を打つ。
「あなたがいなくなった毎日は、空っぽで……何もなかった」
紬は黙って聞いていた。
昨日、Emrysで泣いていた時より、今の彩の方が危うく見える。
泣いていないからだ。
涙の代わりに、何かひとつだけを支えに立っているような危うさだった。
「でも、そこにいるの……隼人?」
彩の指先が電柱へ伸びる。
「私は、あなたがどんな姿でも気にしない」
その手は震えていた。
けれど、止まらない。
「お願い……あなたの声を聞かせて、隼人……」
夕暮れの町は静かなままだった。
何も起きないように見えた。
そして。
「……愛してるわ、隼人」
その瞬間だった。
ぴ、……ぴ、ぴ――
信号の電子音が乱れた。
一定だったはずの音に、別の何かが割り込む。
機械の正しい音ではない。
削れたような、濁ったような、耳にざらつく異物。
紬は目を見開いた。
「……来た」
反射的に片手を掲げる。
「第三階位――その身は危険を探知する、エコーサイン」
魔術が周囲へ広がる。
空気の揺れ、音の反射、残滓、異質な流れ。
拾えるものを全部掴もうと、意識を研ぎ澄ます。
だが、地表には何もない。
電柱も信号機も、道路も花も、見える範囲には異常はなかった。
なのに、そこを通ってくる“声”だけがある。
「ごめ……ん……あ……や……」
紬の背中が粟立つ。
聞こえた。
今度は自分にも。
「あ……い……し……てる……」
それは確かに人の声だった。
けれど、人がそのまま発した声ではない。
ひどく歪んでいる。
何か細いものを、無理やり通されてきたみたいに。
音の形は崩れているのに、そこに宿る想いだけが妙に鮮明だった。
彩は息を呑み、涙をこぼした。
「隼人……!」
もう迷いはなかった。
彼女の中では、今の声はもう隼人そのものだった。
「ねぇ、隼人……私もよ……私も……」
彩は電柱を抱きしめる。
冷たい金属の柱。
なのに、その腕の中でだけは別のものになっていた。
そこを通って、彼がこちらへ手を伸ばしているようにさえ思える。
紬は探知をさらに深く潜らせる。
地上にないなら、下だ。
電柱。
信号。
地下。
再開発。
昨日、紅が何かを察したように黙り込んだ理由。
意識を沈めた先で、紬はようやく感じ取る。
地下深く。
新しく繋がれた設備。
そこを流れる、微かな異常。
魔術だと断言できるほど明確じゃない。
ただの機械のノイズとも違う。
何か、こちら側へ滲んでくるものがある。
「……下?」
紬が呟いた、その時だった。
「隼人……あなたに会いたいわ」
彩の声が変わっていた。
「私は、あなたがいないとダメなの」
その眼は、もう電柱を見てはいない。
“そこに彼がいる”と信じきっている眼だった。
紬は息を詰める。
この人は最初から危うかった。
昨日会った時から。
いや、たぶんもっと前からずっと。
髪の乱れ方。
袖口の擦れ。
ふとした拍子に見えた、浅い傷の痕。
他人から見れば分かるのに、本人だけが気づいていないような崩れ方だった。
そこへ、ようやく差し込んだ“まだ彼がいるかもしれない”という光。
光だったからこそ、危うかった。
「星未さん」
紬が呼ぶ。
返事はない。
「星未さん、落ち着いて。聞こえたのは本当。でも――」
「邪魔しないで」
低い声だった。
彩がゆっくりと振り向く。
その眼には涙がある。
けれど、それ以上に強い熱が宿っていた。
「彼はここにいるの」
彩の指先が電柱を撫でる。
優しく。
確かめるように。
次第に、取り戻そうとするように。
「やっと……やっと見つけたのに」
その手が、拳へ変わる。
「返して」
鈍い音が鳴った。
彩が電柱を殴ったのだと理解するのに、紬は一拍遅れた。
「返してよ!」
もう一度。
また一度。
拳の皮が裂け、血がにじむ。
それでも彩は止まらない。
「隼人を返して!」
「ここにいるんでしょう!?」
「だったら返してよ!」
「やめて!」
紬が慌てて腕を掴む。
けれど彩は、それを振り払った。
「触らないで!」
「彼はここにいるの!」
「今度こそ聞こえたのに!」
その声は彼に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。
ここで手放したら、今度こそ本当にいなくなる。
そんな恐怖が、そのまま言葉になっているようだった。
「だめ……だめなの……!」
紬は震える声で叫ぶ。
「あなたの愛した人は、そんなこと望んでない!」
「うるさい!」
彩が泣きながら怒鳴る。
「何が分かるの!」
「いなくなった人の声が聞こえたのよ!」
「もう一度会えるかもしれないの!」
「それを諦めろなんて、そんなの……できるわけないじゃない!」
紬は言葉を失う。
その時だった。
工事現場の方から、小さな爆発音が響いた。
ばん、と乾いた破裂音。
その瞬間、乱れていた信号音が止まる。
ノイズも、声も、ぷつりと切れた。
彩の手が止まる。
「……あれ……?」
糸が切れたみたいに、彩の膝が揺れた。
紬はすぐに駆け寄る。
よく見ると、彩の周囲には薄い靄のようなものがまとわりついていた。
強い呪いではない。
けれど心の傷へ染み込んで、沈めるには十分な曇り方だった。
「第三階位――邪気を払い、その身を清めろ。ピュリフィ」
浄化の光が彩を包む。
靄が晴れていく。
彩の眼から、熱に浮かされたような色が引いていく。
「あれ……私……」
彩は自分の手を見た。
「痛い……」
血だらけの拳。
剥けた皮膚。
震える指先。
「なんで……なんで手から血が……」
ようやく、自分の体に自分が追いついてきたような声だった。
「もう大丈夫」
紬は肩を抱く。
「大丈夫だから……」
自分にも言い聞かせるみたいな声音だった。
その時、周囲から小さな悲鳴が上がる。
紬が振り返る。
工事現場の方から、一人の男が引きずられてきた。
首元を乱暴に掴まれ、足をもつれさせながら地面を擦っている。
その男を引いているのは、深紅のコートの男――紅だった。
煤で汚れた作業着。
顔には焦げ跡。
髪の先まで焼けている。
紅はその男を、紬たちの前に放り投げた。
「工事は止めた」
それだけを言う。
紬が息を荒げる。
「紅……! どこ行ってたのよ!」
「別を見ていた」
短い返答だった。
紅は彩を一瞥し、その血だらけの手を見たあと、工事員へ視線を落とす。
「余計な場所を触ったんだろう」
工事員は何か言い返そうとしたが、紅の目を見た瞬間に口を噤んだ。
彩はまだ息を乱しながら紅を見る。
「……あの声は……」
紅は少しだけ間を置いた。
「幽霊じゃない」
低い声が落ちる。
「だが、ただの幻聴でもない」
彩の目が揺れる。
「じゃあ、やっぱり隼人は……」
「自然に起きたものでもない」
紅は続ける。
「人の手が絡んでいる」
それだけだった。
彩の唇が震える。
「でも……でも、私は聞いたんです」
「確かに、彼の声を……」
紅は否定しなかった。
肯定もしなかった。
「そう聞こえる形で残っていたのかもしれん」
「あるいは、本当に一部だけ残っていたのかもしれん」
その曖昧さが、かえって残酷だった。
「どのみち」
紅の声が少しだけ低くなる。
「それを追っても、救いにはならん」
彩は首を振る。
「そんなの、分からないじゃない!」
「もしまだ彼がいるなら、私は――」
「今のお前の姿を見て、やつが喜ぶと思うか」
その一言で、彩の声が止まった。
紅は一歩も引かない。
「髪は乱れ、手は血だらけだ」
「自分が何をしていたのかも分からんほど追い込まれている」
「そんな姿を見て、死んだ人間が安堵すると本気で思うのか」
彩は自分の腕を見た。
血のついた手。
乱れた袖。
いつの間にか増えていた細い傷。
自分で自分を傷つけてきた痕が、服の隙間から覗いていた。
その時ようやく、彩は自分の姿を見た。
彼を失ってからずっと、心が崩れていたこと。
それに気づかないふりをしてきたこと。
泣いて、縋って、削れて、それでもまだ大丈夫だと思い込んでいたこと。
「……あ……」
掠れた声が漏れる。
「私は……」
紅の声は、そこで初めて少しだけ柔らかくなった。
「忘れろとは言わん」
夕方の風が、三人の間を抜ける。
「覚えていろ」
「忘れないまま、生きろ」
「それが生き残った側の役目だ」
彩の目から涙が溢れる。
今度の涙は、さっきまでの狂った熱ではなかった。
自分がどこまで壊れていたのかを知ってしまった人間の涙だった。
「……っ、ぅ……あ……」
言葉にならないまま、彩は泣き崩れる。
紬は何も言わず、その背中をさすり続けた。
助けきれなかった。
自分一人では止められなかった。
それでも今、彩がようやく自分自身を見たことだけは分かった。
紅はそれ以上何も言わない。
「依頼はこれで終わりだ」
彩の泣き声だけが、夕暮れの町に静かに残った。
夜。
町の地下。
通信施設の奥深く。
昼間の喧騒が嘘みたいな静寂の中を、革靴の音だけが響いていた。
カン、……カン、……カン。
紅は一人で歩いていた。
配線が剥き出しになった壁。
継ぎ足され続けた設備。
誰も見ない暗がりの奥で、それは埋め込まれていた。
禍々しい石。
通信機器の内部に食い込むように固定され、なお微かに魔力を漏らしている。
生きているようでもあり、死にきれていないようでもある、ひどく歪な石だった。
紅は足を止める。
「……やはりあったか」
石の奥で、何かがまだ軋んでいた。
声にはならない。
想いとも言いきれない。
ただ、燃え切れずに残ったものだけが、そこにあった。
昼間、信号の音に混ざっていた歪みを思い出す。
綺麗に届くはずもない。
それでも最後まで失われなかったものがあったのだろう。
「神秘を汚した末路がこれだ」
紅は帽子のつばを少し上げ、赤い眼で石を見下ろす。
「まがい物のくせに、厄介なことを」
石が微かに脈打つように光った。
助けを求めるように。
あるいは、まだこの世界に留まろうとするように。
紅は静かに手をかざす。
「安心しろ」
その声だけは、不思議と柔らかかった。
「依頼は守る主義でな」
指先に、小さな火が宿る。
「せめて、お前は俺が弔ってやる」
火が石を包む。
悲鳴はない。
叫びもない。
ただ、長く残りすぎた何かが、ようやく終わっていく気配だけがあった。
石はひび割れ、砕け、赤い火の中で灰になっていく。
紅はその火を、最後までじっと見つめていた。
これで依頼は終わりだ。
やがて地下に残ったのは、もう何の声もしない静寂だけだった。




