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紅の魔術師  作者: ベルナルド
1.5章

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第十二話 ep1 割れた鏡の向こう側③

 昨日と変わらない夕方だった。


 信号の電子音。

 急ぎ足で横断歩道を渡る人々。

 再開発の工事音が、絶え間なく街の空気を震わせている。


 何も変わっていない。

 そう思わせるには十分なほど、町は昨日と同じ顔をしていた。


 けれど、その景色の前に立つ二人だけは違った。


 電柱のそばで静かに息を整える星未彩。

 その隣で、自分を奮い立たせるように胸を張る一ノ瀬紬。


 紬はマギマギアで時刻を確認し、小さく頷いた。


「……うん。この時間」


 明るく言ったつもりだった。

 けれど、自分でも少し声が硬いのが分かった。


 彩が、ふと呟く。


「あの人は……来ないのね」


 紬は少しだけ口を尖らせた。


「あいつ、昨日あんなことだけ言って、どっか行っちゃったのよ」


 そう言いながらも、胸の奥には小さな不安があった。

 紅がいない。

 それだけで、このありふれた交差点が少し頼りなく見える。


 それでも紬は笑ってみせる。


「でも大丈夫。今日は私がちゃんと確かめるから」


 彩はその笑顔を見て、かすかに目を細めた。

 助けを求める時、人はたぶん、答えより先にそういう顔へ縋るのだ。


 彩はしゃがみこみ、昨日と同じ場所へ花を供えた。

 昨日の花はまだ綺麗なままだった。

 それでも、もう一度置く。


 彼のために。

 届くかどうかも分からないまま、それでもそうせずにはいられないみたいに。


「ねぇ、隼人」


 彩の声は驚くほど静かだった。


「あなたがいなくなってから、一年たったの」


 信号の電子音が一定のリズムを刻む。

 車が横を走り抜け、工事の音が遠くで金属を打つ。


「あなたがいなくなった毎日は、空っぽで……何もなかった」


 紬は黙って聞いていた。


 昨日、Emrysで泣いていた時より、今の彩の方が危うく見える。

 泣いていないからだ。

 涙の代わりに、何かひとつだけを支えに立っているような危うさだった。


「でも、そこにいるの……隼人?」


 彩の指先が電柱へ伸びる。


「私は、あなたがどんな姿でも気にしない」


 その手は震えていた。

 けれど、止まらない。


「お願い……あなたの声を聞かせて、隼人……」


 夕暮れの町は静かなままだった。

 何も起きないように見えた。


 そして。


「……愛してるわ、隼人」


 その瞬間だった。


 ぴ、……ぴ、ぴ――


 信号の電子音が乱れた。


 一定だったはずの音に、別の何かが割り込む。

 機械の正しい音ではない。

 削れたような、濁ったような、耳にざらつく異物。


 紬は目を見開いた。


「……来た」


 反射的に片手を掲げる。


「第三階位――その身は危険を探知する、エコーサイン」


 魔術が周囲へ広がる。

 空気の揺れ、音の反射、残滓、異質な流れ。

 拾えるものを全部掴もうと、意識を研ぎ澄ます。


 だが、地表には何もない。


 電柱も信号機も、道路も花も、見える範囲には異常はなかった。

 なのに、そこを通ってくる“声”だけがある。


「ごめ……ん……あ……や……」


 紬の背中が粟立つ。


 聞こえた。

 今度は自分にも。


「あ……い……し……てる……」


 それは確かに人の声だった。

 けれど、人がそのまま発した声ではない。


 ひどく歪んでいる。

 何か細いものを、無理やり通されてきたみたいに。

 音の形は崩れているのに、そこに宿る想いだけが妙に鮮明だった。


 彩は息を呑み、涙をこぼした。


「隼人……!」


 もう迷いはなかった。

 彼女の中では、今の声はもう隼人そのものだった。


「ねぇ、隼人……私もよ……私も……」


 彩は電柱を抱きしめる。


 冷たい金属の柱。

 なのに、その腕の中でだけは別のものになっていた。

 そこを通って、彼がこちらへ手を伸ばしているようにさえ思える。


 紬は探知をさらに深く潜らせる。


 地上にないなら、下だ。


 電柱。

 信号。

 地下。

 再開発。

 昨日、紅が何かを察したように黙り込んだ理由。


 意識を沈めた先で、紬はようやく感じ取る。


 地下深く。

 新しく繋がれた設備。

 そこを流れる、微かな異常。


 魔術だと断言できるほど明確じゃない。

 ただの機械のノイズとも違う。

 何か、こちら側へ滲んでくるものがある。


「……下?」


 紬が呟いた、その時だった。


「隼人……あなたに会いたいわ」


 彩の声が変わっていた。


「私は、あなたがいないとダメなの」


 その眼は、もう電柱を見てはいない。

 “そこに彼がいる”と信じきっている眼だった。


 紬は息を詰める。


 この人は最初から危うかった。

 昨日会った時から。

 いや、たぶんもっと前からずっと。


 髪の乱れ方。

 袖口の擦れ。

 ふとした拍子に見えた、浅い傷の痕。

 他人から見れば分かるのに、本人だけが気づいていないような崩れ方だった。


 そこへ、ようやく差し込んだ“まだ彼がいるかもしれない”という光。


 光だったからこそ、危うかった。


「星未さん」


 紬が呼ぶ。

 返事はない。


「星未さん、落ち着いて。聞こえたのは本当。でも――」


「邪魔しないで」


 低い声だった。


 彩がゆっくりと振り向く。

 その眼には涙がある。

 けれど、それ以上に強い熱が宿っていた。


「彼はここにいるの」


 彩の指先が電柱を撫でる。

 優しく。

 確かめるように。

 次第に、取り戻そうとするように。


「やっと……やっと見つけたのに」


 その手が、拳へ変わる。


「返して」


 鈍い音が鳴った。


 彩が電柱を殴ったのだと理解するのに、紬は一拍遅れた。


「返してよ!」


 もう一度。

 また一度。


 拳の皮が裂け、血がにじむ。

 それでも彩は止まらない。


「隼人を返して!」

「ここにいるんでしょう!?」

「だったら返してよ!」


「やめて!」


 紬が慌てて腕を掴む。

 けれど彩は、それを振り払った。


「触らないで!」

「彼はここにいるの!」

「今度こそ聞こえたのに!」


 その声は彼に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。

 ここで手放したら、今度こそ本当にいなくなる。

 そんな恐怖が、そのまま言葉になっているようだった。


「だめ……だめなの……!」


 紬は震える声で叫ぶ。


「あなたの愛した人は、そんなこと望んでない!」


「うるさい!」


 彩が泣きながら怒鳴る。


「何が分かるの!」

「いなくなった人の声が聞こえたのよ!」

「もう一度会えるかもしれないの!」

「それを諦めろなんて、そんなの……できるわけないじゃない!」


 紬は言葉を失う。


 その時だった。


 工事現場の方から、小さな爆発音が響いた。


 ばん、と乾いた破裂音。


 その瞬間、乱れていた信号音が止まる。

 ノイズも、声も、ぷつりと切れた。


 彩の手が止まる。


「……あれ……?」


 糸が切れたみたいに、彩の膝が揺れた。


 紬はすぐに駆け寄る。

 よく見ると、彩の周囲には薄い靄のようなものがまとわりついていた。

 強い呪いではない。

 けれど心の傷へ染み込んで、沈めるには十分な曇り方だった。


「第三階位――邪気を払い、その身を清めろ。ピュリフィ」


 浄化の光が彩を包む。


 靄が晴れていく。

 彩の眼から、熱に浮かされたような色が引いていく。


「あれ……私……」


 彩は自分の手を見た。


「痛い……」


 血だらけの拳。

 剥けた皮膚。

 震える指先。


「なんで……なんで手から血が……」


 ようやく、自分の体に自分が追いついてきたような声だった。


「もう大丈夫」


 紬は肩を抱く。


「大丈夫だから……」


 自分にも言い聞かせるみたいな声音だった。


 その時、周囲から小さな悲鳴が上がる。


 紬が振り返る。


 工事現場の方から、一人の男が引きずられてきた。

 首元を乱暴に掴まれ、足をもつれさせながら地面を擦っている。


 その男を引いているのは、深紅のコートの男――紅だった。


 煤で汚れた作業着。

 顔には焦げ跡。

 髪の先まで焼けている。


 紅はその男を、紬たちの前に放り投げた。


「工事は止めた」


 それだけを言う。


 紬が息を荒げる。


「紅……! どこ行ってたのよ!」


「別を見ていた」


 短い返答だった。


 紅は彩を一瞥し、その血だらけの手を見たあと、工事員へ視線を落とす。


「余計な場所を触ったんだろう」


 工事員は何か言い返そうとしたが、紅の目を見た瞬間に口を噤んだ。


 彩はまだ息を乱しながら紅を見る。


「……あの声は……」


 紅は少しだけ間を置いた。


「幽霊じゃない」


 低い声が落ちる。


「だが、ただの幻聴でもない」


 彩の目が揺れる。


「じゃあ、やっぱり隼人は……」


「自然に起きたものでもない」


 紅は続ける。


「人の手が絡んでいる」


 それだけだった。


 彩の唇が震える。


「でも……でも、私は聞いたんです」

「確かに、彼の声を……」


 紅は否定しなかった。

 肯定もしなかった。


「そう聞こえる形で残っていたのかもしれん」

「あるいは、本当に一部だけ残っていたのかもしれん」


 その曖昧さが、かえって残酷だった。


「どのみち」


 紅の声が少しだけ低くなる。


「それを追っても、救いにはならん」


 彩は首を振る。


「そんなの、分からないじゃない!」

「もしまだ彼がいるなら、私は――」


「今のお前の姿を見て、やつが喜ぶと思うか」


 その一言で、彩の声が止まった。


 紅は一歩も引かない。


「髪は乱れ、手は血だらけだ」

「自分が何をしていたのかも分からんほど追い込まれている」

「そんな姿を見て、死んだ人間が安堵すると本気で思うのか」


 彩は自分の腕を見た。


 血のついた手。

 乱れた袖。

 いつの間にか増えていた細い傷。

 自分で自分を傷つけてきた痕が、服の隙間から覗いていた。


 その時ようやく、彩は自分の姿を見た。


 彼を失ってからずっと、心が崩れていたこと。

 それに気づかないふりをしてきたこと。

 泣いて、縋って、削れて、それでもまだ大丈夫だと思い込んでいたこと。


「……あ……」


 掠れた声が漏れる。


「私は……」


 紅の声は、そこで初めて少しだけ柔らかくなった。


「忘れろとは言わん」


 夕方の風が、三人の間を抜ける。


「覚えていろ」

「忘れないまま、生きろ」

「それが生き残った側の役目だ」


 彩の目から涙が溢れる。


 今度の涙は、さっきまでの狂った熱ではなかった。

 自分がどこまで壊れていたのかを知ってしまった人間の涙だった。


「……っ、ぅ……あ……」


 言葉にならないまま、彩は泣き崩れる。


 紬は何も言わず、その背中をさすり続けた。

 助けきれなかった。

 自分一人では止められなかった。

 それでも今、彩がようやく自分自身を見たことだけは分かった。


 紅はそれ以上何も言わない。


「依頼はこれで終わりだ」


 彩の泣き声だけが、夕暮れの町に静かに残った。


 夜。


 町の地下。

 通信施設の奥深く。

 昼間の喧騒が嘘みたいな静寂の中を、革靴の音だけが響いていた。


 カン、……カン、……カン。


 紅は一人で歩いていた。


 配線が剥き出しになった壁。

 継ぎ足され続けた設備。

 誰も見ない暗がりの奥で、それは埋め込まれていた。


 禍々しい石。


 通信機器の内部に食い込むように固定され、なお微かに魔力を漏らしている。

 生きているようでもあり、死にきれていないようでもある、ひどく歪な石だった。


 紅は足を止める。


「……やはりあったか」


 石の奥で、何かがまだ軋んでいた。

 声にはならない。

 想いとも言いきれない。

 ただ、燃え切れずに残ったものだけが、そこにあった。


 昼間、信号の音に混ざっていた歪みを思い出す。

 綺麗に届くはずもない。

 それでも最後まで失われなかったものがあったのだろう。


「神秘を汚した末路がこれだ」


 紅は帽子のつばを少し上げ、赤い眼で石を見下ろす。


「まがい物のくせに、厄介なことを」


 石が微かに脈打つように光った。

 助けを求めるように。

 あるいは、まだこの世界に留まろうとするように。


 紅は静かに手をかざす。


「安心しろ」


 その声だけは、不思議と柔らかかった。


「依頼は守る主義でな」


 指先に、小さな火が宿る。


「せめて、お前は俺が弔ってやる」


 火が石を包む。


 悲鳴はない。

 叫びもない。

 ただ、長く残りすぎた何かが、ようやく終わっていく気配だけがあった。


 石はひび割れ、砕け、赤い火の中で灰になっていく。


 紅はその火を、最後までじっと見つめていた。


 これで依頼は終わりだ。


 やがて地下に残ったのは、もう何の声もしない静寂だけだった。

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