第十三話 ep2 黒焦げのパンプキンパイ
夕暮れだった。
人々が空腹を抱え、家路を急ぐ時間。大通りには買い物袋を提げた主婦や、疲れた顔の会社員、部活帰りの学生たちが流れるように行き交っている。
けれど、その賑わいから一本外れた路地裏には、そんな日常とは無縁の二人がいた。
「おい、小娘」
ゴミ箱の蓋を乱暴に持ち上げながら、紅が低く唸る。
「貴様のせいで、この俺が猫探しなどという羽目になっているのだが?」
鼻先を片手で押さえながら、紬は路地の奥をきょろきょろと見回した。
「だって、店長さん泣いてたんだもん」
「だからといって、なぜ俺がやらねばならん」
「優しいところあるよね、紅って」
「ない」
即答だった。
紅はゴミ箱の中身を睨みつけるように確認し、乱暴に蹴り戻す。
その音に驚いて、近くのカラスが一羽飛び立った。
「あの悪魔……よもやこの俺に、こんな依頼を寄越すとは」
「ねえ、紅。猫探しの魔術とかないの?」
「魔術を何だと思っているのだ、小娘」
「だって、全然見つからないんだもん」
紬がむっと頬を膨らませる。
紅は鬱陶しそうに赤い目を向けたが、そこでふいに物音が鳴った。
ガタッ。
二人が同時に振り向く。
路地裏の隅、積み上げられたコンテナの上に、一匹の猫がいた。
細身の身体。艶のある毛並み。
そして何より、光を受けて橙色にきらりと揺れる瞳。
「……ようやくお出ましか」
「絶対あれ!」
紬が小声で身を乗り出す。
紅は舌打ちを一つ落とし、掌に魔力を練った。
「騒ぐな。逃げられる」
「誰のせいだと思ってるの」
「貴様だ」
猫は二人の存在に気づいているのかいないのか、悠々と前足を舐めている。
あまりにも警戒心が薄い。
紅が小さく息を吐いた。
「第三階位――魔力は鞭となり、拘束する(バインド・ウィップス)」
掌から細い魔力の鞭が伸びる。
いつもの炎を纏った乱暴な術ではない。猫相手だからか、珍しく繊細に制御された一打だった。
鞭がしなり、猫へ向かって走る。
「にゃっ!?」
さすがに驚いたのか、猫が飛び退こうとした。だが、その瞬間に紬が前へ出る。
「第三階位――行動は遅れ、身体は重くなる(スロー・ダウン)」
「おい、外すなよ」
「わかってる!」
紬の魔術が猫の動きに絡みついた。
ほんの一瞬、跳躍の勢いが鈍る。
そこを紅の鞭が捉えた。
「にゃぁあっ!」
じたばたともがく猫を、紅は強引に腕の中へ引き寄せる。
途端に爪が飛んだ。
「ぐっ……! この畜生……!」
「紅、引っかかれてる!」
「見れば分かる!」
紅の腕の中で猫は信じられない勢いで暴れた。
毛を逆立て、逃げようと全力で身をよじる。
紬は慌てて杖代わりの端末を構える。
「第三階位――その身は疲れを感じ、眠りにつく(ウォーン・アウト)」
猫がもう一度鳴いた。
魔術が命中する。
さっきまで暴風のように暴れていた身体から、ふっと力が抜けた。
猫は紅の腕の中で小さく丸まり、そのまますうと寝息を立て始める。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせ、同時に大きく息を吐いた。
「私、たぶんペット飼えない」
「俺は二度と受けんぞ、こんな依頼」
そうして二人は、眠った猫を連れて bar ma-okama へ戻った。
扉を開けるなり、店長の甲高い声が響く。
「あらぁーーー! ガーネットちゃぁん!」
店長は飛びつく勢いで猫を受け取った。
厚い胸板に顔を埋めさせながら、うっとりと頬を寄せる。
「ほんとに、どこ行ってたのよぉ……」
「次からは首輪に鈴でも十個つけておけ」
「やだぁ、情緒がない」
「俺に情緒を求めるな」
店長は眠る猫の顔を持ち上げるようにして、紬に見せる。
「この子の目、きれいでしょぉ。ガーネットみたいな色してるの」
「ほんとだ……」
「確かにきれい」
「でしょう?」
橙色の瞳は、薄暗い店内の灯りを受けて宝石のように揺れていた。
だが紅はそれを見た途端、うんざりしたように目を逸らす。
「おい、貴様。二度とこういう依頼を出すなよ」
「えぇ〜? いいじゃない、たまには平和なのも」
「俺は紅の魔術師だぞ」
「知ってるわよぉ」
「だったら尚更、猫探しなど振るな」
「ごめんってば。その代わり、いつでも頼ってくれていいからさ」
「当然だ。さっさと報酬を寄越せ」
紅が手を差し出すと、店長は苦笑しながら封筒を渡した。
中身を確かめもせず懐へしまい込み、紅は踵を返す。
「小娘、帰るぞ」
「え、もう?」
「こんなところに長くいたくない」
「つれないわねぇ、紅ちゃぁん」
店長の甘えた声を無視し、紅はそのまま外へ出た。
閉まりかけた扉を紬が慌てて押さえる。
「ちょ、待ってよ!」
店の外は、もう夜の匂いが濃かった。
人通りの多い通りを少し歩き、二人は近道のため路地へ入る。
紅は無言のままだった。
紬は置いていかれないように、少し早足で背を追う。
そのときだった。
路地に入った途端、紅がぴたりと足を止めた。
「いたっ」
避けきれなかった紬が、硬い背中に額をぶつける。
「きゅ、急に止まらないでよ、紅……」
額を押さえながら文句を言いかけた、その瞬間。
「おい」
紅の声が低く落ちた。
「いつまで俺を見ているつもりだ」
紬は目を瞬かせた。
路地裏には二人以外、誰もいない。
「え?」
「この俺が気づいていないとでも思ったのか」
「な、何の話……?」
紅の手に炎が灯る。
揺らぐ橙が、路地の闇をじわりと押し返した。
「ずいぶんとなめられたものだ」
紬の背筋に冷たいものが走る。
「ちょ、紅、どうしたの――」
空間が、歪んだ。
何もなかった場所が、水面のように揺れる。
色が浮かび上がり、輪郭が生まれ、やがてそこに“何か”が立っていた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
皮膚は爬虫類のようにざらつき、鈍く光っていた。
手足は異様に長く、尾てい骨の辺りからは太い尾が伸びている。
顔立ちだけが辛うじて人間の名残をとどめていたが、その瞳には生き物めいた焦りと獣じみた警戒が同居していた。
「ようやくお目にかかれたよ」
そいつは口の端を吊り上げた。
「どうして俺がいるって分かった?」
「いくら目を誤魔化せても、微細な魔力までは消せん」
「はっ。さすがだな、紅の魔術師」
「悪いが」
紅の炎が強くなる。
「俺の言うことを聞いてもらうぞ」
次の瞬間、怪異は地を蹴った。
速い。
真正面から紅へ飛び込んでくる。
紅は最小限の動きで拳をかわし、そのまま炎を放った。
「甘いぜ!」
怪異は地面に手をつき、身体を跳ね上げる。
身軽な回避から、そのまま踵落としへ繋げてくる。
紅は空中へ小さな火球を放った。
閃光。
弾けた火が一瞬、路地を昼のように照らす。
だが怪異は熱で察したのか、すでに目を閉じていた。
殺しきれない。
踵が落ちる。
紅は両腕を交差して受けた。
凄まじい衝撃が路地に走り、地面がひび割れる。
「くっ……」
重い。
見た目以上の膂力だった。
怪異は着地と同時に身体をひねり、尾を鞭のように振るう。
紅は跳び退くが、風圧だけで頬が切れた。
「紅!」
紬が叫ぶ。
「下がっていろ!」
「でも――」
「邪魔だ!」
その言葉に、紬は悔しそうに歯を食いしばる。
だが一歩下がった。今はそれしかできないと、分かってしまったからだ。
「一筋縄ではいかないとはな」
「そっちこそ、伊達じゃねぇなぁ」
怪異の尾が揺れる。
その先端が金属のような鈍い光を帯び始めた。
「第三階位――身体の一部は、強度を増す(ハードネス)」
「……」
強化された尾が唸りを上げる。
紅は視線だけで周囲を測り、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。
「第三階位――鉄は形を変え、敵を打つ剣と化す(オルタネーション・ソード)」
鉄パイプが泥のように崩れ、瞬時に一振りの剣へ変わる。
紅は片手でそれを構えた。
「さすがは魔術師か」
「今さら感心してどうする」
「だがよ」
怪異は笑う。
その笑いの奥に、追い詰められた獣の色があった。
「俺だって、簡単に負けるわけにはいかねぇんだよ!」
尾が振るわれる。
紅が剣で受ける。甲高い音と火花が散った。
重い。
剣越しに腕へ痺れが走る。
怪異はそのままもう一度身を捻り、勢いを乗せて追撃した。
紅は剣の柄を両手で握り込む。
刀身に火が宿る。
「第三階位――媒体を通じ、火は吹き荒れる(フレイム・ストーム)」
炎が剣を走り、一気に膨れ上がる。
振り抜かれた一閃から、爆ぜるように火炎が迸った。
「が、ぁあああっ!」
炎が怪異を呑み込み、路地の壁を焼く。
熱風が紬の前髪を後ろへ煽った。
「あつっ……!」
思わず顔を庇う。
やがて炎が落ち着いたとき、紅の剣は役目を終えたように崩れ、黒焦げの鉄パイプへ戻っていた。
煙の向こうで、怪異が膝をついている。
皮膚は焼け、荒い息が漏れる。
それでも生きていた。
紅はゆっくりとそいつへ近づく。
怪異は顔を上げ、次の瞬間――勢いよく土下座した。
「悪かった!!」
「……は?」
「降参だ、降参! もうやめてくれ!」
紬が目を丸くする。
さっきまで殺気を撒き散らしていた相手とは思えなかった。
「間際らしい真似をしおって」
「だ、だって最初から話しても信じてもらえねぇと思ったんだよ!」
「だから襲いかかったと?」
「力ずくで従わせたら聞いてもらえるかと……」
「単細胞め」
紅は呆れ返ったように息を吐く。
「お前のせいで余計な力を使わされた」
「ぐうの音も出ねぇ……」
「最初からそう言えばよかっただろうが」
「だから、信じてもらえないと思ったんだって……」
怪異は震える手を握り締めた。
その爪の先が、自分の皮膚を引っ掻く。
「……俺は、戻りたいだけなんだよ」
「……」
「人間だったんだ、俺は」
紬の表情が変わる。
怪異は自分の両手を見る。
鱗の浮いた指先。曲がった爪。
見慣れてしまったはずのその姿を、まるで初めて見るように怯えていた。
「こんなもん、誰が好きでなるんだよ……」
声が掠れる。
強がりも虚勢も、そこで全部剥がれ落ちた。
「頼む。信じてくれ」
その一言だけは、襲ってきた怪物のものではなく、ただの男の声だった。
紅はしばらく黙ってそいつを見下ろしていた。
値踏みするような、突き放すような、冷たい視線。
だが、その奥で何かを計るようでもあった。
「……おい」
「は、はい」
「名は?」
「東間……東間誠司だ」
紅は無造作にその首根っこを掴んだ。
「あだっ!?」
「歩け」
「え、どこへ!?」
「話を聞く」
「って、引きずるなって! 歩ける歩ける!」
誠司の抗議など構わず、紅はそのまま歩き出す。
紬は口を半開きにしたまま立ち尽くしていたが、慌てて後を追った。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 結局どういうこと!?」
返事はなかった。
bar Emrys の扉が開く。
夜の匂いを連れて、三人は店内へ入った。
紅は誠司を床へ放り投げるように離した。
マスターがグラスを拭く手を止める。
「……紅様。すみませんが、当店はペットの持ち込みは」
「俺はペットじゃねぇ!」
「ほう」
「人間なんだよ!」
「そういう屁理屈は、さすがに苦しいかと」
「屁理屈じゃねぇって!」
マスターは困ったように誠司を眺めた。
「どう思う」
「どう、と言われましても……限りなく爬虫類ですな」
「だろうな」
「だから爬虫類じゃねぇ!」
誠司が半泣きで叫ぶ。
紬は可哀想だと思いつつ、少しだけ「分からなくもない」と思ってしまった。
紅が椅子へ腰を下ろす。
「さっさと説明しろ、トカゲ」
「トカゲって言うなよ……」
「次は焼いて食うぞ」
「野蛮すぎるだろ!?」
怒鳴り返したあと、誠司ははっと黙る。
そして、観念したように肩を落とした。
「……俺はよ、馬鹿なんだ」
「見れば分かる」
「そこは否定してくれよ……」
弱々しい笑いが、すぐに消える。
「仕事は裏の仕事だった。運びとか、脅しとか、汚れたことも散々やった」
「……」
「どうしようもねぇクズだ。自分でも分かってる」
誠司は膝の上で手を握る。
その指先がかすかに震えていた。
「でも、彼女ができた」
その瞬間だけ、声の温度が変わった。
「最初は、俺みたいなのに構うなって思ってた。なのにあいつ、何回追い返しても、晩飯できたから食ってけって言ってきやがるんだ」
「……」
「笑うんだよ。俺みたいなの相手に、当たり前みてぇに」
「それで、足を洗おうとしたのか」
「……ああ」
誠司は頷く。
「何度も言われてた。もうやめてって。危ない仕事なんかやめて、ちゃんと生きろって」
「だが、やめなかった」
「やめられなかった。金は良かったし、今さら真っ当に生きられるとも思えなかった」
自嘲が滲む。
「でもな……この前、とうとう本気で怒らせた」
誠司は視線を落とした。
「あいつ、泣いてたんだよ」
「……」
「もうやめてって。お願いだからって」
「……」
「そのとき初めて分かった。あれ、見放した言葉じゃなかったんだ」
誰も口を挟まない。
店の中に、氷が溶ける微かな音だけが落ちた。
「だから決めた。辞めようって。ちゃんと謝って、まともに働いて、それから会いに行こうって」
「それで?」
「その直後だ」
誠司の爪が、膝を掻く。
「マギマギアを取り上げられて、車が横についた。誰かに口を塞がれて、気づいたら知らねぇ場所だった」
「実験所か」
「たぶん、そうだ。薬品の匂いと、機械音がずっとしてた。何されたか全部は覚えてねぇ。ただ……痛かった」
その一言だけで十分だった。
「目が覚めたら、この姿になってた」
「……」
「逃げるので必死だった。死ぬかと思った。でも、もっと嫌だったのは――」
誠司は喉を詰まらせる。
「この姿じゃ、あいつに会えねぇってことだ」
拳が床に落ちる。
鈍い音がした。
「戻りてぇんだよ……」
「……」
「せめて、人前に立てるくらいには」
「……」
「いや、それが無理でもいい。ちゃんと謝りたいんだ。危ない仕事やめるって、ほんとは決めてたんだって、伝えたいんだよ」
ぼた、と雫が床に落ちる。
誠司は顔を伏せたまま、両手をつく。
「頼む」
深く、深く頭を下げる。
「伝説の紅の魔術師なんだろ」
「……」
「俺の依頼を、受けてくれ」
沈黙が落ちた。
紬は息を詰めて紅を見る。
紅は頬杖をついたまま、しばらく誠司を眺めていた。
冷たい赤い目。
けれど、その奥にはただの拒絶ではない色があった。
「おい、トカゲ」
「……っ、なんだよ」
「席につけ」
「え?」
「詳しく話せと言っている」
「そ、それって」
「みなまで言わせるな。鬱陶しい」
誠司の顔が、ゆっくり上がる。
驚きと信じられなさと、ほんの少しの光がそこに滲んでいた。
「受けて……くれるのか?」
「さっさと座れ」
「……っ、恩に着る!」
誠司は涙を拭うことも忘れ、もう一度深く頭を下げた。
紬は小さく息を吐く。
紅はそんな二人を見もせず、面倒そうに足を組んだ。
「ただし、勘違いするな」
「え?」
「お前を哀れんだわけではない」
「……」
「人の姿を歪める輩がいるなら、それが気に食わんだけだ」
「紅……」
「それと」
紅の赤い目が、誠司を射抜く。
「次に俺へ襲いかかったら、本当に焼いて食う」
「もうしねぇよ!?」
反射的に叫んだ誠司を見て、紬が吹き出した。
マスターもまた、わずかに目元を緩める。
だが、その笑いの奥で、夜は確かに深くなっていた。
この依頼は、ただの“元に戻りたい男”の話では終わらない。
そのことを、紅だけはもう悟っていた。




