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紅の魔術師  作者: ベルナルド
一章 紅の魔術師

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第八話 紡がれていく神秘

 空へ舞い上がったその存在を、何と呼べばいいのか。


 天使か。

 悪魔か。

 あるいは、そのどちらでもない何かか。


 片翼は、白く神々しい光を帯びていた。

 もう片翼は、夜の底を削り取ったように黒く、鋭く、禍々しい。


 冴の面影は確かに残っている。

 けれど、その眼だけは違った。


 人を見ていない。

 もっと高いところから、もっと冷たい場所から、すべてを見下ろしているような眼だった。


 神秘的だ、とすら思えた。


 だが、神秘とは本来、人を救うだけのものじゃない。


 時にそれは、牙を剥く。


「お、お姉ちゃん……?」


 紬の声は、かすれていた。


 目の前で、間に合わなかった。

 助けるはずだった姉は、すでに別のものへ変えられてしまっている。


 しかもその視線は、まっすぐに紬へ向けられていた。


 殺意を宿して。


 冴が、ゆっくりと手をかざす。


 その瞬間、周囲の魔力が一斉に震えた。

 光が、空気の中から引き剥がされるように集まり始める。


 その異常な起こりを、紅は誰よりも早く察知した。


「――小娘!」


 叫ぶと同時に、紅が床を蹴る。


 冴の周囲に集まった光は、もはや光ではなかった。

 圧縮され、尖り、純粋な殺意を混ぜ込まれた破滅そのものだ。


 冴の口が開く。


「――――」


 それは言葉だったのかもしれない。

 だが紬には、人の言葉として聞き取れなかった。


 直後、世界が白く染まる。


 轟音。

 熱。

 衝撃。


 紬は反射的に身を縮めた。

 逃げることも、防ぐこともできない。

 死ぬ、と本能が叫んだその瞬間、何かが自分を覆った。


 重い。

 熱い。

 焼けるような匂い。


 揺れが収まる。


 耳鳴りの中、紬はゆっくりと目を開けた。


 顔に何かが垂れてくる。

 温かくて、ぬるりとしている。


 赤。


 血だった。


 でも、自分の血ではない。


 上から落ちている。


 紬はおそるおそる顔を上げた。


 そこには、血だらけの紅がいた。


 深紅のコートは、もはや元の色が分からないほど黒く焼け焦げている。

 背中は無残に裂け、そこへ光の針のようなものが幾本も突き刺さっていた。

 右肩から脇腹にかけて、焼けた血の匂いが漂っている。


 それでも紅は、紬を覆うように立っていた。


「無事か、小娘」


「……く、紅?」


 答えた直後、紅の口から血がこぼれた。


「が、はっ……」


 その重みが、一気に紬へ倒れ込んでくる。


「きゃっ……!」


 受け止めきれず、紬はそのまま一緒に床へ崩れた。

 紅の身体は熱かった。けれどその熱は、いつもの威圧的な炎の熱とは違う。

 生命が削れていく、ぎりぎりの体温だった。


 紬の顔から血の気が引く。


「うそ……なんで……どうして……」


「まったく……割に合わない依頼だ……」


 紅は荒い息をつきながら、にやりと笑う。


 その笑みが、逆に紬を恐怖させた。


「だめ……!」


「紅、死んじゃだめ!」


「死ぬわけが……ないだろ……小娘……」


 そう言いながらも、声に力はない。


「だって、血が……!」


「血が、こんなに……!」


 紅は自分の身体を見下ろした。

 さすがに想像より酷いらしく、一瞬だけ眉を寄せる。


 そのとき、紬の視界にちらりと光るものがあった。


 紅の左手。

 そこには、あの質素な指輪が、今もかすかな熱を帯びて輝いていた。


 だが、紬がそれを深く認識する前に、紅はゆっくりとその手を下ろす。


「小娘」


 赤い眼が、まっすぐ紬を見た。


「お前が……救うのだ」


「む、無理だよ……!」


 紬は首を振る。


「私にそんな力……」


「言ったはずだ……」


 紅の唇が、血に濡れながらもわずかに動く。


「諦めても……何も生まれやしない」


「あと……は、頼んだぞ……つむ、ぎ……」


 そこで、紅の目がゆっくりと閉じられた。


 その瞬間、紬ははっきりと感じてしまう。


 腕の中のぬくもりが、静かに遠ざかっていくのを。


「……くれない?」


 返事はない。


 それがどれほどの時間だったのか、紬には分からなかった。


 ただ、そこで泣き崩れれば、本当に全部終わる。

 そんな予感だけがあった。


 紬はきつく目を閉じる。


 思い出すのは、むかつく顔ばかりだ。

 偉そうで、口が悪くて、何度も自分を突き放してきた男。


 でも。


 その誰よりも先に助けに来てくれたのも。

 諦めるなと言い続けたのも。

 自分を信じろとは言わず、それでも前へ押し出したのも、あの男だった。


 紬は目を開ける。


 そして、紅をそっと床へ横たえた。


 震える足で立ち上がる。


 空には、まだ冴がいた。

 静かに。

 まるで、紬が来るのを待っていたみたいに。


「お姉ちゃん」


 声は震えていた。

 でも、逃げなかった。


「私が……救ってあげるからね」


 そう言って浮かべた笑顔は、無理に作ったものじゃない。

 泣きそうで、怖くて、それでも姉へ向ける慈愛だった。


 紬は腕を掲げる。


「第三階位――降り注ぐ光は、矢となり、すべてを貫く《サンライト・レイン》!」


 空へ放たれた光が、無数の矢へ形を変える。

 陽光の欠片みたいな白い矢が、雨のように冴へ降り注いだ。


 だが冴は、動じない。


 ゆっくりと片手を上げる。


 その一動作だけで、空間が支配された。


 降り注ぐはずの光矢が、冴の掌へ吸われるように軌道を変える。

 ひとつ、またひとつと収束し、やがて一本の巨大な矢になる。


「そんな……」


 紬の背筋を冷たいものが走る。


 次の瞬間、冴の口から再びあの不明な言葉が漏れた。


「――――」


 巨大な光矢が放たれる。


 真っ直ぐではない。

 意思を持つようにうねり、紬だけでなく、その後方に倒れる紅すら狙う軌道を描いていた。


 紅の身体に、これ以上傷をつけさせるわけにはいかない。


 紬は迷わず手を前へ出す。


「第三階位――光は収束し、巨大な盾となる《サンライト・シールド》!」


 目の前へ巨大な光盾が展開される。


 光矢が激突した。


 衝撃で床が軋む。

 盾の表面にひびが走る。

 だが、止まった。


「……っ、止まった……!」


 そう思ったのも束の間だった。


 矢が回転し始める。


 ぎゅるぎゅると、不気味な音を立てながら。

 まるで巨大なドリルみたいに、盾を抉り始めた。


「うそ……!」


 ひびが広がる。

 中心に、小さな穴が空く。


 紬の額に汗が浮かぶ。


 足を踏ん張る。

 盾を押し返すように、全身へ力を込める。


「ぐぅぅぅぅぅっ……!」


 腕が悲鳴を上げる。

 肩が裂けそうに痛い。

 それでも退けない。


 盾の向こうには、自分だけじゃない。

 紅がいる。


 姉を救うと決めた今、ここで崩れるわけにはいかない。


 ついに――


 盾が砕けた。


 だが同時に、光矢も耐えきれず弾け飛ぶ。


 破片のように散った光が、雨みたいに周囲へ落ちた。


 紬が荒い息を吐く。


 耐えた。

 そう思った、その瞬間。


 風が目の前を裂いた。


「え――」


 冴だ。


 いつの間にか上空から舞い降り、紬の目前まで迫っていた。


 防御魔術を展開しようと手を上げる。

 だが、遅い。


 次の瞬間には、冴の細い指が紬の首へ添えられていた。


 添えられた、と思った。


 直後、万力のような力が喉へ食い込む。


「っ……!」


 視界が揺れる。


 身体が持ち上がる。


 冴の片手だけで、紬は床から浮かされていた。


「や……やめて、お姉ちゃん……!」


 苦しい。

 空気が入らない。


「私だよ……!」


「お姉ちゃんの……大好きな、紬だよ……!」


 冴の表情は変わらない。


 その眼には何の反応もない。

 むしろ、その声を消そうとするみたいに、指の力がさらに強くなる。


「あ……が……っ」


 紬の足が空を蹴る。

 視界の端が暗く染まり始める。


「お、おねえちゃん……」


「だめ……帰って、きて……」


 かすれる声は、自分でも驚くほど弱かった。


 だが、それでも紬の眼だけは、諦めていなかった。


 紅は、自分に託した。


 あの男が、最後に頼んだ。


 なら。


 応えないまま終わるわけにはいかない。


「お……ねえ……ちゃん……」


「わ、たし……だよ……」


 最後の言葉とともに、紬の目から一滴の涙がこぼれた。


 頬を伝い、冴の手へ落ちる。


 その瞬間。


 ぴくり、と冴の指が止まった。


 紬の首を絞める力が、わずかに緩む。


「あ……」


 冴の唇が動く。


「……づ、むぎ?」


 紬の目が見開かれる。


 冴が、後ずさる。


 無意識か。

 意識が戻りかけているのか。

 それは分からない。


 だが、確かな変化だった。


 紬は床へ膝をつき、激しく咳き込む。


「かはっ……はあっ……はあっ……!」


 潰れかけた喉へ、必死に空気を流し込む。

 痛い。

 苦しい。

 でも、生きている。


 冴が止まった。


 その事実だけで、紬はもう一度、声を出せた。


「お姉ちゃん……」


 涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも笑おうとする。


「私、いつも迷惑ばっかりかけて、ごめん」


「これからも、たぶん……いっぱい迷惑かけると思う」


「でも」


 息を吸う。


「私は、もう諦めない」


 その声には、もう迷いがなかった。


「何度絶望しても、何度地面に倒れても」


「私の夢はね――」


 一瞬、言葉が詰まる。


 最初は、姉に並びたかった。

 姉を助けたかった。


 でも今は、それだけじゃない。


 脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。

 むかつくくらい偉そうで、不器用で、でも誰よりも遠い背中を見せた男。


「お姉ちゃんと……いや」


 紬は首を振る。


「お姉ちゃんも、紅も、みんなより強くなること」


「私が、みんなを守ってみせること!」


 それが今の自分の夢だった。


 言い切った瞬間、紬の中で何かが定まる。


 冴の眼から、涙がこぼれた。


 本来なら流れないはずの、変異したその顔から。


 透明で、けれど光を受けて宝石みたいに輝く一筋の涙。


「……づむぎ……」


 その声は、冴のものだった。


 そこへ、不意に匂いが混じる。


 煙草。


 ありえないはずの匂いだった。


 次いで、重い足音。


 聞こえるはずのない足音。


 紬が振り返る。


 そこにいたのは、憎たらしいほど見慣れた男だった。


「よくやった、小娘」


 帽子のつばを押さえ、口元に煙草を咥えたまま、紅が立っている。


「契約は満たされた」


「今、小娘の依頼を遂行する」


「……なんで」


 紬の声が震える。


「なんで、あなたが……」


「死んだ、はずじゃ……」


 紅は鼻で笑った。


「勝手に殺してもらっては困る」


「俺は少し、休んでいただけだ」


 そう言って片手を上げる。


 質素な指輪が、微かに赤熱していた。

 その光は一瞬で消える。


 紬はそれを見た。

 だが、問いかける余裕はない。


「ま、紛らわしいのよ!」


「ほざくな」


 紅は紬の抗議を一蹴し、煙草を口から離す。


 白い煙が立ち上る。


 その視線が、空に浮かぶ冴へ向けられた。


「美しい涙だ」


「まさに神秘的だ」


 だが、その赤い眼は冷たい。


「だが、俺はその神秘を否定する」


「俺の神秘は、失われる輝きではない」


「輝き続けるものだ」


 紅の周囲に陽炎が立ち昇る。


 熱が空気を押し上げ、床の破片がかすかに跳ねる。


 そして、詠唱が始まる。


「我は火なり」


 低く、深い声。


「遍く文明は、掌に灯った微かな熱より始まった」


 陽炎が一段、濃くなる。


「たとえ果てなき旅路の末、星の火が尽きようとも」


「我が想いが焦がれるは、誰の手も届かぬ“無”」


「――どれほど時間を費やそうと」


「――どれほど無謀な“奇跡”であろうと」


「――この灯だけは、消えはしない」


 紅が手を開く。


 そこに宿ったのは、本当に小さな灯火だった。


 紬が四話で見た火種より、さらに小さい。

 今にも消えてしまいそうなほど儚い。


 けれど、その灯に宿る想いは、何倍にも重く感じられた。


「第一階位――人智を啓く黎明のアトラム・ハシース


 指先で弾く。


 火種は冴へ向かって飛ぶ。


 だが、それは肉を焼くための火ではなかった。


 触れた瞬間、火は冴の内部へ沈み込んだ。

 皮膚を焦がさず、翼も裂かず、肉体の奥へ、奥へ。


 まるでその身に巣食う毒だけを見つけ出し、焼き払うように。


 冴の身体が震える。


 白と黒の翼が大きく広がり、次の瞬間、ぼろぼろと崩れ始めた。

 光のように砕け、灰のように散り、夜の空気へ消えていく。


 歪んだ魔装の気配も、異形の圧も、少しずつ剥がれていく。


 やがて、そこに残ったのは――見覚えのある冴の身体だった。


「お姉ちゃん!」


 紬が駆け出す。


 冴はまだ状況を理解しきれていないようだった。

 けれど、自分の胸へ飛び込んできた妹の温もりだけは、確かに受け止める。


「つ、紬……?」


「お姉ちゃん……っ、お姉ちゃん……!」


 紬はぐしゃぐしゃに泣きながら抱きつく。


 冴も、震える腕で妹を抱き返した。


 その様子を見て、声を上げる男がいた。


「馬鹿な!」


 和田だ。


「あれは……私たちの研究の結晶だぞ!」


「魔人化は、死ぬまで切れることがない!」


「それを、時代遅れの魔術師なんぞに……!」


 現実を認められない。

 認めた瞬間、自分の全てが崩れるからだ。


 和田は半ば泣き喚きながら後ずさる。


 そこへ、紅が歩み寄る。


 一歩。

 また一歩。


「なあ、お前」


 見下ろす眼差しは、もはや人へ向けるものではない。


 ゴミを見る目だった。


 和田はその視線だけで震え上がる。


「あ……あああ……や、やめ……」


 恐怖で腰が抜ける。

 下半身から嫌な臭いが立つ。


 紅は鼻で笑った。


「貴様、脂が乗っているな」


 指を鳴らす。


 それだけで、和田のシャツへ火が宿った。


「ぎゃあああああああああっ!!」


 炎は一瞬で全身へ走る。


 助けを求める悲鳴も、転げ回る音も、紅は振り返らない。


「油は、よく燃える」


 淡々と吐き捨て、そのまま姉妹の方へ歩き出す。


 背後では、和田が火だるまのまま崩れ落ちていく。


 紅は帽子のつばを押さえ、にやりと笑った。


「これにて、依頼達成だ」


 そこにはいつものように、傲慢で、強くて、どこか人を食った笑みを浮かべる、紅の魔術師が立っていた。

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