第六話 縛ること、縛られること
今日もまた、デスクに縛りつけられた社員たちがいた。
モニターの明かりに顔色を失い、上司の小言に肩を縮め、人間らしさを削られていく労働時間をただ耐える者たち。
スカイローク社のオフィスに漂う空気は、清潔さとは裏腹に、どこまでも淀んでいた。
そんな中でも、専務・和田英輔の機嫌は最悪を通り越していた。
「分かっているのか!」
怒声が執務室に叩きつけられる。
「あのデータが魔導局に渡れば、この会社は終わりだ!」
「さっさと取り戻せ!」
机を挟んで立つ部下たちは、誰ひとりまともに目を合わせられない。
「ですが……餓楽は全滅しました」
「役に立たんゴミどもが!」
和田は机の上の灰皿を掴み、そのまま部下へ投げつけた。
灰皿は壁にぶつかって砕け、乾いた音を立てる。
和田の息は荒い。
大きく突き出た腹が苛立ちとともに膨らみ、額には脂汗が滲んでいる。
「一ノ瀬冴の尋問はどうなった!」
「……まったく口を割りません」
「もういい!」
和田は吐き捨てるように叫び、椅子を蹴り飛ばした。
「私が直接やる!」
巨体を揺らしながら、執務室を飛び出す。
狭い通路が余計に窮屈に見えた。
エレベーターには乗らない。
苛立ちに任せた足取りのまま、セキュリティロックのかかった通路を進み、地下の拘束室へ向かう。
分厚い扉の前に立ち、苛立ち紛れにカードキーを乱暴に押し当てる。
認証音が鳴り、扉が開いた。
中は薄暗かった。
部屋の中央に置かれた椅子へ縛りつけられるようにして、一人の女が座らされている。
一ノ瀬冴。
白い肌には青痣が広がり、唇は切れていた。
金色の髪も乱れ、制服はところどころ破れている。
それでも、その瞳だけは死んでいなかった。
その隣には、ひとりの男が立っている。
太い首。
鍛え抜かれた肩。
拳を握るだけで骨が軋むような錯覚を覚える肉体。
腕には古傷が何本も走っていた。
それがただの飾りではなく、本物の戦場を潜ってきた証だと分かる。
「おい、傭兵」
和田が声をかける。
「何か吐いたか?」
男は首を鳴らし、拳を軽く握ってから振り返った。
「何もだ」
「ちっ、使えん」
和田は舌打ちし、冴の前まで歩み寄る。
汚らしい指が冴の頬を乱暴に掴んだ。
爪が食い込むほどの力で顔を上へ向けさせる。
「国の犬め」
「よくも私を出し抜いてくれたな」
冴はゆっくりと目を開く。
そして和田の顔を見るなり、心底見下したように笑った。
「ざまあないわね」
「貴様!」
怒りに任せて、和田は膝を冴の腹へ叩き込む。
鈍い音が響く。
だが、冴の口から血はこぼれなかった。
代わりに、和田の膝の方が痛みに顔を歪める。
「ぐっ……化け物め」
冴は薄く笑ったままだった。
「その顔、似合ってるわよ」
和田の顔色がさらに悪くなる。
「いつまでその余裕が続くかな」
頬を引きつらせながら、低く吐き出す。
「貴様の目の前で、大事な妹をいたぶり、もてあそび、最後は惨めに殺してやる」
その言葉にも、冴は怯まない。
むしろ、鼻で笑った。
「あはは……無理よ」
「あなたじゃ、彼には勝てないわ」
「何が紅の魔術師だ!」
和田が怒鳴る。
「時代遅れの魔術師ごときに、この私が遅れを取るとでも――」
「ええ」
冴ははっきりと言い切った。
「彼は伝説よ」
その声には、迷いがなかった。
和田の顔が怒りで歪む。
拳を振り上げ、今度こそ殴りつけようとした、そのとき。
「安心しろよ、和田さん」
横から声が飛ぶ。
傭兵だった。
「俺は国家魔導士だって潰したんだ」
「魔術師程度に後れを取るわけがないだろ」
冴はその男を睨みつける。
「……隙を突いただけのくせに」
「それに、その魔装。違法もいいところよ」
傭兵は喉の奥で笑った。
「あははは。言い訳ご苦労様だ」
そう言いながら、冴の髪へ手を伸ばす。
金の髪を指先で撫でるように弄ぶその仕草に、冴の背筋が総毛立つ。
「なあ、女」
「俺の女になれよ。そうしたら命くらいは助けてやる」
「冗談じゃないわ」
冴は吐き捨てた。
「絶対に殺してやる」
傭兵の目が細くなる。
「その強気が、いつまで持つかな」
再び拳を振り上げる。
その拳が振り下ろされる寸前だった。
甲高い警告音が社内に響き渡った。
この拘束室だけではない。
会社全体を、耳障りなほどの警報が包み込む。
続いてアナウンスが鳴った。
『侵入者を確認。エントランスで交戦中。至急、応援を――』
そこまで言ったところで、悲鳴と雑音が混ざって途切れる。
「な、やめ――ぐぁああああっ!」
切断された音声が、かえって生々しかった。
傭兵の口元がゆっくりと吊り上がる。
「来たか、老兵」
本来なら静寂を保つはずのエントランスは、すでに戦場へ変わっていた。
床に転がる警備員。
砕けた観葉植物。
割れたガラス。
火災報知器の赤い光が明滅し、白い壁を不気味に染めている。
その中心で暴れているのは、たった二人。
一人は、深紅のコートを翻す男。
一人は、まだ幼さを残した金髪の少女。
紅は片手を振るうたび、業火を蛇のように走らせる。
炎は廊下を這い、盾を構えた警備員ごと呑み込み、天井のスプリンクラーが作動する前に蒸発させていった。
その横で、紬は呼吸を整えながら周囲を見回す。
まだ完璧じゃない。
でも、もう昨日までの自分じゃない。
「第三階位――光は集まり、破裂する《シャイニング》!」
掲げた手の先に、白光が圧縮される。
次の瞬間、それは小型の閃光弾のように炸裂した。
「うあっ!?」
「目が――!」
警備隊の視界が焼かれる。
そのわずかな隙を、紅は逃さない。
「遅い」
紅の足が床を滑るように走る。
次の瞬間には敵の懐へ踏み込み、燃え上がる拳で一人の腹を打ち抜いていた。
装甲越しに熱が内部へ侵入し、男は悲鳴すら上げきれず崩れ落ちる。
さらに振り向きざま、紅は指を鳴らした。
小さな火種が三つ、空中に生まれる。
それは弾丸のような速度で飛び、倒れかけた警備員たちの武器だけを焼き潰した。
紬は思わず息を呑む。
無駄がない。
荒っぽいようでいて、必要以上には壊していない。
暴れているのに、戦い方が洗練されすぎていた。
「ぼさっとするな、小娘」
「は、はい!」
返事と同時に、紬は床を蹴る。
右から突っ込んでくる警備員の腕に光を走らせ、持っていた警棒を弾き飛ばす。
まだ威力は甘い。
それでも、崩すには十分だった。
紅がその横を通り過ぎざま、肩に火を滑らせる。
男は痺れたように倒れ、動かなくなる。
その連携だけで、エントランス中央の制圧はほぼ終わった。
だが、次の瞬間。
館内放送が、怒鳴るような声で再び響く。
『貴様ら! 私の会社をめちゃくちゃにしおって!』
『何を考えている! 正式な令状はあるのか!』
和田の声だった。
苛立ちと恐怖が混ざり、半ば悲鳴みたいになっている。
それを聞いた紅は、天井を見上げて高らかに笑った。
「ふははははは!」
「俺はただ、依頼をこなすために来ただけだ」
炎をまとった手をゆるく開く。
「法など知るか」
「文句があるなら、止めてみろ」
直後、スピーカー越しに何かを叩きつける音がした。
たぶん、和田がまた机でも殴ったのだろう。
『殺せ! やつらを殺せ!』
その号令とともに、奥の通路から重い足音が響き始めた。
現れたのは三人。
警備隊とは明らかに違う空気をまとっている。
黒を基調とした実戦用魔装。
肩口には、AGSの白いロゴ。
「ようやくお出ましか」
紅の口元が歪む。
「AGS――世界最大の民間軍事会社」
「犬どころか、金で売られた狼だな」
両手に火が灯る。
それを見て、紬はわずかに息を呑んだ。
傭兵。
その言葉だけで、恐怖とは別の冷たさが背中を走る。
けれど、逃げない。
拳をぎゅっと握りしめ、前を見る。
最初に動いたのは刀の傭兵だった。
「きええええっ!」
奇声とともに踏み込み、床を滑るように一気に間合いを詰めてくる。
常人なら反応もできない速度。
紬は咄嗟に腕を向けた。
「第三階位――光は収束し、炸裂する《ライトボール》!」
手のひらに圧縮した光塊を撃ち出す。
だが、命中するより早く、傭兵の刀が振るわれた。
斬。
閃光そのものが、真っ二つに裂けた。
「えっ――!?」
紬の目が見開かれる。
魔術を、斬った。
理解が追いつかない。
だがその隙に、刀の傭兵はすでに目の前まで来ていた。
振り下ろされる刃。
その瞬間、横から業火が奔った。
「飛んで火に入る夏の虫だな」
紅の炎が傭兵の胴を薙ぎ払う。
魔装が悲鳴のような音を上げ、男は吹き飛ばされた。
しかし、そこで終わらない。
残る二人が、ほぼ同時に魔術を展開する。
「第三階位――水は鎖となり、拘束する《ウォーター・バインド》!」
「第三階位――雷は迸り、痺れを与える《サンダー・パラライズ》!」
床の散水と空気中の湿気が一斉に収束し、水の鎖が蛇のように伸びる。
同時に走った雷光が、視界を白く塗りつぶした。
「っ!」
紬は反射的に防御魔術を展開する。
「第三階位――光は収束し、盾と化す《ライトシールド》!」
薄い光の壁が前方へ展開される。
だが、二つの魔術を一度に受け止め切るには、まだ薄すぎた。
雷が盾を貫く。
痺れが腕を走り、肩から指先まで感覚が乱れる。
「ぐっ……!」
膝が落ちそうになる。
一方、紅へ伸びた水の鎖は、その身体を確かに捕らえた――ように見えた。
「捉えたぞ!」
傭兵が叫ぶ。
だが次の瞬間、縛られていた紅の身体が、熱の揺らぎとともに崩れた。
陽炎。
ただの残像だった。
「何――」
その言葉が最後まで続かない。
瞬きひとつ分のあとには、紅はもう敵の懐にいた。
片手で一人の顔を鷲掴みにし、そのまま床へ叩きつける。
大理石が陥没するほどの衝撃。
骨の軋む嫌な音が響く。
もう一人へ振り向きざま、紅は逆の手で喉元を掴んだ。
指先から炎が線のように走り、魔装の動力部を一瞬で焼き切る。
「がはっ……!」
二人の傭兵が同時に崩れ落ちる。
意識を失ったことで、紬を蝕んでいた痺れも薄れていった。
紬は荒い息を吐きながら顔を上げる。
そのとき、最後の一人が銃を抜いていた。
狙いは紅の背中。
紅は気づいていない。
いや、気づいていても避ける気がないのかもしれない。
でも、紬の身体はもう動いていた。
守るために。
ただ、それだけの想いで。
「第三階位――光は収束し、闇を貫く《ライトレイ》!」
空気だけじゃない。
周囲の光そのものが、紬の腕へ、手のひらへ、一直線に集まっていく。
今度はぶれない。
恐怖に飲まれない。
意識は、標的だけを捉えていた。
解き放たれた白線が、廊下を真っ直ぐ裂く。
銃を構えた傭兵の肩を貫通し、その衝撃で銃ごと腕を弾き上げた。
「ぐあああっ!」
銃声は鳴らない。
床へ落ちた拳銃が乾いた音を立てる。
紅は背後を振り返らないまま、ゆっくりとコートの襟を整えた。
「……図に乗るな、小娘」
だがその声音には、わずかに満足が混じっていた。
紬は息を乱したまま、自分の手を見る。
成功した。
今のは、確かに自分の魔術だった。
守れた。
紅を、守れた。
胸の奥に高揚がせり上がる。
緊張と興奮で指先が震えた。
「え、ええ……もちろん……」
声が少し裏返った。
その瞬間だった。
エレベーターの到着音が鳴る。
がこん、と重い音を立てて扉が左右に開いた。
中から現れたのは、ひと目で分かるほどボロボロになった冴だった。
「……お姉ちゃん」
紬の顔から血の気が引く。
乱れた金髪。
傷だらけの顔。
制服は破れ、腕には痣が走っている。
その冴の髪を、和田が乱暴に掴んでいた。
まるで見せつけるように、引きずるように。
そして、その隣にいた。
さっきまでのAGS傭兵たちとは違う。
空気そのものが重い。
鍛え抜かれた肉体。
揺るがぬ重心。
そこに立っているだけで、場の支配権を奪う男。
「お姉ちゃんに触るな!」
紬の中で何かが切れた。
ついさっきまで成功していたはずの呼吸も、集中も、全部吹き飛ぶ。
感情が先に走る。
腕を向け、踏み出しながら魔術を放つ。
「第三階位――光は収束し、闇を貫く《ライトレイ》!」
だが、甘い。
怒りに引っ張られた魔術は、収束が荒い。
一直線ではなく、熱を帯びたまま乱れていた。
傭兵は動かない。
ただ片腕を持ち上げた。
その剛腕が、飛来した光線を真正面から受け止める。
光が肉を焼く前に、魔装の補助フィールドが衝撃を殺し、傭兵はそのまま握り潰すように光を散らした。
「なっ――」
紬が目を見開く。
次の瞬間、男の姿がぶれた。
本当に一瞬だった。
動いたと認識したときには、もう目の前にいる。
拳が腹へめり込んだ。
鈍い衝撃が、身体の芯まで突き抜ける。
「が、はっ……!」
肺から空気が全部押し出された。
床が遠ざかり、壁が迫る。
紬の身体はそのまま吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられて床へ転がった。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
何が起きたのか、すぐには理解できない。
ただ、痛い。
息が吸えない。
立ち上がるどころか、指先ひとつ思うように動かない。
「紬!」
冴が叫ぶ。
今にも駆け出しそうなその身体を、和田が髪を引いて無理やり止めた。
「貴様はそこで見ていろ!」
紬は床へうつ伏せたまま、かろうじて顔だけを上げる。
視界の中で、傭兵が紅へ向き直った。
「おや?」
口元に獰猛な笑みを浮かべる。
「なぜ庇わない?」
紅は、倒れた紬を一度も見ない。
ただ、煙草のケースを取り出し、一本を口に咥えた。
「あの小娘の選択に、口を出すつもりはない」
指が鳴る。
火が灯る。
煙草の先端が赤く燃え、細い煙が静かに漏れた。
傭兵が笑う。
「意外だな。えらく気に入ってるように見えたが」
「俺も意外だ」
紅の赤い眼が、傭兵を射抜く。
「お前のような男が、まだ生き残っていたとはな」
その瞬間。
二人の周囲を囲むように、陽炎が立ち上った。
床が歪み、景色が揺れる。
まるでこの場だけ温度が異常に上がったみたいに、空気そのものが戦意を帯びる。
陽炎は円を描くように広がり、冴も和田も、誰も容易には踏み込めない領域を作り上げていく。
傭兵の笑みがさらに深くなる。
「どうやら、俺のことも気に入ってくれたらしい」
「貴様との闘いは、誰にも邪魔させん」
紅は不敵に笑った。
「それはこちらの台詞だ」
火が、指先で揺れる。
紬は床に倒れたまま、その背中を見ていた。
深紅のコート。
立つだけで戦場を支配する男。
その前に立つ、怪物のような傭兵。
次に何が始まるのか。
それを理解するには十分すぎるほどの熱が、その場には満ちていた。




