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紅の魔術師  作者: ベルナルド
一章 紅の魔術師

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第五話 成長はほろ苦くできている

 閑散としたバーに、二人分の足音が響いた。

 

 ひとりは、どこか機嫌のよさそうな紅。

 もうひとりは、現実をまだ飲み込みきれていない紬だった。


「その様子ですと、収穫はあったようですね」


 カウンターの奥で、マスターが穏やかに微笑む。


「ああ」


 紅は椅子に腰を下ろしながら答えた。


「魔人と戦闘した」


 その一言に、マスターの目がわずかに細くなる。

 驚きよりも、羨望に近い色だった。


「それはまた、実にうらやましい」


「だろう?」


 紅は喉の奥で笑う。


「思わず、あの魔術を使ってしまった」


「それは祝いの一杯が必要ですね」


 マスターは棚の奥から瓶を取り出し、紅のグラスへ酒を注ぐ。

 琥珀色の液体が、静かに満ちていく。


 そして紬の前には、いつものようにオレンジジュースが置かれた。


 氷が小さく鳴る。


 紬はそれを見下ろし、無意識にストローへ手を伸ばした。

 喉は渇いていたはずなのに、今日は妙に飲む気になれない。


「やつらの親玉はスカイローク社だ」


 紅がグラスを軽く揺らしながら言う。


「専務の和田英輔」


「なるほど。スカイローク社でしたか」


「知っているのか、マスター」


 問われたマスターは、一度だけ自分のグラスを傾け、それから静かに置いた。


「ええ。最近、魔導具の製造で急に名が売れ始めた会社です」


「もっとも、あまりに値段が安すぎた。嫌な予感はしていましたが……」


 そこで言葉を切り、少しだけ息を吐く。


「まさか、そこまで当たっていたとは思いませんでした」


「安全性を削って、性能と価格だけを整えたか」


 紅は鼻で笑う。


「なるほど。実に分かりやすい」


 グラスに残った酒を飲み干し、紅は立ち上がった。


「なら話は早い。朝には向かって、まとめて潰す」


「噂ですが、最近はAGSとも契約したようですよ」


 その言葉に、紅の口元が吊り上がる。


「ほう。金に尻尾を振る傭兵どもか」


「いい運動になりそうだな」


「きっと、お気に召すかと」


 そこで紅は、ようやく紬を見た。


 赤い眼が、容赦なく少女を射抜く。


「おい、小娘」


 紬の肩がびくりと震える。


「貴様は足手まといだ」


 喉が詰まる。


「ここにいろ」


 それは命令だった。

 反論も、相談も、最初から許さない声音。


 紅はもう興味を失ったみたいに背を向ける。

 そのまま帰ろうとする紅へ、紬は慌てて声を上げた。


「ま、待って!」


「私も行く!」


 紅の足が止まる。


「魔術もまともに扱えない分際でか?」


 振り返ったその眼差しは、冷たい。

 そして紬の腕――ひびの入ったマギマギアへ落ちた。


「つ、次は必ず成功させる……!」


 言い切る前に、紅の手が伸びた。


 紬の腕を掴み上げる。

 痛いほど強い力だった。


「なっ……!」


 紅は無言のまま、チップをマギマギアへ差し込む。


「やめて! 離して! それ――!」


 紬は必死に腕を振る。

 けれど、紅の手はびくともしない。


 無情にも転送は終わる。

 チップが引き抜かれた。


「これで、貴様に用は済んだ」


 紅は淡々と言った。


「魔人と巡り合わせたことへの礼として、姉は救ってやる」


「だが、これ以上の同行は認めん」


「貴様は俺を超えるなどと口にした」


 その一言一言が、刃みたいに胸へ刺さる。


「されど、貴様がしたことは小さな閃光を上げただけだ」


「悪いが、俺は子守をするほど暇じゃない」


 紬は何も言い返せなかった。


 悔しかった。

 でも、それ以上に、否定できなかった。


 郷田を止めたのは紅だ。

 魔人を倒したのも紅だ。

 自分はただ、怖くて動けなくなって、最後に一度だけ光を弾けさせただけだった。


 紅は扉へ向かう。


 けれど、その手がドアノブに触れる直前、ぽつりとこぼした。


「いつまで、そのような模造品に頼っている」


 紬が顔を上げる。


「……え?」


「貴様は、なぜ抑える」


 それだけ言い残し、紅は店を出た。


 深紅のコートが夜へ溶ける。

 扉は閉まり、その気配さえ断ち切ってしまう。


 バーに残されたのは、紬ひとりだった。


 開かない扉を見つめたまま、しばらく動けない。


 黄金の髪には影が落ちている。

 いつもの無邪気な笑顔も、そこにはなかった。


 分かっていた。


 自分が約束を破ったことを。

 紅を超えるとまで言っておきながら、何ひとつ追いつけていないことを。


 男たちも、郷田も、魔人も。

 結局、全部を紅に任せていた。


 しかも足手まといになった。

 あのとき、魔術がもっとまともに扱えていたら。

 もっと早く動けていたら。

 紅の手に傷を負わせずに済んだかもしれない。


 思考は、同じ場所を何度も回る。


 お姉ちゃんに、ずっと言われてきた。


 感情を抑えなさい、と。


 高ぶると壊してしまうから。

 想いを流し込みすぎると、魔導具が耐えきれなくなるから。


 だから紬は、できるだけ感情を静めようとしてきた。

 楽しいときも、怒ったときも、悲しいときも。

 なるべく波立てないように。

 そうすれば失敗しないと信じていた。


 でも――。


 あの瞬間だけは抑えきれなかった。


 怖くて。

 悔しくて。

 助けたくて。


 想いを押し込めることができず、そのまま流し込んだ。

 結果、魔術は制御できずに弾けた。


 やっぱり、自分は駄目なんだ。


 そう思いかけたとき、目の前に小さなグラスが置かれた。


 顔を上げる。


 マスターが変わらぬ微笑を浮かべていた。


「お嬢さん」


 その声は、先ほどよりも少しだけやわらかい。


「見ていましたよね」


「……何をですか」


「紅様が飲んでいたものを」


 紬は一瞬、言葉に詰まった。


 図星だった。

 紅が酒を飲む姿も、マスターがグラスを扱う手つきも、知らないうちに何度も見ていた。


 自分の前に置かれるオレンジジュースとは違う、何か大人の世界みたいなものがそこにある気がしていた。


「興味が湧いたのでしょう?」


 マスターは、紬の前のグラスへ視線を落とす。


「なら、一度試してみてはいかがですか」


 紬は目を丸くした。


「で、でも……子供は飲んじゃ駄目って」


「ええ。駄目ですよ」


 マスターはあっさりとうなずいた。


「ここに警察がいれば、私は怒られるでしょうね」


「じゃあ、なんで……」


 紬はグラスを見る。


 本当に、一口分だけだった。

 琥珀色の液体が、店の灯りを受けて揺れている。


 マスターはにこやかに言う。


「人はいつだって、好奇心を持つものです」


「それが何なのか。なぜ、皆それを口にするのか。自分が触れたら何を感じるのか」


「その感情を、大人になるにつれて皆隠そうとする」


「大人になるとは、そういうことでもあります」


 紬はグラスから目を離せない。


 お姉ちゃんに止められてきたもの。

 子供の自分にはまだ関係ないもの。

 そんなものに、今、自分の目の前で手が届いてしまう。


「けれど」


 マスターは静かに続けた。


「好奇心こそが、人を強くする」


「答えを知りたいという想いは、いつだって前へ進む力になる」


 その言葉に、紬はそっとグラスへ手を伸ばした。


 冷たい。

 思っていたより、ずっと軽い。


 ほんの少し迷ってから、口をつける。


 ――しゅわっ、と炭酸が弾けた。


「っ!?」


 喉が熱い。

 舌がぴりぴりする。

 思わず紬はむせた。


「けほっ、けほっ……!」


「な、なにこれ……!」


 マスターが肩を揺らして笑う。


「どうしました?」


「まずい……っていうか、変!」


 涙目のまま紬が言うと、マスターは口元に笑みを残したまま答えた。


「神秘とは、解き明かしてみれば案外そんなものです」


「私、これ嫌いかも……」


「そうですか」


「……なんで大人はこんなの飲むの?」


「それが大人というものですよ」


 分からない。

 全然おいしくない。


 でも、飲んだあとで、胸の奥に小さなざわめきが残った。


 ルールを破った。

 いけないことをした。

 そんな罪悪感があるのに、それだけじゃない。


 前よりも、少しだけ世界が広くなった気がした。


 マスターが、ふと紬の腕輪を見た。


「紬様。そのマギマギア、少しお借りしてもよろしいですか?」


「え?」


「知り合いに修理の得意な者がおりましてね」


 紬は反射的に腕を押さえた。


「でも、これがないと私……」


「魔術が使えない、ですか?」


 その言葉に、紬は黙る。


 学園でも。

 お姉ちゃんにも。

 ずっとそう教えられてきた。


 マギマギアを通して魔力を集め、術式へ変えて発動する。

 それが当たり前だった。


 けれど、脳裏に浮かぶのはあの男の姿だ。


 紅の腕には、何もなかった。


 それでも、炎はそこにあった。

 陽炎は生まれた。

 詠唱は世界を揺らした。


 なら、本当に――魔術師は違うのかもしれない。


「紬様」


 マスターの声がやわらかく落ちる。


「もし、本当に必要なものが別にあるのだとしたら」


「あなたは、それを探してみたいと思いませんか?」


 その問いは、答えを押しつけるものじゃなかった。

 ただ、扉だけを示すような言い方だった。


 紬はゆっくりとマギマギアを外した。


 手のひらに乗せる。

 いつもそこにあった重みが、今日は少しだけ違って感じる。


「……お願いします」


「承知しました」


 マスターがそれを受け取る。


 紬は、自分の手を見た。


 小さな手。

 傷もない、何の変哲もない手。


 でも、あのとき確かに想いはここから流れた。


 怖かった。

 悔しかった。

 それでも、何かを守りたいと思った。


 なら――。


 そっと、手を掲げる。


 バーの静寂の中で、呼吸だけがやけに大きく聞こえる。


 思い描くのは、紅の灯。

 あの圧倒的な炎じゃない。

 本当に、小さな小さな光でいい。


 あるはずのない回路へ、想いを流すように。


 その瞬間。


 指先に、細い光が走った。


 ほんの一瞬。

 糸みたいにかすかな輝き。


 けれど確かに、それは紬の手から生まれたものだった。


「……あ」


 思わず声が漏れる。


 すぐに光は消えた。

 でも、それで十分だった。


 紬の顔から、影がほどけていく。

 黄金の髪が、店の灯りを受けてきらめきを取り戻す。


 そこに戻ってきたのは、純粋な高揚だった。


「マスター……! 今、見ました!? 私――」


「店内では魔術の使用を禁止しております」


「はい!?」


 カウンターの脇に貼られた注意書きを、マスターがさらりと指差す。


 紬は固まる。


 そこにはしっかりと、

 店内での魔術使用禁止

と書かれていた。


「つ、次から気をつけます……」


「ええ。ぜひそうしてください」


 マスターは笑みを崩さない。

 だが、その目はどこか楽しそうだった。


 紬は胸を押さえた。

 心臓が速い。


 でも、それは恐怖じゃない。


 できた。

 本当に小さいけれど、できた。


 マギマギアがなくても。

 たった一筋でも。

 自分の手から、光が出た。


 その事実だけで、世界の見え方が少し変わる。


「紬様」


 マスターが何気ない口調で言う。


「彼は、おそらく屋敷で休んでいるでしょう」


「そして明朝には、車で出るはずです」


 紬が顔を上げる。


 マスターは、すでに別の作業へ意識を向けたように棚へ視線を移していた。


「私はこれから、倉庫の整理があります」


「どうぞ、お好きにお過ごしください」


 一瞬、意味が分からなかった。


 けれど次の瞬間、紬の表情がぱっと変わる。


「……ありがとう、マスター!」


 返事はない。

 けれど、たぶん聞こえている。


「次は、お姉ちゃんも連れてきます!」


 紬は勢いよく扉を開けた。


 まだ明けきらない夜の街へ飛び出していく。


 バーの中には誰もいない。

 ただ、二人の残した熱だけが、まだそこにあった。


 カウンターの上では、開けかけのジンジャーエールの瓶の中で、炭酸の泡が静かに揺れていた。


     ◇


 紅は、短い仮眠から目を覚ました。


 魔人との戦闘の余韻はまだ残っている。

 だが、頭に浮かぶのはそれではなかった。


 役に立たない少女の顔だった。


 まともに魔術も扱えない。

 戦場にも慣れていない。


 それなのに、あの少女には確かに歪みがある。

 魂の奥に、回路の存在を思わせる違和感があった。


 なのに、隠している。

 抑え込んでいる。


 そのことが、どうにも腹立たしい。


「……くだらん」


 小さく吐き捨て、紅は身体を起こした。


 服を整え、深紅のコートを羽織る。

 お気に入りのハットを被り、そして今日は珍しく、質素な指輪をひとつだけ指にはめた。


 ガレージへ向かう。


 そこには、完璧に磨かれた相棒が待っていた。


 さすがセバスだ、と心の中でだけ認める。


 完璧な朝になるはずだった。


 だが、車のドアを開けた瞬間、その予定は壊れる。


 助手席に、見覚えのある小娘が丸まって眠っていた。


 紅の額に青筋が浮く。


「……なぜ小娘がここにいる」


「俺はあの場所に置いてきたはずだぞ」


 低い声に反応して、紬がゆっくりと目を開ける。

 眠たげな顔のまま、紅を見上げた。


「来ちゃった」


「燃やさんと分からん愚か者だったか」


 紅の周囲に陽炎が揺らぐ。

 それでも紬はまるで気にせず、当然みたいに助手席へ座り直した。


 そこで紅は気づく。


「……小娘。腕輪はどうした」


「マスターさんが、修理するから貸してって」


 紅の目が細くなる。


「なおさら、どうやって戦うつもりだ」


 その問いに、紬はにやりと笑った。


 そして、手をかざす。


 ほんの一瞬。

 細い光が、空気を裂くように走った。


「私も、魔術師みたいでしょ」


 その光を見た瞬間、紅はわずかに目を見開く。


 だが驚きはすぐに消え、代わりに納得したように口元を歪めた。


「……そうか」


「やつが認めたか」


 喉の奥で笑う。


「ふはははは」


「いいだろう、小娘」


 紅はドアを閉めた。


「チャンスをくれてやる」


 その赤い眼が、今度は少しだけ熱を帯びていた。


「次、腑抜けた真似をしたら許さんぞ」


 紬はびしっと指を突きつける。


「もちろんよ!」


 朝の光が、車体に差し込む。


 まだ未熟で、まだ小さい。

 けれど確かに、昨日までとは違う熱がそこにあった。

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