第四話 人は無数の物語の先にいる
かつて稼働していたはずの製鉄所は、今や死骸のように夜へ沈んでいた。
崩れた煙突。
剥き出しの鉄骨。
砕けたコンクリート。
積もった錆と煤の匂いが、古い時代の終わりを今も引きずっている。
その死んだ工場の中央で、ただ二つだけ、生きた熱がぶつかっていた。
一人は、金属のような剛腕を振るう大男。
一人は、深紅のコートをなびかせ、その拳を紙一重で避け続ける長身の男。
「どうしたぁ! 避けるだけか!」
郷田正人の拳が、唸りを上げて紅の顔面をかすめた。
空気が裂ける。
常人なら、見えていたところで避けられない。
だが紅は、まるで最初からそこへ来ると分かっていたみたいに、首をわずかにずらすだけで回避した。
「単細胞のやることなど」
鼻で笑う。
「目を閉じていても分かる」
その一言で、郷田の額に青筋が浮いた。
「調子に乗るな!」
怒声とともに、郷田は手首のマギマギアを持ち上げる。
宝石のような光が、どす黒く明滅していた。
「見せてやるよ。この力を――」
「――魔装展開」
機械音声は鳴らなかった。
その代わり、ぞっとするほど静かに、郷田の肉体へ装甲が這い上がっていく。
鎧。
そう呼ぶのが一番近い。
だが、それは普通の魔装ではなかった。
皮膚の下を赤黒い回路が血管のように這い、胸の中央には巨大な石――魔魂石が、そのまま埋め込まれている。
それを見た瞬間、紅の顔が露骨に歪んだ。
嫌悪。
まるで宝石を汚泥へ沈めた光景でも見せられたみたいな顔だった。
「これが最新式の魔装だ」
郷田は力に酔うように両腕を広げる。
「くそみてぇな企業に頭を下げた甲斐はあったってもんだ」
笑いながら夜空を仰ぐその姿には、手に入れた力に呑まれた下品さしかなかった。
「ようやく思い出したぞ」
郷田が紅を睨みつける。
「貴様が噂の紅の魔術師か」
紅は答えない。
ただ煙草をくわえ直し、その赤い眼で郷田を見返した。
「郷田正人」
郷田は胸を張る。
「今からお前をぐちゃぐちゃにする男の名だ!」
踏み込んだ地面が割れた。
強化された肉体が鉄を軋ませるような音を立てながら、郷田の拳が突き出される。
紅の右腕に業火が灯る。片腕を守るように炎が巻きつき、そのまま郷田の拳を受け止めた。
激突。
重い。
紅は受け切った。だが、数歩、後ろへ押し戻される。
郷田の口元が吊り上がる。
「やっぱりな!」
「魔術師なんざ、所詮近接に弱ぇんだよ!」
追撃。
拳。
拳。
拳。
郷田は一切の躊躇なく、ただ力で押し潰すためだけに殴り続ける。
紅はその全てを、燃える片腕だけで受け流し、受け止め、わずかに下がる。
紬は息を呑んだ。
紅は無敵だと思っていた。
少なくとも、あの路地裏と、この製鉄所へ踏み込むまでを見た限りでは、そう錯覚しても無理はなかった。
けれど今、目の前の紅は押されている。
郷田の魔装は異常だ。
本来、魔魂石は砕いて燃料として使うものだ。
それを丸ごと埋め込み、直接接続している。
出力が桁違いでも不思議じゃない。
しかも紅は魔術師。
現代の常識で言えば、魔導士の装備戦に正面から付き合うのは分が悪い。
助けないと。
そう思って、紬は腕輪に手をかけた。
その瞬間だった。
郷田が地面へ拳を叩き込む。
コンクリートが爆ぜた。
足元に穴が開き、飛び散った破片が頬を掠める。紬は反射的に身をすくめた。
「おい、女」
郷田が、ぎらついた眼でこちらを向く。
「手ぇ出してみろ」
「殺すぞ」
その視線に、全身が凍りついた。
学園で向けられてきた軽蔑や嘲笑とは違う。
もっと直接的で、もっと生々しい。
本物の殺意だった。
猛獣に睨まれたみたいに、脳が危険を叫ぶ。
逃げろと命じる。
なのに、身体はその命令を聞かなかった。
手足が震える。
膝が笑う。
喉が詰まる。
「ぁ……」
声にならない声が漏れた。
魔術の名より先に、逃げたいという思考が浮かぶ。
そんな自分に気づいてしまって、余計に身体が動かなくなる。
そのときだった。
「……満足した」
静かな声が落ちる。
紅が目を開いた。
その顔には、先ほどまでの受け身はもうなかった。
「頭がおかしくなったのか、てめぇ!」
郷田が怒鳴る。
紅は肩についた埃を払うような仕草で、つまらなそうに答えた。
「単純な話だ」
「壊す前に、その汚い羽衣の性能を確かめたくてな」
顎に手を添え、紅は郷田を見下ろす。
「実に不愉快だ」
「生命を冒涜し、神秘を汚してなお、その程度か」
「残念極まりない」
郷田の顔が怒りで歪む。
紬へ向けていた殺意は吹き飛び、今やそのすべてが紅へ向いていた。
「ぶっ殺す!」
郷田が吠える。
「第三階位――肉体は鋼鉄に、その身は武器となる<アイアンマン>!」
装甲がさらに変質し、郷田の肉体そのものが武器へ変わっていく。
続けざまに、
「第三階位――肉体は重みを忘れ、蝶のように浮かぶ<バタフライエフェクト>!」
本来、あの巨体ではありえない速度で郷田の身体が浮き上がる。
そのまま紅の真上へ飛び、拳を振りかぶった。
落下。
顔面を砕き、肉片すら残さないはずの一撃。
だが――
その拳は、紅をすり抜けた。
地面に叩きつけられたのは、陽炎だけだった。
「いないだと!?」
郷田が目を剥く。
詠唱はない。
魔術名もない。
なのに、紅の姿が見当たらない。
地面から、熱の揺らぎが立ち上る。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、それだけでは終わらない。
無数の陽炎が、次々に紅の姿を象っていく。
どこからともなく、声が響いた。
「さあ、哀れなピエロよ」
「俺を見つけられるかな」
陽炎の紅たちが、一斉に郷田へ襲いかかる。
郷田が拳を振るい、飛び上がり、地面を叩き割る。
だが、砂埃が舞っても陽炎はまた生まれる。
一撃で消えても、また増える。
熱。
最初はそれだけだった。
だが、それが無数になれば話は変わる。
鋼鉄の肉体を維持するにも魔力が要る。
避け、壊し、再展開するたびに、郷田の消耗は確実に増えていく。
郷田も、それに気づいたのだろう。
「貴様……卑怯だぞ!」
「戦う気がねぇのか!」
陽炎の中から、笑い声がこだまする。
「言ったはずだ」
「魔術師は近接が苦手だと、貴様自身が」
別の方向から、また声。
「正解だ」
「だが、不正解でもある」
さらに別の方向から。
「近接に持ち込まなければいいだけの話だ」
「現に今、お前は死を待つだけの家畜だ」
「黙れぇぇぇ!」
郷田が狂ったように周囲を見回す。
その視線が、ふと止まった。
紬だった。
恐怖で動けず、それでも戦場から目を逸らせずに立っていた少女。
郷田の顔が歪む。
その瞬間、紬は悟った。
こっちに来る。
逃げなきゃ。
でも、遅い。
足音が迫る。
巨体が一直線にこちらへ突っ込んでくる。
身体がまた竦みそうになった、その瞬間。
脳裏に、あの声が蘇る。
――そこで諦めるなどというつまらん真似はするな。何も生まんぞ。
紬は奥歯を噛みしめた。
頭を振る。
恐怖を振り払う。
腕輪へ、想いを叩き込む。
「第三階位――光は収束し、闇を貫く<ライトレイ>!」
空気だけじゃない。
周囲の光そのものが腕輪へ集まっていく。
狙いは郷田の顔面。
放つ――その寸前。
焼ける音がした。
「っ!」
集めた光が、制御しきれずその場で弾ける。
紬は咄嗟に目を閉じた。
直撃は避けたが、放熱が腕を焼く。
「あつっ……!」
失敗。
そう思った。
だが、その失敗は郷田にとっても想定外だった。
未熟な少女の魔術だと侮り、無防備に踏み込んでいた郷田の眼を、拡散した閃光が容赦なく焼く。
「ぐあああああああっ!」
郷田が目を押さえて絶叫した。
その隙を、紅が見逃すはずがなかった。
郷田の肩に、そっと手が置かれる。
ただそれだけで、郷田の全身が跳ねた。
高熱。
鋼鉄の肉体を無視するように、その熱が内部へ侵入する。
装甲の内側だけを、じわじわと焼いていく。
「が……ああっ……!」
郷田の口から漏れたのは、怒声ではなく純粋な恐怖だった。
死ぬ。
そう理解した声だった。
「やめてくれ!」
「死んじまう!」
紅は無表情のまま答える。
「貴様が死んでも、俺は気にしない」
「わ、分かった! 情報が欲しいんだろ!」
「くれてやる! だから手を離せ!」
紅の赤い眼が細くなる。
「貴様を信じる義理がどこにある?」
「俺しか……取引先は知らねぇ!」
紅は鼻で笑った。
「なら、口さえあればいい」
次の瞬間。
熱が走る。
郷田の絶叫が夜を裂いた。
彼の両腕が、肩から先ごと地面へ落ちていた。
断面は焼き切られ、血はほとんど流れない。
だが、痛みまで消えるわけじゃない。
さっきまで威勢よく立っていた郷田は、今や地面に転がり、一人で立ち上がることすらできなくなっていた。
「さあ、話せ」
紅が冷たく言う。
「さもないと、腕だけでは済まんぞ」
「ぐ、あ……くそ……こんなことになるなら、受けなきゃよかった……」
郷田は歯を食いしばりながら吐き出す。
「俺らに依頼したのは、スカイローク社の専務……和田英輔だ」
「やつが、一ノ瀬紬を消せと命じてきた」
「報酬は……新型魔装を先に渡してきた」
「俺が知ってるのは……ここまでだ……」
紅は数秒だけ黙り込んだ。
「十分だ」
その一言に、郷田の顔がわずかに緩む。
だが、次に紅が手へ火を宿した瞬間、その表情は再び凍りついた。
「だから、もう貴様に用はない」
「て、てめぇ……!」
郷田は必死に地面を転がり、紅の手から逃れようとする。
「腕のない貴様に何ができる?」
「だったら見せてやるよ……!」
郷田の眼が血走る。
「やつらが教えた情報には、まだ続きがあった!」
「この魔装には……まだ機能が残ってる!」
叫ぶ。
「魔装、全開――!」
轟音。
魔装が空気を吸い込み、周囲に蒸気が噴き上がる。
胸部中央の魔魂石が、禍々しい光を放った。
「この力を使えば、俺は無敵に――」
言い切る前に、郷田は口から血を吹き出した。
「が、は……っ」
紅はそれを冷めた目で見下ろす。
「当然だろう」
「貴様、その力を何度使った?」
郷田は答えられない。
口から溢れる血が止まらない。
「推測だが、三度は使ったな」
「貴様の身体には、もう耐える余地が残っていなかっただけのことだ」
その声に、憐れみはなかった。
「その装置がもたらす力は、毒でしかない」
「適性があろうと、使い潰せばその身を滅ぼす」
「ゴミが、ゴミに騙された。それだけだ」
郷田は何か言い返そうとした。
だが、声は血に潰され、言葉にならない。
やがて、ぐったりと動かなくなる。
「倒したの……?」
紬が、信じきれない声で問う。
紅は一瞥すらせず、歩き出しかけた。
「自業自得だ」
そのときだった。
静まるはずの戦場に、まだ何かが脈打っていた。
ぞわり、と空気が変わる。
濃密な魔力。
嫌な気配。
紬が振り返る。
死んだはずの郷田の肉体が、再び脈打っていた。
失ったはずの両腕の位置から、禍々しい紫色の腕が生える。
全身の肌は変色し、白目を剥いたまま口から唾液を垂らしている。
理性は完全に失われていた。
「ま、魔人……」
紬の喉が震える。
郷田の口が大きく開く。
次の瞬間、圧縮された魔力が光線となって放たれた。
「――っ!」
避けきれない。
そう思った瞬間。
焼かれたのは紬ではなく、紅の手だった。
紅が前へ出て、紬を庇っていたのだ。
その手に、大きな火傷が刻まれている。
紅はそれを見て、逆に笑った。
「この俺の手を焼くとはな!」
「いいぞ。実にいい!」
その眼は、さっきまで郷田を見下していた時とも違っていた。
戦闘狂の興奮ではない。
未知の異形を前にした、魔術師としての純粋な昂揚。
「つまらん前菜だと思っていたことを、ここに訂正しよう」
「貴様の相手は、この俺がしてやる」
紅の全身を、巨大な陽炎が覆う。
バーで見た熱とは比べものにならない。
近づくだけで肌が焼けそうなほどの高熱だった。
「俺の力も、見せてやろう」
紅の手に、魔力が収束する。
それを感じ取ったのか、魔人と化した郷田もまた、無意識のまま口元へ魔力を集めていく。
互いに膨れ上がる魔力。
だが、紅の方が一瞬だけ早く満ちた。
紅が、重い口を開く。
「たとえ果てなき旅路の末、星の火が尽きようとも。
我が想いが焦がれるは、誰の手も届かぬ『無』。
──どれほど時間を費やそうと、どれほど無謀な『奇跡』であろうと。
──この灯だけは、消えはしない」
紬は理解する。
詠唱だ。
現代では、詠唱は弱者のものだと教えられてきた。
強者は無詠唱で魔術を発動する。
それが常識だった。
けれど今、その常識が音を立てて崩れていく。
紅に集まる魔力は、あまりにも圧倒的だった。
詠唱が遅れではなく、むしろ到達そのものみたいに感じられる。
「第ニ階位――」
紅が指先へ、小さな小さな灯火を宿す。
「人智を啓く黎明の灯<アトラム・ハシース>」
火種は、あまりにも小さい。
拍子抜けするほどに。
だが、紅がそれを指で弾いた瞬間、紬は本能で理解した。
これは危険だと。
放たれた火種は、遅れて飛んできた郷田の光線へ触れる。
吞み込まれた――そう見えた。
だが違う。
火種は消えない。
逆だ。
光線の方が、小さな灯に食われていく。
圧縮された魔力の奔流すら、その灯は止められない。
食い尽くし、なお燃え続ける。
やがて火種は郷田へ取りつき、その胸部――魔魂石へ宿った。
次の瞬間。
魔魂石だけが、綺麗に焼き尽くされる。
魔人化した肉体は、力を失ったように崩れ落ちた。
紫色は消え、異形の腕も消え失せる。
郷田は元の、ただの壊れた人間の姿へ戻っていた。
紅はその様子を、満足そうに眺めていた。
紬は、ただ見惚れることしかできない。
自分が信じてきた常識。
学んできた技術。
その全部が、今、目の前で覆された。
すると紅が指を鳴らした。
「帰るぞ、小娘」
それだけ言って、深紅のコートを翻し、この場を去っていく。
まるで今の出来事が、何でもない夜の一コマでしかなかったみたいに。




