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紅の魔術師  作者: ベルナルド
一章 紅の魔術師

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第三話 天に伸ばす手は、いつか月を覆う

 思惑が蠢く夜の都会。

 ネオンに人が群がるように、情報もまた、夜へ集まる。


 夕烙区の表通りから一本外れた場所。

 雑居ビルの二階に、その店はあった。


 BAR ma-okama


 派手なネオンとけばけばしい看板。

 上品さとは無縁。

 それでも、この街の裏側を生きる者たちにとっては、情報と縁が転がるれっきとした社交場だった。


 その扉を開けたのは、見慣れた濃い客ではない。


 深紅のコートに身を包んだ紅と、その隣で場違いさを全身で放つ紬だった。


 店の空気が一瞬だけ止まる。


 次の瞬間、カウンターの奥にいた大柄な人物が、ぱあっと顔を輝かせた。


「あらぁ、紅ちゃんじゃなぁい」


 見事なほど張り裂けそうな二の腕。

 大きな身体つき。

 だが仕草も声も、奇妙なくらい艶っぽい。


 その視線が、紅の隣に立つ紬へ向く。


「あらやだ、かわいい子まで連れちゃって。ほんと、罪な男ねぇ」


「は、はひっ!?」


 思わず変な声が漏れた。


 男なのか女なのか、見た瞬間には判断できない。

 だが、そのどちらでもない迫力だけはひしひしと伝わってくる。

 紬の脳は処理を放棄しかけていた。


 紅が盛大に顔をしかめる。


「相変わらず、貴様らは化け物だな」


「失礼ねぇ。乙女よ、乙女」


「冗談はよせ、人外どもめ」


「あらやだ、口が悪いわぁ」


 そのとき、店の奥から聞き覚えのある声が飛んできた。


「おい、紅! なんでお前が楽園にいるんだよ!」


 顔を向けると、軽薄そうな笑みを浮かべた男が、新聞の切り抜きを片手にひらひらと手を振っていた。

 安逹聡。

 アンブローズでも名前の出た、紅の情報屋兼協力者だ。


 紅は露骨に嫌そうな顔を向ける。


「好きでこんな地獄に来るわけがないだろう」


「天国よ、天国」


「うるさいぞ、悪魔ども」


「天使よぉ」


「いてたまるか、貴様らみたいな天使」


 店内の連中が面白がるように笑う。

 紬はそのやり取りを見ながら、ここがただのバーではないことを改めて思い知った。

 紅は嫌がっているくせに、ここにも居場所があるらしい。


 紅は安逹の前まで歩き、短く言った。


「餓楽を知っているか」


 安逹の表情がわずかに変わる。


「……なんでお前が餓楽なんて面倒な連中を追ってるんだよ」


「依頼だ」


「お前、ほんと真面目だな。今どきそこまで依頼を律儀にこなす魔術師なんてお前ぐらいだぞ」


「それが俺の流儀だ」


「はいはい」


 安逹は肩をすくめ、持っていた記事をテーブルに広げた。


「餓楽は郷田正人が率いる違法魔装集団だ。

 用心棒、運び屋、脅し、始末……裏の仕事ならなんでもやる。企業の汚れ仕事も請け負ってるって噂だ」


「企業、ね」


 紅の赤い眼が細くなる。


「様々な連中とパイプを作って成長してきた。表じゃただのチンピラ集団に見えるが、裏はそう単純じゃない」


「拠点は?」


「閉鎖されたSUMIYORI製鉄所。今じゃ半分廃墟、半分は連中の遊び場だ」


 安逹はそこで言葉を切り、少しだけ真面目な顔になった。


「……それと、郷田の噂も妙だ」


「妙?」


「前は冷静な男だった。むしろ慎重すぎるくらいにな。だが最近はやけに切れやすい。部下への当たりもきつくなったらしい」


 紅は黙った。


 紬には分かった。

 紅が何かを繋げているときの顔だ。


 安逹が続ける。


「俺は詳しいことまでは知らん。だが、お前ならその変化に心当たりくらいあるんじゃないのか?」


「……十分だ」


 紅が短く返す。


「報酬だ」


 そう言ってコートのポケットから取り出した翡翠色の石を、無造作にテーブルへ放った。


 ころり、と音を立てて転がる。


 安逹が目を剥く。


「お、おい待て、これ……エメラルドか!?」


「よい情報には、それに見合う対価を払う主義でな」


「いやいやいや、逆に売れねえよこんなもん! 怖すぎるだろ!」


「あら、じゃあ私にちょうだぁい」


「やるか!」


 背後でわあわあと騒ぎ出す声が響く。

 だが紅はそれに一切興味を示さず、すでに出口へ向かっていた。


「ま、待って!」


 紬は慌てて後を追う。


 外へ出ると、夜風が肌を撫でた。

 店の中の熱気が嘘みたいに、空気が冷たい。


 紅はネオンに照らされながら、やけに機嫌の良さそうな顔をしていた。


「喜べ、小娘」


「え?」


「一石二鳥だ」


「どういう――」


 最後まで言わせず、紅が紬の手首を掴む。


「行くぞ」


「ちょ、ちょっと! 自分で歩けるから!」


 ずるずると引っ張られるようにして、紬は夜の街を駆けることになった。


 しばらくして辿り着いたのは、夕烙区の外れだった。


 喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに静寂が濃くなる。

 その先に、街並みにまるで馴染まないものがあった。


 屋敷だった。


 高い塀。

 古い鉄門。

 長い年月を経たはずなのに、荒れた気配はない。

 むしろ、今も誰かが完璧に手入れを続けているとひと目で分かる。


 紬は思わず立ち止まった。


「……なにこれ」


 紅が当然のように門へ手をかける。


「何を呆けている」


「いや、ちょっと待って。まさか泥棒する気!?」


 紅が心底呆れた顔で振り返った。


「何を勘違いしている、小娘」


「俺の家だ」


「へぇ!?」


 叫び声が夜に響いた。


 紅は気にした様子もなく門を開ける。

 中に広がるのは広大な庭園だった。

 整えられた芝生、形の整った木々、石畳の道。

 どこまで見ても手入れが行き届いている。


 その庭を進んだ先、屋敷の玄関から一人の老人が姿を見せた。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 白髪の老人。

 背筋は真っ直ぐで、老いてなお隙がない。


 紅が当然のように告げる。


「セバスチャン。車は出せるか」


「ええ、もちろんでございます」


「さすがセバスだ」


 紅は満足げにうなずいたあと、呆然としている紬を振り返る。


「おい、小娘。何をしている」


「来い」


「は、はい!」


 反射的に返事をして、紬は慌てて後を追う。


 案内されたのは屋敷の脇にあるガレージだった。

 シャッターが上がる。


 その中に収められていたものを見て、紬は息を呑んだ。


 古いオープンカーだった。


 だが、ただ古いのではない。

 塗装は艶を失わず、金属部分も曇りひとつない。

 まるで時そのものから切り離されてきたような、美しさだった。


 紅がそっと車体に触れる。


「完璧だな」


「恐れ入ります」


 老人は静かに一礼する。


 それを見ていた紬は、ようやく理解し始めていた。

 紅にとって、この車もまたただの道具ではないのだ。


「乗れ、小娘」


 急にいつもの苛烈な声音に戻る。


「え、あ、うん」


 恐る恐る助手席に乗り込む。

 座席は柔らかい。けれど――。


「シートベルトがないんだけど!?」


「そんなもの、俺の車にはいらん」


「危ないでしょ!」


 紅がにやりと笑う。


「それはどうかな」


 エンジンが唸りを上げる。

 低く、重く、喉の奥を震わせるような音だった。


 紅はその音を嬉しそうに聞き届けると、ハンドルを握った。


「いい声だ」


「よし――暴れるぞ」


「いやいやいや、ちょっと待っ――」


 次の瞬間、車は庭園へ向かって一直線に走り出した。


「突っ込む気!?」


 道路なんてない。

 目の前にあるのは芝生と木々だけだ。


 紬が悲鳴を上げた、その刹那。


 車体の下で光が走った。


 魔法陣。


 炎とも光ともつかない紋様が地面に広がり、車体を包み込む。

 ふっと、重力が薄れた。


「え……?」


 身体が浮く。


 庭へ突っ込むはずだった車は、そのまま芝生に触れることなく、空へ駆け上がっていた。


「うそ……」


 目を開けば、そこにあったのは道路でも庭園でもない。


 雲ひとつない夜空だった。


 月が近い。

 星が手を伸ばせば届きそうなほど鮮明だ。

 眼下には夕烙区のネオンが散らばり、まるで別の星の海みたいに瞬いている。


 紬は言葉を失った。


 しばらくして、ようやく自分の頬を叩く。

 痛い。

 夢ではない。


「ね、ねえ……どうなってるの」


「魔導具でもこんなの……」


 紅は窓の外を見ながら、どこか誇らしげに言った。


「これぞ神秘だ」


「模造品では決して届かない、本物の魔術」


 夜風が紅の髪を揺らす。

 その横顔は戦いの前の獣ではなく、もっとずっと幼い何かに見えた。


「俺は幼き頃、夢を見た」


「いつか、あの頃の俺を見下ろしていた空を越えたいと」


 紅は空を見上げる。


「だから越えた」


「ただ、それだけの話だ」


 紬は息を呑んだ。


 紅は続ける。


「この世に不可能などない。夢を想う限りな」


「……だが、空を越えた時、少しだけ悲しくもあった」


「終わったと思ったからだ」


 紅はふっと笑う。


「だが、違った」


「空の上には、また空があった」


「だから分かる。やはりこの世は神秘に満ちている」


 月明かりに照らされたその顔は、怪物でも伝説でもなかった。

 ただ、心の底から何かに魅せられた少年のようだった。


 紬は、思わず見惚れていた。


 けれど、その夢みたいな時間は長く続かない。


 車がふいに停止する。


「着いたぞ」


「え?」


 紅が眼下を指した。


 そこには、打ち捨てられた巨大な製鉄所があった。

 崩れた煙突。

 朽ちた鉄骨。

 敷地のあちこちに停められた改造車や単車。

 焚き火のような灯りの周りでは、男たちが騒ぎ、酒を煽り、怒鳴り声を上げている。


「ここが餓楽の根城だ」


 紬はごくりと唾を飲み込んだ。


「……作戦は?」


 紅の口元が釣り上がる。


「簡単だ」


「落ちる」


「は?」


 その一文字を理解するより先に、紅が紬の首根っこを掴んだ。


「きゃ――っ!?」


 次の瞬間、二人は車外へ放り出されていた。


 夜風が全身を殴る。

 視界が回る。

 下から地面がものすごい速さで迫ってくる。


 紬は反射的に紅へしがみついた。


「ちょっ、ちょっと、ちょっとぉぉぉ!?」


 泣きそうな声が漏れる。


 だが紅は平然としていた。


「第三階位――その身は陽炎に包まれ、鎧となる<エンチャント・フレイム>」


 周囲に揺らめく熱が生まれる。

 炎とも光ともつかない陽炎が二人を包み込み、その落下をそのまま一つの火球へ変えていった。


 製鉄所の周囲に張られていた結界が、気づいた時にはもう遅い。


 上空から叩き落とされた火球が、そのまま結界へ激突する。


 轟音。


 結界がひび割れ、砕け散り、火球はそのまま敷地中央へ着弾した。


 衝撃で地面がえぐれる。

 土煙が舞い、男たちが悲鳴とともに吹き飛ぶ。


 静寂が落ちる。


 やがて、砂煙の中から現れたのは――。


 深紅のコートをなびかせ、帽子を押さえた男だった。


 紅は何事もなかったかのようにポケットへ手を入れる。

 煙草のケースを取り出し、一本くわえる。

 指を鳴らす。

 火花が散り、先端に火が灯った。


 ゆっくり吸って、細く吐く。


 そして、男たちを見渡しながら言った。


「俺の名は、紅の魔術師」


「依頼により、お前らゴミどもを一掃しに来た」


 一瞬の沈黙。


 それから怒号が爆発した。


「ぶっ殺せ!」


「てめぇ、どこから入りやがった!」


「二人で何ができる!」


 男たちが武器を掴み、一斉に殺気を向ける。


 紬はまだ着地の衝撃と落下の恐怖で膝が震えていた。

 だが、その前に立つ紅は、むしろ楽しそうに口角を上げていた。


「ふはははははは!」


 その笑いだけで、場の空気がまた変わる。


「有象無象ども。貴様らなど、前菜にもならん」


「吠える暇があるなら、さっさと武器を取れ」


 男たちが駆け出す。


 無数の足音。

 鉄パイプ、刃物、魔装。

 怒りと暴力が一つの濁流みたいに押し寄せる。


 紅はしゃがみ込み、両手を地面へ触れた。


「第二階位――蠢く業火が湧き上がる<ヴァイオレント・イラプション>」


 魔力が地面を奔る。

 次の瞬間、赤黒い業火が敷地を裂いた。


 まるで火山の噴火だった。


 地面の下から噴き上がる炎が、突っ込んできた男たちをまとめて呑み込む。

 悲鳴。

 爆風。

 焼ける臭い。


 火が収まったあと、地面に残ったのは、這いつくばる男たちだけだった。


 誰も立てない。

 誰も紅に近づけない。


 紅はその惨状を見渡し、冷たく言い放つ。


「立場が分かったようだな、ゴミども」


「貴様らには這いつくばる姿こそが似合いだ」


 そのときだった。


 暗闇の奥から、重い足音が響いた。


 男たちが左右へ道を開く。


 現れたのは、黄金色に輝くアクセサリーを全身に巻きつけた大男だった。

 歯まで金色。

 服の上からでも分かるほどの剛腕。

 その目には、自分の縄張りを荒らされた獣の怒りが宿っている。


 男はゆっくりと辺りを見渡し、それから紅を睨んだ。


「おい、おい……俺のシマをずいぶん派手に荒らしてくれたじゃねぇか」


 紅は煙草をくわえたまま、鼻で笑う。


「ゴミ山の大将がお出ましか」


 黄金の男の口元が引きつる。


「……そうか。なら、死ね」

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