第二話 沈む夕日
喧騒は夜になっても収まらない。
むしろ夕烙区は、夜になってからが本番だった。
ネオンはより色濃く街を染め、電子広告は昼よりも強い光で人の目を奪う。
笑い声、車の走行音、どこかの店から漏れてくる音楽。
それらが混ざり合い、街全体が眠ることを拒んでいるようだった。
そんな夜の通りを、対照的な二つの影が進んでいた。
一つは、長身の男。
深紅のコートを翻しながら、迷いもなく前へ進んでいく。
もう一つは、小柄な少女。
金色の髪を揺らしながら、その背中を見失うまいと懸命についていく。
「ま、待ってください……!」
紬は息を切らしながら声を上げた。
「わ、私、初めて来たんです! 道なんて分からないんですよ!」
「俺は依頼を遂行するだけだ」
紅は振り返りもせずに言う。
「貴様の事情など知らん」
冷たい言葉だった。
けれど、不思議と本気で突き放しているようには感じなかった。
はぐれそうになるたびに、彼の歩幅がわずかに変わる。
歩く速度も、ほんの少しだけ緩んでいる。
それに気づいてしまったせいで、紬はかえって文句を言いづらくなった。
足元に意識を向けすぎていたせいか、ふいに立ち止まった紅の背中にそのままぶつかる。
「うわっ」
「急に止まらないでくださいよ……!」
「ここだ」
紅が短く言った。
顔を上げる。
そこにあったのは、夜の夕烙区にはどこか似つかわしくない店だった。
外観は古めかしい。
だが、古びているわけではない。
磨き上げられた木の扉も、控えめな照明も、長い時間を経たものだけが持つ落ち着きを漂わせていた。
看板には、静かにこう記されている。
BAR Emrys
エムリス――その名だけで、どこか普通ではない空気があった。
紅が質素ながら重みのある扉に手をかける。
「何を呆けている」
「さっさと入るぞ」
「す、すみません!」
紬は慌てて後を追った。
重厚なドアをくぐった瞬間、外の喧騒が嘘のように遠のく。
店内は静かだった。
人影はない。
それなのに、がらんとした寂しさは感じない。
下品な豪華さとは無縁の、洗練された空間。
磨かれたカウンター、整えられた酒瓶、必要なものだけが必要な場所にある。
紬は、バーに対して抱いていた曖昧な印象が少し変わるのを感じた。
カウンターの奥に立つ男が、紅を見るなり露骨に顔をしかめた。
「ようやく客が来たと思えば、あなたでしたか」
「なんだ、マスター。俺がそんなに嫌いか」
「いえ、滅相もございません」
マスターは穏やかに微笑んだ。
「ただ、何分うちは客足が少ないもので。新規の方を期待したところに、見慣れた顔が現れただけです」
「まったく。貴様ぐらいだぞ、その態度で焼かれずに済むのは」
「それは光栄ですね」
二人は慣れた調子で言葉を交わす。
紅は当たり前のようにカウンター席へ腰を下ろした。
紬も隣の椅子によじ登るようにして座る。
高い。思った以上に高い。
ようやく座れても足が床に届かず、ぶらぶらと揺れるしかない。
それを見た紅が、横目で鼻を鳴らした。
「とことんガキだな」
「……オレンジジュースが一番です」
すかさず言い返すと、マスターが小さく笑った。
「お嬢さんは、オレンジジュースでよろしいですか?」
「はい」
マスターは紬の前に、よく冷えたオレンジジュースを置いた。
氷の音が小さく鳴る。
一方、紅の前には琥珀色の酒が満たされたグラスが置かれる。
からからに乾いた喉へ、紬は一気にオレンジジュースを流し込んだ。
冷たさが身体の奥まで落ちていき、ようやく少しだけ息が整う。
紅はグラスを指先で軽く回しながら、ようやく本題へ入った。
「それで」
赤い眼が紬を射抜く。
「俺に何の用だ、小娘」
紬は息を整え、左腕のマギマギアを起動する。
空中に展開された半透明の画面に、保存されたメッセージが浮かび上がった。
「これは、私のお姉ちゃん――一ノ瀬冴から送られてきたメッセージです」
指先が少し震える。
だが、紬はそのまま再生した。
『愛しの妹へ。
これが届いているなら、私の身に何かあったと思って。
でも、すぐに死ぬような状況ではないはずよ。だから、落ち着いて聞いて。』
『私は今、ある任務を追っている。
その中で、“魔人化”に関する重要な情報を掴んだ。
データを添付する。これを信用できる相手に渡して』
『そして、もしもの時は――夕烙区にいる“紅の魔術師”を頼って。
あの人なら、きっと動いてくれる』
『たぶん、あなたも狙われる。
だから自分の身を守って。
……ごめんね、紬。
でも、あなたならきっと大丈夫』
『愛してるわ。
人参は残さないように』
メッセージが消える。
少しの間、店内に静寂が落ちた。
「なるほどな」
紅は慣れない手つきでマギマギアを操作し、添付データを開いた。
画面に映るのは、魔粒子中毒、遺伝子変化、そして魔装との関連を示す記録の数々。
紅の目つきが変わる。
グラスの酒を一息に飲み干すと、まるで獲物を前にした獣みたいな目でデータを読み進めていく。
「……実に興味深い」
その声は低かった。
だが、明らかに熱を帯びている。
紬は黙って待った。
今、自分が口を挟むべきではないと分かったからだ。
やがて、紅は大きく息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
そしてもう一度、味わうように言う。
「実に興味深い」
「魔人化、か。噂程度には聞いていたが……ここまでの劇物とはな」
赤い眼が再び紬を見た。
「依頼を受ける価値は大いにある」
紬の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「データは魔導局へ届けよう」
だが、紅はそこで言葉を切った。
「だが、悪いが俺はガキの子守をするほど暇ではない」
紬の顔が凍る。
紅は親指でカウンターの奥を示した。
「安心しろ。俺よりは幾分落ちるが、生半可な連中に負けるほどこいつも弱くない」
マスターが、柔らかく会釈する。
「お任せください、お嬢さん」
「もういいな」
紅は立ち上がりかけた。
「俺はこのデータを持って動く。ここに転送しろ」
そう言って、自分の端末を紬のマギマギアへ向ける。
だが――紬は動かなかった。
「……どういうつもりだ」
「私の依頼は、それじゃ終わらない」
紬はマギマギアを胸元に引き寄せ、反対の手で庇うように隠す。
「私の依頼は、お姉ちゃんを助けてほしいってことよ」
「それを受けてくれないなら、データは渡さない」
空気が変わった。
マスターがわずかに目を細める。
紅の口元だけが、ゆっくりと吊り上がった。
「勘違いしていないか」
声に優しさはなかった。
「確かに、そのデータは気に入った」
「だが、それを持っている程度で……俺とお前が対等にでもなったつもりか?」
店内の空気が、熱を帯びる。
陽炎のように景色が揺らめいた気がした。
紬の背中を嫌な汗が伝う。
喉が渇く。心臓が速い。
「小娘風情が」
その一言だけで、身体が竦みそうになる。
けれど――。
「……分かってる」
紬はマギマギアを握る手に力を込めた。
「対等じゃないことくらい」
「でも、あなたはこのデータが欲しい」
「私はお姉ちゃんを助けたい」
「お姉ちゃんが生きていれば、今ある情報以上のことを聞き出せる」
「だから――」
鈍い音が、店内に響いた。
紅の拳がカウンターを叩いていた。
ただそれだけで、空間の主導権が誰にあるのか思い知らされる。
「何度も言わせるな」
「俺は、姉の依頼を断るつもりなどない」
紅の眼が細くなる。
「実に単純な話だ」
「小娘。お前に、そのつまらん依頼を俺が受ける価値があるのかと聞いている」
「私は――」
言葉が詰まる。
紅の気迫に呑まれたわけじゃない。
違う。
自分の価値を、自分の言葉で証明しろと言われたことがなかっただけだ。
胸の奥が熱い。
悔しい。
ここで黙ったら終わる。
なのに、うまく言葉にならない。
いつだってそうだ。
大事なときほど、上手くいかない。
諦めそうになった、その瞬間。
路地裏でかけられた声が蘇る。
――そこで諦めるなどというつまらん真似はするな。何も生まんぞ。
紬は息を吸った。
「私は、魔導士だ」
気づけば、そう口にしていた。
頭で考えた言葉ではなかった。
けれど、それが今の自分にとって一番嘘のない言葉だった。
ほんのわずかに、紅の口角が上がる。
「価値は、私自身」
紬はまっすぐに紅を見返した。
「私はお姉ちゃんみたいな魔導士になるんじゃない」
「――お姉ちゃん以上の魔導士になる」
手で隠していたマギマギアを、今度は見せつけるように掲げる。
「今は対等じゃない」
「でも、いずれ必ず追いつく」
「いいえ――追い越すわ」
喉が震える。
それでも紬は止まらなかった。
「そんな私に貸しを作れる機会なんて、今後ないわよ」
店内が静まり返る。
次の瞬間――紅が、腹の底から笑った。
「ふはははははっ!」
「愚かな小娘よ!」
「貴様程度が、この俺を超すと豪語するか!」
笑いながらも、その眼は真剣だった。
「愚かだ。実に愚かだ」
「だが――それがいい」
紅は立ち上がる。
その熱が、そのまま言葉になって溢れ出す。
「魔術とは神秘」
「そして、己そのものだ」
「負けを認め、諦める者に、神秘は解けん」
「だが、届かぬものへ手を伸ばし続ける愚かさこそが――奇跡へ至る」
その眼は、紬を見ているようで、どこか遠い昔を見ているようでもあった。
「気に入ったぞ、小娘」
「いいだろう。依頼を受ける」
紬の胸が高鳴る。
紅は指を一本立てた。
「ただし条件がある」
「死ぬまでに、この俺に“本物の奇跡”を見せてみろ」
「できんとは言わさんぞ」
紬は一瞬だけ息を呑んだ。
けれど、すぐに笑った。
「言うわけないでしょ」
「見せてあげる」
「この一ノ瀬紬が、あなたに奇跡を」
紅は満足そうに笑う。
「いい返事だ」
そして、ほんの少しだけ柔らかな声音で続けた。
「俺の名は、レイモンド・アークロイド」
「紅の魔術師だ」
その瞬間を見計らったように、マスターが新しいグラスを二人の前に置いた。
紅には酒。紬にはオレンジジュース。
さらに、自分の分のグラスも手に取る。
「魔術師の契約には、見届け人が必要です」
マスターは静かに微笑んだ。
「この私が、その契約を認めましょう」
「さあ――乾杯といきましょうか」
「貴様は飲みたいだけだろう」
「細かいことはよろしいのです」
紅は肩をすくめ、紬を見る。
「小娘。グラスを上げろ」
紬もグラスを持ち上げた。
「「「乾杯」」」
グラスが軽く触れ合う。
オレンジジュースを口に含んだ瞬間、紬は少しだけ不思議な気分になった。
いつもと同じはずの味なのに、今はほんの少しだけ違って感じる。
甘いだけじゃない。
少しだけ、大人びた味がした。
やがて、その空気を紅が破る。
「……だが、問題は山積みだ」
「お前の姉は生死不明。居場所も不明。俺は何も知らん」
「彼女についてなら、多少は」
そう言ったのはマスターだった。
眼鏡を整え、静かに続ける。
「一ノ瀬冴。国家直属の魔導士。いわゆるエリート中のエリートです」
「最年少で国家魔導士に任命された光魔術の天才」
「その冷ややかな戦いぶりから、“氷華の閃光”などという異名までついています」
「ほう」
紅が鼻で笑う。
「ずいぶんな異名だな。どこぞの紅い魔術師よりは幾分ましか」
「少なくとも本人は嫌がっていたようですね」
マスターの返しに、紅はつまらなそうに鼻を鳴らした。
紬は気を取り直し、話を続ける。
「最近、ニュースでもやってたでしょう? 魔人化事件」
「ああ。身体が変異して暴れ回り、最後には死ぬとかいう、あの胸糞悪い事件だな」
「そうです」
紬はうなずく。
「国も推し進めていた魔装に問題があるかもしれないってことで、魔導局が関連企業を調査していたんです」
「でも、決定的な証拠は掴めなかった」
「その時に手がかりを掴んだのが――お姉ちゃんです」
「それで調査中に消えた、というわけか」
「はい」
紅は腕を組み、目を閉じる。
「事情は分かった。だが、場所が掴めん以上、今のままでは動きようがない」
そこで紬は、ふと路地裏の男たちを思い出した。
自分を襲ってきた連中。
あいつらは明らかに、誰かに命じられて動いていた。
「ねえ」
紬は身を乗り出す。
「私を襲った連中を辿るのはどう?」
「連中?」
「データを狙ってきたんだから、何か知ってるはずよ」
「少なくとも、命令した相手には繋がってる」
紅はしばらく黙った。
記憶の奥底から、どうでもいいものを無理やり引っ張り出すみたいな顔をする。
「……ああ、あの薄汚い連中か」
「思い出した。つまらん顔はすぐ忘れるんでな」
嫌そうに言いながらも、紅はうなずく。
「下っ端なのは間違いない。だが、やつらの言う“兄貴”なら、もう少し知っているかもしれん」
グラスに残っていた酒を飲み干し、紅は立ち上がった。
深紅のコートが静かに揺れる。
「行くぞ、小娘」
「ネズミ狩りの時間だ」




